補章 命の花―藤の章―
一つの研究室があった。
様々な実験道具が置いてあり、実験データが記録された紙がそこここに雑然と積まれていた。
南向きの窓から春のうららかな昼下がりの優しい日差しが、室内を照らす。
実験室には似合わず、仄かな草の匂いが満ちていた。
ガシャン。
研究室の扉を開け、白衣を着た一人の女性が室内に入ってくる。
頬にあるそばかすが特徴的で、少し硬そうな髪質の髪を一つに括っている。お世辞にも美人とは言えなかったが、彼女の持つ内面の優しさ、強さ、自信が満ち溢れ、見る者を自然と惹きつける空気を纏っていた。
「ああ!もう。こんな肝心な時に忘れるなんて!」
女性はごそごそと机の上に詰まれた大量の書類を漁る。
焦りながらも、ふと、人の存在感を感じ、視線を上げた。
「っ!!」
声は出なかった。
逆に息を飲んでしまった。
そこには彼女よりも少し年下の青年が立っていた。
思わず息を飲んでしまったのは、彼の容貌があまりにも美しかったからだ。
黒曜石のように黒く、それでいて澄んだ瞳。白く整った顔立ち。すらりと伸びた背に、白衣と黒縁の眼鏡が良く似合う青年だった。
モデルでもこんなに綺麗な顔立ちの男性はいないだろう。そう思わせる。けれど女性に間違えるような美しさではなく、男性的な清涼感を漂わせていた。
彼は女性を見据えると微笑む。
その表情だけでどれだけの女性が魅了されるだろうというくらい爽やかで甘かった。
女性も思わず頬を染めてしまう。
一方で知り合いではないはずなのに、何故か酷く懐かしい気がして、旨が一杯になった。
「藤原葉乃さん…ですよね?」
「…はい…」
葉乃は緊張に息を飲み、どうにか答える。
すると青年は更に嬉しそうに笑みを深くする。
「初めまして。藤原さんの論文を読んで感動したんです。今日、その論文で取った賞の授賞式ですよね。おめでとうございます」
「…あ…ありがとうございます…」
今日の受賞式を知って尋ねてきた人だと分かって、葉乃はほっとする。
きっと以前何かの学会の集まりで見かけたから、懐かしさを感じたのだろう。
青年は明らかに安堵で肩の力を抜く葉乃を見つめ、目を細める。
そして彼女の指に目を向けた。
「……藤原さんは今幸せですか?」
「え?」
葉乃は、自分の指が見られている事に気が付き、思わず隠すように手を上げる。
左手の薬指には銀のリングが嵌っていた。
「……はい」
何故そんな事を問うのか分からず、葉乃はただ頷く。
「お子さんは?」
「二人です」
「旦那様は大切にしてくれますか?」
「はい」
何故そんな事ばかり問うのだろう。
そう思いながらも、葉乃は素直に答えてしまう。
青年の瞳の奥が揺れているのを感じたからだ。
それは彼が泣きそうな時の表情だ。
何故だか分からないけれど、葉乃にはそれが分かった。
「…あの…」
「藤原先生!」
葉乃が今度は逆に問おうとしたところで、扉が開き、研究生から声がかかる。
「先生、もう始まっちゃいますよ!」
「あ、はい!今行きます!」
研究生に返答すると、葉乃はまた青年を振り返る。
青年はもう先程の泣きそうな表情からまた微笑みに変わっていた。
「貴方が幸せでよかった……」
そう言って手を差し出す青年がその手の平に納めてたものを反射的に受け取ってしまう。
それは今まで何度も触れてきた---白い花。
はっと顔を上げると、青年は微笑を湛えたままだった。
「先生!」
「はい!行きます!」
もう一度研究生から声を掛けられ、葉乃は手早く資料を手に取ると、研究生の元へ向かう。
振り返ると、青年はその場から動く事無く、微笑を浮かべ、彼女を見守っていた。
葉乃はぺこりと軽く頭を下げると、もう振り返る事は無く、研究室を後にした。
「どうか貴方が幸せでありますように」
扉の向こうを見つめ、青年はそう呟くと、その場から霞のように消えた。