時空の守者-第六章- 命の花ー雪の章6

兼行は一人桜の木を見つめていた。
彼の屋敷の庭にたった一本だけ植えられた桜の木。
これから冬を迎えようとしている季節に枝には葉も花も無い。
兼行は木に手を触れ、目を閉じる。
この木は彼の幸せと悲しみの象徴だ。
母や父と共に過ごした幼少期。真澄や麒麟、里の友人と毎日のように遊んだ日々。
母の死に直面し、己の悲しみを受け止め、同時に母に穏やかな最後を与えてくれた。
兼行の中で生まれた沢山の感情を癒してくれた。
そして顔を上げ、視線を桜から屋敷に移すと、御簾で閉ざされた部屋が目に入る。
そこは藤乃に宛がった部屋だ。
彼女も彼の母のようにこの桜に癒され、慰められればと思い、今の部屋を宛がった。
いつか子どもたちと四人でこの庭で遊ぶのもいい。そして彼の大切な場所であるように、家族の大切な場所になってくれればいい。
都で自分が屋敷を長期不在にする事で与えていた不安や悲しみを癒し、新しい、楽しい家族の思い出を増やしていければいい。
そんな事を思っていた。
己自身の事で悲しませているだろう事は感じていたが、己の持つ異能の力故に傷つけていたとは知らなかった。
もう心を開いてくれる事は無いのだろうか。
そう思うと、ただただ虚無感が全身を襲う。
どうしてこんな事になるのだろう。
何度考えても分からない。
藤乃にどれ程辛い思いをさせていたか分からない。だからこそ謝りたいのに、彼女は会う事も、部屋に入る事も許してくれない。
たった御簾の一枚向こう。そこにいるのに。
兼行は胸に込み上げるものを抑えながら、藤乃のいる部屋を見つめる。
彼は一日の殆どをこの桜の下か、もしくは湖の傍で過ごす。
梛木に忠告されてからは里を訪ねる事も出来ず、人と会う事も憚れた。
屋敷の人間は元々少なくなっていた事もあったが、食事時や所用で申し付ける事がある時以外、兼行の部屋の傍には誰も寄らなくなっていた。
都の屋敷から持って来た、部屋の中に高く積まれた書物は兼行の興味を引くものは無く、そこから得た知識を必要とする機会も場所も失い、今の屋敷に戻ってからは全く手を付ける事が無くなっていた。
ただ桜の木の下で思い出に浸り、湖で持て余した能力を使って、草原の花を咲かせ、湖を揺らす。
それが全てだった。
一人で過ごす兼行が出来るのは、ただ思考する事だけ。
他は何も許されない。
「何故…」
兼行は呟く。
それは彼の最近の口癖になっていた。
「私が望んでいたのはこんな事ではなかったはずなのに…」
彼の手の中から彼の大切にしていたものが全て零れ落ちていく。
「ゆき!」
屋敷の外から突然悲鳴交じりの声で名を呼ばれる。
思考の渦から引き戻された兼行は振り返り、声がした方向へ向かう。
門に寄ると、門衛に止められている梛木を見つけた。
彼は体中が煤汚れており、傷だらけで、ここまで来るのでも精一杯だったのだろう息を切らし、今にも倒れ込みそうなほど苦痛の表情を浮かべていた。
「お前!お前などこの屋敷に入れる身分ではないぞ!」
そう言って門衛は容赦なく梛木を突き飛ばす。抵抗のしなかった梛木は力無く地面に座り込んだ。
「止めろ!」
兼行は門衛を止めると、梛木に近付き、彼の横に屈み込んだ。
「どうしたんだ!?」
尋常じゃない様子に兼行は眉間に皺を寄せ問い掛ける。すると、梛木は彼の胸倉を掴み、顔を近づけると強い眼光で睨み付けた。
「何でまだここにいやがるんだ。お前は。…今すぐこの屋敷を離れて逃げろ」
「どういうことだ?」
「お上がお前に耐えして討伐隊を遣して来やがった」
「――!?」
予測のつかない言葉に、兼行は息を飲んだ。
「俺だけどうにか逃げ出してお前に知らせに来たけど、今頃里の人間皆殺しだ。すぐにここにも来る。手遅れになる前に逃げろ!」
「里は?」
「里はもう滅茶苦茶さ。お前の異能の力にとっくに取り込まれた里だからと里ごと火を放ちやがった」
「…どうして…そなただって家族はっ!」
兼行の問いに梛木は自嘲気味に笑う。
「とっくに死んでる。お前と特に関わりの深かった人間も事前に調べてたんだろ。里の一番山側の奥地にある俺の所に真っ先に来て、子ども二人とも目の前で殺しやがった」
「!」
「俺だけどうにか逃げ出したんだ。多分他の奴らも襲われてる」
「帝がそんな事するはずが…」
未だ語られる内容が信じられず、戸惑う兼行に梛木が冷ややかな眼差しを向ける。
「勅命だって。国に害を為す化け物を狩る為に下されたって。何とかって名乗ってた男が言ってたからな」
『化け物』。
兼行は息が止まる思い出、その言葉を繰り返した。
そして意を決したように視線を上げると、立ち上がる。
今にも走り出しそうな彼の衣の裾を梛木は慌てて掴んだ。
「何処へ行く!?」
「皆を助けに行く!」
「馬鹿かお前は!何の為に俺がここに来たと思ってるんだ!」
「今ならまだ救える命だってあるだろう!?それにその勅使とやらを止める事が出来るのは私だけだ!」
「その力を使ってか!」
その問いに、兼行は当然と言わんばかりに大きく首を縦に振った。
途端、返されたのは罵声だった。
「だから馬鹿かお前は!!何の為にその力を使うんだ!?んな力まず最初に何に使うって言ったら、家族を守る為にに決まってるだろうが!」
兼行は動きを止め、目を見張った。
「その為に俺はここまで来てやったんだぞ。子どもだってカミさんだって、この家で一緒に暮らしてる人間だっているんだろ?何かでかい事やるよりもまず家族を守らなくてどうするんだよ!そんで余裕があんなら他の人間を助けろ!」
「――!」
真っ直ぐに自分を見据える瞳に対して、兼行の瞳の置くにはそれでも戸惑いが揺れていた。
「早くしろ!」
「…どうしてそこまでしてくれるんだ?」
自分だって家族を失って辛いはずだ。自分の命だってどうにかギリギリ一命を取り留めて逃げ延びてきたはずだ。それなのに何故また命の危険を冒してまで態々全ての原因であり標的である人間に危険を知らせに来るのだ。
兼行は彼の為に何もしていない。しかも人生そのものを壊すような被害ばっかり与えていたのに。
そんな兼行の迷いを知ってか知らずか、梛木は苦笑すると、「馬鹿だなぁ」と呟く。
「ダチだからに決まってるだろ」
その言葉に兼行は目を見開き、顔面をくしゃくしゃにして喜んでいるような泣き出しそうな複雑な表情を見せた。
そして、今度こそこくりと頷くと、彼の後ろで動揺した様子を見せていた門衛に彼を屋敷内に匿うように告げ、一目散に彼がずっと入ることの出来なかった部屋、――押し入ることはいつでも出来たがしなかった部屋へ向かう。
廊下と部屋を区切る御簾の前まで辿り着くと、動きを一瞬止める。己の手の見ると微かにカタカタと震えていた。
緊急事態だと分かっていても、それでもこの御簾の向こうへ入る事は躊躇われた。
自分を拒否、否定するどんな言葉をこれから投げつけられるかと思うと、未だ震える。
そんな己自身の恐れを振り切って、兼行は口を開く。
「藤乃。入るぞ」
入って最初に目に入った光景に、兼行は己の目を疑った。
藤乃付きの女房たち、聡里が彼の足元に正座をすると、深く叩頭する。
「…これはどういう事だ…」
薄暗い部屋の中、藤乃は寝台になる畳の上に横たわっていた。
体は細く痩せこけ、顔色は青白く、この屋敷に移る前の時よりも更に容態は悪くなっていた。
子どもは別の部屋にいるのだろう。この部屋にはいなかった。
兼行は真っ直ぐに藤乃の横に向かい、屈むと、細くなった彼女の手を握る。
「藤乃…」
声を掛けると、目を閉じていた藤乃はゆっくりと目を開け、目の前の己の顔を心配そうに覗き込む夫を見た。
そうして兼行の姿を認めると、瞳から涙が溢れ出し青白い肌をぽろぽろと零れていく。
「…申し訳ありません…」
「何故謝るのだ?謝らなければならないのは私の方なのに」
「いいえ。いいえ。…私は貴方を化け物と罵ってしまった。申し訳ありません」
うわ言のように「申し訳ありません」と謝り続ける藤乃に兼行は困惑し、彼と対面するように藤乃の横に座っていた聡里に視線を上げ、目で彼女に問う。
「先日の…気が動転されていたとはいえ、兼行様に脅え、罵った事をずっと後悔されていて…謝りたいと……私がお伝えしましょうかと言ってもご自身から伝えると仰って…」
「それで、どうしてこんなにも憔悴しているのだ?私に言ってくれれば…」
「兼行様のお力を一度でも嫌悪し、拒否してしまったのにその力でまた治して頂く事などできぬと…」
兼行は藤乃を再度見下ろし、掴んだ手をぎゅっと握り締める。
「そんな事私は気にしない!どうしてすぐに言ってくれなかったのだ!?」
温かくいつも彼を癒してくれた手は、冷たく細くなり、彼女の皮と骨の節々の硬い感触を伝えてくる。
「直接自分から言うから、それまでは会えない。こんな状態の自分を知らせて、また心配をかけたくないと」
「…どうして…」
自分は彼女に見放され、嫌悪の対象となってしまったのだ。そうずっと思っていたのに。
沢山の誤解をしていたのだ。
言葉にならない気持ちばかりが兼行の胸の中に渦巻く。
「兼行様!里の人間が!」
いつまでも逃げる準備をするでもなく、外にも出てこない兼行に焦れたらしく、門衛が御簾の向こうから声を上げた。
その声に、自分が今置かれている状況を思い出し、兼行ははっと顔を上げる。
軽く手を上げると、御簾が一気に開き、目を見開いてこちらを見る門衛と目が合う。
その後ろからばらばらと命からから逃げてきたのだろう、身なりが汚れ煤け、体中が傷だらけの者たちが男女問わず庭に入ってきた。
兼行はその人間の中に知ってる人物を見つけた。
「かえで!」
「ゆき!どうか助けて!この子が!私の子が!」
叫ぶ彼女の腕には黒いものが抱かれていた。
姿はどうにか人の形をとどめているが、全く動かない。
かえでは躊躇無く階を上ると、その黒くなった子どもを兼行に差し出す。
周囲の女房たちからは悲鳴が上がった。
兼行は彼女の腕の中の子どもと呼ばれるものを見るが、彼の目から見ても明らかに既に絶命していた。
「かえで…。無理だ。死んでいる…」
「だったら生き返らせてよ!」
「できない。死んだ人間は生き返らせられない。残念だが…」
首を振る兼行にかえでの表情はすがるような必死の表情から一気に怒りに変わった。
その変化の瞬間を見た兼行は鬼となるというのはこういうものかと冷静に思った。
「あんたのせいで!あんたのせいで皆殺された!あんたのせいで!」
噛み付くように叫び、襲いかかろうとしたかえでを後ろに構えていた門衛が押さえる。
彼女が豹変すると同時にまだ階の下で流れを見守っていた里の者たちも一斉に喚き出す。
「お前が来たからお上が俺たちを殺しに来たんだ!」
「お前が来なかったら!」
「お前がいなかったらあんな飢えだって起きなかった!お前のせいであの時から全部狂ったんだ!」
「死ね!」
「死んで償え!」
それはまるで都で農民に襲われた時の光景の再来。
彼らは階を上り、兼行に襲い掛かる。
兼行は顔を顰め、それからはっとして藤乃を見た。
彼女は床から動けないまま天井を見上げ、ただ無表情に泣いていた。
彼女だけでもこの場から逃そうと後ろに控えていた女房たちを振り返るが、聡里も女房たちも真っ青になって目の前に起こっている光景を見つめ、動けずにいた。
その時、今度は屋敷内からドタンバタンと大きな音が立て続いて起こる。
屋敷が破壊されているのではないかと思えるくらいあまりにも大きな音に、今にも兼行に掴みかかろうとしていた里の人間たちの動きが止まる。
その間にもガタンと大きな音と共に悲鳴が重なり始め、それが徐々に迫り来る恐怖の予感を助長させていた。
つい今まで怒りの形相をしていた者たちが一人また一人と脅えの表情に変わり、上っていた階を降り始める。
次の瞬間、里の者が引き下がった庭のほうから火の手が上がった。
「!?」
無数の火の矢が屋敷を取り囲むようにそびえる壁を越え、家屋に向かって放たれ、それが屋根に刺さり火をつける。
事態を悟った里の者たちは悲鳴を上げてちりじりに逃げ始めた。
火の矢の後に庭に甲冑に身を固めた兵士たちが入ってくると、彼らは一斉に刀を抜き、逃げ惑う里の人間たちに容赦なく斬りかかった。
我を取り戻した聡里が立ち上がり、藤乃が起き上がれるように支える。
「行久と結乃が…」
藤乃が憔悴している体の何処にそんな力があったのか、兼行の手を掴み、訴える。
兼行はサッと青くなると立ち上がった。
途端。
バン!と勢い良く部屋を区切っていた几帳が吹き飛ばされる。
兼行は咄嗟に藤乃を庇うように彼女の前に立った。
「兼行様ですね」
目の前に現れた人物を見て、兼行は目を見張った。
黒い甲冑を血で濡らした男がそこに立っていた。
手にした刀はそれで既に幾人も斬ったのだろう、刃がぼろぼろになり、固まった血糊が黒く変色し始めている。
兜の奥から覗く双眸は血に飢えた獣如く紅く充血して獲物を求めていた。
その目には覚えがあった。
「…まさか…」
兼行が呟くと、男は口の端を上げ、にたりと笑う。
「覚えて下さっているとは光栄です。兼行様」
忘れる事は出来ない。
一度目は畑の畦道で。
二度目は内裏内で。
この男は自分を憎み、自分を殺しに来た。
「吉郎…」
名を呼ぶと、男は嬉しそうに笑った。
「帝の命により貴方の命を頂きに参りました。ああやっと正々堂々と貴方を殺せる」
「兼行様!お逃げください!」
門衛が太刀を抜き、吉郎に襲い掛かる。
が。
「止めろ!」
兼行の制止は間に合わず、門衛はあっさりと切り捨てられた。
女房たちが目の前の惨劇に悲鳴を上げる。
この男は麒麟の手解きを受けている。
それは並の人間には太刀打ちできない腕を持っているという事を、兼行は内裏での戦いの時に理解していた。
そして改めて衝撃を与える男の言葉が彼の胸に刺さる。
『帝の命により貴方の命を頂に参りました』と。
梛木の言った通り、自分は朝廷の敵とされた。
帝に不必要だと宣告されたのだ。
その事が未だ信じられずにいた。
「子どもたちは!?私の子どもたちは!?」
藤乃は兼行の腕をぎゅっと握り締め、吉郎に問う。
すると吉郎は楽しそうに笑った。
「子どもたちは無事ですよ。まぁそこにいた女は殺してしまいましたけど。まだ子どもたちには利用価値がありますから」
そう答えた吉郎の後ろから二人の子どもを抱えた、彼と同じく甲冑を纏った男が現れる。
腕の中の子どもたちはこの状況を察知しているのか手足をばたつかせ泣き続けていた。
「返して!その子たちを返して!」
藤乃が吉郎に掴みかかろうとするが、兼行は制止する。
「無理です。貴方も貴方のご主人もここで死ぬんですから。帝から思い通りにならない道具はいらないと。思い通りにもならず朝廷にとって不穏分子にしかならないただの化け物などいらないと言われてきました。――その分、子どもは素直ですからねぇ。力を持っているか分からないが、取り敢えず育ててみる価値があるから連れて帰れとのご命令です。俺としては家族全員皆殺しにしていいと思うんですがね」
尊敬していたのに。
兼行は唇を噛む。
確かに清廉潔白な人物ではない。
政の為になら汚れた事も平気でするし、奸臣の裏をかいて逆に使い捨ての駒にして陥れる事だってする。
それでも、どんな事にも柔軟で豪胆なあの帝を尊敬していたのに。
いや。彼が兼行に見せていた表情さえも兼行を手元の駒として置いておく思惑の内だったのかもしれないが。
ゴゴゴゴゴ。ゴォン!
梁が焼け、天井が勢い良く落ちる音が聞こえる。
それが兼行の意識を目の前にある現実に容赦なく引き戻す。
大きな衝撃音に皆の意識が一瞬逸れたの機に、それまでじっとしていた聡里が動き、吉郎の横をすり抜けると、行久と結乃を抱える男に飛び掛る。
「聡里!」
彼女の動きに気付いた兼行が声を上げるが、既に遅かった。
シュン!
空気を切り裂く音が一瞬響いたかと思うと、彼の目の前で聡里の胴と下半身は二つに分かれていた。
「聡里!」
藤乃が悲鳴を上げる。
聡里自身の最後の声が上がる事無く、ぐしゃりと鈍い音を立てて床に体は叩きつけられた。
刀を振るった吉郎は無表情に崩れ落ちるそれを眺め、そして腕を振った。
瞬間、兼行は身を引く。
ブォン!
先程とは違った激しい風切音と共に、刃が彼の目の前を通り過ぎる。
しかしそれで吉郎の追撃が終わる事無く、二、三度と攻撃が繰り出される。
吉郎は嬉々として刀を振り下ろし、そして逃げることしか出来ない兼行をせせら笑った。
「俺はなぁ!一度は獄舎に入れられたがお前を殺す為に出してもらったのさ!お前を倒せるのはお前と同等の力を持った奴に手解きを受けた俺ぐらいだからな!」
ブォン!
藤乃を背に庇いながら身を引く兼行には分が悪く、廊下の端まで追い遣られる。
階を降りたその向こうには彼を討伐する為に来た他の兵士が構えている。
「この化け物が!死ねぇっ!」
最後の一振りとばかりに振り下ろされた刀を、兼行は身を反らしてかわす。
――が。
太刀筋から逃れきるには足場が足らず、逃げ切れない。
ザン――。
同時に彼を庇うように前に出た藤乃は肩から斬りつけられた。
「っ!?藤乃!?」
叫び、藤乃の肩を抱えながら兼行は階を一段降り、そして目覚しい跳躍力で目の前にある桜の木の上へと飛び移った。
「藤乃!藤乃!」
腕の中でどんどん冷たくなっていく妻に必死に声をかける。
藤乃は苦しそうに瞳を開けると、兼行を見つめ、微笑んだ。
「他の人が何と言おうとも、貴方はこの国で必要なお方です。どうか生きて…」
兼行は藤乃の傷口に触れ、一瞬にして傷を消す。
しかしそれでも彼女の体は更に体温を失っていった。
「何故だ!?何故!傷は治したのに、どうしてまだ回復しない!?」
動揺する兼行を余所に、木の下では兵士たちが再度炎の矢を構え、非情に放ってきた。
桜の木が燃え始める。
兼行は木の下から彼らを睨みつける吉郎を睨み返す。
そしてその彼の背後で燃え盛る屋敷を見つめ、既に全体が真っ赤な炎に撒かれている屋敷と共に、優しい思い出の詰まったこの場所は失われてしまったのだという現実を突きつけられた。
何故。
何故こんな事になるのだ。
自分が何をしたというのだ。
何故こんなにも憎まれなければならない。
兼行はただ歯を食い縛り、次に鉄の矢で自分を的に狙う兵士たちを睨みつける。
ただ。
人の為。民の為。国の為にと懸命に帝に仕えてきたのに。
この仕打ち。
誰が悪いのだ。
異能の力を持って何が悪い。
その力を使うのを望んだのは彼らではないか。
兼行が力を使ってやると奇跡だといって喜んでいたではないか。
今ここにある状況が、彼ら愚かな人間の答えか。
「放て!」
吉郎の号令を合図に、一斉に兼行に向けて矢が放たれる。
瞬間。
それらを遮るように桜の花が舞い吹雪き、まるで霞のように満開の花を咲かせると兼行と藤乃を覆い隠した。
そして何事も無かったかのように大木を燃やしていた炎は掻き消え、原型を最早留めていなかった屋敷は整然と元の姿を取り戻していた。
冬になろうとするこの寒い季節に桜の花が咲き乱れ、兵士たちを一瞬にして幻想の世界へ誘った。
全てが一瞬の出来事だった。
何が起こったのか状況に付いていけなかった兵士たちは驚きの声を上げ、おろおろと一変してしまった周囲を見渡した。
吉郎もそれに漏れず、周囲を見渡した後、はっとして桜に近付くと、兼行が立っていた場所を遮る桜の花弁を除く様にして目を凝らす。
そして愕然とした。
「咎人が逃げた!追え!殺せ!」
ギリギリと歯を食い縛り、怒りの矛先を桜に向け、刀を抜くと巨木を切りつけた。


日は傾き始め、空を紅く染めた夕日が湖面に映り、天と地に赤の世界が広がる。
秋の空に流れる薄く細い雲が幾重にも重なり、紅の紗を作り出す。
影を帯び始めた草原には兼行が先日咲かせたままの花が冷たい風に揺られながらまだ瑞々しく咲いていた。
草原に下りた兼行は遮るものなく吹き付ける風から守るように腕の中の藤乃を抱え込んでその場に屈んだ。
どんどん体温は下がり、白い肌が色を失っていく藤乃の様子に焦り、兼行が彼女の肩を揺する。
「藤乃!藤乃!」
藤乃はゆっくりと目を開けるが、兼行を見上げると力無く笑う。
口元が何かを伝えようと僅かに動くが、兼行には読み取る事が出来なかった。
「どうして!どうして治そうとしているのに少しも回復しないんだ!?」
兼行は懸命に藤乃の体を擦るが、彼女の体力が回復する様子は少しも見せない。
必死に彼女を救おうとする兼行の姿を藤乃はただ見つめる。
手を伸ばそうとするが、手に力が入らず、ぱたりと地面に落ちた。
その事に気付いた兼行は藤乃の手を掬い上げる。その拍子に白い花がぽとりと彼女の掌に落ちた。
「…傷は私の力で治せるのに…。そなたの病も治せればいいのに…」
藤乃の掌から花を摘み、彼女に見えるように翳してみせる。
「…この花は全身の切り傷に効くんだ……私に出来ない事なんてもう無いと思っていたのに…」
藤乃の呼吸が段々と弱くなっていく。
「そなたがこのまま死んでしまったら私はどうすればいい。私はまだそなたを幸せにしていない!子どもだってこれから成長してく、家族を幸せに守っていこうと願っていたのに!」
段々と兼行の声が掠れ、嗚咽に変わっていく。
その間に藤乃の瞼は閉じられ、呼吸はどんどん少なくなっていく。
「私はいつだって人の為に家族の為に精一杯生きてきたつもりだ!なのに何故、こんな残酷な事が起こるんだ!?私は誰よりも特別な力を持っているはずなのに!何故誰も幸せに出来ない!?」
兼行は狂ったように叫び続ける。
「何故!?何故!?何故!?何故!?何故!?何故!?何故!?」
いつだって己の幸せよりも多くの人の幸せを願った。他人の幸せを願ってきた。家族、里の人、家人。
その為に己の体や心が犠牲になる事だって厭わなかった。
この異能の力で己のみの幸せを願った事なんてない。
全力を注いだ。命だって懸けた。
全て国の為、民の為、全身全霊を懸けて生きた。
「何故!?何故!?何故!?何故!?何故!?何故!?何故!?」
己の内にある力を、魂を分け与えるように藤乃を抱き締め、力を注ぐが、藤乃の体は冷たくなっていく。
「私の何が足りない!?私の何がいけないんだ!?正して彼女が救われるのなら誰か助けてくれ!!」
紅い紅い空に向かって叫ぶ。

――――トス。

その時、背にちくりとした痛みを感じた。
振り返ると、己の背に一本の矢が刺さっている。
何が起こっているのか分からなかった。
呆然としながら、何処か冷静にその矢を見つめる。
ふと、前方に気配を感じて見上げた。
紅い太陽の逆光で影井なる黒い塊。
赤い空に突き上げられた鋭い直線は、彼に向かって振り下ろされていた。
黒い塊の中で唯一光る――太陽よりも紅く充血した眼。
それがぎょろりと兼行を鋭く見据え、にたりと笑みの形をした黒い唇が彼の脳裏にゆっくりと浸透していった。
「死ねぇ!化け物!」
爆音に似た呪いの言葉が、彼の鼓膜を微かに振るわせた。
今になって、内裏が襲われた時に帝と麒麟が交わしていた言葉の意味が分かった気がした。
あの時から―――帝は既に計算していたのだ。
全てを終わらせる方法を―――。

世界が真っ白に染まった。