縁日

サワサワサワ。
ドンドンドンドン。ピーヒョロロロ。
祭囃子が響き渡る。
赤と白の提灯が、境内に生える木々を伝う糸から吊り下げられ、煌々と闇を照らす。
普段は人の出入りが少ない神社も、この日は溢れるくらいの沢山の人で賑わう。
親子連れ。兄弟。恋人。
この土地に住む様々な人が神様を奉り、詣でる。
「お父さん待ってー!」
千尋は父と母に連れられ近所の神社のお祭りにやってきた。
先を歩く父の後を追う千尋の横を色んな人がすれ違う。
今、すれ違い様目に入った見た男の子は、神輿を担ぎ街を歩いたのだろう。半被に捻り鉢巻で姿で、友人達と鼈甲飴を甞めながら歩いていた。
「ほら、逸れるなよ」
明夫が千尋の手を取り、自分の横を歩かせる。
「千尋は足を踏まれないように気をつけるのよ」
「うん」
悠子に声を掛けられ、千尋は足元を見る。
花の模様の入った紅い下駄。
今日の為に悠子が買ってくれたものだ。
ピンクの可愛い花が染められた白い浴衣。帯は黄色のふわふわした布の兵児(へこ)帯で、リボン縛りされていて風に揺られている。
本当は子供用の黄色い硬い生地の半幅帯を欲しいと強請ったが、悠子の「普通の帯は高い」と言う言葉に一蹴されてしまった。
友達は可愛い半幅帯を持っているのに。
明夫が「可愛い」と言ってくれなかったら、もう少しごねていただろう。
それでも、白い浴衣に紅い下駄、金魚模様の紅い巾着にピンクの帯。家で何度も鏡に映る自分の姿を確認したけれど、実は内心気に入っていた。
子ども用帯だけど、ピンクのふわふわの帯も、金魚の尻尾みたいで気に入っている。
カッコカッコカッコ。
弾む心音に合わせて下駄がリズムを取る。
祭りは何故か自然と気持ちも高揚させてくれる。
普段静かな境内に立ち並ぶ出店が千尋は好きだった。
りんご飴。金魚すくい。わた飴。カキ氷。
どれも美味しそうで目移りする。
「こら。千尋。ちゃんと前を見て歩きなさい」
出店に気を取られていたら、悠子に窘められた。
「だってー早く食べたいんだもん」
首を竦めながら言い訳をする千尋に明夫は笑う。
「駄目だぞ。千尋。まず神様にお参りしてからだ」
いつもは千尋に甘い父親も、今日は見逃してくれなかった。
「どうして?」
それが不満で千尋はぷくっと頬を膨らます。
「まず神社に来たら、最初に神様にご挨拶しなきゃ。神様は千尋が住んでいるこの土地を守ってくれているんだからな。いつも有難う御座いますってまずお礼を言わなきゃ」
「土地を守っているの?」
「そう。だから千尋も大きな病気をしたりしなっかったし、父さんも母さんも元気でいるだろう?洪水も無く台風で怪我する事も無かったし、楽しく暮らせた。それは神様が守ってくれるからだよ。人に何かしてもらって、お礼を言うより先に自分の事を一番に優先するような子に千尋を育てたつもりはないぞぉ」
明夫の言葉に、恥ずかしくなった千尋は頬を染め、その様子を見ていた悠子は千尋の恥じ入る気持ちを紛らわすように、ぽんと背中を押すと歩くこと促した。
「分かったらしゃんと歩く」
「うん」
千尋は前を向くと、出店が立ち並ぶ参道の奥にある社まで真っ直ぐ歩き始めた。

ザワザワザワ。
色んな人が行き交う。
浴衣を着た女の人。友達同士で来た学制服の男子学生。狐のお面を被った浴衣の子ども。透明の袋に金魚を入れて、小さい女の子の手を引いて歩く老人。
サヤサヤサヤ。
境内の中にある木々が風に吹かれて、吊り下げられている提灯もゆらゆらと揺れる。
赤や白の光が蛍のようにゆらゆら揺れる。
カッコカッコカッコ。
千尋の紅い下駄もリズムを取り、出店の客引き、歩く人のお喋り、神楽殿からの太鼓と笛の音、木々のざわめきと混ざり合い、音楽を作る。
賑やかで、華やかで、誰の心も躍らせる。

赤い鳥居の前に来ると、両親は一礼をする。
千尋も二人に倣って頭を下げる。
それから引き詰められている白い玉砂利の上に一歩足を踏み入れる。
じゃりじゃりじゃり。
土や道路、砂を踏む時とは又別の音が響く。
「ねぇ。どうして鳥居の前でお辞儀をするの?」
社殿の前で礼をするのは、もう神社を来た時の動作として感覚的に覚えているが、鳥居の前で礼をする人は少ない。
後ろを振り返っても、大人でも子どもでも頭を下げてから入る人は殆どいなかった。
「じゃあ千尋は友達の家に入る時、『お邪魔します』とは言わないの?」
明夫からの言葉に千尋は合点した。
「神様のお家にお邪魔をするんだから、お邪魔しますと頭を下げているんだよ」
「そっかぁ。そうだよね。勝手にお家に入ってきて、お願いだけして帰るなんて失礼だよね」
「そうよ。本当はお願いじゃなくて、お礼を伝えに神様に会いに来るとも言われているのよ」
悠子の言葉に、「そうだよね」と千尋も頷く。
「皆、お願い事ばっかりじゃ、皆のお願い事叶えるの大変だものね。そっか。お礼を言えばいいんだ」
千尋が言うと明夫は笑って大きなごつごつした手を伸ばし、彼女の頭を撫でた。
「ま。実を言うと、父さんも母さんもそこまで作法を知らなかったんだけどな」
「そうね。引越ししてから妙にそういうものに対して気を付けるようになったのよね」

手水舎に来ると、父と母がやるように倣い、柄杓で水盤から少しだけ水を掬ってから右手、左手、口を注いでいく。
向かいにいた狐のお面をしていた子も同じ様にお清めをしていた。ふとお面の子どもが顔を上げ、視線が合ったような気がして、千尋は笑みを返した。
そうして社殿の前に立つと、悠子が硬貨を何枚か出して、「千尋の分」と言って、小さな手の平に乗せる。
賽銭箱に入れるとチャリーンと音がした。
二回礼をし、二度手を鳴らす。
『皆、元気で良かったです。有難う御座いました』
と千尋は明夫に習った通りに、心の中でお礼を言うと、もう一度、礼をした。
下げていた頭を上げると、社殿の置くの祭壇に鏡と稲荷神らしき狐の形をした陶器の置物が祭られていた。
「ほら、千尋ぼーっとしないの」
悠子に手を引かれ、千尋は祭壇から視線を外す。
祭囃子と出店の客引き、色んな人の会話がざわめきになり、ざわざわと音を作る。
さわさわさわ。
ドンドンドン。
ピーヒョロロ。
浴衣の老夫婦。親子連れの参拝者が人混みから逃れ鳥居を通り抜けてこちらに歩いてくる。
ジャリジャリジャリ。
鳥居の向こうが赤く煌々と明るく、賑やかな音が零れてくる。
鳥居の中は灯篭の明かりしかなく、社殿の中の明かりが微かに零れて闇を照らす。
鳥居を隔てた向こうとこちらの明るさと賑やかさの差が、まるで二つが全くの別世界のようだった。
鳥居の向こうのその風景を千尋は何処かで見たことのあるような面影を感じていた。
そうして、もう一度社殿を振り返ると、今いる鳥居の中がひどく自分がいつもいる場所とは切り離された空間、自分がいては本来いけない場所のような気がした。
本当に神様のいる場所みたい。
そんな事を思い、少し高鳴る鼓動を抑えながら、鳥居を振り返ると、父と母は既に何時までも社殿から視線を放さない娘を待つのに疲れたのか何処にもいなかった。

じゃりじゃりじゃり。
千尋は慌てて二人を追いかけて、鳥居の外まで駆けて来る。
りんご飴も金魚すくいもヨーヨー掬いにも目を遣らず、ただ二人の影を追って走る。
カッコカッコカッコ。
普段履き慣れない下駄で千尋は走った。
当たり籤も、チョコバナナも、射的にも目もくれず走った。
どれだけ走った、ふと、千尋は足を止めた。
自分はどの位走ったんだろう?
鼻緒が擦れて、指の間がひりひりし始めていた。
周りを見ると、風車屋で色とりどりの風車がくるくる回っていた。
くるくるくるくる。
千尋はもう一度思う。
ここは何処だろう?
本当なら境内の外に一回出てもいいはずなのに。
ドンドンドン。
ピーヒョロロロ。
音が聞えてくる。
歩きながら出店を見ていると、わた飴屋の機械がブーンと無機質な音を立てていた。
出店のおじさんは何処へ行ったの?
カッコカッコカッコ。
千尋の下駄の音が参道に鳴り響く。
あれだけいた人たちは何処へ消えたの?
思って千尋は社殿までの道と、境内の出口までの道を交互に振り返った。
誰もいなかった。
賑わいで歩き難かった参道に人は一人もいなかった。
出店の人間もいなかった。
ただ機械は稼動し、音を鳴らす。フランクフルトは鉄板の上で焼かれ、ジュージューと音を立て、水あめ煎餅屋では煎餅に水あめを塗りつけたまま放置されていた。
太鼓の音と笛の音は聞えてくるが、それさえも逆に千尋の不安を煽った。
ここは何処だろう。
もう一度社殿に進むことも恐れ、外に出ることも迷路のようにループする景色にこれ以上進むたいとも思わなかった。
赤と白の提灯が千尋を照らす。
先程まで吹いていた風さえ止み、自分の世界から自分だけ切り離されたような恐怖がじわりじわりと千尋を蝕み始めていた。
その場にいたくなくて、どうしようも無くて、千尋はもう一度鳥居に向かう。
あそこが始まりなのなら、またあそこに行けばきっとどうにかなる。
それだけを期待して千尋は歩き始めた。
カッコカッコカッコ。
人のざわめきが無い石畳の道は下駄の音を大きく鳴らす。
砂時計屋、鼈甲飴屋、焼き蕎麦屋、クレープ屋。
さっきまで魅力的だったものが、誰もいないだけで、欲しくない物に変わっていた。
灯篭が、社殿の入り口の赤い鳥居を照らし出す。
暗い奥の社殿とその向こうの山から浮き彫りにされたように鳥居の赤さが目に入った。
近付いてみると、誰かがそこに立っていた。
びくりと千尋は思わず足を止める。
自分以外の誰もいないと分かった場所で、自分以外の誰かがいる事に驚いたからだ。
よく様子を伺うと、それは狐のお面を被った着物の子どもだった。
さっきも手水舎であった子だ。
そう思ったら、千尋は安心して、もう一度鳥居に向かって歩みを速めた。
鳥居の前でただ立っているその子どもは千尋を見ても無言だった。
「君も迷っちゃったの?あのね?さっきまで一杯人がいたはずなのに、誰もいないの。どうしてだか分かる?」
千尋が尋ねても、その子どもは何も答えない。
お面をしているから表情を伺う事も出来なかった。
どうしたら良いかと千尋は困って、次に掛ける言葉を考えていると、子どもは千尋の問い掛けに何も答えず、すっと手を上げた。
千尋に手を取るように合図するように。
しかし千尋にはその行動の理由が分からず、やや戸惑う。
けれど振り返っても今この場にいるのは自分とこの子の二人。
きっとこの子も迷ったんだ。だから心細いんだ。
そう思って千尋も手を差し出した。
「うん。分かった。それじゃあ一緒にお父さんとお母さん探そう」
そう言うと千尋はお面の子に笑い掛けた。
ふと記憶の中を過ぎる白い狐のお面。
その狐を何処かで見た気がする。

「千尋!」
伸ばす手が繋がる前に、自分の名前を呼ぶ声に千尋は思わず振り返った。

出店と、提灯の赤と白の明かりに照らされ逆光を浴びる、一人の少年。
白の着物と、肩まで切り揃えた光を浴びると緑色に映える髪。
光が影を作り、表情までは覗えない。
けれど。
懐かしい。
何処かで出会った気がした。

さわさわさわ。
ドンドンドン。ピーヒョロロ。
ざわざわざわ。
少年が千尋の中の記憶に至るよりも先に耳に大量の音が入ってきた。
その音の集合に全て掻き消された。
瞬いて目の前を見つめても、既にその少年の姿は無い。
慌てて振り返っても、狐のお面の子どもはいなかった。
「千尋!」
聞き慣れた声に振り返ると、父と母が不思議そうにこちらを見ていた。
「何処へ行っていたの?突然消えるんだもの」
悠子が心配そうにこちらを覗う。
「ほらやっと出店で買い物ができるぞ。千尋は何が食べたい?」
明夫が笑って早くおいでと手招きする。
千尋は何度も何度も周りを振り返った。
出店の客引き。行き交う参拝者。
千尋と同年代の子ども達のグループ。休憩を取っている出店で働いている青年。
千尋がお参りに来た時と何も変わっていなかった。
赤と白の提灯が風に揺られてゆらゆら揺らめいている。
下駄を鳴らすとカコッと音が鳴り響いた。
ふと。
自分の手を上げて、見つめる。
「神様もお祭りだから一緒に遊びたかったのかな」
「そうだな。こんなに人が集まるなんて、年何回も無いからな。神様だって嬉しいんじゃないかな」
明夫の言葉に、千尋は「そっか。そうだよね」と答えると、もう一度、鳥居の向こうの社殿、その奥にあるはずの鏡と稲荷神の置物を思い浮かべ振り返ると、「また遊びに来るからね」とだけ言って、自分を待つ、両親の元まで駆けて行った。

2007.02.27