千尋はただひたすら走り続けた。
青い青い空の下。
何処へなんて分からない。
ただ向えばいい。
そこへ。
心が、体が、知っている。
それは何日も前から感じていた。
日毎に高鳴っていく胸。
体中が喜びに満ちて、落ち着かなくなる。
そして今日。
走る。
何処かへ。
ただ、その場所へ-----。
サヤサヤと青く茂った木々が揺れる。
何かを祝うように。
風はくるくると踊り、森は歌を歌う。
そして、青く透き通った麗流は、光を全身に浴び、その体をキラキラと反射させる。
まるで、竜の鱗のように-----。
森全体が、何かを歓迎するように。
全てが生まれ変わったかのように、新鮮な世界を生み出す。
その中に聞こえてくる足音。
ただひたすら、真っ直ぐに、一点に向って走ってくる足音。
呼吸もままならないのだろう、息を切らし、それでも、足音は止まることなく、向ってくる。
そして-------足音が止まる。
「-------ハク」
「-------千尋」
千尋は満面の笑みを浮かべ、出会った時よりも、少し、大きくなった少年を見上げる。 ハクは喜びの中にも戸惑いを隠せず、笑顔の中に複雑な表情を見せる。
「・・・千尋。何故ここが?もう少し落ち着いてから、会いに行こうと思っていたのだけれど」
「・・来ちゃった・・。ハクが来るの感じたの。ここにいるって。体が勝手に動いたの。どうしてか分からないけど、分かったの」
ハクの体がとっさに動いた。
彼の行動ではない------彼の体が、心が、勝手に反応した。
『千尋を抱きしめたい』と。
千尋が愛しい。大切だ。
それは、もうあの時、出会った瞬間から変わることは無い。
ただ-----共に生きる。
その心のかたちは変わった。
彼は、再び川の主になった。竜神に。
千尋に再会するために、この世界に戻ってきた。
彼が竜であり、神であることは変わらない。変えることはできない。
彼はそう生まれてきたのだから。
生きているのだから。
だから、彼は彼のまま、彼として、千尋と再会することを決めた。
湯婆婆が言っていた言葉を思い出す。
『どんなに人間として振る舞い、人間と同じように暮らし、人間と共に暮らしても、所詮はは、人間の真似事に過ぎないということさ。お前が
人間になれることはない』
彼はあの時、本気で、人間の真似事だとしても、人間になれないとしても、共に生きることができれば、千尋と共に存在ことができれば、構わないと思っていた。
あのままで、千尋の元へ行っていたら、きっと2人は不幸になっていただろう。
ハクは側にいる千尋を守ろうとし、守ることで、決して彼女を自らの側から放すことは無く、結果として彼女を縛り続け、彼女の未来を潰していただろう。
そして自分の未来さえも。
あの頃のハクには、千尋しか見えなかった。
千尋さえ側にいてくれれば、千尋の側にさえいれれば、共に生きることができると思った。
互いだけを、必要としあう。
たったひとり。唯一のひと。
それは幸福かもしれない。
けれどハクは、そんなこと望んでいない。
共に生きる。
自分の可能性を、千尋の可能性を、広げ、互いに存在べき場所で、自分らしく、ありのまま生きる。
それを共に生きるということではないだろうか。
ハクは千尋と、支え合いながら、共に生きたかった。
だから、すぐにでも叶えられた再会を望まなかった。
若いから見えなかったこと。
若いからこそ成し得たこと。
そして、ふたりは出会えた。
嬉しかった。
千尋はハクを感じていた。
ハクは千尋を感じていた。
共に生きてきた。
共に生きていきたい。
それは、神が望む、一人の人間の少女への願い。
千尋にしか、叶えられない願い。
『すぐ側にいて、一緒に生きていこう』
それが、銭婆の言っていた、恋愛感情と言うものなのかどうなのかは分からない。
けれど、束縛する気は無い。彼女を自分の側に置いて縛りつけるつもりは無い。
だから恋愛感情では無いのかもしれない。
ただ、望むなら。
あの時、口にしたかった言葉は。
『側にいたい。側にいて、神として、竜としてではなく、私として、私自身の力で千尋を幸せにしたい』
それを、恋愛感情と呼ぶのだろうか。
目が合って、一瞬でハクだと気が付いた。
千尋は、日に日に増してくる喜びは、彼のことだったのだと、出会った瞬間気づいた。
やはり、彼は『大切なひと』なのだと。
心だけじゃなくて、体中で、ハクのことを感じているのだと。
とても嬉しかった。
約束を守ってくれた。
それだけじゃないのだ。
草原で別れた時は、次にどのように再会するかなんて考えてもいなかった。
ただ、彼の言葉を信じ、『会える』とだけ信じていた。
けれど、元の世界に戻って、落ち着いて考えてみると、彼にはこちらの世界に戻ったとしても、帰る場所が無いことに気がついた。
彼は約束を破らない。
だから、彼は、自分の存在べき場所を無くして、存在場所を捨てて、ただ、身一つで自分のところへ来るのだろうと信じていた。
もしかしたら、自分の横で、人間として、一緒に笑って、一緒に泣いて、一緒に生きていってくれるのではないかと期待していた。
しかし彼が望んだのは、彼女のそんな予測でも期待でもどちらでもなかった。
彼は、竜として、神として、自分の存在べき場所を取り戻し、彼のまま、彼として、再会しようとしてくれていたのだ。
彼が彼のままで。
そう思うと、嬉しさがこみ上げてきて、仕方が無かった。
自分の横で人間として、一緒に暮らしてくれる方が、ずっと側にいることができて嬉しいはずなのに。幸せなはずなのに。
千尋はただ嬉しくてたまらなかった。
抱きしめられている。
ハクに抱きしめられている。
そのことに千尋は、胸の何処か奥がむずかゆくなった。
勢いのまま、自分も抱きついてしまっているけど、何だか不思議な気持ちになる。
落ち着かない。ハクなのに。
『どきどきしたり』、『胸がきゅーんとしたり』、『同じ男の子を目で追ったり』。
それが『好き』。
『好きな人』。
ハクは、出会った時より、背も高くなって、もっと綺麗になって、顔つきも大人っぽくなって-----前よりもっと、ずっと優しい笑顔を見せてくれる。
抱きしめている。
千尋を抱きしめている。
感情のままに抱きしめてしまったが、我に返ると、胸の奥が熱くなるようだった。
千尋も抱きしめ返してくれるから、拒まれてはいないと安心するけれど、それでも何故か落ち着かない。
『油屋』で彼女を助けた時は、もっとずっと触れていたくせに。
あの時とは違う言葉にできない感情がこみ上げてくる。
千尋は、あの時よりも、ずっと、顔つきが優しくなって、全身がふっくらして----変わらない笑顔を見せてくれる。
・・・・・トクン・・・・。
全身が熱くなって、お互いの顔が見られない。
鼓動を感じる。
いつもよりずっと早鳴る心臓。
手から、胸から、伝わってくる振動。
お互いに早く高鳴っていたから、自分だけじゃないのだと安心する。
これが『好き』なのか・・まだ分からないけど。
これが『恋愛感情』というのか・・まだ分からないけど。
それよりも前に。
何よりも前に。
出会ったら、一番初めに伝えようと思っていた言葉。
「おかえりなさい」
「ただいま」
2002.05.08