2.ふたりだけの秘密

総司はその日、近藤と共に黒谷へ出向いていた。
元々一番隊は前日の夜の巡察当番であり、その日は午後からの稽古しか予定に入っていなかった。
近藤からの誘いを総司が断るはずが無い。永倉に代理で指導を頼むと、喜び勇んで共をした。
黒谷での話の内容は当然の事ながら総司には全く興味の無い事で、睡魔に誘われたが、彼らの話は中々纏まらず、極度の睡魔から開放されたのは、空が茜色に染まり始めた頃だった。
「すまんな。総司。思ったより時間が掛かってしまったな」
折角の休みの時間を減らしてしまった事を詫びる近藤に、総司は「いいえ。いいえ」と楽しそうに笑ってみせる。
「帰ったらトシに相談して、明日非番にしてもらうか?お前、今朝まで巡察だっただろう」
「平気ですよ。それに今日だけでも永倉さんに指導を変わって貰ったのに、明日までまた誰かに変わって貰う訳には行きませんよ。一番隊の皆さんに組長自らサボってると思われちゃいます」
それでも納得がいかない様子で、ブツブツと呟き続ける近藤を見て、総司は己の事を思って考えている事に嬉しくなり、笑みが深くなる。
眉間に皺を寄せる彼から視線を外し、通りを見ていると、ある事に気が付く。
(あ。ここを真っ直ぐ行くと美味しい善哉屋さんがあるんですよね)
それは偶々セイと二人で通りを歩き、いつも通う団子屋への道の途中に見つけた店だった。偶には違うお店を開拓しようと入ってみたのが大正解。そこで扱う善哉の美味しさに二人とも病み付きになり、総司だけでも十八杯、セイも珍しく三杯おかわりをした店だった。
(近藤先生も・・・)
くるりと近藤を振り返り、一瞬誘いの言葉を掛けようとするが、止めてしまう。
その店はとても美味しく、恐らくは屯所の人間は誰も知らないだろうと言う位穴場中の穴場だった。
セイと二人で見つけた取って置きの場所を近藤にも教えようと思ったのだが。
何故か勿体無いような気がして止めてしまう。
(大好きな近藤先生なのにどうしてでしょうね?)
総司は首を傾げながら、己の胸に手を当てた。
「神谷君!」
そうして不快に鳴る心臓を押さえたと同時に近藤の声でセイの名が呼ばれ、どきっと心臓の鼓動が大きくなり、近藤を見ると、自分ではない、何処か遠くを見詰めていた彼の視線を追う。
視線の先には楽しそうに笑うセイと斎藤の姿が見えた。
彼らは総司たちが向かう先の方向から歩いてきた。
まさか。と、また心臓が不快な音を立てる。
セイも彼らの姿に気付いたらしく、視線が重なると、ぱぁと顔を明るくして、嬉しそうに駆け寄ってくる。
彼女はいつも自分の姿を見つけると子犬のように嬉しそうに駆け寄ってくる。それが今の総司の胸に痛みを残した。
「お帰りなさいませ!」
笑顔を見せるセイに、近藤はつられて笑みを返す。
「神谷君は何処かへ行っていたのかい?」
「はい!斎藤先生とこの先にある善哉屋さんに!この間沖田先生と一緒に見つけたんです!もう一度食べに行きたくて・・・」
「うずうずしていたら斎藤君が付き合ってくれた訳だ」
「はい!」
嬉しそうに語るセイの横で、駆け出した彼女の後ろからのんびりと歩いて追いついてきた斎藤は軽く会釈をする。
「本当は斎藤先生甘い物好きじゃないからどうかなとも思ったんですけど・・・」
「偶には清三郎と甘い物食べるのもいい」
表面上顔色一つ変えていないが、心の中で余裕の笑みを零す斎藤は総司を見上げると、不敵に笑って見せる。
「そうか。今度私も連れて行ってくれ。なぁ。総司・・・どうした?眉間に皺が寄ってるぞ?」
近藤は楽しそうに、斎藤とセイをから視線を逸らし、総司に向けると、その先の彼の表情にぎょっとした。
-----むくれてる。
頬を膨らまして、眉間に皺を寄せ、怒りの視線をセイに向けている。
「近藤先生!行きましょう!神谷さんは自分の隊の組長が仕事をしている時にのんびりと善哉を食べていられるような薄情さんですから!斎藤さんとも仲が良いようですし、のんびり一緒に帰ってきたら如何ですか!?」
半目の状態で総司は近藤の腕を掴むと、ずかずかと歩き出す。
近藤が振り返ると、突然機嫌を損ねた総司の背を、傷ついた表情で瞳に涙を溜めているセイの姿が肩越しに伺えた。
「総司・・・」
「知りませんよ!神谷さんなんか!」
諌める近藤の言葉を遮り、総司はずかずかと大きな音を立てて歩みを進めた。
近藤は夕闇に染まる空を見上げ、そして苦笑した。
(総司が俺とトシ以外の事で悋気を見せるなんて珍しいな)
そうして総司の感情を揺らす、少年隊士の姿を思い出した。

セイは青い波打つような草原の中、夜の闇に染められて、藍色に変色していく茜色の空と、草原を眺め、座り込んでいた。
この時間のこの場所が一番澄んでいて綺麗に見える。
逢魔ヶ時。神の世界と常世が交差する時。その表現はこの景色を見ていると納得してしまう。
それ程までに美しい。
紅から蒼へ、藍へ、空が激しく変化を続けるその刻限。
揺れる草は碧から深い青色へ姿を変える。大地の海が出来上がる。
吹く風は冷えた空気を広げ、闇を深海へと変える。
その自然が生み出す彩の乱舞。
総司と二人で見つけた時にはその光景に圧倒され、感動し、惹き込まれた。
魅せられる世界。神の世界と交わる瞬間とはよく言ったものだ。
あまり芸術に興味を持たない総司も初めて見た時呆然と立ち尽くしていた。
『この場所はとっておきです!二人だけの秘密ですよ!』
そう言ったのはどちらが先だっただろうか。
つい先程冷たくあしらわれた上司を思い浮かべ、セイは涙を零した。
総司は今日は朝から近藤の共で外出をしていた。
近藤一番の総司が彼の共とあれば何よりも先に優先するのは当然であって、寂しさを肝心柄も仕方が無いと自分を納得させ、永倉が指導する稽古に励んだ。
稽古が終わってしまうとする事が無かった。洗濯物は前日に終わらせてしまったし、賄いは人手が足りており、セイが活躍する場所が無かった。
いつもなら総司と甘味でも食べに行くのだろうけれど。そんな事を思いながら、縁側で暇を持て余していた所、斉藤が通りかかった。
彼は最初暇そうに時間を持て余してるセイを見るに耐えかねて、酒を呑みに行くかと誘ってくれたが、そんな気分でもなく、先日総司と発見した新しい善哉屋を思い出し、彼の優しさに感謝を込めて誘った。
それだけだったのに。
帰り道ばったり出会った総司は怒っていた。
確かに自分の隊の組長が仕事で外出している時にのんびり甘味屋へ言ったのは不謹慎だったのかも知れないけど。
そんなのはいつも皆やっている事だ。
いつも他の人がそうやって帰ってきても笑って迎えているのに、今日に限ってどうしてそんな事で今更怒られているのか彼女には分からない。
結局セイが屯所へ戻った後も、総司は一番隊の部屋には顔を出さず、居た堪れなくなった彼女はこの場所へ辿り着いた。
目の前に広がるr刹那の風景が、セイの心をほんの少し柔らかくしてくれる。
ほわっと暖かくなっていく心に彼女は少し安心した。
ふと。後方からガサガサと足音が聞こえてくる。
総司と二人で見つけたとっておきの場所に、侵入者が入ったような気がして、一瞬胸に痛みを感じたが、こんな綺麗な場所を他の誰にも見つかっていないはずが無いと思い直し、自分たちだけのものではないことに残念さを感じながら、ほぅと溜息を吐く。
「ねぇ。綺麗でしょ!」
聞こえてくる足音の主の声。
聞き慣れたはずの決して間違えることのないその声。
「私のとっておきの場所なんですよ。土方さんにも教えたくて」
副長!?
後方を振り返ると、確かに彼女が間違えることのない声の主、総司と、満更でもない顔をした土方がそこに立っていた。
無意識の内に、彼らに見つからないように、セイは身を屈める。
「お前にしてはいい場所を見つけたじゃねーか。けど、お前がこういう景色に興味があったとは知らなかったな」
屯所で新選組副長として泰然としている時とは異なる、音質の柔らかい声が聞こえてくる。
身内と認めた人間だけに向ける声。
「酷いなぁ。前に神谷さんと見つけて、あの人凄く喜んでたから、もしかしたら豊玉宗匠も好きかなと思って連れて来てあげたのに」
「俺は神谷が規準か」
「だってあの人も綺麗なもの大好きだから」
むぅと膨れて呟く総司に土方は苦笑する。
「まぁ、嫌いじゃないな」
「でしょう!」
そう言って総司は嬉しそうに笑う。
セイは膝をぎゅっと抱え、動けずにいた。
土方が良い場所だと共感を持ってくれた事は嬉しい。他の人にもやはりここは良い場所だったと実感できるから。
けれど。この場所は。
自分一人の勝手な思い込みだと分かっていたけれど。
総司とセイの二人だけの特別な場所を持ったような気がしてとても嬉しかった。
しかしそれは、総司にとっては違っていたのだ。
彼がそんな事を、彼女気持ちに気付く事も、気遣う事も、ましてや想像する事も無いのだろうけど。
心はずきずきと針を刺されたように疼いた。
「……神谷、何をしているんだ?」
背後から突然耳元近くで声を掛けられ、セイはびくりと大きく体を震わす。
「ぎゃあっ!副長っ!?」
振り返ると、思ったより近かった土方の顔に、セイは青くなって後退りする。
半目で見つめてくる土方の後方から、「あれ?神谷さん?」と総司が覗き込んできた。
「……で、また泣いてたのか」
「な!……違います!」
溜息混じりに呆れ気味に呟く土方にセイは反論するが、確かに涙はぼろぼろと零れ、真っ赤な頬を伝い、今又泣き出しそうなほど震えた唇で呂律の回らない口調で言っても説得力は無い。
慌てて着物でごしごしと顔を拭うと、キッっと再度土方を睨みつける。
「どーせ原因はあれだろう?」
そう言って、くいっと土方は総司を見るように首を回す。
「……違います」
「ほー。別に童が何で泣いていようが俺はどうでもいいんだがな。折角の綺麗な景色の中鬱陶しいんだよ」
「ひどっ!もっと労いの言葉ぐらい掛けられないんですか!?」
「けっ。誰が言うかよ。泣くなら何処か他所でやってくれ」
その余りにも突き放した言葉に、セイは怒りが頂点に達すると、勢いよく立ち上がり、ずかずかと草原の中をより奥へ入っていく。
「お邪魔しました!ごゆっくりどーぞ!」
「斎藤さんと一緒じゃないんですか?」
怒りで熱くなっている所に暢気な声が横から入る。
怒りの元々の原因はお前だろうと、能天気な表情をしている総司をばっと振り返り、睨みつける。
「どーしてそこで斎藤先生が出てくるんですか!斎藤先生は屯所でお休み中です!」
怒声交じりのセイの言葉に、彼は一瞬顔を顰めるが、すぐに口を尖らし、拗ねた口調で呟く。
「だって斎藤さんと仲がいいから……」
「はぁ?沖田先生だって仲が良いじゃないですか!?でもいつも一緒な訳ないでしょう!」
「そりゃそーですけどっ!そーじゃなくって!」
おろおろと自分の言いたい事が上手く言葉に出来ず、それでも理解を求める総司の瞳に、向けられたセイ本人は少しも気付いていないが、それを見ていた土方は、彼が何を思うのか、昼に近藤に聞かされた話を思い出して、ピンとくる。
(「私といるより、ずっと斎藤さんといる時間の方が長くて、私より仲良さそうじゃないですか」とでも言いたいのか、沖田総司)
と、心の中で半ば呆れた様に呟く土方。
子どものような嫉妬だが、彼は無自覚で気付いていない様子。
付け加えるなら、斎藤といる時間よりもずっと長くセイは総司の傍にいる。
傍から見たら家族か何かのように。
「私といるより、ずっと斎藤さんといる時間の方が長くて、私より仲良さそうじゃないですか」
想像していたそのままの台詞に、土方は溜息を吐く。
(どうかえす?神谷清三郎)
「何言ってるんですか!私、昨日誰と一緒に甘味屋行きました!?稽古しました!?洗濯してました!?今日の朝だって誰が起こしました!?」
捲くし立てるように言い、息を切らすセイの前で、総司はぽかんと口を開ける。
暫し、そのまま静止していたが。
「……私ですねぇ」
と、満面の笑みを零す。
疲れたように、セイと土方ははぁ~と長い溜息を零す。
「喧嘩は他所でやってくれ!」
子ども並みの喧嘩に、土方は嫌気が刺し、手を振って、二人をその場から掃う。
折角の素晴らしい景色なのい、目の前には馬鹿らしい喧嘩。
澄んだ心が濁っていく気がする。
「喧嘩じゃないです!」
「じゃあ何だ!?」
「んーーーー。何でしょう?」
反論する割には答えを見つけられず、総司は視線でセイに助けを求める。
「知りません!」
二人の秘密の場所を他にも知らせてしまった彼の野暮天さとに疲れていたところに、彼の意味不明の言動に振り回され、更に疲労感が増し、これ以上いられないと、セイはその場から離れていこうとする。
が、がっしりと手を握られてしまう。
「駄目です!行かせません!」
「てめーら二人ともどっか行け!」
セイが引き止める総司を振り返り、反論しようとするが、その前に土方が一喝する。
彼の怒声に反論する気力の削げたセイは、溜息を吐くと、手を繋いだまま話そうとしない総司をそのままにしながら、結果的に彼の手を引くような形でその場を離れることを決めた。
土方の姿が段々と遠くなり、空の色が茜色から完全に藍色に変わった頃、セイはまた一つ溜息を零すと、もうあの不思議な光景はすっかり鳴りを潜めてしまった空を見上げる。
「……宝物みたいだったのになぁ……」
呟くセイが酷く悲しそうで、総司は自分が見てはいけないものを見てしまったような気がして、彼女から目を背ける。
彼女の手を己の手の中に握り締めたまま。
周囲を見渡すと、全ては既に闇色に染められていた。
「綺麗な景色、もう終わっちゃいましたね。神谷さん大好きだったのに」
二人だけで見つけた空間。
あの時見つけた彼女がとても嬉しそうで、とても綺麗な表情を見せて、総司も真っ暗な闇の中にぽっと明かりが点いた様で嬉しかったのを覚えている。
セイがあんなにも綺麗な表情を見せて喜ぶから、きっと俳句を作る土方も喜ぶだろうと、一目散に彼にも教えた。
それを何故か今はとても後悔した気持ちになっている。
土方に喜んでもらえた結果、彼女にこんな表情をさせている。その事が彼の中で本意ではなかったはずなのだ。
「沖田先生。またあの善哉屋さんへ食べに行きましょうね。今日は行けなかったけど」
少し悲しげな表情を残したまま微笑む少女に、総司も曖昧な笑みを返す。
「やっぱり甘味屋は沖田先生と行かないと!」
その言葉に総司の心臓はどきりと鳴り、「どうしてですか?」と口が勝手に問いを紡ぐ。
「甘いもの大好きで、思いっきり幸せそうに食べてくれる人が隣にいてくれないと、私も美味しく食べられないですもん!……兄上は甘いもの苦手だから、一杯食べたら後は私が食べ終わるのを待ってくれているだけで、……逆に恐縮してしまいました。あ!斎藤先生には内緒ですよ!」
慌てて取り繕うセイと逆に、総司の口の端は自然に上がり、笑みが浮かぶ。
先程までとは違った満たされる何かが彼の中に込み上げてきて、そんな自分が可笑しくて総司は笑い出す。
「あはははは。神谷さんが恐縮するなんて!」
「笑わないで下さいよ!どうせ私は沖田先生に負けず大食いですよっ!」
「酷いなぁ。でも二人だけの秘密ですよね」
「絶対に斎藤先生には言わないで下さい!秘密ですからね!」
彼女が自分に劣らず甘味好きの大食いである事。
この綺麗な景色を見て、綺麗な表情を見せる事。
「ずーっと二人だけの秘密です!」
嬉しそうに言う総司に、彼が彼女が恥ずかしがっている事を笑っているのではなく、『二人だけの秘密』を持っている事に喜んでいるのだと気付き、顔をぱっと赤くする。
「もしかして……先生、斎藤先生にもお店を教えたから怒ってました……?」
ついと出た質問に、総司はかぁっと頬を染めた。
「なっ。何言ってるんですか!そんな子供染みたこと思う訳無いでしょ!」
はっきりと断言する口調にセイはがっくりと肩を下ろすが、今度は総司がふと疑問に感じた事を口にする。
「……もしかして神谷さん。この場所を土方さんに教えた事、怒ってました?」
その言葉に、今度はセイがかぁっと赤くなる。
「ええ。そうですよ!そうですとも!どうせ私なんて子どもですからね!沖田先生と二人だけの秘密の場所を見つけたようで浮かれてましたよ!」
腕を組み、もはや恥らう事を止め、逆ギレをするセイが、総司にはとても面白く、それでいて、先程否定したが、『二人だけの秘密』を持っていたかったのは自分だけじゃなかったんだと安心も交じり、声を上げて笑う。
「あははははははっ!」
「笑わないで下さいっ!」
「神谷さん可愛いー!」
「武士が可愛いなんて言われても嬉しくないです!」
総司の笑いに反応するセイの言葉に、はた、と彼は動きを止める。
彼の突然の変化をいぶかしみ、セイは覗き込むように彼を見上げると、彼は額に手を当て、クシャリと前髪を掻き揚げると、顔を赤くし、何処と泣く空を見上げて呟いた。
「そうか。一番大切な二人だけの秘密があったんでした」
「?」
「神谷さんが女子だって事」
「!」
最近すっかり忘れてしまっていた、分かりきっている事なのだが、自覚する事忘れていた事柄に、そして総司が改めて自分を女子として意識してしまった事に恥ずかしさを感じ、セイは顔をぼっと染める。
「これだけは絶対誰にも教えられない秘密ですよね」
「当たり前です!」
二人は見つめ合い、互いに共有する秘密を確認すると、また不思議と、可笑しくて、嬉しくて、笑い合ってしまった。
二人だけの声が草原の風に揺られ、空に登る。

2011.01.16