数年前と何ら変わることない玩具の散乱した坊の部屋に戻り、ハクは肩に乗せたままの坊を下ろす。
彼の肩から下りると坊は元の姿に戻り、子どもらしい仕草で頬を膨らませると不満一杯の表情を見せた。
「坊はもっと千と遊びたいぞ」
「だからといって、千の仕事中に行ったら、千を困らせるだけでしょう」
「・・・・・・千ともっと遊びたいぞ」
坊自身も理解はしているのだろう。しかしまだまだそのことを受け入れられず、どうしても己の希望を通そうと涙声で訴える。
しかし彼自身に同情する面もある。彼の母親である湯婆婆は異常なほどの過保護で、今はまだ穏やかになったが、一時期は外には穢れがある故に一歩も部屋の外に出す事が無かった。今でも湯屋のほんの一空間を歩けるだけで、例え彼の家であっても全てを歩く事は許されなかった。ましてや外に出る事などありえなかった。湯婆婆が不在をした時にだけこっそりとハクに連れられ未だに双子の仲が懐柔される事は無かったが一時よりはマシになった銭婆婆の所へ通うくらいだった。
湯婆婆なりにも理由はある。
彼女は魔女だ。しかも一経営者だ。
過去から現在まで、彼女がどう生きてきたかはハクの知るところではない。しかし彼女を快く思っていない者はいる。彼自身がそれに対処しなければならないことも多々あるのだから。その者たちが彼女の血を継ぐ坊に何をするかは分からない。また湯屋というお客様を相手にしている商売上、何も分からない坊に迂闊に出歩いて顰蹙を買ってしまっては命取りになってしまうことがあるかもしれない。
彼女なりに様々な事を考慮しての配慮なのだ。
それは決して坊のせいではない。
だが、どうしようもないことではあった。
坊は千尋の事を慕っている。しかしそうしたことから滅多に遊ぶ事はできないのだ。千尋自身に何ら非とするところはなくとも。
彼の境遇を哀れみ、そして溜息を落とすとハクは苦笑した。
「分かりました。千の仕事が終わったら連れてきてあげますから、それまで頑張って勉強しましょう」
後で湯婆婆に叱りを受けるのは自分なのだと分かっていながらも、彼に対して甘くしてしまう自分にハクは笑わずにいられなかった。
少し前までは、彼のことを少しも同情することも、何も感じる事さえも無かったというのに。
----誰からの影響かは言わずと知れたところ。
ハクの言葉を聞いた途端、坊の表情はぱぁっと明るくなり、「よし、頑張って勉強するぞ!」と張り切って、教科書とノートを開き始める。
子どもらしい彼の行動に、ハクにも思わず笑みが零れる。
だから、つい甘くしてしまうのだ。
本当に千尋が好きなのだ。
もし兄弟というものがあれば、このような感じなのだろうかと思うくらいに、千尋が来ると坊は、彼女に姉のように慕い一時も離れず、側にいる。
勉強を始めていた坊がふと、顔を上げる。
「でも、ハクもひどいぞ。突然千を転ばせるなんて」
その言葉に、笑みを浮かべていたハクの表情が固まる。
「・・・そう・・ですね。・・・・後で私も謝らなくては・・・・・・」
口からは謝罪の言葉が出るが、中は空洞だった。
申し訳ないと思う。
それ以上に、自分が許せないと思う。
自己の感情制御の失敗、動揺により、とうとう千尋を傷つけてしまった。
傷を負ったとか、負っていないとかそういう問題ではない。
負わせるような行動を取ってしまった自分を許せないと思う。
熱が。
千尋の熱が。
指を伝わって、流れてくるようだった。
自分の想いが全て熱に変わって、伝わってしまうのではないかと思った。
眩暈がするほどに熱く。
愛しさが込み上げる。
今の自分は、自分を制し切れていない。
だから、触れずにいた。
いや。恐れていた。
己の想いが全て彼女に伝わってしまうのを。
思い出すのは、先日の行動。
彼女を大切に思うが故の独占欲。
彼女をもっと知りたい。全てを知りたい。彼女の全てを守りたい。
強い願いと浅はかな行動。
彼女の体温をとても温かいと感じる。
彼女の熱をとても心地よいと感じる。
彼女の肌の柔らかさをとても愛しいと感じる。
彼女の心をとても愛しいと感じる。
もっと触れたいと思った。
熱に浮かされて、手を触れるだけでは物足りなく、唇で触れればもっと彼女を知ることができると思った。
それさえも言い訳なのかもしれない。
もっと純粋にただ触れたいと思った。
深く彼女に触れたいと思った。
それほどまでにーーー愛しい。
「坊は千のこと大好きだぞっ!だから千といっぱい遊ぶんだ!」
にこにこと無邪気な笑顔で坊はハクに笑いかける。千尋の仕事が終わるまで遊べないのだが、少しでも早く勉強の時間が終わるように懸命に教科書とにらめっこをして手を進める。そんな彼を見つめ、ハクは笑みを浮かべる。
「私も好きですよ」
言葉にするのは、簡単。
けれど、少し、切ない。
坊の言葉にちりちりと胸が疼く。
坊の言う『好き』と、己の『好き』に違和感を感じる。
私の『好き』は、坊の『好き』とは違う。
無意識の中の意識。
ハクはそれだけは確信していた。
唇が触れた時。
己の感情の全てが、伝わってしまうのが恐かった。
深く触れようとした事で、己の心も深く触れられてしまうのではないかと脅えたのだ。
千尋が愛しいと。
悟られることに。