己の屋敷へ数ヶ月ぶりに帰った主を迎えたのは、聡里だった。
「兼行様!お帰りなさいませ!」
開口一番何処か焦燥感を帯びた声を発し、聡里はばたばたと近くにいた女房や下男たちに食事や着替え等の指示を始める。
そして何者かに急かされるように、そわそわと屋敷の奥を振り返っては兼行を一刻でも早くその奥の部屋へ案内しようと必死だった。
「暫くぶりの主の帰りなのに聡里は落ち着かないな。どうした。何かあるのか?」
兼行の問い掛けに、聡里は顔を強張らせると、苦悶の表情に変わり、消沈する。
「…実は藤乃様のお体が余りよろしくないのです」
「藤乃は!?」
「…寝殿でお休みになっておられます」
「どうしてすぐに知らせなかった!」
言い辛そうに答えた聡里を責めるように叫んだ後、兼行は言ってから口篭る。
その理由は何よりも自分が一番良く分かっていたからだ。
「すまない。私は様々な場所を転々としていたのだ。連絡を入れずに。そんな私を見つけて尚且つ捕まえる事等出来ぬな…」
兼行は軽く唇を噛むと、一目散に藤乃の元へ向かう。
几帳で遮られた向こうで横たわっていた彼女の姿を見ると、彼は愕然とするしかなかった。
枕元で微かに揺れる蜀台が藤乃の顔を照らす。
元々白い肌ではあったが、赤みを帯びた蝋燭の明かりでも白く見えるほど白くなった藤乃の肌を映し出した。
「藤乃!」
兼行はそんな彼女の姿にいても立ってもいられず、駆け寄ると、抱き締めた。
抱き締める腕から伝わってくる彼女の体の細さ。
女性独特の柔らかさは失われ、折れそうなほど細くなった腕や腰。
彼女は突然自分に触れる温もりに気が付くと、ゆっくりと目を覚まし、温もりの正体を確認するとにこりと微笑んだ。
「兼行様…」
痩せ細ってしまったのに気丈に笑う藤乃に、兼行は万感の想いと共にぎゅっと彼女を強く抱き締める。
「すまない。私が長く屋敷を空けていたばかりに、藤乃がこんな状態になるまで気付かないなんて」
藤乃は今にも泣きそうな夫の手を取り、首を横に振る。
「お帰りなさいませ。兼行様」
そうして笑う藤乃に兼行は表情を歪め、彼女の胸元に顔を埋めた。
「帝に暫くの間、暇を頂いたんだ。少しゆっくりしよう。私が子どもの頃過ごしていた屋敷へ行こう。あそこは都のように華やかなものは無いが、何よりも美しい景色と、優しい人たちがいる小さな里がある。そこで養生しよう。きっとまたすぐ元気になれる」
こくりと頷く藤乃に兼行は少し笑うと彼女を再び褥に寝かせた。
彼は暫し沈黙し、再度手を伸ばすと藤乃の頬に触れる。
途端、先程まで青白かった肌が赤みを増し、憔悴していた表情が柔らかくなった。
その変化を確認すると、部屋の外で待っていた聡里は兼行を仰ぎ見る。
「藤乃様は?」
「大丈夫だ。…けれどあれは私の力では治せない」
聡里は藤乃の安否を確認し、ほっとするが続けられた言葉にはっとすると俯いた。
その表情の変化を見ていた兼行は「やはり」と呟く。
「そなたには分かっていたのだな。あれは病ではない。何か精神的な疲れからくる体力の衰えだろう」
「…はい」
「何があった?」
掛けられる問いに聡里は沈黙する。
兼行には何となく想像できていた、今目の前の聡里の様子は彼の予測どおり、暗に原因が彼自身にある事を物語っていた。
「…私の異能の力のせいか?」
聡里は主人を非難する言葉を発する事は出来ないだろう。そう察した兼行は自ら問う。
彼女は驚いて、彼を見上げ、そしてやはり目を伏せた。
「…どうかそのお力を使われるのを控えて頂けないでしょうか?その力が無くとも、兼行様は聡明でいらっしゃるではありませんか。帝は異能の力が無くとも兼行様を必要とされています」
非難する事は出来ない。それでも願い請うその言葉は兼行の問いを肯定していた。
兼行は唇を噛む。
今の彼には何も言い返す事が出来なかったのだから。
多くの人の命、心を惑わし、犠牲を払ってしまった事実。
己の妻を苦しめてしまった事実。
それは確かなのだから。
「異能の力を使い過ぎた故に帝から暇を与えられてしまった。この際だから暫し藤乃の療養も兼ねてあの里へ戻ろうと思う」
最早、内にある感情をどう表現したいのか自身でも分からないまま兼行は聡里に呟いた。
聡里は「畏まりました」と短く答えるとその場を離れた。
翌日から引越しの作業が始まり、その中で日に日に家人が減っていくのが目立ち始めた。
妻の屋敷から共に来た家人なら仕方が無いと思っていたが、兼行が前の都へ映るときに共に移ってきた馴染み深い人間まで次々と行方をくらまし始めた。
妻の侍女が減り、舎人が減り、里への出立の用意が出来上がる頃、屋敷で遣える人間は片手で数えられる程になってしまっていた。
「随分と少なくなってしまったものだな」
家財道具が無くなり、すっかり空になってしまった屋敷を見つめ、兼行はぽつりと呟く。
かつてこの屋敷に移り住んだばかりの頃の賑やかさは今もはっきりと思い出せる。
まだ父親がいて。
真澄がいた頃。
屋敷の人間も外の人間も農民、貴族、身分関係無く、様々な人間がこの屋敷を訪れていた。
毎年秋の実りを置いてくれていった農民たちの足も途絶え、この屋敷で行っていた祭りも数年で廃れた。
家人も減り、己の元に残ったのは家族と数人の家人だけ。
「兼行様。支度が整いました」
残ってくれた聡里から声がかかる。
「ああ」と答え、振り返ると、数人の男たちが家財道具を乗せた荷台の最終点検をしている姿が目に入った。
人手が足りず、里までの長い旅で荷台を運んでもらう為雇い入れた者たちだ。
藤乃は既に子どもたちと牛車に乗り込んでいるらしい。
「聡里。別に彼らを雇わなくとも、私が力を使えば一瞬なのだが」
何度も言ったがその度に断られた提案を兼行は改めて口にすると、答えはやはり同じで聡里は首を横に振った。
「いいえ。兼行様。私たちには二本の足が付いているのです。その足でこの地に足を踏み入れました。帰る時も同様です」
「しかし」
「ご自身が均したこの地をしっかりと目に焼き付けていってくださいませ」
「そうか…。そうだな」
自分がこの地に訪れるまで、枯れた大地が続き、僅かな実りは貴族に搾取され、飢えと貧困が満ちていた。
それを己にしか使えない能力を使い、全てを組み替え、緑の大地に変えた。
それは確かに、己の能力が人の為に正しく行使できた証だ。
反省はあるけれども、その時己が出来る最大限の事をした。それを誇りに思わなくては。
兼行は牛車に乗る事を勧められたが、断り、牛車の横を歩き始めた。
あの時と同じように。
目の前に広がるのは元々枯れた大地。
最初に蘇らせたのは兼行。その後豊饒な大地にしたのは真澄。
ふと、農民の一人と目が合ったが、すぐに逸らされてしまった。
彼らとの関係を壊したのは兼行。
それでも兼行が行動を起こさなければ、真澄はこの地を豊かな土に変える事はしなかっただろう。
兼行が真澄に与えられた技術を他者にも分けて欲しいと願わなければこの近隣の土地は今もこの一部の場所を除き、枯れた大地が続いていた事だろう。
今は周囲何処を見ても緑が続き、蛙や虫たちが楽しそうに歌っている。
これがこの地で兼行が残したものだ。
兼行は青く高い空を見上げ、――消えてしまった真澄を思った。
―――これでいいんだ。
5
数年離れていた屋敷は、先に向かわせていた者に手入れを任せていた。それでも一度人間が住まなくなってしまった家屋は老朽化が早いと言われているが将にその通りで、兼行が到着した時点でも修繕作業が追いつかず、まだ幾つかの室は手が付いていない状態だった。
外観も以前彼が住んでいた頃よりも、随分と寂れている。
「こちらが兼行様が幼少の頃過ごされていたお住まいですか?」
牛車から降りた藤乃は目の前に佇む新居に驚きを隠せずにいた。
「藤乃の容態も考えて本来かかる時間より時間をかけて修繕していたのだけれど、全てに手を入れる事までは難しかったらしい。ほんの数年前暮らしていた時はもっと柱や屋根も新しく見えたものだが」
兼行は苦笑しながら藤乃を見る。
藤乃は一時よりずっと顔色が良くなり、以前より笑うようになっていた。
腕に抱える二人の子どもたちは不思議そうに二人を見上げる。
「ゆき!?」
突然背後から懐かしい呼び名で声を掛けられ、兼行は振り返る。
周囲には貴族の引越しという事で、数日前から人が慌しく出入りするようになった屋敷に興味本位で近隣の里の人間が野次馬に集まっていた。その中から声がかかり、兼行は驚くが、声を掛けた人物を認めると笑った。
「梛木!」
腕に抱えていた結乃を抱え直し、兼行は彼に近付く。
里の人間は一斉に梛木に視線を集め、こちらに近付いてくる貴族に距離を取るようにざわざわと二人を囲む形で間を作った。
兼行がこの土地を離れたのは、まだほんの数年前の事だ。里の人間の中には未だ兼行を覚えている者たちがざわざわと、「やっぱ兼行様だ」、「本当に兼行様か?」等互いに囁き合う。
周囲の問いにはあえて答えず、兼行は一直線に梛木の元へ寄ると、にこりと笑う。
「久し振り…」
「お前、どうして帰ってきた!?」
目の前の人物は数年前と少しも変わらぬ姿で、ただ以前よりも濃くひげを伸ばし、年齢を重ねた威厳を発していた。
彼は兼行を見据えると、眉間に皺を寄せ、数年ぶりの旧友との再会に発した言葉は一喝だった。
兼行には何故彼がそんな事を言うのか分からず、眉間に皺を寄せた。
戸惑う兼行に気を止めた様子無く、梛木は彼の肩を掴むと、ぎゅっと力を入れる。
「悪い事は言わない。今すぐにでも都に戻れ」
「しかし…」
「里全体に名が広がる前に、すぐに都へ戻れ」
「都には…」
「都が駄目なら他の土地でもいい。ここじゃない場所へ移れ」
「ちょっと待ってくれ!」
捲くし立てるように自分を追い出そうとする梛木に苛立った兼行は彼の言葉をやや声を荒げて制止する。
「どうしたんだ!梛木!折角帰ってきたのに喜んでくれないのか!?折角の再会を喜んでくれないのか!?」
兼行は詰め寄るが、梛木は何も答えず、ただじっと彼を睨みつける。
「ふぇぇぇぇ」
睨み合う二人の間で、それを妨げるようにずっと大人しくしていた結乃が泣き始めた。
兼行は我に返り梛木から視線を逸らすと慌てて腕の中の結乃をあやし始める。
じっと見つめていた梛木は「お前の子か?」と問うと、兼行はこくりと頷く。そして次に顔を上げ、兼行の背の向こうで心配そうにこちらの様子を伺う藤乃を見ると、「お前の嫁さんか?」と問い、兼行はまた頷いた。
兼行が後ろを振り返ると、藤乃も二人のやり取りを見て脅えたのだろう、青褪めながらこちらを見ている。
「真澄はどうした?」
次いで聞かれた問いに、兼行は一瞬動きを止め、そして「いない」とだけ答えた。
梛木は一瞬目を細め、何かを考えているようだったが、兼行はそれに気付く事無く、腕の中の子をあやし続けた。
「なぁ。お前今時間あるか?」
梛木の問いに兼行は顔を上げ、少し考えると、「ああ」と答える。
「だったらその子を誰かに預けて来い」
兼行は梛木を見上げ、暫し見つめるが、彼の真意を読み取る事は出来ず、「ちょっと待ってくれ」と答え、傍にいた女房に結乃を預けると、既に歩き始めていた梛木の後ろに続いた。
屋敷の裏手に広がる森、子どもの頃毎日のように通った道。それを辿るように兼行は梛木に連れられてどんどん深くなる森の中に入っていった。
それでも以前より開けて感じるのは自分たちが成長しただろうか。兼行は思う。
鬱蒼とした背の高い草が微かに覗く程度だった獣道が唯一の道筋であった地面も、何処までも空高く伸び昼を夜に変えるが如く乱立し天まで届こうとしていた木々も、全てが以前見た光景よりも小さく見える。
兼行は懐かしさを感じながら、更にこの奥にある場所へ、恐らくは最終地点であろう場所へ思いを馳せていた。
一方で何度か梛木に声を掛けてみたりもしたのだが、返事は一切返る事はなく、兼行はただ昔の面影と今の目の前にいる彼を被らせて懐かしさに囚われる自分を慰めていた。
森の奥、突然開かれた場所に出る。
遮られていた太陽の眩しさに兼行は一瞬目を眩ませるが、すぐに慣れ、眼前の風景に溜息が漏れる。
目の前に広がるのは大きな湖。
兼行と真澄が初めて出会った場所だ。
水の色も周囲に広がる草原も、その中でぽつりぽつりと彩を添えるよう花たちも何も変わらない。
「変わらないな…」
ぽつりと言葉を漏らす。
何一つ変わらない風景に見惚れる兼行に梛木は溜息を吐くと、彼に向き直った。
「お前も変わらないな」
先程までの常に棘のなる厳しい口調から柔らかくなった梛木の言葉に、兼行はほっと胸を撫で下ろす。
「やっと昔のお前の口調だ」
言われて梛木は一瞬目付きをきつくすると、すぐに苦笑に変わった。
「そうか。…そうだな」
兼行には何故そんなにも曖昧な表情をするのか理解出来なかった。
「聞いてもいいだろうか。どうして私にこの地から離れろと言ったんだ?私はそなたを友だと思っていた。だからこの地へ帰ってきたらきっと喜んで迎えてくれるだろうと思っていた」
梛木を真っ直ぐ見据え訴える兼行に彼は暫く沈黙すると、また苦笑した。
「そうだ。友だちだと思っているから、離れろと言ったんだ」
「どういうことだ?」
兼行は眉間に皺を寄せる。
梛木は理解できないという彼の表情を読み取ってから、ふと視線を目の前に広がる草原へと移す。
「お前、昔、ここで異能の力を引き出す練習してただろ。よくこの花を集めて持って来てくれたよな」
そう言って梛木は足元に咲いていた花を一つ摘むと、掌で遊ばせる。
手の中の白い花。
薬草になるという事で、その辺の名もない草花を成長させるよりも有益になると選んで兼行はよく成長させては一気に刈り取って、目の前の青年に渡していた。
「そうだな。それがどうかしたのか?」
「元々この場所でこの花が咲くのを知っていた。けどそんなに沢山咲く花じゃない。本当ならこの場所で毎年咲くのもこの程度だったんだろうな」
兼行は周囲を見渡し、ぽつりぽつりと姿を見せる白い花を見て、確かに梛木の言う通りだと頷く。
本来はそれ程強い繁殖力を持つ花ではない。あくまで兼行が己の力を上手く引き出すために、そして人の役にも立つからと大量に咲かせていただけだ。
「そうだよな…それでもそれを納得するまでには随分な時間が必要だったんだ」
梛木は兼行を見上げ、そしてまた苦笑する。
「ゆきがこの土地を去った後、当たり前だけど収穫は格段に減った。そして噂が流れ始めた。
――ゆきが全て採り尽くしたから花が咲かなくなってしまったんだって」
「それは違う!」
「誰がそれを信じられる!?里の人間は皆真澄の事、麒麟の事を知ってたし、ゆきが異能の力を使えるようになり始めたのも知っていた。お前たちが俺らにその力を使って花をくれたのも知っている。それでもお前たちがいなくなって全然採れなくなった。お前たちが本来沢山咲かない花を無理やり沢山咲かせて採ったせいで元々毎年咲いていた花さえも咲かなくなってしまったと思ったって仕方がないじゃないか!」
「けれど私たちのせいじゃない!」
「それをどうして言い切れる。――俺たちはな、信じているんだ。真澄も、麒麟も傍にいたし、そんな事する奴でもないし、そんな理屈なんか通るような力じゃないってのは。けどお前たちの事を良く知らない奴だっているし、その力を嫌っている奴や、信じない奴、憎んでる奴だっている」
「そんな…。けれど!」
反論しようとする兼行を梛木は制止する。
「俺だってお前たちがいなくなった最初の頃はまさかと思いつつもそうしか考えられなかった。俺なんか一気に金が入らなくなったしな。…まぁお前らに貰ってた物に頼ってたのも悪いんだけどよ。けど実際自分で採りに行ったら全然採れねぇ。昔からそうだったのかも知れねぇけどそんなの分かんねぇし、お前らが採った後から減ったとしか思えねぇ」
「そんな事は無い!」
兼行は必死に否定し続けるが、一方で反論する自分の言葉がいかにが空っぽであるかに気が付いた。
その言葉には何の根拠も無い。
いつだって植物を急成長させる事を繰り返し、それを続けても枯渇した事は無かった。
けれど何回、何十回と繰り返して、本当にもう採り尽くして、無くなる事があるのか。そんな事態に至るのか試した事は無い。
そして成長させる力を使っていたのは自分だけで、真澄は幼少期に見せてもらった桜のみ。麒麟に至っては見た事が無い。
だが彼らが枯渇すると教えてくれた事は無い。
それはそこまで繰り返した事が無かっただけだったら?
己の内に出た疑問と不安が浮き上がるが、今目の前にいる梛木に言う事は出来なかった。
決して自分は悪くない。
「薬が手に入らなくなってからビンボーでよ。飢えで娘二人死んで、かみさんには逃げられ、毎日食う物無くてキツイ人生だったぜ」
「!」
兼行は息を飲む。
「それでもお前たちはそんな事しねーって…何度も何度も」
拳を握り締め、梛木はこれまでの人生を反芻しているのだろう、噛み締めるように呻くように呟いた。
「だったら私が…私が今ここでまたその花を満開にさせたら枯渇していない事の証明にならないだろうか?」
「止めろよ!」
きっとこれならと浮かんだ案は名案の様な気がして兼行は表情を明るくして梛木に訴えるが、逆に一喝されてしまった。
梛木はまた苦しそうに表情を歪める。
「――お前は変わらないな」
言って、一呼吸吐くと、梛木は空を見上げる。
「薬草の問題があった後な、このあたり一帯で酷い日照りが続いたんだよ。農作物が何年も取れなくなって、沢山の人間が飢えで死んだ。――それも全部お前のせいにされた」
「―――」
「本当の事はどうでもいいんだよ。天気相手に恨んでも仕方がねぇ。けど気持ちは治まらねぇ。恨む相手が、理由が欲しかったんだよ。皆。それがお前だ。だからお前は早くこの里を出た方がいい」
「そんなのは…真澄だって、麒麟だって…」
真実を見ずに非難される憤りは置いておいたとしても、何故自分だけが非難されなくてはならないのか。兼行がそんな思いで呟くと、梛木はまた笑う。
「真澄たちはそりゃ色んな事をして見せてくれたよ。けどな、草や花を成長させたのを見せたのはお前だけだ」
何故。
何故。
真澄はこうなる事を分かっていて、自分にあの方法で力をコントロールさせる事を教えたのか?
そんなはずはない。
そう信じていても、疑わずにはいられない。
――それは今も自分自身が向けられているこの里の人間の疑念のように。
梛木はふと気になった事があったのか、問い掛ける。
「なぁ。お前、真澄にあんまり草の成長とかさせたりするなとか言われた事無かったのか?」
「―――ない」
はずだ。という言葉は付けなかった。
きっと言われた事は無いはずだと信じたかったから。
「確かにお前の力を使えば幾らでもまた花を咲かせる事が出来るかもしれない。けどそれは結局お前がいる間だけの事で、ほんと一瞬の一時の奇跡みたいなもんだと思わなきゃなんなかったんだよな。いつか真澄の言ってた言葉の通りだと思ったんだ。『年に一回ちゃんと成長して作物は大きくなるのにどうして態々早く成長させるの?』って。一年に一回採れる。それで満足していれば良かったんだ。――そうしたら余計な誤解も生まず、お前を恨まずに済んだのに」
そう言うと、それ以上その場にいるのは耐えられないとでも言うように、梛木は兼行から顔を背け、その場から去っていた。
兼行の中に、真澄の言葉が響く。
それは、枯れた畑に植えられた作物の生長を促した時の事。
『ゆき。それでもこの葉が枯れたら、また栄養の無いただの枯れた土地になってしまうよ』
違う。
あれは『成長させるな』という意味じゃない。
大体自分が力を使わなきゃ、その畑を耕していた農民は貧困を迎え、死んでいたじゃないか。
『お前のせいで!お前のせいで!』
自分には一時だけだとしても彼らを救う力を持っていた、。だから力を使った。
自分に持てる力を使う。それで救われる人がいるのなら躊躇わず使う。
それなのに。どうして。
風がふわりと流れる――。
同時に。
一斉に白い花が咲き、草原一面を埋め尽くした。
次の瞬間強い突風が吹き、咲き乱れた花たちが一瞬にして空に舞い上がる。
再び緑一色に戻った草原には、また白い花が咲き始め、一面を埋め尽くした。
兼行は空に舞ったままゆっくりと下降してくる花の一つを手に取り、見つめた。
「―――たったそれだけの事なのに」
湖から兼行が戻ると、森の中から姿を現した彼を見つけて聡里が一目散に駆けてきた。
「兼行様!」
異変を感じた兼行も慌てて彼女に近付く。
「どうした!?」
「実は…藤乃様が…」
そのまま言い淀む聡里に兼行は不安になり、階を一気に駆け上がると、藤乃に宛がう予定だった部屋まで駆けていく。
「藤乃!」
「近寄らないでください!」
泣いていたのだろう目を真っ赤にして瞼を腫らし、まだ片付いていない部屋の中で兼行から逃れるように必死に距離を取ろうとしていた。
その表情は起こっているというよりも脅えていた。
兼行を見て、兼行に対して、脅えていた。
「もう嫌です!ここまで来たけれどもう嫌!」
「藤乃。興奮するとまた熱が上がる」
体調が良くなってきたとは言え、未だ精神的な疲労は取れないのか少し動くだけですぐに熱が上がる。
心配し、彼女の頬に伸ばした兼行の手を藤乃は撥ね付けた。
初めての事に兼行は目を見開く。
「触らないで!その変な力を私に使わないで!殺すなら殺せばいい!どうせ帰る所なんか無いんですから!化け物の妻なんてもう嫌!」
「―――」
初めて発せられる衝撃的な言葉に兼行は言葉を失う。
「ここでなら静かに暮らせるなんて嘘!ここでも化け物扱いじゃありませんか!どうして!?どうして私がこんな目に合わなくてはならないのですか!?」
「藤乃様!」
聡里が慌てて駆けつけ、懸命に宥めるように彼女の肩を抱く。
「もう嫌!嫌!嫌!」
聡里の手を払い、顔を伏せ、半乱狂になって叫ぶ藤乃。
兼行は聡里を見るが、彼女は彼を見上げると、首を横に振る。
一度払われた手を再度伸ばすのは躊躇われたが、それでも息を一つ吐くと、藤乃の頬に触れる。
藤乃はびくりと振るえ、透かさず逃れようとするが、そのまま逃れさせること無く抱き締める。
「落ち着いて」
優しく囁くが、藤乃の肩はカタカタと震えている。
まるで大きな動物に襲われた小動物のように。
ついほんの先刻までははあんなにもあどけなく笑っていたのに。
痛む胸を抑えながら、兼行はゆっくりと目を閉じた。同時に藤乃の震えはぴたりと泊まり、彼の腕の中にくたりと倒れ込む。
どうする事も出来なく、ただ見守っていた聡里は不安気に兼行を見た。
「…眠らせただけだ」
ほっと安堵する聡里を横目に、兼行は己の腕の中で眠る藤乃を見つめる。今の事で相当緊張し、疲れていたのだろう、疲労の表情を浮かべていた。
「…藤乃はいつから…」
視線は藤乃に落としながら、聡里に問う。
暫しの間沈黙を保っていたが、聡里は言い難そうに話を始めた。
「以前のお屋敷にいた時から…。兼行様が謹慎を言い渡され、屋敷にお戻りになられなくなった頃からです」
「私は彼女には決して不自由な思いをさせてはいなかったはずだが」
その言葉に聡里は溜息を吐く。そして居住まいを正すと兼行に向き直った。
「兼行様。この事は言うまいと思っていました。奥様と屋敷の使用人たちだけで収めておこうと思っていました」
兼行は聡里の空気が変わったことに、自分も姿勢を正そうとするが、藤乃を抱えている為出来ない。
寝かせようにもまだ寝床を作っていない為、寝かせる事が出来ない。
「今寝床を作っております。出来次第声をかけるように言ってありますのでそれまで藤乃様はそのままお支えになってください」
そう言われ、兼行は仕方が無くあきらめて、ただ目の前で語り始める聡里に向き直った。
「兼行様。兼行様が屋敷に戻られなくなる前後、朝廷で何があったか覚えていらっしゃいますか?」
聡里に問われ、兼行は眉間に皺を寄せる。
それは反省すべき、そして思い出すだけで胸が痛み、何よりも今もこうして都を離れる原因となった出来事が凝縮されている時。
自分に同行した従者が自分が原因で殺され、己の行った農地改革が農民たちに多大な被害を与え、それ故に自分を恨んだ農民が麒麟を連れ朝廷に乗り込んできた。
「覚えている。それでも全て内裏内で片付け、屋敷に持ち込む事などしなかったと思うが」
答える兼行に聡里は首を横に振る。
「いいえ。兼行様はそのおつもりだったのでしょうが、そんな事はありませんでした。まず異能のお力を使われた事で、最初はどうにかして兼行様を身内に引き入れたいという貴族が連日のように屋敷に訪問されたり、文を下さいました。近隣の農民もそれはもうお供え物か何かのように毎日野菜やら魚を届けてくださいました。奥様も私たち女房や舎人も戸惑いながらも受け入れておりました。兼行様のなさっている事はそうした我々に関わろうとした方々から聞いておりました。けれど本来身分を重んじる今の世で、どの方とも違う特別扱いに不安を覚えてもおりました」
「―――」
「そしてそれは兼行様がお屋敷に戻られなくなった頃豹変したのです。内裏でお上を巻き込むような大きな事故が起こったのでしょう?そして兼行様がその異能の力を持ってして行われた政策に綻びが出たからなのでしょう?」
兼行は驚いて聡里を見た。
家人には何一つそうした状況を伝えていなかったはずだからだ。
「今まで関わってくださった貴族の方々がまず手を翻しました。文には兼行様に対する罵詈雑言、いえ、人として扱ってくださるならまだ良かった。『化け物』と罵ることばかり書かれている文が大量に届くようになりました。今まで作物を届けてくれた農民たちも兼行様に会わせろ。人殺しと連日押しかけるようになりました」
それは兼行の安易な案により、家族を失わせた農民たち。
一瞬のうちに想像がついた兼行は何も言い返す事が出来ず、目を伏せる。
「壁や庭を馬の糞や残飯で汚し、滅茶苦茶にされ、それでも屋敷だけは守ろうと必死で防ぎました。既に私たちの言葉は何を言っても伝わる事は無く、化け物屋敷の家人として蔑まれて、ただ毎日兼行様の帰りをお待ちしておりました。――そして」
そこで言い詰まり、聡里は悲しそうに藤乃を見つめた。
「藤乃様はご実家から絶縁を言い渡されました。一度化け物の嫁になってしまったのだから既に化け物に取り込まれているだろう。二度と家には近付くな。と」
その言葉に兼行は目を見開いた。
そこまでの状況であれば本来親として娘を引き戻し、別の男の元へ嫁がせるという事も出来ただろう。
しかし、そうとはならなかった。
「私が異能の力を持つが故か…」
聡里はこくりと頷く。
「私たちは兼行様を信じております。だから出来るだけ兼行様には悟られないように、お仕事に専念出来るようにと藤乃様のご希望もあり、家人皆で隠し通してきました。けれど…結局はこの地でも同じようですね」
今まで耐え続けてきた藤乃は新しい土地ではきっとそういった嫌がらせから開放されると期待していたのだろう。心が緩んだ頃に、里の人間からまた非難される兼行を見たのだ。心労は一層のものだっただろう。
兼行はやりきれない気持ちで一杯になり、藤乃をまた強く抱き締めた。
「…私は人だ。ただ異能の力をもっているというだけなのに、何故こんなにも酷い事が出来るのだ?」
「兼行様――。ご自身が均した土地をしっかりと目に焼き付けなさいましたか?」
聡里は藤乃を抱き締めてぎゅっと痛みを耐えるように目を閉じていた兼行に問う。
彼は顔を上げると、眉間に皺を寄せた。
「それと今の状況と一体どんな関係があるのだ?」
問い返す兼行の瞳を聡里は静かに見つめ返し、そしてゆっくり目を閉じた。
「人を想うという事は、目の前に映るものばかりではないのですよ」
「何故、今そんな事を言う」
兼行が訝しげに問うが、聡里は緩慢な動作のままゆっくりと首を横に振る。
「何でもありません」
それ以降、聡里は口を閉ざし、開く事は無かった。
そしてその日以来、彼女は兼行と距離を置くように、彼に近付かなくなった。
藤乃もその後目を覚ましたが、以後、兼行と顔を合わせる事はしなかった。
彼女に宛がわれた部屋に籠もり、聡里が世話付きとなり、彼女の傍にいた。
子どもたちも彼女の部屋で聡里に育てられ、やはり部屋から出る事は無かった。
謹慎中の為すべき事が無い兼行は一日を一人で過ごすようになっていた。