テノヒラ

まだ北から吹く冷たい風が春風に混ざり、時折冷たい空気が吹き付ける初春。
新選組屯所に数箇所ある井戸の一つから透明なしゃぼん玉が、冷たい空気により冬空の様に深く澄んだ青空にふわふわと溶けていく。
盥に張られた水に、ばしゃばしゃと勢いよく手を突っ込み、洗濯物と格闘する隊士が一人。
暖かくなったこの時期に久し振りに訪れた寒気。いつもよりも一層冷え切った寒空の下、その隊士は襷掛けで己の袖を二の腕まで巻く利上げ、激しく洗い物を擦り続けていた。糸が解れてしまうのでは無いかと言うほど力強く、いつも以上に。
その理由は明確。寒いからである。寒いからこそ、こうして洗濯物を洗う事に意識を集中させる事で意図的に寒さから意識を逸らす一方で、無意識の内に激しく体を動かす事で体温を上げ、洗濯物と擦り付ける手の摩擦で自身を温めようとしている結果である。
しかしそんな抵抗にもすぐに限界が来る。
揺れる水面から引き上げる手がじんと痺れ始め、熱を取り戻そうとする末梢神経を流れる血流と冷水の刺激が拮抗し、じわじわと痛覚を刺激する。
「冷たーい!」
こんな寒い中でも必死に洗濯物をしていた隊士ことセイは、赤く腫れた両手を空へ掲げた。
「冷たいっていうか、もう、痛いっ!」
あまりの水の冷たさに、もはや苛立ちさえ感じ、思いのまま叫ぶが、だからといって冷たさのその刺激からすぐに開放される訳でもなく、手の温度を少しでも取り戻そうと意味も無く手を上下に振ってみる。傍から見れば一人で何を踊っているのかと、さぞ奇妙な光景に見えるであろうが本人は至って真剣である。
「だー!いーたーいーーーーっ!たーーーーっ!」
冷水のじわじわと刺激し続ける痛みと、温もりを取り戻しつつある手に今度は痒みが走り、奇声を上げてしまうのは人としていた仕方が無い事であろう。
「神谷?」
「え?神谷さん?」
セイが一人踊りをしているところに丁度良く通りかかるのは、斉藤一、沖田総司。
揃って幹部棟から出て来た所から、幹部会が終えて、解散したところのようであった。
「あ!斉藤先生!沖田先生!」
自分が寒さのあまりに奇妙な行動を無意識の内に奇妙な行動を起こしていた事にセイは初めて気がつき、恥ずかしさに頬を赤く染めると、奇妙な行動の一端の腕振りをしていたままのポーズを取りながら、その場に固まってしまった。
「洗濯か。精が出るな」
「何もこんな寒い日にやらなくても」
固まったままもセイのポーズには何も触れず、それぞれが口々に呟きながら、彼女に近づくと、剥き出しになったまま彼女の赤く腫れた腕を見て、唖然とする。
「こんなに赤くなるまで・・・」
総司はセイの上げたままの手を取り、下ろすと、己の手の中に包み込んで暖を与える。
じんわりと伝わる温もりがセイの心もほんわりと暖める。
「・・けれど折角の晴天なので、勿体無いかと思って」
寒さだけではなく、動揺する心に頬を淡く薄紅色に染めながらもセイは総司を見上げて、笑って見せるが、すでに寒さの極致なのであろう、口元の筋肉の反応が鈍く、歪な笑みを浮かべていた。
「こんなに頬を赤くして」
ふと斉藤はセイの頬に触れると、その肌の冷たさに驚く。
「斉藤先生の手、あったかーい」
今度は頬から来る温もりに、セイは引き込まれ、思わずうっとりと目を閉じ、総司に握られている手と反対の手で、彼の手を握り締めると、より熱を求めて自然と頬を彼の手に擦り付ける。
「!」
彼女の何気無い行動に、自分が意外にも大胆な行動を起こしていたという事に、その時初めて斉藤は気がつき、思わず手を引こうとするが、その手はセイによってしっかりと握り締められていて放してくれる様子は無い。一声かけて放してもらえば良いだけの話なのだが、それも逆に今は勿体無い気がする。彼もとい彼女がこんな風に甘えてくることなど二度とないかもしれない。理性と本能の狭間で斉藤の心臓の音は自然と高鳴っていく。どくどくと鳴り続ける心音を聞きながら心は葛藤し続け、結果手を握り締められながら固まってしまった。勿論そんな心内が表情に出ることは一切無かったが。
セイに手を取られ、様々な事を想像し、固まったまま、数秒。
第三者からみれば、兄に甘える弟の図。図としては不自然じゃない。彼がセイに恋心を抱いているとは彼女に気づかれないはずだ。
それが斉藤の葛藤の果ての結論だった。
そう考えるとこれは思わぬ幸運と言えよう。その思わぬ幸運に斉藤は口元を緩めてしまう。
しかし、それが長く続く事は無い。
「あー!神谷さん!手がザラザラ!」
セイが斉藤の手で暖を取り、熱を徐々に奪われていく彼が葛藤している間、何を思っていたのかは読み取る事など勿論斉藤であっても不可能であろう、間延びした野暮天男の声が突如上がる。
総司は、己の頬に斉藤の手を押し当てていたセイの手を引き剥がすと、自分の目の前に晒し出させ、まじまじと覗き込む。
束の間の幸運はやはりこの男によって破られるのかと変わらない構図に斉藤は内心舌打ちする。そして、視線を下に下ろし、未だ総司に握られたままのもう片方のセイの手を見つめる。
何故わざわざこちらの手も引き剥がす必要があるんだ。沖田総司。
片方ぐらい譲ったって良いではないか。そんな事を思う斉藤の視線にセイの両手を握る総司は気づかないだろう。
こうなるともはや二人だけの世界にあっという間に場面が変わる。
「先生っ?このくらい平気ですから!」
「平気なもんですか!ほらアカギレになって血が出ていますよ!」
セイの手を観察するように間近で見つめると、人差し指の節がひび割れて赤く筋が出来ているのを見つけた総司はそれ見たかとばかりに声を上げる。
「あ、本当だ。何だかちくちくするとは思ったんですけど」
「もう、どうして貴方はそうなんですか!」
総司の示す己の指の節を見つめ、のんびりと声を上げるセイに、総司は半分苛立ちを見せながらも溜息をつく。
そして次の瞬間目の前で起こった衝撃的光景に今度はセイが目を見開いた。
「!?」
総司がセイのアカギレでうっすらと血が滲んでいた部分を己の口元へ持っていったかと思うと、ぺろりとその患部を舐めたのだ。
「~~~~っ!?っ!?」
あまりの事にセイは声が出ず、患部に触れた事でじわじわと来る痛みに、彼の口元から手を引こうとするが、彼の腕にがっしりと捕まえられて外れない。
その間にももう片方の手も己の目の前に出し、彼女の両手をじっくりと覗き込んでは、アカギレしている部分を見つけると、総司は丹念にぺろぺろと舐めていく。
「~~~~~~~~~っ」
彼の行為に、最初は赤くなっていたセイは終いには涙目になり、痛みと、胸に走るどうしようもない痺れにぐるぐると目が回り始めるのを感じていた。
「もういいですってば~」
「駄目です。ほら、ここにもあるっ」
そんなささやかな攻防戦が続き、どのくらいの時が経ったのか、やがて両手の端々まで舐め上げて満足したのか、総司はセイの手からやっと視線を外し顔を上げるとにっこりと笑みを浮かべる。
「とりあえず消毒です。中に入ったらちゃんと手当てをしましょう」
悪びれも無く。何処までも爽やかな笑顔で彼は言った。
それはもう、爽快な風が吹き抜けるほど爽やかな笑顔で。
しかし、その笑顔はすぐに歪み、彼は地面に平伏す事となる。
ばきっ!
大きな衝撃音とともに、総司はセイに頬を殴られ、勢いのまま地面に倒れ込んだ。
「何するんですかぁ」
謂れの無い攻撃とばかりに、総司は顔を上げ、拳を握り締めたままのセイを見上げると、非難の声を上げる。
「何するんですかはこちらの台詞です!」
真っ赤になったまま怒りに震え、セイは涙目に見上げてくる上司を怒鳴りつける。
「だって知ってます?唾液って消毒代わりになるって・・・」
「あんたは犬ですか!?ぺろぺろぺろぺろと・・・」
「だって・・・」
「だってじゃありません!兄上!兄上からも何か言ってやって下さい!」
怒りの捌け口が斉藤まで回り、一部始終を二人の世界から隔離され部外者として扱われていた彼が、突然同じ世界に引き戻される。
つまらない。
そう、彼にとってはとてもつまらない。
これではまるで夫婦喧嘩・・では無く、痴話喧嘩に巻き込まれた犬のようではないか。
「・・・・」
斉藤は無表情のまま、ずかずかとセイに近づくと、がしっと彼女の腕を掴み、倒れたままの総司を置いて、井戸の前に立たせる。
「沖田さんのばい菌が移らないうちに水で流すぞ。清三郎」
そういうと井戸の中に桶を勢いよく落とした。
「ばい菌って・・・斉藤さんひどーい!」
「沖田先生は黙っててください!」
涙声で訴える総司を一喝すると、セイは斉藤に促されるまま、彼の前に腕を差し出した。
「えー本当に落としちゃうんですかー!?」
総司は慌てて起き上がる。
「アカギレによく効く薬を持っている。後で清三郎にも塗ってやろう」
「ありがとうございます!兄上!兄上の薬って本当に良く効きますよね」
「俺が選んでるからな」
「流石です。兄上!私も医学の勉強するならそちらの勉強もしないと」
「俺が教えてやろうか」
「本当ですか!」
後ろで纏わりついてくる総司を置いて、今度はセイと斉藤で二人の世界。
二人の会話をふるふると震えて、立ち尽くしていたまま聞いていた総司は、無視する二人の間に割って入るように、セイの背後から抱きついた。
「仲間外れは嫌ですー!私が神谷さんに薬を塗って上げるんですー!」

野暮天助平ヒラメ!
そう呟いたのは誰だったか。

2004.11.28