リンは苛立っていた。
それを表に出して客や千尋にぶつける事は無かったが、感情を抑えることで逆に苛立ちは高まり、常にいらいらし、既に苛立ちを抑える限界が見え始めていた。
「くっそー面白くねぇ・・」
ぼそっと誰にという事も無く、そんな事を口ずさむ。
そんなに何に苛立っているか。
原因は彼女自身十分自覚している。
最近のハク様の行動にだ。
彼のやること為す事全てが苛立ちの対象となるのだ。
千尋がハクに好意、所謂恋心というものを抱いている事は知っている。彼女自身感情が表情に表れやすく、本人気づかれていないと思っているようだが既に周知の事実である。
可愛い妹文が自分の嫌いな上司に好意を抱いているのは複雑な気持ちもあるが、本人があんなのでもいいというのなら、幸せだというのなら仕方が無い。リンはそれを認めざるを得ない。
千尋には幸せになって欲しいと思う。
突然油屋に連れてこられ、両親は豚に変えられ強制的に働かされ、一度はその束縛から逃れられたのに、今度は「あるばいと」と言うものに自分から湯婆婆に申し込んだというのだから、彼女のその強さには感服する。
そんな彼女だからこそ幸せになって欲しいと思うのだ。
問題はその相手だ。
「・・何なんだよ。あいつ」
思ったことが思わず声になって零れる。
千尋には可哀想だが、ハクは千尋の事を家族か兄妹かのように大切にしている。
千尋が持っているのは恋心。ハクが持っているのは親心とでも言うのだろうか。
恋愛対象として全く見られていないのだ。
どんなに大切にされても、優しくされても、それは慈愛であって、それ以上ではない。
ーーーーーーーーーーと、リンは思っていた。
ほんの少し前まで良く見かけた光景がある。
仕事が終わり、ほんの一時の時間を大切そうにしながら逢瀬を繰り返すハクと千尋。
両思いで、両者とも互いを好きなのだろう。大切なのだろう。
今は側にいるだけで幸せになれる存在なのだろう。それが恋心に変わるのだろうかと思っていた。もしかしたらもう既に恋心に変わっているのだけれど、その変化に二人は気づかずにいるだけなのだろうと思っていた。
二人が本当に仲睦まじく、幸せそうでいたから。
それからそれほど経たなくして。
リンにとっては意外なことだったが、千尋の方に早くその変化が訪れていた。ハクの方が先に気づくと思っていたから。千尋の方が彼よりも何倍もそういったことには疎いと思っていたから。
娘を嫁にやる父親はこんな気持ちなのだろうかという少し寂しい気持ちがあったのも事実である。
そうだとしても。
ハクが千尋に恋愛感情を持っていない。それは納得したとしよう。
それだけは当人同士の問題でどうしようも無い事なのだから。
「・・・・だったら何なんだよ。あのベタベタぶりは・・・」
くどいようだが、二人が油屋の営業時間が終了して空いた自由時間、朝の営業前の僅かな時間、逢瀬を重ねている事は周知の事実である。・・・・隠そうとしてもバレバレである。
のだが。
最近のハクの行動はとにかく異常というか、過剰である。
千尋が来た最初の頃は、彼女がごくたまに女部屋を抜け出しハクに会いに行っていた。女部屋の湯女たちも最初は噂話をしていたがそれはそのうち当たり前となりつつあった。しかし、今は必ずといってもいい程、朝・夜必ずといってもいいほどリンが目を覚ました時に彼女がいたためしがない
つまり、どれくらいの時間か分からない位の時間をずっとハクと会っているのだ。
さらに夜に至っては、ハクが、あのハク様が女部屋までわざわざ小湯女の千尋を迎えに来るのだ。
毎日。毎日。
それだけでは終わらない。
近頃は仕事中、本来は仕事場が異なるはずの彼を頻繁に見かけるようになったと思ったら、ふとした隙に千尋を連れ出すのだ。
仕事と己の時間を完全に分ける性格の持ち主が、自分からその規律を破るのだ。
本当に最近の彼はおかしい。
異常に落ち込んでいると思ったら、次に会う時には苛立ちを見せる。そしてまた会う時には機嫌が良くなっており、あまつさえ笑みを見せる時まであるのだ。
彼のこうした急激な感情変化は必ずといってもいいほど全て千尋に関わった時に異変が起きている。
千尋だって、アルバイトとはいえ、その仕事量は従業員となんら変わらない。元の世界の生活と平行して行っているのならその疲労度はさらに増すだろう。体力に限界を感じていても良いはずのだが、恋する乙女は強いとでも言うのだろうか、彼女はそうした素振りを全く見せず、嬉しそうにハクの元へ寄るのだ。
ーーーーーーー好きなんだろ?
ハクの行動は、誰がどう見ても、恋愛感情を持つが故の暴走だろう。
それ以外にどう解釈もしようがない。
しかし当の本人は、少しも自分の心の変化を千尋に伝えた様子が無かった。
むしろ己の心に気づいていないのではないかとリンは最近気づいた。
その理由が千尋の変化だ。
彼女はいつだって嬉しそうにハクの話をする。
しかも話はどう聞いても恋愛話。千尋の世界で言う『らぶらぶばかっぷる』とでも称するであろう、幸せ話を延々と聞かされるのだ。
けれどそんな甘い恋話を話す彼女は最初は嬉しそうに語るのだが、話す内容とは裏腹に彼女の表情は曇っていくのだ。
今にも泣きそうなくらいに。
それはそうだろう。
好きな男にいくら愛情を注がれても、自分の想いとは異なる想いで接してくる。
好きだから嬉しい。しかし恋愛感情は期待してはいけない。想いを返してくれる事はない。
それなのに相手はいつでも愛情たっぷり、好意をもって接してくる。
しかも親心、家族愛。友情そんなものはとうに越えて。
異常に。過剰に。
生殺しである。
それでいて自覚が無いのだから、更にたちが悪い。
そんな状態が続くのであればいっそ嫌われた方がいくらか楽だろう。しかし好きな男に自分から嫌われる事などできるはずもない。そんな葛藤の中でも相手の愛情からの行動は更に過剰になってくる。
どうしようもできない状態なのだ。
「ぐぁぁぁぁぁぁ!腹が立つ!」
そんな哀れな妹分を思うと、リンは腹立たしくて仕方が無いのだ。
千尋を苦しませるハクが憎らしくてたまらないのだ。
やり場の無い怒りを取り合えず、握り締めていた雑巾をこれ以上と無いというほど絞り切り、発散させる。
発散させているところに、苛立ちの原因が現れる。
曲がりなりにも上司。一応顔を立てて、仕方が無しに見たくも無い相手に顔を向ける。
「何でしょうか?ハク様」
顔を向けたのだ、声のトーンが低いくらいは許されてもいいだろうと自分を納得させ、近づいてくる上司にリンは嫌味たっぷりに声をかける。
彼女の煮え返るような腹の内を知ってか知らずか、おそらく気づいてもいないのだろうハクは、いきなりの歓迎に顔をしかめる。
何を話しかけられるのか、リンはしかめた顔のハクを見つめたが、彼は表情を戻して、何かを問いかけようと口を開くが、何かを躊躇しているのか、眉間に皺を寄せると何も語らず、ただ彼女の顔をじっと見つめるだけだった。
だから何の用なんだ!?
ただでさえ、彼に対して怒りを感じ、腸が二十にも三十にも煮えくり返っているというのに、さらにそんなはっきりしない態度を取られる事で、リンの怒りは頂点に達する。
「あたい、仕事があるんで、用が無いなら行ってもいいですか?」
もう数秒でもこの場に痛くないとばかりに、リンが顔を背けると、「いや!待て!」と彼女を制する声が上がる。
仕方無く、再度ハクを振り返ると、彼は真剣な顔をして、リンを見上げる。
「・・・・・・・・・千尋・・・・・・千は・・・・・・・・・・・・リンにはよく・・・・元の世界の話をするのか?」
やはり躊躇しているように、初め言葉が声にならず唇を震わせていたが、意を決したように顔を上げると、本当に耳を澄まさなければ聞き逃してしまうほど小さな声でハクは呟いた。
「へ?」
リンはと言えば、呆然としていた。
聞き取れなかったのではなく、彼のが何を尋ねたかったのか、その意味が読み取れなかったのだ。
ハクはすぐに俯いてしまい、その言葉を繰り返す事は無い。
「・・・・いや・・。何でもない。仕事に戻ってくれ」
再度声のトーンを戻し、それだけを言うと、彼はその場にいずらそうにそそくさと去っていってしまった。
俯く前のハクの顔・・・。
紅かった?
リンは彼の今まで見せた事の無い表情に、あんぐりと口を開け、固まってしまった。
一瞬停止してしまった思考を再度回転させ、整理する。
ハク様が見せた行動。
千尋が元の世界の話をリンとよくするのかと問う。
僅かに瞼を伏せ、そして白い頬が朱色に染まる。
戸惑うような表情。
不覚ながら、------綺麗だと思ってしまった。
お姉さまたちがその場にいたら、そのまま床へ掻っ攫っていってしまいそうなくらいに。
千がハクに惚れる気持ちが一瞬分かったような。
そりゃあんな表情、向けられたら、しかも普段むっつり顔の人間に、自分のためだけに向けられたら、そりゃあ惚れんわけなかろう。
-----------そういうことじゃなくてっ!!
がばっと顔を上げ、これでもかというくらいに大きく首を左右に振り、思考が斜めに下っていくのを急停止させる。
リンは確かに千尋によく元の世界の話をされる。
女同士の気軽さというものもあるのだろうが、何気無い会話の中で触れるだけの事で、彼女が元の世界で起こった様々な事を楽しそうに語るのによく耳を傾けていた。それだけのことである。
それに何の違和感を持つというのだろう。
「リンさーん!」
考え込むところに、後ろから渦中の人物から声がかかる。
両手には炊き立てのご飯が山盛りに乗った茶碗が二つ。
「今のハクだったよね?どうしたの?」
「・・・・・ハクだけはどんなに遠くにいても分かるってか?」
「な、何言ってるのよっ!!」
「別に、惚れてんだし、いーじゃねーか」
「ほっ・・・惚れてっるっ・・・とか・・・そういうのは・・・・っ」
にやにやしながらからかうリンに、千尋は真っ赤になり、息を切らしながら抵抗を試みるが、恥ずかしさが先立って返す言葉が出てこない。
「いーんじゃねーの。好きなら、好きな奴の事は気になるわなぁ。何処にいるとか。何をしてるとか」
「りっ・・リンさーん」
リンに話しかけた途端、いきなりからかわれ、本音を突かれて、上がった熱を抑えることもできないまま、千尋はただ悲鳴を上げる。
するとリンはポンと千尋の頭に手を乗せ、ぐりぐりと撫で始めた。
「惚れてんならな」
だから、好きなんだろ?
惚れてるんだろ?