■きのうときょうとあしたと・16■
夜が更けるに連れて、祭りは段々収束に向かっていく。
屋台も幾つか片付け始めていた。
一緒に歩いていた友人たちは既に帰り、千尋は何となくまだ神社に残っていた。
心配そうに自分を案じていたこの神社を紹介してくれた彼も千尋一人を置いていくのに戸惑っていたが、渋々と帰っていった。
どうやら四人は近くの居酒屋で飲み直すらしい。千尋も帰り際に時間があれば電話してくれと誘われた。
さっきまでの楽しかった思い出に、千尋はふふっと笑う。
「千尋さん。良かった。まだいたんだ」
思い出し笑いをしながら歩く千尋に、背中から声が掛かる。
忘れられない声。
振り返ると、琥珀がこちらを見て嬉しそうに微笑んだ。
「あ。何となく、名残惜しくて」
「そうか。私も今やっと一段楽して社務所に戻るところなんだ。もし良ければ少し歩かないか?」
「……はい」
何となく、嫌だとは言えなくて千尋は頷く。それに千尋には琥珀に言わなければならない事もあった。その為に意を決して来たのだ。
けれど、何故か、心の奥では小さな予感がしていた。
付いて行ってはきっと後悔する。と。
それでも、千尋はその感覚を振り切り、琥珀の横に並んで歩く。
「千尋さん、元気そうで良かった」
「お陰さまで」
「今日誘ったのは私だけど、まだ早いかと思ってもいて、少し心配していたんだ」
「……私の方こそごめんなさい。ずっと琥珀さんの優しさに甘えきってしまっていて。あの日、言われてからその事に気がついて、ずっと謝りたかったんです」
その言葉を受けて、琥珀は少し目を見開く。
「私が琥珀さんを誰かの代わりに見ていた事。自分でも違うって分かっていたはずなのに、勝手に思い込んで琥珀さんを付き合せていた。琥珀さん自身とお話していなかった。琥珀さんは琥珀さんなのに。私本当に失礼な事した。ごめんなさい」
千尋は琥珀に向き合うと、深く頭を下げる。
「……うん。それで良いと選んだのは私だから。千尋さんの心の傷がそれで癒えるのなら良いと思ったのは私だから」
「傷…?」
呟く琥珀に、千尋は顔を上げ、不思議そうに首を傾げる。
「千尋さんは傷ついていたのだろう?その私に似ている誰かの為に。だから、あれほど泣いていたのだろう?」
千尋は呆然とした。
そんな彼女に彼は言葉を続ける。
「本当の事を言うと、千尋さんと一緒にいるのは心地が良かった。私を誰かに重ねていると分かっていても。私が言い出す事で千尋さんがもうここへ近付かなくなるだろう事も分かっていた。それでも、--私は千尋さんに、速見琥珀として、その瞳に映して欲しかった」
そう言って、琥珀は千尋の瞳を真っ直ぐに見据える。
「私のつまらない欲の為に、千尋さんの幸せな時間を壊した。まだ時間が必要だと言うのは分かっていたのに。謝るのは私の方だ」
琥珀の瞳の中に映る千尋。
咄嗟に千尋は背筋が粟立ち、千尋は耳を塞ぐ。
「千尋さん?」
「ごめんなさいっ!それ以上聞きたくない!」
琥珀は一瞬怯み、そして、もう一度千尋を見据えると、耳を塞いでいる千尋の両手を掴む。
「それでも、聞いて欲しい」
「やだっ!」
「私は、千尋さんを愛している」
「そろそろ決めなくちゃいけない」
声が聞こえる。
どんなに抵抗したって、私はこの世界で生きていかなくちゃいけないのだ。
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■きのうときょうとあしたと・17■
千尋は走った。
鼻緒が指の間に食い込み、擦れ、皮膚が破けて血が流れようとも。
慣れない浴衣で走り、前身ごろが緩み、足元が肌蹴ても気に留める事無く、一心に走った。
無我夢中で電車に乗り、自宅のある駅で降りて、そして、森に向かって走る。
赤いモルタルの柱で作られたトンネルのその向こうに向かって。
最初からこうしていればよかったのだ。
ハクとの約束を待ち続けるのじゃなく、ハクに自分から会いに行けば良かったのだ。
そうすれば、こんなにも苦しい気持ちになることなんて無かった。
『千尋さんの心の傷がそれで癒えるのなら良いと思ったのは私だから』
あんな事を言われることなんて無かった。
傷だなんて思った事一度だって無い。
忘れない事がハクと千尋を結ぶたった一つの絆だと思っていた。
それを傍から見ればそんな風に思われるなんて思ってもみなかった。
初めて自分の気持ちを理解してくれる人かもしれないと思っていたのに。
『私は、千尋さんを愛している』
ハクと同じ声で、ハクと同じ顔で、そんな言葉を言って欲しくなかった。
いつだって、望んでいたのは、
ハクからの言葉。
神様の家が並ぶ道を抜けて、その奥の深い森を駆け抜ける。
既に浴衣はぼろぼろになって無造作に生えた草木が露出した千尋の肌を傷付ける。
それでも千尋は構わず、ただ一直線に向かった。
目の前に現れる、赤いモルタルの柱。
何かの顔に彫られた不思議な岩。
千尋は一歩踏み出した。
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■きのうときょうとあしたと・18■
私にとって、あの日の出来事は過去ではありませんでした。
今も私の中で息づいていて。
あの時交わした約束は、私が生きていく一番の糧でした。
例え、約束が叶わなくても、
私たちの絆が切れる事は無く、其々の場所で一生懸命生きていける。
そう思っていました。
その気持ちは今でも嘘じゃありません。
けれど、それは理性で考えた結論で、大人になるに連れて、私は自分に言い聞かせるようになっていた。
本当は会いたかったのです。
油屋の皆に。
ハクに。
「きっと、いつか…」
あの約束は決して私を元の世界に帰らせる為の言葉じゃない事を信じてきました。
それでも、やっぱり私はハクに会いたいんです。
油屋に帰りたいんです。
もう一度だけでもいい、私は、皆に、ハクに会いたい。
私がいたい場所はあの街なんです。
私が一緒に居たいのはハクだけなんです。
ずっと入る事を戸惑っていたトンネル。
トンネルの前の石は、いつもは何も彫られていないただの石だった。
それが、今日は顔が彫られている。
いつかの、あの日のように。
千尋は一歩踏み出した。
「千尋っ!」
私を呼ぶ声は、
誰?
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■きのうときょうとあしたと・19■
振り返ると、そこには今抜けてきたばかりの森で、誰もいない。
けれど、確かに声は聞いた。
左右見渡すけれど、誰もいない。
気のせいだったのだ。
そう思って、もう一度千尋はトンネルに向かって、歩き出す。
「千尋っ!」
今度は近くで聞こえた。
そう思うと同時に、千尋の足元から風が巻き上がる。
次の瞬間、千尋の腰に腕が回り、背後から抱き締められた。
「!」
ほっと零れる息が首筋に掛かる。
千尋が恐る恐る振り返ると、さらりと零れてくる長い髪。
声の主と目が合うと、千尋は瞬く。
そして大粒の涙を零した。
「……ハク」
呟く言葉に、名を呼ばれた青年は深い深緑の虹彩を持つ目を細めると、嬉しそうに微笑んだ。
「……?」
けれど、名を呼んだ千尋の何処か戸惑う様子に、青年は苦笑すると、千尋から手を離し、姿を変える。
白い竜の姿に。
あの頃よりもずっと大きくなった成竜の姿に。
それを見て、改めて安心したように、千尋は笑顔を浮かべると、竜姿のハクに抱きつく。
「ハクだっ!ハクっ!ハクっ!」
竜はもう一度目を細めると、千尋に抱きつかれたまま、姿を再度人間に変えた。
「千尋。久し振りだね…。そして…まさか私から逃げて、ここまで駆けてくるとは思わなかった」
くすりと笑うハクに、千尋は目を丸くする。
「私、逃げてないよ」
「逃げたよ」
そう言って、悪戯っぽい目をして、ハクは告げた。
「私の愛の告白から逃げたじゃないか」
千尋は今度こそ、目が零れそうなほど大きく開き、瞬いた。
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■きのうときょうとあしたと・20■
「……だって、琥珀さんと、ハクは…」
「うん。違うと思っているだろうけど、どちらも私だよ。千尋は気付いてくれたじゃないか」
「だって、琥珀さんはハクじゃなくて、ハクは琥珀さんじゃないよねっ!」
「どちらも私だよ」
にっこり笑って答えるハクに、千尋は訳が分からず戸惑うばかり。
ハクはそんな千尋の様子に、苦笑すると、まず既に役を果たしていなかった浴衣を簡単に着付け直してやる。
千尋も今更そのことに気がつき、慌てて胸元を押さえた。
折角の再会なのに、まさかこんな再会の仕方は想定外だった。
神社からトンネルの前まで無我夢中で走ってきたので、その道のりは全くと言っていいほど覚えていない。
しかし改めて自分の姿を見れば、胸元は緩み、足元に至っては全力で走ってきた為に少しでも身動きをすれば太ももが見える程に肌蹴ている。そして石や草の多い道を越えてきた為、膝下には草で切った擦り傷や石にぶつかった事によって出来た痣、慣れない草履には親指と人差し指の間を擦れた鼻緒に血がこびり付いており、足の裏に出来た血豆が破けジンジンと千尋を刺激していた。
ハクは何処か憂いた表情で彼女を見つめ、そして彼女の手を引くと、トンネルの中に入っていく。
「え。ハク。いいのっ!?入っちゃっていいの!?」
戸惑う千尋に、ハクは安心させるようににっこりと微笑むと答える。
「私がいるから大丈夫だよ」
ずっと千尋が通りたかった道。
どうしても通る事が出来なかった道。
そこを再会したばかりのハクと一緒に通る。
千尋には分からない事だらけだった。
「まさか千尋が自分からもう一度このトンネルを潜ろうとするとは思わなかった」
そう呟くハクの表情は何処か嬉しそうだった。
途中踊り場のような場所に出ると、どういう仕組みなのかハクが何かをしたのかは分からないが設置された灯篭に火が灯され、ハクの手の温もりだけが頼りだった真っ暗だった視界が開けた。
そこは待合室のような場所で、一つのベンチが置かれていた。
そう言えば以前トンネルを潜った時にもあったかもしれない。そんな事を思っていると、ハクにそこに座るように促される。
千尋は促されるまま座ると、ハクは椅子に座らず彼女の前に跪くような形で屈み、彼女の履いていた草履を脱がせると、両方の足先を手に取った。
「全く、無理をするのだから」
そう呟くと、ハクの手元から緩やかな風が生まれる。
千尋が暖かい息吹が自分の中に一瞬にして駆け巡るのを感じると、次の瞬間には己の足から傷や痣は消えていた。
「!」
「もう痛くはない?」
掛けられる言葉の柔らかさ。
その奥に隠れる彼の心の温もり。
向けられる穏やかな眼差し。
千尋の瞳からぼろぼろと涙が零れて止まらなかった。
自然と嗚咽も零れる。
ハクの少年の面影は消えすっかり男の人の手になった指先が彼女の頬を伝う涙を拭う。
「…ハク……ハク…」
千尋は何度も名を呼ぶ。
「千尋」
ハクは包み込むように優しい声色で縋り付く様に己の名を呼ぶ少女の尚呼ぶ。
再会したらもっとこうしようという思いはあった。
けれど出会ってみたら、実際は言葉なんか一つも役に立たず、溢れ出す想いをどう伝えればよいのかなんか分からなかった。
笑って彼を迎えよう。
そう思っていた筈なのに、体は心は簡単に千尋自身を裏切る。
ただ、ハクが傍にいる。
ハクに傍にいて欲しい。
それだけが今彼女の心を占める全てだった。
あんなにも、
「決めなくちゃいけない」、
「ハクがいなくても生きていく。それでも後悔は無い」、
そんな風に思っていた筈なのに、
自分の心はこんなにも正直だった。
私はハクと一緒に生きていきたい。