はなれる4

「千」
今の時間はまだ準備中。千尋がいつものように湯船のひとつを洗っているところに声がかかる。
心臓の拍動がとくんとひとつ大きくなるのを合図に、ペースが速くなるのを感じる。
彼女がよく知る、誰よりも大好きな人の声。
「千。いるのだろう?返事をしなさい」
一時、最近ぱたりと止んでしまった休憩のお誘い。もとい、上司の職権乱用という名の選択権の全く無いお誘いかとも思ってしまったが、流石のハクも仕事中こうも堂々とやらない。何よりも声のトーンは仕事時のままで、柔らかい空気は底に少しも感じられない事に気がつい、空回りした分だけ、千尋は自己嫌悪に陥る。
それでも一瞬でも、人目でも好きな人に会いたいのが乙女心というものであって、「はいっ!」と勢いよく返事をすると、湯船から顔を出す。
「ここの仕事は後はリンに任せておけばいい。千には別の仕事をしてもらう」
「げーっ!何だよそれっ!」
千尋と同じ湯船の中から、突然の納得のできない指示にリンは顔を出すと、顔色ひとつ変えず無表情で湯船の前に立つ上司に不満をぶつける。
「おれたちは一心同体なんだぜ」
「なーっ」と言いながら、リンは千尋の肩に手を回す。
「-------千。早く来なさい」
低い声が更に低く下がる。
周囲の空気が五度下がる。
「はっ、はいっ!」
突然下がった温度に千尋は身震いをさせ、慌てて湯船から出ると、ハクの後を追う。
「けっ」
二人の姿を見つめ、リンは悪態をついた。

ただ黙々と廊下を進む二人。
何所へ向かっているのか千尋には見当もつかなく、ただ胸をどきどきさせながらハクの後ろをついていく。
さっきのリンとの一件でハクは気を悪くしたのか、仕事中だからなのか、彼の後姿からは図り知ることはできないが空気が痛い。
こういう時に話しかければ、彼は冷たい言葉しか返してくれないだろう。
分かってはいるのだが、この重い空気の中何所へ連れて行かれるのか分からない不安で一杯でいる方が千尋は嫌だった。
「・・・・ハク様・・・・何所へ行くんですか?」
「----坊の部屋だ」
おずおずと尋ねる千尋の言葉に、ハクは暫し無言でいると、それだけを素っ気無く答える。
「坊の部屋?」
坊の部屋と彼女に与えられる次の仕事というものの接点が見つからず、千尋は首を傾げる。
「・・・・坊に、勉強の褒美として。千尋と遊ばせると約束したから・・。すまないが、暫くの間でいい、坊と遊んでやってくれないか?リンのことは私が何とかしておくから心配しなくて良いから」
『千尋』と呼ばれた事に、千尋は頬を染める。
久し振りに聞いた、ハクの声から『千尋』という言葉が紡がれる事。
ただそれだけの事なのに、ぽぅと灯篭に明かりが灯ったかのように心が暖かくなる。
そして少なくとも今は『ハク』と『千尋』であって、『ハク様』と『千』という仕事の立場で話しかけなくても良いという了承の意味だという事にも気がつく。
「・・・・ハク・・・何だかとても久し振りだね。・・・・一緒にいるの・・・・」
少し恥らいながらも、ハクと少しでも会話を交わしたくて、千尋は一生懸命想いを伝える。
「そうだね」
ハクは笑って見せると、千尋の声に懐かしさと愛しさが溢れ出す。
たった数日の事なのに、もう何年も遠くに離れていたかのように、感じる。
それほどまでに、愛しいのだ。
そうも思う反面、溢れ出す愛しいという名の無数の想いを、外に溢れ出さぬ様に自分を抑える。
己のタガが外れないように。
この間のハクは、自分が自分で無いかのように感じた。
己ではない己。それは果たして本当の自分なのだろうか。
それが自分だとしても、自分は無意識に何を思っているのだろうか。
己を御しきれない自分を出す事は、落ち着かない。
だから喜びは溢れても、彼の表情は固く、口数も少なくなってしまう。
自然、二人はたったそれだけの会話で、また沈黙したまま、廊下を歩き続ける事となる。
どうにか会話を続けようと、千尋は口をぱくぱくと開くのだが、言葉にはならず、結局俯いてしまう。
「・・・・・ハク・・・」
暫くの沈黙の後、何かを決意したかのように、ぎゅっと拳を作り、顔を上げると、千尋は笑顔で笑って言葉を続ける。
ハクはまともに彼女の顔を見る事ができず、背を向けたまま耳を傾ける。
「この間の事、何も気にしてないから!気にしなくていいよ!私もちょっとびっくりしちゃったけど、何も気にしてないしっ!」
明るく笑って言う千尋。
『この間の事』。それはこの間ハクの唇が、千尋の指に触れた時の事。
あの日以来、ハクは千尋に触れることが無くなった。近づく事さえも。
だったら、それを無かった事にしようと千尋は言ったのだ。

全てを無かったことにする?

ハクの中に突然生まれる空虚感。
様々な感情が混ざり合い、急激な濁流となって彼を襲う。
あの行動は。
彼の故意ではなかった。しかし、望まなかったことではない。
望んで行動を起こしたのだ。
戸惑いはすれど、後悔した事はない。
千尋はそれを無かった事にしようと言ったのだ。
千尋にとって、あの出来事はーーーーーー。

体中の血液が一気に全身を駆け巡り、頭に達する。
気がついたら、千尋の手を引いていた。
彼女をすぐ側の壁に追い詰めると、片手をそのまま壁に抑えつけ、もう一方の手を壁につき、ハク自身の檻の中に閉じ込めていた。

触れている手が熱い。

じっと真っ直ぐ彼女を、彼女の瞳の中を覗き込むように見つめる。
逸らすことなく。
苦しい。
苛立つ
怒りで吐き気がする。
吐息を肌で感じるほど顔を寄せている。
触れてはいなくとも、彼女の体温を感じるほど身体を寄せている。
彼が少し千尋を見上げる形になってしまうが。
これだけ近くにいる。
これだけぬくもりを感じている。
彼女の瞳には彼の顔を映っている。
ハクだけ。
ハクだけを見つめている。
---------脅えた瞳で。

そう気がついた瞬間、一気に全身の体温が下がった気がした。
沸騰していた思考が、一瞬にして冷める。
停止していた思考を取り戻し、瞬きを繰り返し、千尋を見つめると、今にも泣きそうなほど脅えた表情を見せている。
彼がそんな表情を彼女にさせたのだ。
言葉をかけようと口を開くが、言葉が浮かばない。
言い訳の言葉さえも。この場を取り繕うだけの気の利いた言葉さえも。
彼女を安心させようと、手を伸ばし、頬に触れようと思うが、身体の自由が利かない。
触れたいと望むのに、触れられない。
優しくしたいと望むのに、優しくできない。
彼女を大切にできない。

今の感情は?
今の行動は?
私は何を求めている?

全てに答えが出ない。
ただぎゅっと拳を作り握り締めると、千尋を解放し、「行こう」とだけ呟くことで促す事しかできなかった。