first…

「三組のちよちゃんがね、キスしたんだって!」
「えええっ!」
「だってまだ中一だよ!私たち!」
「カンケーないよ。だって二組のゆみちゃんも、五組のさゆかちゃんだってしたことあるって言ってたもん!」
学校の昼休み時間、最近専ら話題の中心は恋の話。
小学生の頃はそれ程多くなかったのに、中学生になった途端急にそういう話が増えたと千尋は思った。
そして千尋はと言えば、いつも話の中に入る事が出来ず、ただ顔を真っ赤にしながら一方的に話を聞く事だけが精一杯だった。
「ちーちゃんは?キスしたとこある?」
「うぇっ!?」
突然自分に振られた話題に、千尋はぶんぶんと首を横に振る。
「そうだよねー。ちーちゃん彼氏いないもんね」
友だちは笑って、彼氏のいる別の子に話題を振った。
千尋は盛り上がる話を何処か上の空で聞いていた。
彼氏。
彼氏といえばそうなのかもしれない。でもそうじゃないのかと聞かれたらそうじゃないのかもしれない。
誰にもいえない千尋の好きなひと。
元、川の神様だった、千尋にとって大切なひと。
優しい瞳でいつも自分を見守ってくれる竜。
ニギハヤミコハクヌシことハクが頭に浮かぶ。
そして彼の顔が自分の顔に近付いてくる場面を想像し・・・。
ぼんっと顔を一瞬の内に沸騰したように赤くして、頭に浮かんだ想像を慌てて打ち消すように首を横に振った。

千尋は学校が休みの土日に二泊三日のアルバイトに向かう。
それは彼女が数年前に家族と共に神隠しにあった、森の向こうにある不思議の町。
もう一度、ハクや油屋でできた大切な友人達に会う為に、千尋は自ら二度目の神隠しにあった。
その時の事は、それだけで一つの物語が出来てしまうほど様々な事があったが、最終的に、ハクや坊の協力、湯婆婆や銭婆の采配もあり、彼女は現実世界で生活する事に極力支障を起こさないよう週末だけを利用し、神隠しという名のアルバイトとして油屋で働ける事となった。
「こんにちはー!」
小さなバックに二日分の着替えを詰めて、千尋は従業員用勝手口からいつものように店に入る。
何人かの仲間たちに声を掛けられつつ、彼女はまず一直線に女部屋に向かい、水干に着替えた。
既に同じ部屋の大湯女たちは身支度を整え、千尋と同様の小湯女たちはとっくに部屋を出て、本日の開店の準備を始めていた。
「お。千。今回もよく来たな!」
廊下で雑巾掛けを始めていたリンは、千尋の姿を見止めると手を上げ、声を掛ける。その声で彼女に気が付いた千尋はパタパタと彼女の元に駆け寄った。
「おはよう。リンさん。今回も宜しくお願いします」
「おう」
丁寧に頭を下げる千尋にリンはカラカラと笑って応える。
千尋はぼんやりと笑うリンの口元を見つめた。その視線に気が付いたリンは「どうした?」と声を掛けると、千尋はぱっと視線を逸らし、「ううん。何でもない」と答え、雑巾を手に取ると、他の小湯女たちに交ざり雑巾掛けを始める。
そんな返事をしたものの、素直な千尋はあっという間に見抜かれる。
それは千尋が意味ありげな視線を何度もリンの口元に向けていたせいもあるだろう。リンが視線に気が付くたびに、問いかけるが、千尋が「何でもない」と答える問答を何度も繰り返している内にリンが焦れたという事もある。
千尋がしぶしぶと学校で友人と話していた話を口にすると、リンは噴出し、爆笑した。
「随分と千の友だちはお子様なんだな」
「ええええ!?そうなの!?」
「だって、こっちの世界じゃ普通千の年くらいになってると嫁に行ってる奴だって多いよ」
「お嫁さん!?だってまだ子どもだよ!?」
「千くらいに成長していれば十分だって。っていうかオレはむしろこの油屋で働いていてそんなに初心なお前さんの方がびっくりだよ」
リンに指摘された千尋は疑問符を頭に浮かべ、首を傾げる。
「何で?」
「何でって・・。まぁいいや。つーか千はしてないのか?ハク様と」
言葉を濁しつつリンは話を変え、にやにやと笑って問う。
千尋は問われた瞬間顔を真っ赤に染め、折れるんじゃないかと思うくらい激しく首を左右にブンブンと振る。
「ななななな何言ってるの!?リンさん!?そんな事ある訳ないないないないない!」
あまりもの過剰反応に、リンは聞いた事は失敗だったかと思いつつ苦笑する。
「落ち着け千。首がもげるぞ」
「だだだだだって、リンさんが変な事言うから!」
「変でも何でも無いだろ。惚れ合っている男と女がいれば、そんな事あるだろ」
「ふえぇぇ!?・・うぅ・・・だけどっ・・・でもっ・・・ふぇぇぇっ!?」
今千尋が頭の中で何を思い描いているのかリンは何となく想像しつつ、今度は目に涙を浮かべ始める彼女を見つめ、リンは苦笑していた顔のまま少し頬を引きつらせる。
これだけ千がお子様だと、さぞかしハクは手を出し辛いだろうなぁ。
可愛い妹分が腹黒い上司の毒牙にかかるのは気に入らないが、リンは少しハクに同情してしまう。
あまりにも動揺している千尋の様子に、悪戯心が働いたリンは顔を赤くしたままえぐえぐと涙ぐむ千尋に助言する。
「してみたいんだったらハク様にお願いしてみればいいだろう」
リンの提案に、次の瞬間、千尋の悲鳴染みた絶叫が湯屋全体に響いた。
「ええええええええええ!?」

無事にその日の油屋の営業も終え、厨房の火も全て落ち、従業員たちも束の間の休息を求め、各々の部屋で、ある者は他愛も無い雑談やある者は既に眠りにつき始めた頃、まだ仕事場の中で唯一最後まで明かりが灯る場所である帳場で、千尋は帳簿をつけるハクの前に小さくなって座っていた。
パラパラと帳簿を捲る音とサラサラと筆が流れる音が無音の部屋の中でやたらと大きな音になって響くと千尋は感じた。
「言う気になった?千?」
千尋が仕事が終わるのを待ち構えていたハクは、女部屋へ戻る途中の彼女の姿を見つけると、彼女の手を掴み、そのままこの場所まで一言も口を開く事無くつれてきた。
何も喋らずただ彼女を隣に座らせ黙々と仕事を続けていたハクに突然声を掛けられた千尋はびくっと体を震わす。
問われているの内容はすぐに理解出来た。リンと二人で風呂釜を洗っている途中上げた悲鳴の事。
千尋が悲鳴を上げた直後、何事かとすぐに駆けつけたハクは二人を叱りつけたが、肝心の声を上げた理由についてはリンも千尋も何も語らず、「すみませんでした」とだけ答え、そそくさと逃げるように次の仕事場へ移って行った。
それでその場は収まったと千尋は思っていたが、ハクにとってはそうではなかったらしい。
千尋はパクパクと口を開閉し何も言えずにいる。
「そんなに私には言えない事?」
ぱたりと帳簿を閉じ、一つ溜息を付くと、ハクは視線を上げ、千尋の瞳を見つめる。
そこには怒りなのか悲哀なのか分からない複雑な感情が漂っている。
「千尋」
名を呼ばれた。
とてつもなく優しい声で。二人でいる時だけ呼ばれる名を。
千尋は唇がむずむずするのを感じた。
そんな風に名を呼ばれ、見つめられると何もかも喋ってしまいそうになる。
けど---言えるはずが無い。
でも嘘は吐けなかった。
「あのね・・・。最近学校の友だちとね・・その・・キスした事あるか話をする事があるの・・・」
かぁっと頬を赤く染めながら、千尋は話し始める。
「きす?・・・ああ、接吻の事か」
ハクは真顔で頷く。
「それでね・・・。私はしてないって話をリンさんにしたら・・・・・・・・・ハクにお願いしたらいいって・・・」
もう言葉の最後の方は小声で掠れていた。
ハクから視線を外し、千尋は更に小さくなって、瞳を潤ませ、真っ赤になり、息も途切れ途切れにどうにか話しきった。
もうすぐにこの場から逃げ出したかった。
ハクの事は好きだ。けれどまだキスだとかそんな事を考えたことも無い。
いや、想像した事はあっても、それが現実に起こるなんて事まで直結させて考えたことなんて無かった。
あくまで空想は空想で何処か絵空事の様に感じていた。
だからこそ、こんなことを好きな人に面を向かって話すこと自体恥ずかしくて恥ずかしくて堪らなかった。
私がそんな事考えていると思わなかって、ハクに引かれたらどうしよう。
そんな恐怖が今度は心の奥からひょっこり現れる。
いやらしい子だと思われたらどうしよう。
そんな事を思って更に羞恥心で心が一杯になる。
ただもう心の逃げ場所を探して、最後には「rンさんがあんな事言うからっ!リンさんのばかー!」と全ての感情を今ここにいないリンにぶつけた。

震える手で拳を作り、ぎゅっと目を瞑っていた千尋の手にふわっと温もりが触れる。
ふと、温かいものが唇に触れた。

瞬間、思考は真っ白になった。
我に返ると、既にハクは千尋から距離を取り、優しく微笑んでいた。
言葉を上手く紡げずにいる千尋にハクはくすりと笑う。
「こんな事くらいで騒ぐなんて、千尋は可愛いね」
次いで掛けられた言葉に、千尋は違和感を感じた。
「明日はきちんと仕事をするんだよ」
にっこりと自分に向けられる笑み。
それはまるで、---子どもをあやすような。
千尋は違和感の正体に気が付く。
ハクと自分の『キス』に対する意識や熱のようなものに差を感じたのだ。
ハクにとって『キス』は戯言として流せるもの。
例え自分としたって。
---もしかしたら、他の人とだって平気で出来る?

そう思った瞬間、千尋は手を振り翳していた。
パシン!
高い衝撃音が帳場に響く。
「ハクの馬鹿!」
千尋は叫ぶと、一目散にその場所を逃げ出した。

その日のハクは常に注目されていた。---特に左の頬を。
真っ赤に腫れた左の頬は、何処か掌の形のようにも見える。
誰もが最初に思うのは、
『千と何かあったのか?』
という事。
しかし、ただでさえ仕事と関係の無い事を仕事中に話せば叱る上司の事、幾ら問いたくても聞けない。怖くて聞けない。
結果、ハクと接触したり、彼の横を通り過ぎる者たちの視線はまず彼の左頬に向かうが、誰もその真相を問う事は出来なかった。
一方がダメならもう一方に。という事で、千尋の元に湯女や男たちが疑問を晴らそうとやってくる。
が。
「・・・あいつ朝からずっとああなんだ。ほっといてくれ」
いつも千と一緒にいるリンが示す先には黒い瘴気纏う千の姿があった。
真面目に仕事をして入るものの、常に彼女の周りの空気は黒い。誰も近付けない程に黒い。
近付いたら自分たちが穢れそうで近づけない。
恐るべし人間。と思いつつ、野次馬集団は、ならば、とリンに視線を向けるが、リンは左右に首を振る。
「言っておくけど、オレは何も知らないからな」
その言葉に一同落胆し、肩を落としてその場を去っていくしかなかった。
彼らの姿を見送りつつ、リンはほぅと息を落とす。
「これで何回目だよ。千に聞きに来たの。どれだけ面白い顔を晒していやがるんだよ、ハク様は。後で見に行ってやろうっと」
笑うリンの横で千尋は方を震わす。少し瘴気が薄れて動揺を見せる彼女に気が付いたリンはにやりと笑って、彼女の脇を肘で突っつく。
「言う気になったか?昨日何があったか」
顔を覗き込むと、ぶすっと頬を膨らませたままの千尋がリンに視線を向ける。
「まぁ。昨日の今日だから、何となく何があったか分かるけど」
上体を少し屈めて千尋の顔を覗き込んでいたリンは体を起こし、髪を掻き揚げてあっけらかんと笑う。その彼女に、今度は千尋がばっと顔を上げ、彼女を見上げる。
「ハク様にされたんだろ。接吻」
告げられた言葉に、千尋はぼぼっと顔を真っ赤にする。
「それでいて、怒っていると言う事は・・まさか手篭めにされそうになったんじゃないだろうな?」
千尋が昨夜むっつり顔で女部屋に戻ってきてから、聞きたくても怖くて聞けなかった問いを、リンはようやく口にする。
二人の問題だからそこまで聞くのは無粋だと分かってはいても、それでも自分が可愛がっている妹分が悲しそうにそれでいて怒っている姿を見て心配にならないはずが無い。
昨日この世界では千尋はもう十分に結婚できる年齢だと話をしていたとはいえ、この世界の同年代と比べ千尋は圧倒的に幼い。
もしハクがそんな千尋に焦れて、勢い余ってやらかしたとしたら、赦す訳にはいかない。
そう気構えながら、一方で、やはり聞く事にやましさもあって、リンはどきどきしながら返事を待った。
「手篭めって何?」
返された言葉に、リンは呆然とすると同時に、何処かほっとして、誤魔化すように慌てて手を振る。
「何でもない。気にしないでくれ」
知らない知識を態々与える必要は無い。今はまだ。
「んで?どうしたんだ?」
「・・・・」
千尋は言い出し難そうに口をもごもと動かし、やがて意を決したように顔を上げる。
「ハクにとって私は別に特別な女の子でも何でもないんだって」
言った途端、今度はくしゃりと顔を歪め、
「ハクは誰とでもキスできるんだよ」
と、涙を零し始めた。

ハクは困り果てていた。
昨日から浮かぶのは千尋の怒った顔。
何度も何度も昨夜の事を繰り返し思い出すが、彼女が怒る理由がさっぱり分からない。
分からないからどう謝っていいのかも分からない。
ただ、叩かれた、左の頬がじんじんと痛む。
そういえば今までこんな風に千尋が負の感情をぶつけてくる事はなかったなとハクは思う。
いつも二人で穏やかに過ごしていて、それだけで幸せだったから、喧嘩というものをした事が無い。
千尋があんなふうに激しく感情をぶつけてきた事が無かった。
初めての事だから余計にどうして良いのか分からない。
誰かに相談したら、彼女の気持ちが分かるのだろうか。
ふいと周囲を見渡すが、誰も彼もがつい今まで自分に視線を向けていたのに、ハクがいざ視線を合わせようとすると逃げる。
まるで何も見なかったかのように自分の傍からそそくさと逃げていく。
さて、困った。
どうしようかとぼんやり思っていると、父役から声を掛けられた。
「あの、ハク様」
「何だ?」
ハクにしてみればただ困っているだけなのだが、それがいつも以上に周囲の者に威圧感を与えている事に本人は気が付いてはいない。
だから声を掛けられて振り返った時も、困って自然と眉間に皺が寄っていただけなのだが、父役にとっては睨まれた様に見えて、びくりと震えた。
「・・・あの・・釜爺が来月の薬草の発注の打ち合わせをしたいと申しておりました」
自然、目を逸らし、声も震えてしまう。少しでも早くその場を立ち去ろうと、もう一度ハクの顔を仰ぎ、礼をしようとするが、顔を上げた瞬間睨まれてしまった。
やはり当人からしてみれば、実は父役に相談してもいいものなのだろうかと思案していて、結果父役の顔を見つめてしまっていただけだったが、父役がそう捕らえる事は無く、ピシリと固まってしまう。
「・・・あの・・・ハク様?」
「ああ。すまなかった。今、行ってこよう。父役は仕事を続けてくれ」
そう言うと、ハクは踵を返し、釜爺のいるボイラー室へ向かった。
怯えと困惑の混ざった複雑な表情の父役を残して。
そんな周囲の反応を余所に、ハクは薄暗い通路を抜けた奥にある、小さな戸口を軽く小突くと、戸を開け、ボイラー室に入っていった。
「おじいさん。父役から聞いて来ました。今、お時間は宜しいですか?」
部屋に入ると最初に「ちゅう」と鳴き声がする。
「坊。こんな所にいたんですか。また湯婆婆に叱られますよ」
彼の足元には鼠に姿を変えた坊がいた。隅を見ると、ススワタリが踊っている。どうやら彼らと遊んでいたらしい。
「まぁ、そう言うな。上には他に坊の遊び相手もいないのだから。しかも営業時間帯なら尚更だ」
釜爺が、薬湯の元を作りながら、「なぁ」と坊に声を掛ける。
坊は嬉しそうに「ちゅう」と鳴いた。
ハクはその姿に苦笑しながら、釜爺に発注表を私、仕事へと意識を変える。
坊が遊んでいるのを横目に、打ち合わせを始め、一区切りついたところで、どちらからともなくほぅと溜息が零れた。
「本当にハクは仕事に対して真面目だから、こちらも集中できてやりやすいわい」
「ありがとうございます」
ハクは笑って褒め言葉を素直に受け止める。
「それでどうしたんじゃ?その赤くなった頬は」
そう言って、釜爺はハクの頬を示すように、自分の頬をちょんと触れる。
「ああ。これは・・・」
ハクは苦笑して、己の頬に触れる。
少し考え込み、そして顔を上げると、釜爺を見据えた。
「ご相談に乗って頂いても良いでしょうか?」
釜爺は少し驚いたように目を見開くと、笑って頷いた。
ハクは昨夜あった事を、順を追って話す。
接吻の話になった事。平手打ちをされ、千尋を怒らせてしまった事。
彼が話をしているうちに、最初は笑って聞いていた釜爺の表情は段々と眉間に皺を寄せ、苦笑に変わっていったが、最後には何とも言えぬ苦虫を噛み潰したような表情に変わっていた。
「私には何故千尋が怒ったのか分からないのです」
真剣に語るハクの姿に釜爺は正直彼ではなく千尋に同情してしまった。
だが、ハクが戸惑う理由も十分に理解出来ていた。
それ故に、困惑してしまう。
油屋は湯屋である。そして湯屋であるという店の性質上、運営内容の中には男女の艶事が関わり、商売としている。
純粋な竜は純粋故に艶事が日常的な場に身を置く事で、本来店の特殊性であるはずの事が当たり前の事になっているのだ。
釜爺は思わず頭を抱えてしまった。
この様子では艶事自体が本来恋愛感情というもの故に起こることである事さえも理解しているのか怪しい。
現に。
ハクの隣で彼の話を聞いていた坊は、彼に「ちゅうちゅう」と何かを訴えている。
それに対しハクは、
「接吻くらい、坊だって千に言えば幾らでもしてくれるでしょう」
と、答えている。
ハクが千尋に接吻をしたのなら自分もしたいと坊が訴えた上での返答である事は検討がつく。
「接吻とはただ唇を触れさせるだけじゃありませんか。何故、そんな接吻一つにこだわるのでしょう?」
などと、本当に不思議そうに彼は釜爺を見た。
「---」
理解していない。
理解した上でその言葉が出るのならまだいい。いや、決して良い訳では無いが、まだマシだろう。
「ハクは千の事をどうおもっているかね?」
唐突な釜爺からの質問に、自分の問いに関係があるのかと首を傾げながらもハクは答える。
「かけがえの無い大切な存在だと思っています」
澱み無く、はっきりと言い切るハクに、釜爺はこくりと深く頷く。
「千と自分はどうありたいと思っている?」
「千が大人になったらどうなると思う?」
「いつまでこの油屋で働くと思うか?」
次々に提示される問答に、ハクは一つ一つ答えていった。
釜爺はひとつひとつ丁寧に彼の感情を紐解いていく。
しかし、ハクに千尋の気持ちを気付かせるには果てしなく道が遠そうだった。

一方、千尋からハクの左頬が赤く腫れるまでの経緯を聞いたリンは何とも言えない渋い顔をしていた。
いつもだったら大笑いしていたところだろう。
確かに最初は笑って聞いていた。だが、話が進む内に段々と眉間に皺を寄せ、終わる頃には今の表情になっていた。そう釜爺と全く同じ表情になっていたのだ。
「・・・酷いよ!ハクの馬鹿!」
千尋は語る事で、昨夜の怒りを思い出したのか、ぷっくりと頬を膨らます。
その様子に、リンは苦笑するしかない。
「うーん。多分だけどな・・・。千には悪いがハク様がどうしてそんな行動取ったか理解できる気がする」
「何で!?」
ぽりぽりと頬を掻いて呟くリンに千尋は驚いてばっと顔を上げる。
「油屋って店自体が・・・何ていうかなー。恋人ごっこ?みたいな事をする場所でもあるからさ」
「何で?お風呂屋さんで何で恋人ごっこするの?」
歯切れ悪く話すリンに千尋は疑問を返し、更に言い辛そうにリンは答えた。
「何でかは知らねーけど。何つーか、店の仕事の内容に神様の恋人のふりをする事があるんだよ。姉様たちがやっている仕事がそう。恋人ごっこすれば接吻する事もあるから、好きって気持ちがなくても出来る事をあいつは知ってるんだよ」
「何で?何で好きだと思わないひととキスできるの!?」
千尋にはリンの話がさっぱり理解できず、疑問ばかりが増えていく。
「出来るんだよ。姉様たちはそれが仕事だから。千だってハクが傍にいると幸せになれるだろ?自分を好きだと思ってくれてると思うと嬉しいだろ?神様たちも例えほんの一時だとしても、自分の事を本当に好きじゃない仕事でしてくれてると分かっていても、恋人のように寄り添ってくれたら嬉しいし、癒されるんだよ」
「何か難しいけど、でも少し分かる気がする」
「だから、ハクは仕事として接吻する事は当たり前な出来事だと思ってるから、接吻自体唇が触れる行為でしかないくらいに思ってるんじゃないかと思うんだ」
「キスが好きって気持ちを伝える為の方法だって知らないって事?」
「そうだな。知ってるけど、接吻にそういう事を求めてないってことかなぁ・・・って泣くなよ!」
千尋にはリンの話す価値観が分からない。
ただ自分の好きの気持ちがあって、だからハクとキスをしたいという気持ちになったっていう事が彼には伝わっていなかった。それだけは分かった。
だから悲しくて悲しくて涙が溢れた。
「世の中にはそういう奴だっているよ。心と体は別物だっていう奴だって。でもハクはお前の事好きなのは好きだろうさ。それだけは見ていたら分かるよ」
リンは慌ててハクを弁護するが、千尋は「うえーん」と更に大泣きし始める。
どうにか宥めすかすが、どうにもならず、リンは困り果ててその場に立ち尽くした。
千尋は喉が枯れるまで泣き続けた。

ハクと釜爺が延々と続く問答を繰り返し、千尋はリンに自分の今まで知らなかった価値観を教えられ泣きじゃくるという事もあったが、油屋の営業自体はつつがなく終えた、その日の夜。
既に殆どの者が就寝している時間、ハクはそっと女部屋に訪れ、丸くなって眠る千尋に声を掛ける。
「千尋?起きているかい?」
囁かれる声に、千尋はぴくりと体を振るわす。
リンに教えられた事が頭から離れず眠れなかった千尋は、ハクの声に思わず反応してしまった。
きっとハクにも自分が起きている事を気付かれただろう。
反応してから、そのまま眠ったふりをしていれば良かったと後悔する。
いつもならすぐに顔を上げるはずの千尋が、今はハクを拒絶するように布団を被ったまま出てこない彼女に、ハクは溜息一つ吐くと、言葉を続ける。
「千尋と話がしたい。外で待っている」
それだけ告げると、彼は屈めていた腰を浮かし、外へ出て行った。
千尋は迷っていた。
まだリンの言葉が自分の中で落ち着かずぐるぐるしているのが分かる。
このままの状態で会ってもいいのか。
ハクから声をかけてくれた。それが嬉しい。
けれどまた昨夜のように自分が傷ついてしまう事を言われるかもしれない。ハクを傷つける言葉を言ってしまうかもしれない。
それが怖い。
そうやって戸惑っている間に、ハクは諦めたのか、障子の向こうにあった気配がすぅと動き出すのを感じて、千尋は慌てて身を起こした。
結局どんなことがあったって、ハクを嫌いになる事は出来ないし、嫌われたくない。
このまま気持ちが離れてしまうのだけは絶対嫌だ。
それが答えだった。
千尋は慌てて部屋を出ると、既に部屋を離れ廊下の角を曲がろうとしていたハクが振り返った。
彼女の姿を見止めると、彼は嬉しそうにふわりと微笑む。
その表情に千尋は『やっぱり私はハクが好きだ』と再確認する。
そして、例え自分と違い、接吻に愛情表現という事を感じていないとしても、ハクは自分を好きでいてくれている。そう感じた。
だったらそれでいいや。
ふいに出た答えに、千尋は吃驚して、目を丸くする。
思わず胸を押さえてしまうけど、さっきまであったぐるぐるした気持ちは無くなり、ほこほことした温かい気持ちだけがそこに溢れている事に気付いた。
それが嬉しくて、千尋は自然と笑みが零れた。
ハクは千尋の表情が変わる瞬間を見てしまい、戸惑ってしまう。
自分のせいで泣かせてしまった。そう思っていたのに、自分を見て彼女はまた微笑んでくれる。それが凄く嬉しかった。
そして同時に湧き上がる気持ち苦笑してしまう。
あれだけ釜爺に言われ、何となく理解できなかったものを千尋は一瞬にして全ての答えを与えてくれた。
だから千尋には敵わない。
そう思いつつ、ハクは千尋に歩み寄る。
「すまない。もっと早くに尋ねようと思っていたのだが、仕事の目処がつかなくて」
「ううん。いいよ」
千尋は軽く首を横に振る。
自然と二人は歩き始め、人気の無い場所まで移動した。
ふいにハクが千尋の手を引くように触れる。
千尋はびくりと震えるが、逃げる事はしなかった。
そのまま歩いて、既に照明の落とされた宴会場の外に面した廊下に辿り着いた。
月が既に隠れた夜は暗く、本来眼下に広がっているはずの草原は闇に紛れ、風に揺られる草の心地良い音だけが千尋たちの鼓膜を震わす。
「気持ちいいね」
「そうだね」
何気無く呟かれる言葉に、ハクは相槌を打ち、千尋にその場に座るように促すと、自分も彼女の隣に座る。
いざ二人になってみると、お互いに何を話してよいか分からなかった。
何から話し始めてよいか分からず、何となく手を繋いだまま空を仰ぐ。
そしてふと、視線を落とし、隣に座る相手の顔を見上げる。
それが二人とも少しも違わず全く同じ動作で見詰め合ったものだから、視線が重なり合った時、二人とも同時に目を丸くしてしまった。
ほんの数秒見つめ合って。
お互いに驚いた表情が崩れて、笑みに変わり。
くすくすと声を出して笑い合う。
もう一度見つめ合い。
どちらからともなく、体を傾け。
瞳を閉じると。
口付けた。

どのくらいそうしていたか分からない。
一瞬だったかもしれないし、数秒だったかもしれない。
それでもどちらからともなく、互いに触れ合っていた唇を離すと、瞼を開いて、互いを見つめる。
二人とも、目を閉じる前よりも頬を赤く染めて、お互いに相手が恥ずかしさでそうなっているんだと思うと、自分だけじゃ無いという事に、安心と嬉しさが混ざった感情が湧き出してきて、くすりと声を笑ってしまった。
「私は千尋が好きだ。だから触れたいと思う」
まだ嬉しそうに笑い続ける千尋に、ハクは繋いだままの彼女の手をぎゅっと握り締めて想いを伝える。
「私はハクが好きだよ。だからハクとだけキスがしたいと思うよ」
千尋は応える様にぎゅっとハクの手を握り返して、彼を見上げ、笑う。
ハクは驚いたように千尋を見つめ、また嬉しそうに笑った。
「そうだね。私も千尋だから接吻したい。千尋にだけ触れたいと願う」
そう告げ、そして目を細めると痛みを堪えるようにハクは続けた。
「すまない。千尋の気持ちを理解していなくて、そなたを悲しませてしまった」
千尋も首を横に振る。
「私もごめんなさい。馬鹿って言っちゃって」
「いいや。私は愚か者だ。千尋がいてくれなければそんな簡単なことさえ、ずっと気付かずにいたままだった。ありがとう」
そう言ってハクは千尋の体を抱き寄せ、ぎゅっと抱き締めた。
「この温もりだけが、私が唯一望むものだ」
互いの体温が触れ合い、また上がる熱に、千尋は心地良さを感じながら、ハクに身を寄せ、自分もハクの背に手を回すと抱き締めた。
それに気が付いたハクは喜びを表すように、千尋を抱き締める腕の力を強くした。

仲直りをして数日後。
「ねぇ、ハク。ところで、油屋の姉様たちってどんなお仕事をしているの?私もいつかするのかなぁ」
突然の千尋からの何気無い質問に、ハクは「ぶほっ」と激しく噴出すと、その場で咽てしまった。
蹲り、咳き込むハクの背中を擦りながら、千尋は更に疑問をぶつける。
「あとね。手篭めってどういう意味だろ?」
ごんっ。
蹲った時に壁についた手が滑り、ハクは咄嗟に身を庇う事も出来ないまま、床に強かに頭を打つ。
「きゃーっ!ハク!大丈夫!?」
千尋は訳が分からない行動ばかり取るハクを慌てて助け起こす。
ハクは支えられながら、どうにか体勢を立て直し、出来るだけ平常心を装いながら搾り出すような声で彼女に問い返した。
「ねぇ。聞いてもいいかい?千尋。誰に言われたんだい?」
「リンさん」
苦々しく問うハクに千尋はあっけらかんとして応える。
「ハクとの喧嘩の事を相談したら、そんな話が出てきたんだけど、私分からなくて」
「そうか・・・」
おどろおどろしい気配がハクから広がってくるのを感じて、千尋は彼の背中を支えていた体制から、少し身を引き、彼に聞いたのは失敗だったかと後悔し始める。
ハクは起き上がると、逃げ腰になっていた千尋に顔を近づけ、にっこりと微笑む。
何故かいつも感じない恐怖を彼に感じた千尋は逃れようとするが、両肩をがっしり捕まれて動けない。
「大湯女の仕事が千尋に回ってくる事は絶対に無いから安心していいよ」
「・・・でっ・・でも、私だって役に立ちたいし・・・」
体が恐怖で震えながらも、言わない方がいい言葉だと感じても、千尋は小声で懸命に主張してみる。
が、すぐにそれもやっぱり言わない方が正解だったと後悔した。
ハクの唇が千尋の耳に近付き、いつも仕事で怒っている時よりも一層低くなった声が直接耳の奥に吹き込まれる。

「そんな素振りを少しでも見せたら、すぐにでも手篭めにするから覚悟しなさい」

もう手篭めの意味を聞く事は出来なかった。
ただもう、ハクが怖くて怖くて、激しく首を上下に振るのが精一杯だった。
「ちなみにもし坊に強請られたとしても、接吻する事も赦さないからね」
何故ハクが昨日彼に会う前に坊に強請られた事を知っているのか千尋には分からなかったが、ただひたすら首を上下に振り続けた。

一度独占欲に目覚めた竜の暴走は、
誰にも止める事は出来ない。

2009.9.29