『ハク様の機嫌が悪い』
そんな噂が油屋中に広まっていた。
元々仕事には余念が無く、細かいところまで気配りが行き届く、裏を返せば、細かいひとであったから、ちょっとしたミスですぐに小言を食らうものは多かったのだが、ここ数日の間に、その被害者の数は通常の倍以上に膨れ上がっていた。
細かすぎる気配りが最近のハクには目立つ。
言い換えれば、目ざとい。
千尋が油屋で働くようになってからは、決して手を抜いているわけではないが、今までのようにミスを起こした者の言い分を聞かずに、ただ一方的に叱りつけるのではなく、何が原因で何処が悪く、どう改善していけばいいといった様な指導的をするような、柔軟な態度を見せていただけに、千尋が現れるより前以上の厳しさを見せる彼の豹変振りに、実際従業員たちは一同壁々していた。
ハクの不機嫌さが従業員まで伝わり、油屋全体が常に張り詰めた空気を持つようになってしまっていた。
せめてお客様にはそんな空気を感じさせず、いつも通り湯屋での休暇を楽しんで頂けるよう配慮するのが今の従業員たちの一番の苦労だった。
「っだー!やってらんねぇ!何なんだよ最近のこの空気!重いったらありゃしねぇ!」
浴場に向かう途中、デッキブラシを担ぎながら、リンは鬱憤を大声を出して解消させようとするかのように喚く。
「・・・どうしたんだろうね。ハク・・」
「知るかよ。あんな不機嫌大王のことなんか」
千尋の白を気遣う呟きにリンはあっさりと返答する。
今まで自分の感情を一切持ち込まず、まるで機械のように淡々と仕事をこなしてきたあのハクが、何が理由か分からないが、自分の感情を持て余し、夫役や兄役にぶつけているという噂が聞こえてきた時は、あの彼にもそんな生き物らしい行動を取る事があったのかと、ある意味感銘を受けていたりもしたリンだったが、日に日に被害は拡大していき、今や油屋全体、自分にまで及んでくると、呑気にそんなことも言えなくなってしまっていた。
「お前がさぁ。こう、ちゅーとか何でも喜ぶことでもしてやれよ。そしたら絶対一気に機嫌直すから」
「な、何言ってるの!?リンさん!!」
リンの爆弾発言に、千尋は顔を真っ赤にして言い返す。
「あーーー?効くと思うんだけどなぁ」
にやにやと笑いながら言葉を続けるリンに、千尋はやっと自分が遊ばれていることに気づく。
けれど、急に上がった熱は冷めず、声が出ないまま。ぽかぽかと彼女の腕を叩くことでささやかな反撃をする。
「お前ってホント~からかい甲斐があるよなぁ」
「むーーーーっ」
「お、・・やべっ・・・ハク様」
リンの言葉にぴたっと彼女の腕を叩く千尋の手が止まる。
千尋は、まだ少し彼女より背の高いリンを見上げると、しかめっ面したリンの視線からその先を追う。
「・・ハク・・様」
ぱぁっとハクに逢えたことの喜びが胸に湧き上がってくる反面、氷点下まで一気に気温を下げるかのように冷たい空気を放つ不機嫌極まり無いハクが目の前に立っておりーーーーーー怯えてしまった。
その彼が口を開こうとする。
「・・・・・」
怒られる!
瞬間、リンと千尋の二人は悟り、とっさに身構え、首をすくめる。
噂には聞いている。
それだけに仕事中に喋っていたというだけで、どれだけ叱られるのか。想像もつかないまま、二人は覚悟した。
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しかしいくら待てど、お怒りの言葉は降ってこず、やがて首をすくめている自分たちが馬鹿のように思い始め、そろりと目を開け、未だ目の前に立つ上司に目を向けると、無表情のまま、じっとただ見つめてくるハクの姿がそこにはあった。
いや、違う。
傷ついている?
とっさに千尋はそう感じた。
けれど。
何に傷ついている?
それが分からなかった。
結局彼は、無言のまま二人の横を通り過ぎると、何処かへ行ってしまった。
「何だ?あいつ」
呆然としたまま、ハクの後姿を見守る二人。
「・・・やっぱ私じゃ駄目だよ。リンさん・・・」
千尋はハクの後姿を見つめながら、ぼそっと呟く。
「あ?」
「最近ね。私と会うたびに、不機嫌になるの」