夜も更け、従業員たちが部屋でそれぞれの時間を過ごす頃、ハクはいつもの通り、廊下を歩き、いつもの場所へ向かう。
千尋に会いに行くのだ。
この油屋で働くものに与えられたほんの僅かな自由の時間。けれど、実際にはハクは営業が終わってからの仕事の方が多い。本日の決算及び、翌日の日程管理、仕入れ先・在庫確認、従業員配分、その他山のような仕事が彼を待っているのだ。
しかし、千尋が休息を取り、堂々と自由な行動を取る事ができるのはこの時間だけ。
だから無理をしてでも、最初から足りないと分かっている時間を割いてでも、彼女に会いに行く。
元々会いたいと彼女に会いたいと思う気持ちは常に彼の中にあったが、最近は心の中の基本的な欲求のひとつかのように、彼女に会うことを求めている。
ハクは苦笑する。
随分と私も我儘になったものだ、と。
何かをしたいと強く願う事も、何かを欲しがる事も無かった。
己の意思を殺す事さえも、簡単にやっていた私が、たった一人の少女を求める事だけは止められない。
そんな自分を嘲りはしない。喜ばしく思う自分に、自然と笑みがこぼれた。
廊下を曲がると、千尋とリンが二人廊下に出て、夜風に当たりながら眼下に広がる草原を眺めていた。
互いに他愛も無い話をしているのだろう、千尋は笑顔でリンに話しかけている。
一歩ずつ近づくたびに、はやる胸が高鳴る。
彼女はすぐに自分に気づいてくれるだろうか。
彼に気づいていつものように、笑顔を向け、名を呼んでくれるだろうか。
いつもと同じことなのに、いつも鼓動が早鳴る。
いつも異なる音で。
その瞬間まで。
ハクは喜びで胸が高鳴るのを感じながら、千尋に声をかけようと口を開く。
「・・・・・でね。高野君、いつも意地悪してくるんだよ!」
「・・・・おまえさぁ・・にぶいね。それは千に惚れてるんだよ」
「へぇっ!?」
リンの指摘に、千尋が素っ頓狂な声を上げる。
「そんなことないよ!だって、すーーーーっごく意地悪な事ばかりしてくるんだよ!止めてって言っても止めてくれないし!平気で背中とかばんばん叩いてくるし!」
「ばっかだなぁ。好きな女苛めるのは男のよくあるパターンだろ」
「えーーーーー!?」
嫌そうに口をへの形に曲げながら、リンに知らされる事実に、それだけでなく困惑しているような、恥ずかしがるような部分も混ざりながら、千尋は声を上げる。
ハクはそれ以上会話を聞いていることができず、その場を離れた。
今日はもう千尋に会えない。
おそらく、会ってもーーーーーーーー彼女を脅えさせてしまうだろう。
思って、ハクは拳を作る。
何がどうをというのは彼にも分からない。
しかし、突然湧き上がった、この荒ぶる心を彼女にぶつけてしまうだろう。
それだけはしたくなかったし。彼女にそんな自分の姿を見せたくなかった。
千尋と会話をしている者を見て、その者に嫉妬していたという事は認める。
自分の側にもっといて欲しいと望んでいた事は認める。
けれど、千尋は千尋。何処までいっても他人であって、ハクではない。
ハクが見ている世界の全てを千尋が共有しているわけではない。
千尋が見ている世界の全てをハクが共有しているわけではない。
分かっている。
そんなことは分かっているのだ。
----------息が詰まりそうだ。
新たに生まれる胸の痛みと、
心の痛みに、ハクはただ腕を抱え、
抑えるしかなかった。
2003.02.19