1.花を愛でる

「神谷さん。ちょっと出掛けませんか?」
「はい」
春の昼下がり、まだ冬の寒い空気が名残を残し、天高く昇った太陽がぽかぽかと地面を暖めて、草や花たちを目覚めさせようとする。
暖かくなったこの時期、太陽の光を直接浴びると、じっとりと汗が滲んでしまう。
朝の巡察を終えたセイは、昼餉を取り、その後いつもなら洗濯等の雑務に構ってしまうのだが、この折角の陽気に惹かれ、空いた時間を心地良い光の中微かに吹く少し冷たいそれでいて柔らかい風にまどろみながら、縁側の木陰で休息を取っていた。
もう少しで意識が夢の世界に飛んでいきそうになったところで、彼女の想い人に後ろから声を掛けられた。
折角の声掛けに断る理由も無く、勿論断るはずも無く、セイは頷くと、廊下の先を歩く総司の後を追った。
外に出ると、徐々に強くなり始めた日差しが露出している肌に打ち付けて、少しひりひりさせ、首筋からじっとりと汗が滲む。
「暖かいを越して、今日は暑いですね」
「もう春ですからね。春を越せばすぐに夏になりますから」
総司の隣を歩きながらセイが話しかけると、総司は当然の事をのんびりと答える。その当たり前の事を自然に答える彼と自分とのやり取りが妙に可笑しくて、セイは笑ってしまう。
総司と一緒に歩く事は勿論、春の陽気は人の心を陽気にさせるのか、セイはうきうきと自然に高鳴る鼓動を抑えることが出来ず、持て余し、そわそわと周りを見ては小さな春を見つけて歓声を上げる。
「先生っ!土筆がもう芽を出しています!」
「帰りに取って帰りますか?美味しいですよね」
「…先生…。あ、あっちに今、蝶々が飛んでました!」
「蜘蛛に捕まらないように気を付けないといけませんねぇ」
「先生ぇ……。あ!あっちっ!」
「はいはい。今度は何ですか?」
総司はセイが声を上げる度に一つ一つ丁寧に返答してやる。
彼らが歩いている周りには雑草と畑しかない。その中でどうやったらそんなに沢山のものを見つけられるのか。次々に見つけては、声を上げて喜ぶセイに総司は可笑しくて笑ってしまう。
何かを見つけては喜び、自分に知らせる。そしてちょっと意地悪な事を言うと、一瞬悲しそうにするが、すぐにまた新しいものを見つけて喜ぶ。
その度に表情がコロコロと変わるセイを見ている方が楽しいと、総司は思ってしまう。
実際、総司はセイの指差すものを見ていない。飽きないセイの表情を見る事に夢中になっていた。
(可愛いですねぇ。子どもみたい)
心の中でそんな事を想い、総司は自分の呟きに笑ってしまう。
つい、ぎゅっと抱き締めてしまいたい衝動に駆られてしまう。
(柔らかいだろうなぁ)
何故そんな事を思うのか総司自身にも分からないが、この表情がくるくる変わる少女を抱き締める事は、彼女の心と一緒で柔らかそうな気がした。
しかしそんな事をしていては、目的地まで着く事が出来ない。
彼女をある所へ連れて行きたくて、連れ出したのだ。
それまでは我慢しなくては。
総司は自問自答する自分がとても滑稽で、また笑ってしまった。

花が揺れる。
セイの腰の位置まで伸び、黄色いを幾つも咲かせる花が、さわさわと優しい音楽を奏でながら揺れる。
花が擦れ合う音以外に何も無い。人の喧騒も呼び声も。だから余計に心地良く耳に入ってくる。
「ふわぁ……綺麗ですねぇ……」
京の中心地から離れ、少し山間に入った野原。そこ一面を鮮やかな色で染めるのは菜の花。
春の優しい風に合わせて。優しい色がセイの視界を埋める。
あまりにも壮大で、それでいて優しい色使いの景色に、セイはぽかんと口を開けたまま放心する。
その姿を隣で見ていた総司は、彼の予想した反応そのままをセイが再現してみせ、思わず噴出してしまう。
「気に入りました?」
「はいっ!」
セイは総司を振り返ると、喜びに頬を紅潮させて返事をする。
「この間、所用でこの道を通った時に見つけたんですよ。神谷さんこういうの好きそうだなぁと思って」
少し照れながら総司はぽりぽりと頬を掻く。
「大好きです!ありがとうございます!」
そう言うと、セイは嬉しそうに菜の花の中に入っていくと、きゃっきゃと走り回る。
「本当に可愛いですねぇ」
彼女の微笑ましい仕草を見つめながら、総司は一人呟く。
連れてきてよかった。
満足感で心が満たされていくのを感じた。
本当は言い出すのを迷ったのだ。
男が花を見に行こうと言い出す事自体、照れが入ってしまう。
しかもお団子も無ければ、菓子も無い。甘味屋へ誘う事は既に当たり前になって慣れてしまっている。しかし、何かを食べに行くのでも誰かに会いに行こうというのでもない明確な目的も無く、花を見に行こう、それだけを言うのが、彼にとってとても戸惑われることだった。
しかし、偶然この場所を見つけ、名も知らない一面に広がるこの黄色い花がセイを思わせた。そうしたら居ても立ってもいられなくなり、無性に彼女を此処へ連れて行きたくなったのだ。
断られたらどうしよう、半分、花を見て、何も食べる物が無くて呆れられたらどうしよう、半分、胸の内は常に動揺しながら、セイを誘ったのだ。
セイは菜の花の中で飽きもせずに、歓声を上げては、「凄い」、「綺麗」、を連呼する。
綺麗だとは思う。しかし総司にとってはここは何も無い場所で、本来なら目に入ってもすぐに飽きて通り過ぎてしまう場所だ。
それが、セイがそこに居るだけで、飽きもせずに花畑を見つめ続けている。
彼女の仕草、表情、一挙一動が瞳に焼きつく。
暖かな気持ちが流れ込んでくる。
(やっぱり女子なんですねぇ)
月代を剃って、二本を差していても、その基は変わらない。
総司にはあんな表情を見せる事も、踊るように歩く事も出来ない。
それが彼女と自分の差を見せ付けられているようで、悲しくて、それでいて、嬉しくなる。
「うきゃんっ!」
野原を歩き回っていたセイの腕を掴み、引き寄せると、総司は己の腕の中に彼女を抱き込む。
少々力を入れ過ぎてしまった為、総司諸共地面に座り込むと、視線の先にある菜の花の位置が高くなる。
先程まで見下ろす形になっていた花が、見上げなくてはならなくなった。
薄ら赤く染まってきた空を背景に黄色の花が映える。
さやさやと風に揺られ、葉が二人の頬を擽った。
「くすぐったいですねぇ」
総司は頬を緩め、嬉しそうにくすくす笑う。
「先生ぇ~~」
頬を赤く染め、離れようとするセイを更にぎゅっと抱き締めると、とくとくと早鐘を打つセイの心臓の音が、己の胸元を通して伝わってきた。
「神谷さん。心音凄く早いんですね。疲れちゃいませんか?」
「誰のせいだと思ってるんですか!?」
勿論深い意味など無く問う総司に、好きな人に抱き締められたら当然の事だろうと怒りを露にしたセイだが、自爆した事に気付き、はっと息を止める。
「誰のせいなんですか?」
そんなセイの心の機微に気付くはずも無く、きょとんとして問う野暮天王。
彼にしてみれば柔らかそうなセイをやっと抱き締めて、彼女がやはり柔らかい事を体感して、幸せに浸っていたのに、その本人に嫌がれて、少し寂しさを感じている。
「~~~走り回ったから、まだどきどきいってるんですっ!」
取って付けたようなセイの誤魔化しの言葉に、総司はあっさりと納得する。
「ああ。なるほど。だから…」
そこまで言って総司は、はた、と口を噤む。
「だから?」
「何でもありません」
(だから神谷さん、柔らかい上に温かいんだ)
そう言おうとした言葉を飲み込む。訝しげに自分を見上げる少女に、この言葉を告げるのは凄く恥ずかしいような気がしたのだ。
しばし見つめ合い、沈黙が続くと、セイが先に根負けをし、再び菜の花の中から覗く空を見上げる。
紅く染まる太陽に、セイの肌も緋色に染められる。
どこか虚ろな瞳をしながら、遠くを見つめる少女。それでいて、その瞳の奥には信念が宿っている。
凛とした空気と、柔らかな流線を描く頬の稜線。
それが不相応でそれでいて相応するような不思議な違和感と安堵感を与える。
ふっくらした頬の線に窪みが出来ると、少女は笑みを浮かべていて、風に揺られる菜の花を、その白く細い指先で引き寄せた。
「先生。ありがとうございます」
笑みは総司に向けられ、緋で染まった顔には艶やかさが増す。
それは彼を一瞬にして惹きつける。

花を愛でる華を愛でる。

2011.01.30