桜舞う2

その日は、まだ時折冬の冷たい風が吹く季節だということを忘れさせるくらい、日差し暖かく、空気が太陽の光によって暖められ、春の陽気を作り出し、穏やかだった。
沖田総司はそんな冬を越えた久し振りの暖かい日に非番で、彼も冬眠から目覚めた動物や虫同様、春の陽気に誘われ、始めは現在新選組屯所となっている西本願寺の一室で微睡んでいたのだが、やがてそのまま一日を過ごしてしまうのが勿体無いように感じ始め、彼の所属する一番隊その隊士の一人神谷清三郎を当然のように連れ出して、団子屋へ赴いたのだった。
秘め事であるが新選組唯一の女子である清三郎、本名セイが総司の下についてから、既に数年が経っている。
彼女が傍にいるのは総司の中で既に当たり前のようになっており、その日、彼女は久し振りの晴天だと喜び勇んで洗濯物と格闘していたが、今までの経験から自分が誘うとどんな時でも喜んで共をしてくれることは承知していたので、当然の如く彼女がその時何をしていようともそれは彼の意識外だった。だから、無理矢理連れ出すのも当然の事となっており、いつものごとく光速の速さで洗濯物を次々に干していく姿を見て、彼女が自分と一緒に行く為に頑張っているのだと思うと申し訳無いと言う気持ちより、嬉しい気持ちの方が強かった。きっと本人に言ったらきっと怒られてしまうかも知れないが。
いつも味が変わる事無く総司たちを楽しませてくれる、行きつけの店の団子で心も腹も一杯に満たされながら歩く、屯所までの帰り道。
春の陽気に触れて、心まで軽くなったのか、ちょっとした好奇心と悪戯心でいつもとは異なる路地に足を踏み入れた。
人一人が通れるほどの狭い小路。近隣の両側が高い塀で囲まれた民家の僅かな隙間を通る石畳を抜けると一気に視界が広がり、鮮やかな桜色で目の前が染まった。
真っ青な空の下、幾本とも数え切れぬ桜が春を謳い、花を華麗に咲き誇っていた。
時折吹く柔らかく撫ぜる風に散る花弁がひらひらと舞う。
降り積もった桜の花弁で、桜木が根を下ろす土は既に桜色に染められていた。
民家の間を抜ける細い路地の向こうにこんな光景が広がっているとは誰も知らないだろう。それを示すようにそこには人一人おらず、まるで別世界に放り出されたような感覚に総司は陥っていた。
「先生!凄いですね!桜がもう満開です!」
隣で一緒に別世界に放り出された少女が瞳を輝かせて笑う。
「こんな場所あったんですねぇ・・・」
白い頬を高潮させてセイは空を見上げる。そうして、まるで降り積もる雪のように風に舞う桜の花びらをその小さな手の平で受け止める。
淡い桜色の雪。
喜びの声を上げる少女を振り返り、総司はどきりとする。
桜吹雪が少女の白い肌を際立たせ、緩やかな曲線を描いた頬は、桜がまだつぼみの時の鮮やかな色の濃さを残す。紅に染まった唇は唇は温かな吐息を漏らし、黒紫色の髪が後頭部でひとつに奇麗に纏められ、風に揺られ流れる。ただ桜を見つめるその円らな黒の瞳は何処までも深く鮮やかでその奥に凛とした光を灯す。
満開の桜が花に花を添える。
「綺麗ですねぇ」
総司は息を呑み、溜息を溢す。
肺から空気が吐き出されるとともに、鋭く、それでいて鈍い痛みが一瞬彼の胸に響く。
だからと言って、彼はその痛みが何なのか深く考える事は無く、痛みを緩和する為、無意識の内に己の今持つ違和感のある空気を換えるため、再度空を見上げる。
穏やか時は流れ、桜の舞い散る空を見上げると自然と心が無心に返り、そんな自分に安心する。そして、そんな自分を確信する為、「お団子、ここで食べれば良かったですね」と、いつもの自分なら言うであろう台詞を口にする。
「沖田先生らしいですね」
案の定少女は苦笑すると、優しい笑みを浮かべ彼を見る。
ほら。何も変わらない。
総司はそれが嬉しく、心の何処かで安堵しながら、彼女の言葉を受けると、ぽんと手を打つ。
「そうか。これから買って来て、また食べればいいんですね!」
「ちょっ・・・ちょっと待って下さい!」
思い立ったらすぐにと踵を返そうとする総司の羽織の裾をつかんで、セイは慌てて制止する。
「さっきお団子食べたばかりでしょ!・・しかも十串以上も・・私はもう食べられませんよ!」
「むー。そうですね。残念」
セイ言うことも尤もなのだが、折角の心地の良い場所を見つけたというのに勿体無いという気持ちもあり、総司は多少の不満を残しながらも渋々納得する。
眉間にしわを寄せて自分を言い聞かせる彼にセイは苦笑し、彼を宥めるように声をかけた。
「今度お弁当持ってゆっくり来たいですよね」
それも良いですね。と総司は、容易に想像できる、自分とセイがお弁当を広げて笑いあっている姿を思い浮かべて笑みを零す。そうして暫しの幸せな空想に浸っていると、つい今まで傍にあった温もりが消え、ふと寂しさを感じ振り返ると、セイは桜の花弁で作られた鮮やかな薄紅色の敷物の上に寝転がっていた。
ひらひらと降る。
少女の白い肌に。
柔らかな黒紫色の髪に。
鮮やかに染まった紅色の唇に。
自分とはまるで切り離された存在のようで。
この柔らかで優しい空間に溶け込む少女に、寂しくて、暖かい気持ちが総司の中の何処か一部にふわりと舞い降りる。目の前に降る花弁のように。
花を彩る華に、ああ、女子なんだなぁと改めて思い出させられる。
心地良さそうに微笑みを浮かべるセイにつられ、総司も横になる。
舞い降る花。
雪のように。
寝転がり空を見上げると、降る花弁は風に舞い上げられ、空へと溶け込む。
蒼い蒼い空に薄紅色の桜が溶け込んで消えてゆく。
「幸せですね・・・」
さらさらと花弁が舞う音だけが耳に響く空間で、心震わす優しく甘い声がぽつりと音を鳴らす。
「幸せですか?」
総司はセイがそう呟くのを不思議に思い、問い返す。
男だけの集団に小柄な少女が身を置き、今日、明日果てるかも知れない命の駆け引きと緊迫感の中にいる。
己はすでにこの命を懸けるたった一人の人を決めている。
彼女の目的、家族の敵を討つという事はすでに果たされているのに、尚、隊に留まろうとする。彼女の中の誠とは何なのだろうか。
彼女を武士と認めても、ついと胸を痛める時がある。
自分より一回りも小さく、腕も細く、体力も筋力も無い。
彼女の成長には目を見張るものがあるが、それでも彼女は弱い。
よく笑い、よく泣き、表情豊かで誰もが目を留め、惹かれる。隊の誰よりもよく気が付き、器量が良い。
女子の姿をすればさぞかし可愛らしい娘になるはずだろうに。
可愛らしいお嫁さんになるはずだろうに。
羽織袴に、腰には二本差し。
彼女がこの隊に生き甲斐を感じているのは、彼女自身を見ていればよく分かるのだが、それでも、と総司は思う。
女子に戻っていた方がずっと幸せになれるだろうに。
根拠も理由も無い。ただ漠然とだが確信するようにただ思うのだ。
それなのに。
どうして、この桜のような可愛らしい少女が幸せだと言うのか、総司には分からない。
そんな不安と疑問に、隣に目を遣ると、セイは静かに閉じていた瞼を開き、その柔らかな紅色の唇からはっきりと言葉を紡ぎだした。
「ええ。幸せです」
そう答える少女を見つめ続けると、彼女は幸せそうに笑みを浮かべ、瞳を閉じた。
やがて総司の頬に笑みが零れる。
ひらひらと桜が舞う。
夢幻のように。羽のように。
その彼女の柔らかい笑みに、一瞬見惚れてしまっていた自分に気が付き、総司は苦笑すると、視線を空へと戻し、すうと深呼吸一つする。
やはり彼女は桜の精なのかと思ってしまうくらい、懐かしくて、そして可愛らしい。そんなことを改めて感じてしまう事に少し恥ずかしくなり、頬を熱くすると笑みを浮かべる。
空を見上げると花弁は変わらず空へ溶け込んでゆく。
彼女は本当に幸せなのだろう。
それは彼女の言葉と表情を見ればよく分かる。
感情をそのまま表に出す子だから。
そう思うと、総司はふっと心が温かくなったような気がして、小刻みに震える心臓の音が妙に嬉しくなる。
幸せなのだ。
セイが幸せなのだという事を彼女がその口から告げたのだという事を噛み締める。
彼女は今、新選組にいて、自分の傍にいて。生きていて、幸せを感じているのだ。
今が変わらない事を望んでいるのだ。
そう思うと自然と笑みが浮かぶ。
刹那の中を生き、今日、明日果てるかも知れない命。
その中の今この一時。
降る。
桜が。
舞う。
風に乗せて。
雪のように。羽のように。
地を舞い、風に乗り、空へ溶けてゆく。
風に揺られ、舞うことを望む、桜の花びら。
優しい香り、柔らかな温もり。
生まれてくる安堵感。
ああ。
総司は思う。
「幸せですね」
暖かい日差しと、包み込むような優しい風にくるまれ、総司は微睡に引かれながら、ゆるゆると瞼を閉じた。

2004.10.29