黒色

勢い良く飛ぶ血飛沫を避けて、百鬼丸は横に飛んだ。
目の前に立っていた彼の二倍はある巨漢の牛の姿に似た妖は勢い良く倒れ込むとその場からもう動く事はなかった。
後にはじわじわと流れる体液が地面を赤黒く染めていく。
「お疲れ様!あにき!」
戦いの邪魔にならないよう木の陰に隠れていたどろろは今しがた事切れた妖の前に立つ百鬼丸の元へ駆け寄ると、両腕に抱えていた、彼の付け替えの腕を差し出した。
「ん」
彼は小さく頷くと、両腕から伸びる刀に付いた血糊を振り落とし、腕に納めた。
「怪我は無いな?」
じっとどろろは百鬼丸の顔を見上げ、それから全身を見渡す。
その心配する視線を受け止めながら百鬼丸もどろろの言葉を反復した。
「どろろもない?」
「おうよ!」
にっかり笑ってどろろが応える。
これは相手を気遣う為の言葉だと百鬼丸は学んだ。
互いを気遣う言葉は何処か擽ったくて、そしてほわりと胸の奥が暖かくなるから百鬼丸は最近このやり取りを気に入っていた。
二人は見つめ合うと小さく笑い、そして妖退治を依頼された村へ賃金を貰いに歩き始めた。

「くっそー!あの村長足元見やがって!」
どろろはぶつぶつと呟きながら百鬼丸の前を歩く。
既に空は暗闇に変わり、森の中に入れば月の光も届かず真っ暗だ。
普段なら夜の森は足元も見えず歩くのにも危険な上、野党の現れる確率も高くなるだけなので、どろろはさっさと出来るだけ安全な寝床を決めて、火を熾すのが常なのだが、その日のどろろは違った。
ただ苛立ちをぶつける様に大股で足を蹴り上げ、真っ暗な道を足元を気にもせず、一歩一歩地面に足の裏を叩きつけるようにずんずんと歩いていた。小柄などろろでなければ地面が揺れそうな勢いだ。
百鬼丸には視覚も無く、触覚も取り戻したばかりで、夜も昼も分からない。
けれど食欲と睡眠欲だけはきちんとあり、彼の身体は眠りの時間を告げていた。
食事は数日無い事もあるから、今日は無いのだと思えばそれでもいいが、睡眠欲は勝てない。
目の前を歩く白い炎は己よりも小さいせいか、己よりもその欲が顕著だと言うのを旅を続ける中で知っていた。そしてそれらをきちんと満たさないと直ぐに炎が弱ってしまう事も。
「どろろ」
「――」
「どろろ。どろろ」
まだ拙い言葉遣いだから届かなかったのだろうかと、何度か名を呼ぶと、目の前の炎はやっと歩みを止めた。
「何だよ!あにき!」
言葉尻荒々しく返すどろろの声に、百鬼丸は戸惑う。
「っ…悪い…あにきに当たっちまった。ごめんな。あにきはきちんと仕事をこなしてくれただけなのに」
感情の高ぶりを声音にぶつけた後、今度は弱々しくなる声に百鬼丸は困惑する。
「おいらが子どもだから甞められて…」
言葉の全てを掬い上げる事は百鬼丸にとってはまだ難しいが、目の前の白い炎が弱く揺れるのは嫌だった彼はしゃがみ込むと、どろろの背丈に己の視線を合わせた。
「…っ!悔しいっ!」
両手を広げ、ぎゅっとどろろが百鬼丸の首にしがみついてくる。
普段された事の無いどろろの行動に、百鬼丸はどう返してよいか分からず硬直してしまう。
暫し、抱きつかれたままでいると、小さな嗚咽が聞こえてきた。
この声を聞くと胸の奥がざわざわすると百鬼丸はいつも思う。
早く泣き止んで、いつもどおり明るい声色でお喋りをして欲しいと。
耳を取り戻してから何度か聞く、どろろの泣き声。
普段は本人に問えば自覚は無いようだが、夜、眠りに着いた後、おっかちゃんの名を呼んで泣いている事がある。
それも気付いた始めの頃はただおろおろするだけだったが、最近は手を頬に伸ばして撫でてやると安心したように泣き止んで呼吸が穏やかに眠るようになる事を知った百鬼丸は、時折そうしてどろろを宥めていた。
しかし、今のどろろは泣いている事を自覚しているのだろう、必死に声を押し殺しながら泣いていた。
いつもと違う行動にどうしたらいいのか分からない。
試しに、しがみついてきて離れないので、頬は撫でられないが背中を撫でると、泣き止むどころか、より嗚咽が大きくなった。
こうなるとどうして良いか分からない。
この子は普段は気も強く、人に弱みを見せる事はしない。
百鬼丸よりずっとこの世で生きる知識もあり、世と関わる知識も経験も無い彼にひとつひとつ教えてくれる、己を育ててくれたどろろの言うおっかちゃんのような行動を見せる。
誰よりも強く生きている。
そんな子が見せる弱さに百鬼丸は戸惑った。
何か原因があるはずだ。
そこに思い至り、百鬼丸は必死で回想する。
森に入るまでのやりとりを思い出せば、どろろは妖退治の仕事を終えた後、村長と話をしていた。
互いに反発し合い、どろろが一方的に怒っていて、村長は何処か嘲りの含めた言葉で返していた。
その際に百鬼丸に気配を向け、何か罵倒をしていた。それに対してどろろがまた激しく怒っていた。
村長の魂の色が酷く濁っていたのが百鬼丸の記憶に印象付いている。
言葉の意味は全て分からなくても、魂の色や、そのやりとりの雰囲気を感じ取れば、何となくは分かる。
生まれてから今までも魂の色で感じてきた百鬼丸にとって良くない気配。
感覚を取り戻してからこれまでの旅でも何度か経験したやり取り。
「どろろ。俺がしてはいけない事をしたのか?」
大抵どろろが怒る時は百鬼丸がしてはいけない事をした時だ。
相手は村長だったが、百鬼丸が何かをしたのかも知れない。
そう思って問うと、どろろは驚いたように体を離し、百鬼丸を見据えると、大きな声で否定した。
「違う!」
あまりの大声に百鬼丸が顔を顰めると、「悪い」と小声で謝られる。
「あにきは悪くねぇっ!それだけは絶対だ!」
「どろろ。泣いてる。おっかちゃんを思い出したのじゃない?」
己が悪い事をしたのではなければ、と思いつく事を問うがそれも違ったらしく、どろろは首を横に振った。
「…おっかちゃんじゃねーよ」
再びぎゅっとしがみついて来る腕が、細くて心許無い。
「どろろ」
何をすればどろろの白い魂が元の強さに戻ってくれるのか分からない。
途方に暮れていると、ゆっくりとどろろは呟いた。
「おいらはあにきに必要?」
「必要?」
言葉の意味が分からず問い返す。
「おいらはあにきと一緒にいてもいい?」
「よくわからない」
「っ!」
息を飲む音が百鬼丸の耳に入り込む。
「…そうだよなぁ。おいらが勝手について行ってるんだもんなぁ」
へにゃりと更に弱々しくなった声に、百鬼丸は戸惑う。
ふっと首に回されていた腕が今度こそ距離を取って離れた。
離れた温もりに胸の奥がちくりと痛んだが、目の前の白い炎がふわっと力強くなって、元に戻っていたので、百鬼丸はほっと息を落とす。
「いいか。あにき。おいらが仕事を持ってくる。あにきがその仕事をこなす。それで今日の飯が食えるんだ!火も熾せないあにきは、おいらがいなきゃ、あにきは毎日川の魚を生で食わなきゃなんないんだぞ!よーく覚えとけっ!」
一、二歩離れたところで、こちらを向き、そう言い放つどろろに、百鬼丸はきょとんとした。
何を今更目の前の白い炎は宣言するのだろう。
「どろろが焼いた魚。うまい」
「そうだろ!」
「どろろが仕事を貰ってくる。俺が仕事をする。それで飯が食える」
「そうだ!」
「どろろは俺の知らない事を教えてくれる」
「そうだ!」
「どろろはいなくなるのか?」
「そうっ…」
白い炎が目の前からなくなることがあるのかと思ったら、百鬼丸は何処か空っぽな感情とぐつぐつと煮えた熱い感情が混ざり合ってくる。
「…そんな事ねぇからそんな泣きそうな顔すんなよ!」
「俺が?」
慌てて取り繕うどろろの言葉に、指摘された百鬼丸の方が驚いた。
「これが泣く?」
「違うかも知れないけど。おっかない顔にも見えるし…」
戸惑う声音と共に、どろろはしゃがみ込んだままの百鬼丸に近付くと、ぺしりとその額を叩いた。
また抱きつかれてその温もりに触れられるのかと思ったら、違って、与えられた額の痛みに百鬼丸は手を伸ばして擦りながら、少し胸に穴が空いた気がした。
「おいらはあにきに感謝してる。だから意地でも付いてくんだからな。覚悟しろよ!」
「うん」
その声色は明るく、百鬼丸は今穴が空いたと思っていた胸が埋まって、ほわりと体の奥から温かくなった気がして頷いた。
「あと。あにきが妖退治して、その間おいらは何もしてねぇ。何もしてねぇ子どもの分まで賃金吹っかけるなって、甞められて賃金半分以下にされたから暫くは白い飯は食えねぇ!森で山菜取りだ!覚悟しとけ!」
「川があれば魚取る」
村長が言っていた事はそれだけではない気もするし、だからと言って今どろろの言った言葉の全ては分からないけど、食事が乏しくなることだけは百鬼丸には理解できた。
元から百鬼丸には調理されたものを食べる為には路銀が必要だと学んだが、未だそれを稼ぐ方法を知らない。
ただ目の前の白い炎が元気になったのならそれでいい。
また調理されたものを食べる為に二人で頑張ればいい。
「どろろ」
「ん?どうした、あにき?」
白い炎の名を呼び。
白い炎が目の前で力強く大きく揺れ。
そして、返事が返ってくる事に安心した。