何が起こったのか一瞬分からなかった。
『坊の遊び相手をして欲しい』そうハクに頼まれ、彼と千尋は坊の部屋へ向かっていた。
ハクと会った事自体が久し振りに、彼の側にいるのに懐かしさを感じて。
頭の中はぐるぐると感情が渦を巻き、心臓はいつもの三倍高くそして早くなっていて、いつか千尋自身がパンクを起こしてそのまま破裂するのではないかというほど、全身が硬直し、自分の足で真っ直ぐ歩いているのかどうかも定かではなかった。
久し振りに会っただけなのに。
頭の中はいつもハクのことで一杯になって、いつも想っているのに。
今でもすぐにはっきりと思い浮かべる事ができるほど、考えているのに。
千尋の心の中にはいつもハクがいるのに。
空想や想像よりも。
やはり、今いるその実物には敵わないのだと、千尋は心の中で降参する。
「会うの久し振りだね」
それだけをやっと、高鳴る心臓の音で強張る唇を震わせ、零れる千尋の言葉に、ハクは「そうだね」と笑って返答を返してくれる。
それだけのことなのに。
たったそれだけのことなのに。
全身の熱が上昇して、それ以上言葉が出ず。
胸の奥がきゅんと苦しくなり、千尋は無意識に自分の胸元を押さえる。
ハクの笑顔には敵わないのだ。
会うことさえ拒否されているように、全く顔を合わせる事の無かった彼が。
また前のように笑いかけてくれる。
ハクの機嫌が直ったんだ。
また側にいてもいいのかな?
千尋の中で期待が膨らんで言ったが、彼はそれ以降話しかけてくれることは無かった。
触れてくる事さえも。
だったら勇気を出して、自分からもう一度その手を繋げば良いだけなのに、うまくできない。
触れてこない事で。
拒絶されているみたい。
そんなことを千尋は思う。
だから、千尋はそれ以上話しかけることができなかった。
あの時のこと、まだ気にしてるの?
だから、触ってくれないの?
笑ってくれないの?
側にいてくれないの?
あの時、どうしてあんなことをしたのか分からないけど。
ハクは何気なくしたことだと思ったんだけど。
違うの?
何も言ってくれないから。何も分からない。
私は。私のことーーーーー好きじゃなくても。
私が想っている好きとは違っても。
前みたいに戻れたらいいのに。
ハクの側にいたいのに。
だから、ハクがもし、あの時のことを気にしてるというのなら。
それが原因だというのなら。
無くなってしまえば良いと思った。
そうすればハクがまた笑ってくれると思った。
それだけだったのだ。
「・・・ハク・・・・この間の事、何も気にしてないから!気にしなくていいよ!私もちょっとびっくりしちゃったけど、何も気にしてないしっ!」
突然握り締められた腕。
今までに無いくらいの力強さ。
引き千切られるかと思った。
そして熱い。
気がついたら、手を引かれ、悲鳴を上げる暇も無く、すぐ後ろの壁に背中から叩きつけられた。
「きゃっ!」
突然の事で、何が起こったのかわからず、はっと顔を上げると、目の前のすぐ側にハクの顔があった。
近すぎて吐息を感じるくらい、近い。
ただ真っ直ぐ見つめてくるのは、千尋の瞳の奥。
起こっているようで、普段柔らかい光を帯びているハクの瞳の色が、深海に落ちていくかのように深みが一層増す。
握り締められている腕が熱い。
瞳の奥にある熱が熱い。
何か悪い事をしてしまったのだろうか?
何かが彼の逆鱗に触れてしまったのだろうか?
千尋には何も分からない。
恐い。
全身に悪寒が走り、慣れない感覚から逃れようときゅっと目を閉じると、ふと、突然圧迫されていた腕がふっと軽くなる。
異変に気づき、目を開けると、ハクは彼女の側から離れ、背を向けていた。
そして「行こう」とだけ言って、彼女を促すと、それ以降口を開く事は無かった。
千尋はふと、己の瞼に指を触れる。
涙が溜まっていた事に気がつく。
恐かった。
ハクなのに。
ハクなのに。
ハクが恐かった。
仕事を失敗して、叱られる時よりも、ケンカして起こられた時よりも、ずっとずっと恐かった。
あんなハク知らない。
知らないひとのようだった。
何か自分が悪い事をしなのだろうか。分からない。けれど、とてつもない罪悪感が胸にこみ上げる。
気持ちが混ざり合うと、今度は自然と涙が溢れた。
ハクが恐いからじゃない。
ハクが冷たいからじゃない。
理由の無い涙が、ぽろぽろと、頬を伝って零れ落ちていた。