細胞

しとしとと冷たい雨が降り続く。
空にはどんよりと灰色の雲が覆われて、その向こうにあるはずの青空を覆い隠す。
六月の雨は、まだ初夏を迎える前のひんやりとした空気と、雨が弾ける度に馨る夏の匂いが路面に漂い、冷やされた路面から白い霧が立ち上る。
毎日降る雨を鬱陶しく感じるかと聞かれたら是と答えるが、嫌いかと問われると否と答えるだろう。
今のように細やかな幸せに出会えるのなら。

「雨。良く降りますね」
「そうですね」
肩越しに聞えてくる、溜息混じりの呟きに私は苦笑して答えた。
「天気予報じゃ梅雨の中の久し振りのお天気になるって言ってたのに」
「神谷さんは今も昔も雨になるとクサるんですねぇ」
「なっ!だって沖田先生だって昔クサってたじゃないですか!壬生の道場の時は毎日突きの練習しか出来なかったんですよ!今日だって折角新しく出来たテーマパークに行こうって楽しみにしてたのに!」
『神谷さん』。『沖田先生』
その呼び名に、隣で怒っている彼女には悪いと思いながらも、ついつい頬が緩んでしまう。
黒い髪をポニーテールに結い、ぷりぷりと頬を膨らませ、拗ねた表情を見せる女の子。それが神谷さん。
そんな彼女のくるくる変わる表情が面白くて、つい笑ってしまうヒラメ顔の上背の男。それが私。沖田総司。
二人とも数百年前は新選組隊士だった。
今と昔違う所があるとすれば、武士と言う存在はとっくに無くなっていて、この国では争いが無い事。
神谷さんの月代は無くなっていて、女の子の姿をして、女の子として私の傍にいる事。
それだけ。
今日は、最近オープンしたばかりのテーマパークに行こうと約束していた。
そこはレジャー施設にもなっていて、様々なアトラクションのほかにも、プールやテニス等も楽しめるようになっていた。
初めは映画でも良いかと話をしていたのだけれど、体を動かせる方が良いと言う神谷さんの案で決まった。
それがあまりにも彼女らしくて、それを言われた時は思わず噴き出してしまった。笑う私に彼女も負けじと、テーマパークで食べれるフードやお菓子を楽しみにしているくせにと言い返され、昔と何ら変わらない会話に二人は大笑いしてしまった。
それなのに今日は雨。
朝から曇り空で心配はしていたのだけれど、天気予報は晴れると言うから、傘も持たずに出てきたのが失敗だった。
神谷さんも同じ事を考えていたようで、駅まで向かう途中にぽつりぽつりと雨は降り始め、今やざんざん降り。
仕方無く、バスを待つ訳でも無いのに、フード付きの停留所で足止めを食らう事になってしまった。
「楽しみにしていたのになぁ」
昔と同じ頭一つ分違う、彼女の顔を私は肩越しに見下ろすと、彼女は剥れた様子で変わらず頬を膨らまし、恨めしそうに空を見上げていた。
「ぷ。神谷さん頬真っ赤」
降られた雨のせいで体が冷えてしまったのだろう。彼女は頬を真っ赤にしたまま驚いたように私を見上げる。
頬を赤く染める彼女が可愛らしくて、その頬が今の私の体温よりも温かそうで、柔らかそうで、触れてみたくなり、笑いながら、手を伸ばす。
「と」
伸ばしたはずの手は、神谷さんの頬に触れるより先に宙で動きを止めてしまう。
「先生?」
そんな私の不可解な行動に彼女は眉間に皺を寄せる。
私の様子を伺うように顔を覗き込むと、途端笑顔に変わる。
「先生だって真っ赤じゃないですか」
頬を真っ赤にしたまま彼女は「人の事言えないじゃないですか」と笑ってみせる。彼女が余りにも笑うものだから、とても恥ずかしいような気がしてきて、私は宙を彷徨っていた手を引くと、己の頬に当て、冷ます様に、頬の熱を手に移す。
熱い。
これだけ熱ければ私の頬は相当赤くなっていることでしょう。
雨が降って、周りの空気がひんやりしているせいだろうか。熱が上がるのをいつもより敏感に感じる。
雨に濡れたシャツが熱の上がった体に張り付くのを感じた。
昔と同じだけれど。私たちは変わらないけれど。変った事。
神谷さんは神谷さん。
でも武士ではなくて、男の格好をしている訳ではなくて、月代も無い、ありのままの神谷さん。
私は私。沖田総司。
でも武士ではなくて、組長でもない、ありのままの私。
今思い返すと、それが枷の様でもあって、自分のあり方そのものであって。
私たちは同志だった。
今はただ自由で、互いに傍にいる事が当たり前で、大きな隔たりが出来てしまった。
当たり前だった事が当たり前じゃ無くなってしまっていた。
彼女の心と添う事。
以前は同じ立場であり、同志だったから、彼女が何を思うか想像出来た事が、出来なくなってしまっていた。
だからいつも頭にあるのは神谷さんの事。
分からないから。知らないから。
沢山の神谷さんの仕草や言葉の欠片から、神谷さんと言う情報を集める。
それがパズルのピースを填めて行くように、とても嬉しくて楽しい。
私が彼女を見下ろしたまま、そんな事を考えていると、神谷さんは徐々に頬だけでは無く、顔満面赤くして、視線を逸らすように俯いてしまう。
偶にするこんな仕草は胸が少し痛くなるのと、頬が緩み、笑顔になってしまう。
それでいて、私の心臓も徐々に早鐘を打ち始めてしまうから、私も恥ずかしくなって彼女から自然と目を逸らしてしまう。
これが今、私たちの隔たり。
「雨、止みませんねぇ」
弾む心音を誤魔化す様に呟きながら、頬に当てていた手を下ろすと、直ぐ隣にある彼女の手の温もりが空気を通して伝わってくるような気がする。
彼女も同じ事を思うのだろうか。触れるか触れないかの彼女の白い指が微かに震えた。
そんな小さな反応が何故かとても嬉しくて。
私は手を伸ばす。
僅か数センチの事なのに。肩から緊張してこわばってしまう。
腕の筋肉が麻痺をして、自分の腕じゃないように動かせない。
それなのに指先は、空気の冷たさや、雨の湿度を感じ取る位に敏感になっていて、心臓は跳ね上がり、雨の降る音を掻き消す。
触れた瞬間。
神谷さんの息を飲む音が聞えた気がした。
それでも触れた指が逃げる事は無くて。
指先から彼女の温度が一気に全身を巡って。
彼女の心そのまま私に伝わるように、優しく、柔らかく、包み込んで、私の中に浸透してゆく。
私の中に神谷さんの情報が増える。
触れた手を広げて、そのまま包む込むように、彼女の手に己の手を重ねる。
とくん。とくん。
神谷さんの心音が、震える振動が、手を伝わってくる。
私と同じ位に早く鳴り続ける。
そんな神谷さんの一挙一動に全て敏感に反応して、その度に私の鼓動は振り子の様に揺れ続けて、言葉にも形にもならない感情が瞬きの様に表れては消える。
こんなにも細やかな事に敏感になる程。

私は神谷さんの事を         だなぁと思う。

私から重ねた手を神谷さんは絡めてくる。
驚いて、思わず神谷さんを振り返るが、彼女は私の視線から逸らすように、頬を赤く染めたまま、空を見上げて声を上げた。
「晴れてきました!」
神谷さんの視線に合わせて空を見上げれば、いつの間にか降っていた雨は小雨に変わり、熱い灰色の雲の透き間からちらちらと蒼く高い初夏の空が見え隠れする。
太陽の光が差し込み、黒く濡れたアスファルトが鏡の様に反射する。
見上げる空と見下ろす空。
違うのは、水溜りに映る空には、私と神谷さんの二人が映っている事。
手を繋いだまま。
それがとても嬉しくて。
心臓が弾んで。

空を見上げ。そんな私たちが映っているなんてまだ気付かない神谷さんの手をぎゅっと握り締めた。

2009.06.06