在りし日の

カリカリカリ。
鉛筆をノートに走らせる音が部屋の中に響く。
「どろろ。二問目違う」
「え?嘘だっ!」
開いているノートと教科書を見比べ、反射的に反論するどろろに、百鬼丸は冷静に返した。
「嘘じゃない」
「んむー。…わかんねーよ!あにきっ」
首を捻り、設問と見比べるどろろだったが、それもすぐに飽き、投げ出してしまう。
「こことここの足し算違う」
「えっ!?…あー。そうそう。そういやそうだったな。そうだ。そうだ」
「どろろ」
己のミスを指摘され、やっと気付いたところで誤魔化すように呟き、そろそろと机の上に転がっている消しゴムに手を伸ばすどろろを、百鬼丸は冷静に名を呼ぶ。
「…あにきの事嘘つき呼ばわりして悪かったよ」
「ん」
小さな声で恥じ入りながらきちんと侘びるどどろに、百鬼丸は満足そうに頷いた。
一区切りしたところで、どろろは立ち上がり、百鬼丸にコーヒーを入れる。
まだ台所の台の高さい背が届かず、薬缶に水を入れるのも、コンロにその薬缶を乗せるのにも、どろろ専用の踏み台がある。
百鬼丸が初めて見た時にはどろろの背の小ささと台所の高さに冷や冷やしたものだが、両親共働きのどろろは日頃から食事当番もしていて、動きに少しのおぼつかさもない。それを知ってから安心して小さな少女の後姿を眺められるようになった。
周囲を見ればテレビや食器棚など生活感に溢れたものがそこかしこに置かれている小さな居間。
換気の為にと開けられた窓からは隣家の生活の雑音が聞こえてきて、何処か郷愁を感じさせる。
吹き込んでくる風は柔らかく、傾き始めた太陽の光が、室内を赤く染め始めていた。
食卓テーブル兼用だろうローテーブルの上には先程までどろろが睨めっこしていた教科書とノートが広げられており、何処か几帳面さと短気さを感じさせるどろろの字に、百鬼丸は目を細めた。
「やっぱあにきはすげーよな」
コーヒーを淹れ終わったどろろは既に百鬼丸用となったカップを彼の目の前に置き、向かいに自分専用のカップを置いて先程まで座っていた場所に座り直す。
どろろのカップの中身はココアだ。
一度「おいらも飲める!」とコーヒーを二人分入れたところ、結局そのカップ二つ分を百鬼丸が空にする事になった。
苦味がどろろにはまだ無理だったらしい。
砂糖を大量に入れれば頑張れるらしいが、その後慣れぬカフェインに朝方まで寝られない事があってから自分には早かったとやっと納得して諦めていた。
「ん?」
どろろが入れたコーヒーに口をつけて、百鬼丸は首を傾げる。
「難しい問題もすらすら解いちまうし、運動神経もいいからこの間何とかの賞取ったんだろ!?あにき顔も良いから、この間もクラスメイトがあにきを見たらしくて、格好いいって言ってたぞ!学校でもモテモテだろ!」
「――学校にどろろはいない」
「そりゃそうだろ!おいらは小学生!あにきは高校生!っつーか、モテモテは否定しないんだな」
にししと笑うどろろに、百鬼丸はむっとする。
「別に。モテても嬉しくない。興味無い」
「そんなこたーないだろっ!この間珍しくあにき、同じ高校の女子と一緒に帰ってたろ!おいら見たんだぞ!すんげー美人だったよな!」
「……?」
真顔で首を傾げる百鬼丸に、どろろは大げさに溜息を吐く。
「おいおい。いつまでも毎日小学生の家に通ってるのもおかしいだろ」
「どろろは迷惑か?」
そう言って、じっと答えを求め己を見据える瞳にどろろは耐えられず、ふいっと横を向く。
「まーいっか。おいらもあにきがこうやって勉強教えてくれるからどうにか成績悪くならずに済んでるからな。あにきと会うまでおいらのテストの点数見せてやりたいぜっ!毎回おっかちゃんのあの鬼の形相と言ったらっ!」
「どろろ。誤魔化さない」
低い声で回答を求める百鬼丸に、どろろは俯き、頬を染めた。
「うー。迷惑なわけないだろっ!おいらだって毎日あにきが遊びに来てくれるから楽しいんだ!夜も寂しくないし!本当にあにきみたいに思ってるよ!」
何処か投げやりに叫ぶ言葉の中に、それでもきちんと百鬼丸が求めていた回答が入っていて、彼は満足そうに頷いた。
「うん」
「……あにきってさ…」
滅多に見せない笑顔に、少し照れながら、どどろは呟く。
「ん?」
「おいらのこと、ホント大好きだよな」
「俺はどろろが好きだ」
嬉しそうに返す百鬼丸に、どろろは困ったように笑う。
「そーいう台詞おいら以外には言うなよ。勘違いされるからな」
「うん。どろろ以外に言わない」
頷く百鬼丸に安心したように、ほっと一息吐いてから、はっと思い出したようにどろろは慌てて訂正した。
「惚れた奴が出来たら別だからな!その人にはちゃんと言えよ!」
「大丈夫だ。どろろ以外に言わない」
「だーかーらー!そういう事じゃなくって」
「どろろ。分かってる」
どう言えば伝わるのかと頭を掻くどろろに、百鬼丸は静かに告げる。
「そうか?」
「うん」
何処か納得していない様子のまま、どろろは訝しみながら首を捻る。
「どろろ」
首を傾げたままのどろろの名を呼ぶ。
「うん?」
「今日のご飯も俺、食べていっていいか?」
その問いに、顔を上げると、どろろは満面の笑みに変わった。
「勿論!食ってけよ!」
そうどろろが答える事で、今の話は終了。
目の前に広げられていた勉強道具を片付け始めて、夕食の話に変わる。
両親とも帰宅時間が遅いどろろの家での夕食は主にどろろが作るようになっている。
元々は母親が毎日作り、夜遅い食事を取っていたらしいのだが、どろろがある程度成長し、火を扱う事を母親に許されてからは、疲れて帰ってくる両親を思い、どろろが作るようになっていた。
最近では両親が帰るまで百鬼丸が調理を手伝い、二人で食事を先に済まし、両親が帰ってきたのと入れ違いに帰宅する。
最初の頃は、百鬼丸も高校生とは言えまだ未成年だ。両親が心配するだろうという事も気遣いもあって、『一人で留守番は慣れている』とどろろは、両親が帰るまで家にいてくれる百鬼丸に告げていたが、最近は言わなくなった。
どうやら百鬼丸が小さい少女が一人でいる事を心配し、両親のどちらかが帰るまで家にいてくれる事に気付いたどろろの両親が、百鬼丸の両親に何やら礼を言ったらしい。
弟の多宝丸に『兄上はお優しい』と労われた。続けて『兄上の事ですから心配はしておりませんが…その…万が一…幼い…何でもありません』等と言っていたが。
何を言いたかったのかは不明だが。不快だったので額にチョップを入れておいた。
それからは百鬼丸に母親がそっとおかずを渡してくれる事も多くなった。
今では家族と家にいるより、どろろと二人でどろろの家にいる方が一日の殆どを占めていた。
「あにき!今日はグラタンだぜっ!」
まるで百鬼丸の好物のように言うが、それはどろろの好きな食べ物だ。
どろろが余りにも美味しそうに食べるからつられて笑顔で食べていたら、百鬼丸の好物になっていた。
くすり。と笑って、台所に立つどろろを百鬼丸は見上げる。

あの頃もこのくらいの年の頃に出会ったな――。

百鬼丸はそんな事を思う。
目も耳も聞こえず、腕も足も義足。
そんな端から見ればさぞかし薄気味悪い存在だったろうにも関わらず、唯一傍にいてくれた存在。
あの時代なら殊更だろう。
それでもどろろは傍にいてくれた。ずっと。
あの村で別れるまで。そして――再会してからもずっと。

「どろろ。手伝う」
「おっし!じゃあホワイトソース作るぞっ!」

隣に立つ、この距離は、あの頃と同じで、少し違う。
あの頃の百鬼丸はどろろに執着していた。
鬼神に五感や手足を全て奪われ、一つずつ取り戻す百鬼丸の隣で、生きる術を教えてくれたのはどろろだった。
一人で生きていけたが、どろろがいなければ人として生きていく事はできなかった。
だからこそ、誰よりも大切で、かけがえなくて、ただただ傍にいる事を望んだ。
離れる事は辛くて。離れていかれる事はもっと辛くて。
喜びも悲しみも、嬉しさも苦しみも。全てどろろの傍にいる事で何よりも色鮮やかだった。
あの時代に生きる事はとても困難で。
百鬼丸は無知で、己の全てを奪われ、生きることを否定され、大切なものは掻き消されていった。
その中で、どろろだけは、常に傍にいてくれた。
それで執着しない方が不思議だ。

「玉ねぎが目に染みる~!やっぱおっかちゃんに言って、もう少し高い台買ってもらおうかなぁ」
「どろろ。成長期」
「うっ!おいらもすぐに背が伸びて、あにきを抜かすかもな!だったらこのままでもいいか…」

今は違う。
両親や弟は百鬼丸を大切にしてくれるし、父親からだって不器用ながら愛情をきちんと受けていると実感している。
どろろの両親は健在で、偶に混ざる一緒の夕食はとても温かく心地が良い。
だから。

「どろろ。ソース焦げてきた」
「ぎゃーっ!あにき!しっかり混ぜてくれよ!」

触れる手の暖かさは、あの頃と同じ。
かかる吐息も、あの頃と同じ。
百鬼丸を見る眼差しは、あの頃よりもずっと柔らかい。
それは子どもが一人で生き伸びるには酷なあの時代の現実を覚えていないから。

トントントンと、包丁の音が響いて。
野菜を炒めると香りが家中に広がる。
部屋を赤く染めていた太陽は次第に姿を隠し、影が濃くなり始める。
さらさらと風が梳くカーテンの音に混ざって、道を行き交う人の声が小さく入り込んでくる。
心地の良い空間。
隣を見下ろせば、どろろがマカロニを茹で始め、百鬼丸は牛乳を混ぜたホワイトソースをぐるぐる鍋の中で掻き混ぜている。
「俺は。どろろの傍にいる」
「ん?何か言ったか?あにき」
「何も」
どろろが言っていた、誰かと歩いていたとは、きっと、みおのこと。
学校ですれ違った際に聞こえた声が懐かしくて。
心地よくて。
あの頃は何を話しているのか、聞こえてはいても理解できなかった。
それでも、あの声に百鬼丸は確かに救われていて。
どんな少女だったのだろうか。と、話しかけてみた。
綺麗な少女だった。
今は幸せそうで、――少しだけ己を許せた気がした。

「どろろが幸せであればそれでいい――」

沢山の感情を。
沢山の人として生きる術を。
沢山の繋がりを。
沢山の愛情を。
どろろは与えてくれた。
だから。
どろろが幸せになるのなら。
どろろを幸せにするのが――己でなくてもいい。
執着して、その執着を受け入れてくれて、どろろは過去、百鬼丸の傍にいてくれた。
生を終えるその日まで。
だから、今度は、どろろの幸せの在処が百鬼丸でないというのなら、それでいい。
きっと――受け入れられる。

「あにきっ!」

その笑顔を向けられるのが、いつか百鬼丸でなくなっても――。

「おいらさ!あにきと出会ってから毎日幸せなんだっ!」

2022.04.09