背くらべ6

ハクが一人草原に出て、物思いにふけり、その彼に会いに千尋が真夜中に油屋を抜け出した事を、店の従業員全員が黙認し、一心に千尋にあることの期待を注いで、明けた次の日の朝。

「ハク様・・・ご・・相談が・・・」
最初に切り出したのは、父役だった。
ハクが廊下を歩いている途中、彼を呼び止め、恐る恐る手に持っていた台帳を差し出す。
心なしかその手はすでに汗ばんでいた。
「・・・・・何だ?」
振り返り、父役の呼び止める声に応じる、ハク。
無表情で答えるその姿はいつもと何一つ変わらない。

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よかった。

安堵の息が周囲から一斉に漏れる。
それはあまりにも多く音が重なり、大きな音になる程。
ハクはその周囲の者の反応に、苦笑するしかなかった。
自分が招いた結果とはいえ。
多少会った者に不快を与える対応をしていたかなと、彼自身反省していたのだが、まさかこれほどとは思っていなかっただけに、自分がそんなに恐れられる態度を取っていたのかと改めて感じさせられると共に、従業員に対して申し訳なさを感じずにはいられなかった。
まだまだ私も不甲斐ないな。
そんな事を思う。
己の心もろくに制御できず、挙句の果てに八つ当たりしてしまうなんて。
しかし彼の中でそんなことを感じると同時に、疑問もあった。
何故だろうか。
昨日の夜、千尋と会話を交わしてから、改めてそんなことを考えるようになった。
ハクは心にゆとりを感じている自分を感じていた。

ぱたぱたぱた。

足音だけで誰の足音だか分かってしまう自分もどうかと思うが、聞きなれた足音に、ハクは耳を澄ます。
きっと次は・・・。
「ハクーーーーー!」
予想通りの、まるで鈴を転がすような心地よく澄み渡る少女の声に、ハクは笑みを浮かべる。
「千。今は『ハク様』だ」
折角の自分の名を呼ぶ明るい声に、一応立場上、ハクは注意をする。しかし、その声は柔らかい。
けれど、彼はそんな自分に気づく事は無く、つい先日声をかけようとしただけで首を竦め、脅えてしまった千尋を思い出し、言った後、思わずひるんでしまう。
またーーーー怖がらせてしまう。
彼はその後に続ける言葉が浮かばず、その場に凍り付いてしまう。
千尋は一瞬、しまったという顔を見せたが、
「あ、ごめんなさい!」
笑顔で謝った。
ハクの胸に詰まっていた重みが、ふっと軽くなる。
いつの間にか、笑みが浮かぶ。

私の愛しい少女。
私の側では笑顔で。
私の側で穏やかに。

彼が思わぬところで見せた、極上の笑みに、千尋は顔を真っ赤にする。
全身の体温が一気に上昇したかと思うくらい、鼓動が激しく高鳴り、熱くなるのを感じていた。
「千尋?どうしたんだ?」
そんな千尋の動揺に、ハクは少しも気づくことなく、未だ顔を赤くする少女に問いかける。
千尋は彼の自分に向ける笑顔の美しさに見惚れ、暫し意識を手放し、ぼーっと放心していたが、はっと我に返ると、彼に会いに来た本来の目的を思い出す。
「そうなのっ!はい!ハク!これっ!」
ずいっとハクの目の前に差し出したのは、マグカップに入った牛乳。
「・・・・・・・」
彼女が何を意図して牛乳を自分に差し出すのか分からないハクは、ただ目の前にあるカップを見て、困惑する。
「牛乳飲んだら、背が伸びるんだよ!」

絶句。

何所までも眩しい笑顔。
愛しくて。愛しくて。彼女が側にいるだけで、心が温かくなる。
しかし。
今のハクは、そんな幸せとはうらはらに、千尋の言葉が心に深く突き刺さっていた。
「あのね!ハクは神様だから効くのか分からないけど、人間はね、牛乳飲むと背が伸びるんだよ!カルシウムっていうのが牛乳に入っていて、骨がね早く成長するの!ハク、昨日すごく背のこと気にしてたみたいだから!」
ハクの不安を少しでも軽くするため、喜んでもらえると思って、千尋は、朝早くから調理場の者に頼み込んで牛乳を分けてもらったのだった。
渡したら、きっと笑顔で飲んでくれるだろうと信じていたのに、今、目の前にいる彼はどうしようもないくらい困惑している。そんな彼の表情に彼女は戸惑い、慌てて補足説明をした。
「・・・あ・・・ありがとう・・・」
と、実際、ハクは言うしかなかった。
いつもは自然に表れる、彼女に返す笑顔さえ引きつる。
ハクには他に返す言葉が浮かばなかった。
そんな彼の横で、二人のやり取りを見て大笑いする声が一人分。
「ひゃーはっはっはっはっは!千!朝早くから・・何・・やってるかと・・・・思えば・・・」
腹を抱え、これ以上無いと言わんばかりに、涙を目に浮かべ、笑い続ける、リン。
「リンさん!笑っちゃ駄目だよ!ハク!気にしちゃ駄目だからね!」
笑うリンを叱りつけ、千尋はハクに振り返るとにっこりと微笑む。
「どんな姿してたって、私より背が低くたって、ハクはハクなんだからっ!そのままのハクが私は好きだよ!」
「おっ。愛の告白かぁ?」
「りっリンさん!そういう意味じゃなくって!」
茶化された事によって、自分の台詞の大きさに気づき、千尋は赤くなって慌てて否定する。

愛しい少女。
彼女が微笑みと、それだけで心が温かくなる。
心の奥の暗くて、嫌な部分が浄化されていく。
自分を自分のままで良いと言ってくれる。
今の私が好きだと言ってくれる。
それだけが幸せ。
けれど。

「おっし、一杯笑わせてもらったし、仕事に行くか!」
笑いすぎで目を真っ赤にし、浮かべていた涙を拭うと、リンは千尋を促すように彼女の方に手をかける。
「うん」
ぴったりと寄り添う、千尋。
その身長差。

やはり。
自分だけが救われているのは嫌だから。
自分だけが幸せなのは嫌だから。
救われるより、救いたい。
守られるより、守りたい。
幸せにしてもらうより、幸せにしたい。
自分が幸せであれば、千尋も幸せだとは言ってくれたけれど。
自分の幸せ以上に彼女を幸せにしたい。

今はまだ届かない。
身長差。

いつかの自分は、彼女を丸ごと包み込める自分でありたい。

ハクは決意と共に、愛しい少女が持ってきた、溢れんばかりの愛情を一気に飲み干した。

2002.09.09