宴会が次々に終了し、客は一人また一人と自室へと引き始め、その後の片付けもある程度が終わりを向かえ、湯屋が一日の業務を終わろうとしていた。
夜の務めのある大湯女以外の者たちはそれぞれの仕事を終えると、一日のほんの僅かな自由時間を楽しむ為、ぱらぱらと部屋に戻り始めていた。
千尋とリンも仕事を終えると、ほっと一息を落とし、他愛も無い話をしながら湯女部屋へ戻る途中だった。
通り過がりに人影を見つける。
そこは恋する故の目敏さか、今は出来れば会う事を避けたかった自分の想い人の姿に千尋の鼓動は一つ高鳴った。
「千尋。時間空いているかな?」
優しい笑みと、逢瀬の誘いの言葉。
千尋は自分がその笑顔に弱い事を自覚しながら、誘いを断りたいという理性が拮抗し、びくりと肩を震わせる。
逃げてはいけない事は分かっている。
ハクを不快にさせるだけだという事も分かっている。
ちゃんと話し合わなければいけない事は十分に承知している。
ただ、まだ心の準備が出来ていないのだ。
ハクと二人になる事に。
いつまでも静止したまま動かない少女に、苛立ちを感じたのか、ハクは表情を少しだけ曇らせ、眉間に皺を寄せると、ズカズカと彼女の前へ近付いた。
間合いが狭まる事に怯えながらも、千尋は動けなかった。
ハクは彼女の細くて白い腕を掴むと、手を引き、歩き出す。
彼が彼女の腕を掴む瞬間、千尋が肩を震わせているのを見逃さなかった。
それがまた彼の中に黒い靄のような感情と同時に悲しみが襲ってくる。
「あ…あのっ!」
ずんずんと真っ直ぐ歩きながらも視界の端で千尋が腕を上下させてリンに助けを求めているのが目に入る。
「リンが一緒でなければ千尋は私と話してくれないの?私は千尋にとって恐怖の対象?」
彼女が何かに戸惑っているのは分かっていた。
ハクと二人で会う時に、千尋が何かを感じている為違和感が生まれてきている事は理解している。
彼女が落ち着くまで待とうと思っていた。
何に戸惑っているのか分からないけれど、相談されないという事は一人で解決したいと思っていると、彼女自身もしかしたらその自身の中にある戸惑いを掴みきれていないのではないかと感じたから。
無理やり聞いて、彼女を傷つける事はしたくない。千尋が好きだから。
ずるい問いかけだという事は分かっていた。
案の定、千尋はハクの言葉に目を丸くすると、とても傷付いた表情を見せて肩を落すと、彼の為すがままに手を引かれている。
恐らくハクを傷つけてしまったと想っているのだろう。
そんな表情はさせたくなかったのに、と思いながらも、ハクは自分の中に疼く感情に従っていた。
彼の部屋に辿り着くと、俯いたままの千尋に中に入るように促す。
二人の間に流れるのは重い空気。
はぁっとハクは溜息を一つ吐く。
こんな思いでいる為に、二人になった訳ではないのに。
少し前までは俯いていた彼女でも、もう少し感情を伺える事が出来た。
背の高さが千尋の方が少し高かったから。
泣きそうなのか、それと照れているのか。その微かに見せる表情から見ることが出来た。
今、ハクが彼女の感情を伺う事が出来るのは、俯く千尋の後頭部、そして落とした肩。
あまりにも情報が乏しい。
体が成長した事によって、逆に彼女の感情を読み取れなくなってしまった。
彼女を包み込めるくらい、守れるくらい、成長できるよう望んだのはハク自身だけれども、この体が千尋にとっての脅威でしかなく、彼女の心を察する事が困難になると言うのなら、ハクは今何よりもこの姿が疎ましかった。
望んでいた形、理想はもっと違っていたはずなのに。
「千尋は…私のこの姿が嫌い?」
苦渋の想いを抱きながらハクが問うと、千尋は彼にとって想定外の反応を示した。
とても不思議そうな顔をして、顔を上げたのだ。
「どうして姿の事を聞くの?」
ハクの問い掛けは千尋にとって余程意外だったらしい。
きょとんとしてまだ仄かに頬を染めたままハクを見上げた。
「…千尋は…私のこの姿が嫌になって、私から離れてしまったのではないのか?」
「どうして?ハクはどんな姿でもハクよ。びっくりはしたけど、ハクだもん」
ハクが思い悩んでいた靄を一蹴する答えを千尋は迷いも無くすらすらと答える。
あまりにも嬉しい答えをもらえて、思わずハクも頬を染めてしまった。
「…では…どうして……?」
そう問い掛けると、千尋は再び俯いてしまった。
「…千尋…」
まるで子どもをあやす様に、宥める様に、嬉しい答えをくれた少女に万感の想いを込めて名を呼ぶ。
触れる指先から千尋の体温が上がっていくのを感じた。
その温もりが心地よくて、しばしその温かさに心を奪われていると、千尋は顔を上げ、真っ赤な顔のまま叫んだ。
「ハクってばずるい!」
大好きなハクが己の名を呼ぶ声。
聞く度に体中の熱が沸騰して溶けそうになってしまう。彼女に対しての最終兵器になるこの声を聞いてしまうと、千尋は何も考えられずハクに流されてしまう。
彼女の中に、それまでに彼を想う事で悲しかった事も辛かった事も怒っていた事も全て吹き飛ばされて、『ハクが好き』だけになってしまう強力兵器。
千尋が何も伝えないから使うのだ。彼は。きっと千尋が弱い事を知っていて。
だから彼女はせめてもの抵抗に叫んでしまった。
当の本人はそんな事は無意識の内で、千尋がそんな感情を抱いているとは露とも知らず、突然怒り出す千尋に呆然とした。
「私はずるいの?」
寧ろずるいのは千尋の方だろう。
彼は千尋が己の事をどう思っているのか、どう感じて避けているのか、彼女が何を考えているのか、常に心をざわつかせているのに、当の千尋は何一つ答えを与えてはくれない。
抱き締めても抱き返してくれる訳でもなく、己から触れる事はあっても、千尋から触れてくれる事はない。彼女が自分に触れる時に見せる仕草や表情で、決して嫌がっている事は無く、喜んでくれている事は感じるけれど、確信付ける千尋からの行動は無い。
「…ハク…大きい姿になってから…全然違うんだもの…」
か細い声で千尋はそれだけをやっと言う。
ハクは彼女の言葉を促しながら、無言で首を傾けた。
「…優しいんだもん…」
「それは千尋を愛しいと思うから…」
「そんなんじゃないの!」
ハクの言葉を遮り、顔を真っ赤にして瞳を潤ませたまま千尋は首を横に振ると、ばっと彼を見上げる。
「…だって…ハク、気付いてないの?…前よりすっごく…ずっと優しい…」
千尋に触れてくる時、声をかけてくる時、その一挙一動が全て優しい空気を纏わせている。
触れる時、自分の思いの丈をぶつけるように触れるのではなく、千尋に許されているか、千尋も望んでいるか、確認するように触れてくる。
かける言葉は常に声の端に柔らかさを帯び、彼女の心を掬い上げる様に優しい言葉をかけてくれる。
彼女が喜ぶよう、己の声や言葉や仕草で千尋を幸せに出来るよう。
その一つ一つが余韻を帯び、千尋の胸の奥に柔らかな熱を残す。
彼のそうした行動をどう受け止めてよいのかも、どう返せばよいのかも分からず、自分も彼から与えてもらうような熱をあげたいと思うのに、己の未熟さや恥ずかしさ、嬉しさやらが混ざって、何かをする前に固まってしまう。
そうした彼の行動が彼の体が成長した後から、より一段と現れるようになり、それでいて、大切なひととしてだけではなく、女の子として扱われている事にも気が付いて、自分が彼にとってそういった対象であるのは理解していても受け止めきれず、また全てが彼の無意識の行動であるようであるのが耐え切れず、千尋は及び腰になってしまうのだ。
「千尋が好きだから…。愛しいと思うから、触れたいと思うし、優しくしたいと思う。そんな私では駄目だろうか…」
そう言って柔らかな千尋の髪を一房掬うと、流れるように梳く。
そんな他愛も無い行動に千尋は涙が出るほど嬉しくなる。けれど自分の中から溢れ出すその想いをどう受け止めたらよいのか分からない。
胸の高鳴りを抑えるのが精一杯で。
耳が痛くなる程の振動を受け止める事が精一杯で。
「…ごめんなさい。ハクの事…大好き…だけどね…どうしたら良いのか分からないの。好きなんだよ。でもね…」
あまりも小さな器の自分に、悔しさと苛立ちでぽつりと千尋は涙を零す。
まだ未熟だから、子どもだから、ハクのさり気無い優しさや好きだと想ってしてくれる行動を受け止めきれない。
そんな自分が情けなくて、悲しくて、千尋は俯いてしまう。
「…震えてもいいから。…受け止め切れなくてもいいから…ゆっくりで良いから…私から逃げないで…」
自分が触れると間を空けるように逃げるくせに、リンには抱きつく千尋を不快に思った。
自分には許されていない事が、他人に許されている事に苛立った。
そんな想いが無意識の内に千尋を無理やり攫うという行動に現れてしまった。
「…うん…」
千尋は小さく頷くと、伸ばされたハクの腕にそのまま引かれ、彼の胸に頬を当てた。
彼女はまだ彼の深い想いを全て受け止めてくれる事ができないだけ。
けれど、千尋はハクを見つめてくれている。
その答えだけで十分。
「…私がこの姿でも良いんだね…」
「うん…。ハク大好き…」
触れる頬が彼の胸の位置である事に千尋はふと、今まで抱き締められた時は彼の肩に当たる位置に頬を寄せていたなと思い出す。
大きく彼女の背中を包み込む腕は、少し前までは余裕の無かったものが、ゆったりと抱き締められている。
彼の長い髪が頬を擽り、くすぐったい。
トクン。
千尋は小さく鼓動を鳴らし、頬を染めた。
終
2012.09.09