油屋の営業もその日一日も何事も無く無事終了し、周囲の景色が暗い中でひときわ明るく輝いていた湯屋の火が落ちる。
しんと夜の空気に触れ、冷たくなった廊下。
生き物の存在を、生き物の熱気を感じさせなくなっただけで。あっという間に冷たい空気が広がる。
赤の塗装や金箔が柱に塗られた豪華なお客さま用の廊下を抜け、木目の見える飾り気の無い廊下に変わり、お客様の目には決して触れないであろう従業員用の部屋が続く廊下の奥の外れの一角が女部屋となっていた。
その従業員用の部屋のひとつに、千尋は、お客様用布団とは違い、薄く綿も潰れ、暖を取るというその役目もすでに果たしていない、冷たい布団に包まって眠りについていた。
しかし実際には、ハクとのあのやり取りの後、彼の表情が気になって、仕事には身が入らず、こうして布団に包まっていても、眠るどころか目は冴えていくばかりだった。
彼を思うと苦しいのだ。
最近の彼は、千尋に冷たい。
いや、冷たいというのは語弊がある。彼は優しい。普段通り。彼女にだけ。
うまく表現することが難しいのだが、ハクの言葉が固いのだ。
言葉の中に常に戸惑いが混ざっているのだ。
千尋はリンに「ハクは私と会うと機嫌が悪くなる」と言った。
けれど実際、千尋に対して何か怒っている訳ではないのだ。
言葉にするとすれば、彼は自分自身に苛立っているのだ。
千尋を見、彼女に触れる、彼はその一つ一つの行動に、言葉に戸惑いを見せる。
何がそんなに辛いのだろう。
ハクが何かに苦しんでいることは、見ていれば分かる。
しかも、千尋のことで、彼はおそらく苦しんでいるのだ。
暫く布団の中でじっとしていたが、やがて何かを決意したように、千尋は布団を上げると、枕元に置いていた水干を着、眠っている他の湯女たちを起こさない様、そっと部屋を抜け出した。
何が理由か分からない。
どうして辛いのか分からない。
でも。ハクにはーーーーー。自分の側では笑っていて欲しい。
彼女が来るまでは仕事の時も、休憩時も変わらず厳しい表情をしていて、笑ったことを見たことが無かった。だから彼女が従業員として働きに来るようになってから、ハクが笑うようになったのを見て、彼にもそんな顔を見せることがあるのだ、もっと言えば感情があったのだと驚かされたと、様々な従業員たちから千尋は聞かされていた。
彼女にはそれが最初信じられなかった。
初めて出会ったときから、自分を励まし、優しくしてくれ、そして笑ってみせてくれたから。
『自分にだけ』。
それは少しだけ優越感を感じてもいいのだろうか。うぬぼれてもいいのだろうか。
自分だけは彼の中で特別なのだと感じてもいいのだろうか。
しかしそれを本人に確認する勇気は彼女の中には無く、ただ時折思い出したようにその感情が湧き上がり、考えると胸の中が熱くなることが何回か彼女にはあった。
もし。本当に。
自分の側にいる時だけ、そんな顔を見せてくれるのなら。
笑顔を見せてくれる。つまり幸せを感じてくれているのなら。
心の癒しになっているのだったら。
ーーーーーーーーー自分の側だけでもいい。笑っていて欲しい。
自分が原因なら。
自分が今のハクを辛くさせている原因になっているのなら。
私に何かできるはずだ。
ハクが好きだから。
ハクが好きだから。