■きのうときょうとあしたと・21■
「千尋。私はここにいるよ」
泣き続ける千尋に掛けられる言葉。
触れられる掌、頬。
ハクの温もりが、存在感がゆるゆると千尋の中に浸透していく。
「ハク…」
「千尋」
「…ハク」
「千尋」
そう何度も名を呼び、返る言葉に、千尋の心はゆっくりと落ち着きを取り戻していった。
続いていた涙も、嗚咽も止まり、蒼白になっていた頬にも赤みが戻り始めていた。
千尋が落ち着きを取り戻したのを確認してからハクは千尋の手を握ったまま立ち上がり、彼女の隣に座った。
「……千尋が私を求めてくれた事が、嬉しかった。こんなに嬉しいものだとは思わなかった」
ハクはほぅっと息を漏らすと、そう呟く。
「…ねぇ。さっきハクが言っていた、私が『ハクから逃げた』ってどういう事?」
千尋が問うと、ハクは千尋を見て、そして苦笑した。
「…本当はね、千尋がそう望んでくれるなら、私は『速水琥珀』として生きようと思っていたんだよ?」
その言葉に千尋は目を見開いた。
千尋の様子に、ハクはまた笑う。今度は嬉しそうに。
「人間として、千尋が私と人間として生きていこうと願ってくれるのなら、私は元川の神だったニギハヤミコハクヌシとしてではなく、速見琥珀として、一緒に生きて生きたいと思っていたんだ。私たちは既に再会していたんだよ」
「だって…琥珀さんは琥珀さんで…ハクじゃないよね?」
さっきも行われた問答をもう一度繰り返す。
「速見琥珀も私だ。ただ、人間としての私は初めて出会うから、私は覚えていても千尋にとっては初めて出会う人間だから、全て一から新しい思い出を作っていこうと思っていた」
「ハクは…覚えていたのに、初めてのふりをしたの?私がこうやってここに来なかったら、ハクは一生私にハクとして会ってくれる事は無かったの?」
「……そうだね」
「酷いっ!」
千尋は顔をくしゃくしゃにしてハクを詰る。それでもハクは力無く笑った。
「…私にとってはほんの僅かな期間でも、人間である千尋には長い時を待たせてしまっていた。既に懐かしい良い思い出になっていても不思議ではないくらいの時が経っていた」
「!」
その言葉に、千尋は返せない。
確かにそう思い込もうとしていたからだ。
「だから千尋がどんな私でも好きだと言ってくれるのなら、傍にいてくれるのならと、だったら全てを一から始めようと思った」
「……」
千尋は初めて神社で、ハクに--琥珀に出会った時の事を思い出す。
「この世界に来て、落ち着いてから会いに行こうと思っていたのに、まさか千尋から会いに来てくれるとは思わなかった。そして、一緒に過ごしている内に千尋の中で今も私の事や油屋での事が大切な思い出になっている事がとても嬉しかった。それでも……」
そこまで言って、ハクは何かを思い出したのか自嘲するように苦笑する。
「千尋の中で、私の存在は千尋がこの世界で生きていくのに障害になっている。辛い思い出になっている。初めて出会った時泣いた千尋を見て、琥珀の私を見て時折辛そうな表情を見せる千尋に、そう思ったんだ」
「違うよ!私はハクに会いたくて!ただ会いたくて!ずっと待ってたの!ハクだけだったから!」
「…うん」
ぎゅっとハクの衣を握り、想いを懸命に訴える千尋に、彼は嬉しそうに笑う。
「…私だけを見てくれてたのだね」
「そうだよ!だからハクがいない世界で生きていく事の方が辛かった!ハクがいない世界でハクじゃない誰かと一緒に生きていくなんて嫌だったの!」
「だから琥珀の愛の告白も断ったんだよね?」
そう言われ、千尋は一気に頬を染める。
今考えてみれば、あれはハクではないのだけれど、確かにハクだったのだ。
ハクから愛の告白をされたのだ。そう思うと、嬉しいような、けれどハクではなくて琥珀としてだったのだから困るような。複雑な気持ちが千尋の中を巡る。
「…琥珀の私は嫌いだった?」
「………嫌いじゃないよ……だから嫌だったの…」
「?」
「…だって今思えば…だけど…ハクなんだもの……好…きになってた……きっと……」
千尋の言葉にハクの瞳は見開き、そして、微笑む。
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■きのうときょうとあしたと・22■
琥珀は優しかった。ハクのように。
琥珀の声色が好きだった。ハクのようだったから。
琥珀の「千尋」と呼ぶ声がとても幸せだった。ハクに呼ばれているような気がしたから。
始めはハクに似ているからだった。
しかし、琥珀の本質はハクと一緒だった。
だから惹かれない…と言ったら嘘だった。
何処までも千尋に優しい。
そして、琥珀は、どんな千尋でも受け入れてくれた。
だから。
ハクのいない世界で生きていくのなら、この人の傍にいる事を選ぶのではないかと予感していた。
けれど、それはとても幸せでとても哀しい。
そして千尋は一生後悔して生きる予感がしていた。
「……でも、私……人間のハクじゃなくて……神様のハクが好きなんだもん。私を川で救ってくれて、油屋で私を助けてくれて、優しい竜のハクが好きなんだもん。何も隠してない、ハクがハクのまま傍にいて欲しかったんだもん」
最後の言葉はもう恥ずかしさの為擦れ声になっていなかった。
それでもハクにはしっかりと届いていた。
だからこそ、ハクは嬉しそうに微笑む。
「本当の事を言うとね、千尋に触れて、千尋に話しかけられて、千尋の傍にいられる、そして想うままに想いを告げられる、琥珀が羨ましくて堪らなかった。嫉妬していたんだ。だから千尋が私を見てくれて、私だけを求めてくれるのが、とても嬉しい」
ハクは千尋の手から己の手を話と、彼女の両頬に手を触れる。
「---今、もう一度愛の告白をしたら、千尋は頷いてくれるだろうか?」
真摯な瞳でまっすぐ自分を見つめてくるハクに、千尋の鼓動は大きく跳ねる。
「ただ、人間の琥珀と共に生きるより、神のハクと生きる方がずっと千尋にとって辛い事が多くなる。それでも頷いてくれるだろうか」
真っ直ぐな瞳の中が一瞬揺らぐ。
きっとハクの中では人間の娘が神の嫁になるリスクもずっと懸念していたのだろう。だからこそ人間のふりをしたまま千尋の元にいるという選択肢も作った。
正式に迎えるのと、一時のものでは神々の世界での扱いも違う。
千尋は伝承と言う形でしか知らないが、ハクを知る為に、不思議の町から戻ってきてから、幾つも文献を読んできた。
だから迷いは無かった。
もう一度想いを言葉にする。
「私は、琥珀よりもハクと一緒にいたい」
その言葉に、ハクは目を見開き、そして、笑った。
「千尋。愛している。私の嫁になってくれないか?」
千尋は頷いた。
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■きのうときょうとあしたと・23■
ずっと帰りたい場所があった。
ずっと一緒にいたいひとがいた。
大切な大切な思い出が心の中にずっとあった。
それでもそれは思い出のままで終わるのだと思っていた。
きっともう二度とは戻れない場所。
二度と会えないひと。
それでもそれは私の糧になって生きていく。
後悔はしない。
そう思って生きてきた。
それでも、--時折無性に愛しかった。
帰りたい。と願っていた。
踊り場を出ると、またハクに手を引かれ、トンネルを抜けると、そこは大きな海に繋がっていた。
それもそのはずだ、まだ夜なのだから。
「ハクっ!?いいのっ!?夜だよ!?」
また己の体が消えてしまうのではと千尋は慌てて手を見るが、消える様子は無い。ハクは何事も無いように千尋の仕草に微笑む。
「うん。千尋捕まって」
そう言うと、ハクは千尋を抱き上げ、ふわっと浮き上がると、あっという間に海の向こう岸に渡り、そのまま街の入り口に辿り着く。
その向こうにそびえる、大きな建物の懐かしさに、千尋は声を震わせた。
「油屋だ……」
朱色の建物に、煙突から吐き出される黒い煙。
窓から漏れる煌々とした明かりに、耳を澄ませばざわざわと賑やかな音が漏れてくるような気がする。
町の中も、あの時と変わらず、黒い影のひとが客引きをしたり、料理を作り、神様を持て成している。
賑やかで、少し何処か現実と異なる世界。
千尋はハクの手を握り締めながら一歩一歩と油屋へ近付く。
とくんとくんと鼓動は段々と大きくなり始めた。
ハクと出会った時とは全く異なる高鳴りだ。
朱色の橋を渡り始めたところで声が聞こえた。
「千?…千だー!」
誰の声かは定かではないが、男ものの声が上がり、屋内に入っていったのか、声が遠くなっていく。
「ハク様!」
ハクの姿にも気付き、またざわめきが大きくなる。
客のもてなしで上がっていた声は段々と、ざわめきに変わり、渦中の二人に、同じ様に橋を渡っていた他の神たちも振り返る。
「千!ハク様!」
中にいた従業員たちがわらわらと玄関口に集まり、そして、客室の窓はいつの間にか全開になり客や従業員が顔を出す。
懐かしい顔ぶれ。
「せーん!」
心躍らせる千尋に、がばりと抱きついてきた女性。
「お前おっきくなったなぁ!」
突然事に目を白黒させていた千尋に、女性は顔を上げて、にやりと笑う。
「…!リンさん!」
あの頃よりも女性としての艶を増し、白拍子の格好をしたリンだった。
「ちゅう!」
鼠の姿をした坊が蝿鳥姿の湯バードに連れられて、空から降りてくる。
千尋が見上げると、元の姿に戻った。
赤ん坊の姿から少し成長した人の姿に。
「坊!」
千尋は声を上げる。
「おかえり。千!」
「おかえりなさい。千」
次々に掛けられる声に、向けられる笑顔に、千尋は戸惑うように唇を震わせ、そしてハクを見上げる。
ハクはただ頷いた。
千尋はまたふにゃりと顔を歪め、そして涙を零す。
そして、目の前で自分を迎えてくれる油屋の仲間たちに笑顔を向けた。
「ただいま!」
その日。
まだ建てられて一年経たない神社で結婚式が行われた。
神主の結婚式だ。
まだ新しく地元の人間も疎らな参加になるだろうと思われたが、古くからこの山で遊び共に成長してきた大人や子どもが集まり大々的な式となった。
単身でこの神社に身を寄せた神主には、親族はいない。普通なら地元の住民の協力で持て成されるだろう式が、その持成しは殆ど新郎側の関係者で行われた。
見たことも無い程の沢山の料理、そして食材、接待してくれる人材も皆優秀で配慮が隅々まで行き届いている。まるで一流料亭にでも招かれているかのように豪華だった。
その日の天気は快晴で、秋にも関わらず、神社の周りだけまるで春と勘違いしているかのように花が咲き乱れ、同時に秋の紅葉も深まっており、春夏秋冬入り乱れた。
そして時折、目に見えぬのに、沢山の人で溢れているような存在感を、参列者の皆、誰もが感じていた。
現実であって現実で無いような不思議な感覚を誰もがその神社で感じていた。
誰も知らない。
その日、一人の少女が神の花嫁になったこと。
幼い頃に出会った人間の少女と竜の少年の想いが成就したことを。
「これからは今日と明日と明後日とずっとずっと一緒にいよう」