8.笑顔がいちばん

近藤先生に所用を頼まれ、無事終えた帰路、人の足で踏みしめられて出来た整備もされていない小路の脇に小さな花を見つけました。
小さくて、白い、でも綺麗に咲き誇る小さな花。
その小さな花の不思議と大きな存在感に引き込まれて、私は暫くの間見惚れていました。
そうして見つめていると浮かんでくるのは神谷さんの顔。
まるであの人のようだ。
そう思うと、神谷さんにもこの花を見せたくて、小さな白いその花を折れないように優しく摘みました。
それを大事に懐に入れると、私は帰り道を急ぎました。
早くあの人に見せたくて。
屯所に近づくに連れて、神谷さんの顔が鮮明に思い出される。
喜んでくれるだろうか。
そう思うと、わくわくして、どきどきして、私は気が付いたら走っていました。
きっと帰ったら、あの人はこう言ってくれるのだ。
『おかえりなさい』と笑顔で迎えてくれる。そして花を差し出したら、きっと笑顔を綻ばせ、『ありがとうございます』と嬉しそうにはにかんだ笑顔を見せてくれるのだ。

門が見えてくると、門番をしている隊士が声を掛けてくれます。
「おかえりなさい。沖田先生」
「只今戻りました。神谷さんは何処ですか?」
適当な相槌を返してしまった事は申し訳無かったと後から思いました。けれどその時は、その事よりも早く、神谷さんにあの花を見せたくて、私は門を潜るとしきりにきょろきょろと首を左右に廻らせていました。
彼はそんな私の姿を見て、苦笑をすると、「神谷なら先程賄い所で夕餉の準備を手伝っていましたよ」と教えてくれました。
「ありがとうございます」と簡潔にお礼を述べると、』私は一直線に神谷さんの元へ向かいました。
その隊士の言う通り、台所に入ると神谷さんは賄いの手伝いをしていました。
本来はする必要の無い仕事のはずなのに、本当に世話焼きなんだから。と思いながらもいつもと変わらないあの人を見ると、自然にほっと息が漏れます。
あの人はいつだって無茶ばかりする人だから、私の目の届かない所で何かやらかしていないか心配になるのです。だからあの人に会うといつもまず安心するのです。
「神谷さん」
私が声を掛けると、神谷さんはそれまで睨めっこしていた鍋から、ぱっと顔を上げ、こちらに振り返ると、そのまま作業の手を一旦止めて、嬉しそうにこちらに駆け寄ってきました。
「お帰りなさいませ。沖田先生」
「只今帰りました」
深く頭を下げる神谷さんに、私はにこにこと笑みを返します。
懐に手を当てると、花を探り、その茎を掴みました。
これを見て、きっとこの人は笑顔を見せてくれるはずだ。そう確信して、私は頭を下げたままの神谷さんに声を掛けようと口を開きました。
「沖田先生!?顔が真っ赤です!どうしたんですか!?ちょっと失礼します!」
私が声を発するよりも先に、神谷さんが顔を上げ、私の顔を見るなり驚いて、慌てて私の額に手を当てます。
突然の予測の付かないこの人の行動に、私は羽織に袖を入れたまま固まってしまいました。
花を手に掴んだまま。
「熱がありますよ!これだけ高ければクラクラしませんか!?今まで気づかなかったんですか!?お仕事だったとはいえ無茶しないで下さい!」
捲くし立てる様に言うと、神谷さんは私の手を掴むと、賄い場の人たちに一つ挨拶をして、隊士部屋まで連れて行きます。
花を。
私はぼんやりと手を引かれながら、神谷さんの背中を見つめます。
隊士部屋に着くと神谷さんは繋いだ手を放して、押入れから私の布団を取り出すと、さくさくと、床の準備をしました。
「はい。先生、準備出来ました。ほらほら立っていないで、お休みになってください」
眉間に皺を寄せ、そう言うと、私の背に回り、羽織を奪うと、寝巻きを差し出します。
私の背から離れ、神谷さんの手で丁寧にたたまれていく羽織を私は呆然と見詰めていました。
花を。
「先生?どうなさってんですか?今、白湯と薬をお持ちしますからそれまでには布団に入っていてくださいね」
苦笑交じりにそれだけを告げると、神谷さんは私の羽織を持ったまま、部屋を出て行ってしまいました。
花を。
あなたにあげかったのに。

昏々とした闇の中、次に目を覚ますと、最初に司会に入ったのは、近藤先生の顔でした。
私は慌てて起き上がろうとしますが、半分起こした肩を手で軽く制され、再度布団に戻されました。
「私・・・いつの間にか眠ってしまっていたんですね」
意識を失う前、私は袴のまま布団に座っていたはずでしたが、よく見ると、既に布団の中におり、いつの間にか寝巻きを着せられていました。
汗をかいた様で心なしか着物が肌に張り付く不快感とさっきよりも体が軽く感じます。
「申し訳ありませんでした。報告にも行かず・・」
「いや。神谷君が代わりに来てくれたから大丈夫だ。それよりも俺はお前が熱があると言う事に驚かされた。具合が悪いなら何故何も言わなかった」
近藤先生はそう言うと、私の額に手を当て、心配そうに顔を覗き込んできます。
「自分でも気が付きませんでした。言われてみたら、暑かったかな・・・なんて」
「総司・・・」
正直な感想を述べると、近藤先生は溜息を落とします。確かに自分でも間抜けな回答だとは思いますが、気付かなかったから仕方が無いです。
「神谷が勢いよく部屋に入って来た時は吃驚したぞ。突然『沖田先生が倒れました!』なんて叫ぶんだからな」
「あはは」
「聞いてみればただの風邪だ。心配かけるなって、トシに殴られていたぞ」
「あらららら」
神谷さんと土方さんのやり取りが目に浮かびます。
「殴られた後で、お前を着替えさせて、布団に入れたんだからな。手伝おうかと言っても『組長の不祥事に局長にご迷惑を掛ける訳にはいきません』て断れてな。後で礼を言っておけよ」
「・・って、神谷さん一人でこれ全部やったんですか!?だって私の方が神谷さんよりずっと重いのに!」
言ってから思い直しました。確かにあの子だったらやりそうな事です。でもいくらなんでも、私を着替えさせて布団の中に運ぶなんて、相当の体力を要したはずです。
素直に手伝ってもらえばいいのに。いっそ誰か他の人に任せてしまえば良かったのに。それでもそう思う反面、私自身嬉しいのか、口元に笑みが零れてしまいます。
あの細い腕で懸命に看病してくれたんだ。
「だから神谷にはしっかりと礼を言っておけよ」
百面相する私の様子に苦笑しながら、近藤先生はわしゃわしゃと私の髪を撫でると、立ち上がり、障子に手を掛けました。
「もう行っちゃうんですか?」
「ん?総司は相変わらず甘えたがりだな」
「そっそんなんじゃありません!」
確かにもっと近藤先生とお話していたかったという甘えたい気持ちもあり、それを見抜かれてしまった事に羞恥心を感じながらもそんな素振りを見せないよう、慌てて反論します。
私がこうやって反論する事さえ見抜かれているのでしょう。近藤先生は笑いながら言います。
「今、神谷君が来るから。ゆっくり休みなさい」
「何で神谷さん!?」
「今日一日、総司の世話に付けた。今、粥を作っているはずだ。ゆっくり甘えて休みなさい」
「どうして年上の私が神谷さんに甘えるんですか!?」
顔を赤くして、私は更に反論します。
「神谷君も総司が元気でないと笑顔が無いしな。心配で堪らないって顔をずっとしている」
「え!?私のせいですか!?」
思いがけぬ言葉に、私は赤くなっていた顔を赤くします。
「いつも一緒にいるからなぁ。余程神谷君は総司の事が好きなんだなぁ」
「え!?好き!?」
近藤先生の言葉一つ一つに驚く私に、先生は笑いながら、私の頭に手を乗せると、「早く元気になれよ」と言って、今度こそ部屋から出て行きました。
大好きな近藤先生が出て行って淋しい筈なのに、私の頭の中はそれどころじゃありませんでした。
私が元気じゃないと神谷さんも元気じゃないんですか?
それで笑ってくれないんでしょうか。
近藤先生が閉めた障子をぼんやりと見詰めながら、私は再度横になりました。
ごろりと寝返りをうち、周りを見渡しますが、私の羽織は見当たりません。
花はーーきっともう枯れている事でしょう。
小さな溜息が零れます。
折角摘んできたのに。
仕方の無い事ですが、神谷さんが花に気づいてくれなかった事、花を渡せなかった事に理不尽な寂しさを感じて、それを癒すように天井を眺めていました。
「沖田先生。入りますよ」
外から小さな声が聞こえてくるのと同時に障子が開けられ、神谷さんが土鍋を持って入ってきました。きっと鍋の中はお粥です。とても良い匂いがします。
匂いに釣られたように体を起こすと、神谷さんはそんな私の仕草がおかしかったのか、苦笑しました。
「お加減は如何ですか?お粥作ってきたんですけどお腹に入りますか?」
「食べます!お腹ぺこぺこです!」
労う言葉に私は勢いよく答えると、神谷さんは笑って、布団の隣に鍋を置くと、小さな茶碗にお粥を乗せてくれます。
その姿が凄く暖かい空気を作り出しているようで、私は惹かれるように神谷さんの動作一つ一つに見入っていました。
「・・・母上のようですねぇ・・・」
がっしゃん。
私がぼんやりとしながら呟くと、神谷さんは途端に真っ赤になり、お粥をよそおってくれていた茶碗を手から滑らします。
「あっ!勿体無い!」
私が慌てて支えていなかったら、折角のお粥が駄目になるところでした。
「誰が母上ですか!私は武士ですっ。それにこんな大きな子供を持った覚えはありません!」
「えー。でも神谷さんに子供ができたらすっごく可愛いでしょうね」
つんと顔を背け、差し出される茶碗を受け取りながら、私は呟くと、神谷さんは益々怒りを露わにして「一生出来ないから無理です!」と叫びます。
一生なんて・・・そんなこと。
神谷さんなら何時でもお嫁に行けるのに。そう言おうとして私は何となく頭に浮かんだ花嫁姿の神谷さんと、隣にいる誰かと、その誰かとの間に出来た子供を想像して、形になる前に打ち消しました。
とても想像出来なかったのです。
それと同時に胃がもたれるように重く感じたので、それが空腹のせいだと気づき、私はお粥を口の中に流し込みました。
怒りが薄らいできたのか、神谷さんは頬を赤くしたまま、こちらを見詰めてきます。私が食べている姿を見たままほっと安堵の息を漏らします。私が風邪を引いて近藤先生が言っていたように本当に心配をかけてしまったようです。
「心配を掛けてしまったようですね」
「そんなことありません。先生がご無事で良かった」
申し訳なさそうに呟く私の言葉に反応して、神谷さんはふるふると首を横に振ると、何処か力無く笑って私を見上げます。
私は箸をくわえたまま首を傾げてしまいます。
この人の笑顔が見たかったはずなのに。さっきから怒った顔か不安そうな顔しか見ていません。
笑って欲しいのに。
「神谷さんも食べますか?」
神谷さんは食事をしている時、とても美味しそうに、楽しそうに食べます。
きっとお腹が空いているのです。お腹が一杯になれば笑ってくれるはずです。
そう確信して、私は、茶碗に残っていたお粥を差し出したのですが、「何を言っているんですか!」と逆に怒られてしまいました。
「よく考えたら神谷さんにも風邪が移ったら大変ですもんね。ごめんなさい」
どうしてこう考えが先に立たないんでしょう。ちょっと考えれば直ぐに分かる事なのに。
熱が上がって弱気になっているんでしょうか。
いつもと変わらないやり取りのはずなのに。
神谷さんに怒られただけで胸が痛くなります。
笑ってくれないだけで苦しくなります。
「・・・先生?そんなにきつく言ったつもりはなかったんですけど・・・ごめんなさい」
私は余程情けない顔をしていたのでしょう、逆に謝られてしまいました。私を酷く傷つけたと思ったのでしょう。今にも泣きそうな勢いです。
花を。
花があれば。
私は女々しくも、先程摘んだ花を思い出します。
花があれば。
きっと笑ってくれるはずなのに。
この子を慰める言葉も浮かばなくて。
誤解を解く良い言葉も浮かばなくて。
そんな自分が惨めな気がして。
「神谷さん。もう眠りますから」
「あ。はい。お邪魔致しました。・・・申し訳ありません」
そんな風に落ち込ませたい訳じゃなかったのに。
眠ると言う事で、自分の行動を誤魔化してしまった事に今更ながら後悔をしながら、部屋を出て行く肩を落とした後姿を見守り、私は眠りに着きました。

白く小さな花。
今にも折れそうな程茎は細いのに。風邪に飛ばされそうな程花弁は儚いのに。
力強く大地に根付き、咲き誇り、そして魅せる。
優しく。可愛らしく。美しく。
見詰めていたら、神谷さんの顔ばかりが頭に浮かんできて。
怒った顔。泣き顔。拗ねた顔。笑顔。
小路に咲く、一輪の白い花が、まるで神谷さんのようで。
自分の懐に入れて置きたかった気持ちと、神谷さんにあげたかった気持ち。
その花を自分の手から、渡したいと思った。
そしたらきっとあの子は喜ぶ。
綺麗なものが大好きな人だから。
きっと笑顔で私を見上げてくるのだ。
その時の気持ちは。きっと。
何よりも勝る温度。

「お早うございます。沖田先生」
いつも聞こえてくる決まった言葉が空から降ってくる。
いつの間にか朝まで眠ってしまっていたようで、目を覚ますと、神谷さんが柔らかい朝の陽の光を浴びて、私を覗き込んでいた。
「あれ?もう朝ですか?」
「よくお休みになられたようですね」
昨日のやり取りはもう忘れているのか、神谷さんは引け腰になる事無く私に近づいてくると、顔を近づけてきます。
近づいてくる顔に、反射的に目を瞑ると、ひんやりとしてそれでいてじんわりと温かくなってくる熱が、額に触れます。
「熱は・・・下がったようですね」
まだ顔が近くにあるのだろうかと、どきどきしながら目を開けると、私の額に手を当てて、恐らく熱を測っているのでしょう、難しい顔をした神谷さんが映りました。
「お加減は如何ですか?」
「ええ。大丈夫ですよ」
手を額から離し、微笑む神谷さんに、気恥ずかしさを感じながら答えます。
何故か神谷さんの顔がまともに見れなくて、つい視線を逸らしてしまいます。
ふと、目に留まる白い花。
小さな湯飲みに挿されて昨日と変わらず咲き誇る白い花。
「・・・神谷さん・・・?」
何故ここにこの花があるのか不思議で堪らなく、答えを求めて神谷さんを見上げます。神谷さんにとっては不思議でも何でも無かったようで、きょとんとしてこちらを見ます。
「昨日、沖田先生の羽織に入ったままでしたから。大事そうに入っていたから、枯れないように水に入れてみたんです。先生の体温でちょっと萎れちゃいましたけど、また元気になったでしょう?」
小さな。小さな白い花。
綺麗で。愛らしくて。
すぐ萎れるくせに。
それでいて強くって。
まるで神谷さんのよう。
だから。
大切に懐に入れてきたんです。
「綺麗ですよね。でも先生に花を愛でる気持ちがおありだなんてびっくりしちゃいました。てっきり花より団子かと」
そう言って、柔らかい眼差しで花を見詰める神谷さんに、私の胸が勝手にどきどきしてしまって。
「ねぇ。神谷さん」
「はい?」
振り返るその人が眩しくて。
どうしても伝えたかった一言が声にならない。
真剣勝負の時とは違った緊張感が全身に張り詰めて。
視線も合わせられず、俯き加減になり。
私はいつの間にか手に汗を掻きながら、それでも、たった一言をこの人に伝えたくて。
喉を震わす。
「神谷さんの為に摘んできたんです」
あなたのように。
とても。
綺麗だったから。
高鳴る動悸を抑えながら、搾り出すように伝えた言葉。
確かに伝えた感情に神谷さんがどう思ってくれたのか、その表情が見たくて、でも怖くて、そっと顔を上げる。
-------。
白い花なんかよりもずっと綺麗に。
惹きつけられて、時を忘れて見惚れてしまうくらいに。
ずっと。ずっと。
愛らしい笑みを浮かべて。
「有難うございます」
と言って、笑ってくれました。

「先生!?」

その後、熱が上がり、三日魘されて、布団の中にいる事を余儀なくされましたが、全然構いません。
神谷さんが一生懸命看病してくれましたし、私は幸せ一杯で、熱でなのか、幸せでなのか、ふわふわした浮遊感で心一杯でしたから。

2005.05.06