時空の守者-第六章- 命の花-雪の章4

兼行は先程まで庶務を行っていた部屋に戻り、さくさくと途中になっていた仕事を他の仲間に引き継ぐと、従者を呼び、牛車に乗って屋敷へ戻る。
牛車の窓から見える景色を兼行はぼんやりと見つめていた。
両側に見えるのは、貴族の広い屋敷。塀が高く積まれており、その内側を見ることは出来ない。
それでもこの塀を積む事自体、財力が無ければ為す事の出来ない事。
やがて開けてくる道では、畑が広がり、豊穣な緑が風で揺れる。一方で道の端には浮浪者らしき者が寝転んでいる。ある者は病気で動けず、ある者は乳児を抱え、細い体で恐らく出ないのであろう乳を懸命に与え続けている。薄汚いものを見るような目で彼らを見て、それなりの生活を保っている平民。
「こうした格差を少しでも無くせるなら。と思っていたのだけれどな」
兼行は小さく呟く。
「私の力が少しでも有効に使えればと思ったのだが…」
己の手を見つめ、握り締める。
浮かんでくるのは真澄の姿。
「何が違うと言うのだろう…」
唇を噛み締め、苦悶していると、突然牛車がぴたりと止まった。
まだ屋敷に着くには早かったはずだが…。
不審に思い、窓から覗くと牛車の前方で、従者と農民が睨み合っていた。
止めた農民を見て、その顔が見知った顔である事に気が付く。
気付いたと同時に、ぞくりと背筋が凍りついた。
「ゆき様が乗っているんだろ!話がしたいんだ!降ろしてくれ」
農民の女が声を上げる。
「兼行様はお疲れなんだ。今日は会えない。後日屋敷に来て、改めて面通りを願ってくれ」
憤りを見せる女に従者は宥めるように答える。
「何言ってるんだ!毎年宴をしている間柄だろ!今更何でそんな面倒な事言ってるんだ!」
「それは兼行様がいつもお前たちに配慮して下さっているからだ。勘違いするな!」
「何っ!?じゃあ俺たちは所詮貴族様の気紛れに付き合わされてたってだけか!?」
農民の男が女の後ろから声を荒げる。
「大体ゆき様が頼むから村の男たちは、ゆき様の言う土地へ行ったんじゃないか!」
その声に火が点いた様に牛車を囲んでいた農民たちは一斉に声を上げる。
「そうだ!それが!あんたのらのせいで!あいつらはもう帰ってこない!」
「屋敷まで訴えに行ったのに、ゆき様は今頃牛車に乗ってのんびりとお帰りかよ!」
「出て来いよ!」
捲くし立てて続けられる言葉に、従者は戸惑い、おろおろと牛車の中の主に視線を向ける。
兼行はゆっくりと牛車を降りると、その場で膝を折り、頭を下げた。
予測の出来ないまさかの行動に農民だけでなく、従者をまでもに動揺が走る。
貴族がただの平民に頭を下げるなど前代未聞だ。しかしそれで溜飲が下るはずも無く、農民は兼行を取り囲み、地面に額を着ける彼を見下ろした。
「止めて下さい。そんな事をしてもあいつらは帰って来ないんだ」
「あいつらの家族だって塞ぎ込んじまって…体だって返して貰ってねぇっ!」
兼行は何も言わず、ただ農民たちの悲痛な叫びを受け止める。
今にも殴りかかりそうな農民の様子、ただ頭を下げる己の主の姿に耐えられず、呆然としていた従者は兼行を庇うようにして膝を屈め、農民たちを見上げた。
「兼行様はそのお前たちの仲間を殺した奴をつい先刻自ら捕らえたんだ。どうか許してくれ!」
主の許しを請う従者の声に、農民たちの中に動揺が走るが、その中の一人がずいと兼行の前に出ると、問い掛ける。
「捕らえたって、あの村の奴ら全員か?」
その問いに従者は青褪めた。
「…村…全員って…どういうことだ?」
「どういう事だって、何言ってるんだ?お前。あいつらを殺したのはあの村の人間全員だぞ?歓迎されるどころかその場で嬲り殺しだ」
頭を下げながら知らされた真実に兼行は愕然とした。
あの男が殺したのではない。
あの男はただ村人の意思を代表しただけだったのだ。
既に朝廷を憎んでいたのは、村そのものだったのだ。
兼行たちに走る動揺に、農民の老翁は怪訝な顔をして問う。
「…まさか知っていたんじゃないだろうな。あの村に危険がある事を。その捕らえた奴とやらがその村にいたんだな。あんたらは自分たちが憎まれている事を知っていて行かせたのか?」
老翁の問いに、周囲の人間も初めてその可能性があった事に気付き、一時的に老翁に集まっていた視線が先程より一層鋭くなって兼行に突き刺さる。
兼行はごくりと喉炉鳴らした。
「――すまない。すまない。確かに危険な男が一人いた。だがその者は私だけを憎んでいると思っていたのだ。私を。貴族を。朝廷を。だから私が伴うより、そなたたちだけで行ってくれた方が話は運びやすいと思った。付けた私の家の者にも、私や貴族の存在を話す事無く、同じ身分同士助けに来たと話せと。私や貴族を恨んでもいい。それは私たちの罪だから。ただ、彼ら自身に長らえてもらう為にそなたたちの助力を求めたのだ。こんな事になるのなら、やはり私が一緒に尋ねていればよかった」
顔を上げ、兼行は自分を見下ろす顔を一人一人見つめる。
向けられる表情は皆、瞳から止め処なく涙を零し、顔をくしゃくしゃに歪めていた。
「あんたが謝ったってあいつらは帰って来ねぇっ!大体本当なら協力するのだって嫌だったんだ。折角真澄に土の作り方教えてもらって豊かになったのに、その方法を誰かに教えるなんて。あんたが言うから仕方がなく教える気になったのに」
呟く老翁の言葉に兼行は目を見張った。
「元々は真澄に教えられた技術だろう?そなたらが生み出したのではない。真澄は皆が豊かになる為に、と教えたのだろう?その技術は他の者にも伝える事でもっと多くの民が潤うというのにどうしてそんな矮小な考えが生まれてしまうのだ?」
「あんたに何が分かる!?豊作になればなった分だけ、あんたら貴族様からの税が重くなる。あんたらはそれで富を肥やし、俺たちはいつまで経っても貧乏で変わらない。挙句の果てに他の土地から取れない税分まで俺たちの土地で収めろという始末だ。そんなのその土地の奴らがどうにかして収めればいいじゃねぇか。どうして俺たちが血の汗流してやっと手に入れた技術を教えてやれる!」
「…そなたは税を納めたくとも収められない者の気持ちを知っているではないか。どうして他の者を思い遣れない」
「俺たちには真澄がいてくれた。あいつらいはいなかった。だったらあいつらは自力で何とかすればいいだろう。どうしてやっと豊かになり始めた俺たちがまだ苦労をする?楽になれない?」
「そなたたちが真澄から教えられたその技を他の者にも伝えてくれたら他の地も豊かになる。そうしたらそなたたちの税の負担も少なくなる。よい巡りになるのだ」
「違う。税を払ったって俺たちには何の恩恵も受けない。例え技を教えて豊作になる土地が増えたってまた税が上がって貴族がいい思いをするだけだ。何も変わらない。そうだろう?俺たちは変わらない。現にこの土地の地主様は随分と羽振りが良くなられた」
老翁は冷めた目で兼行を見据える。
「結局あんたも貴族様なんだな。何にも分かっちゃいねぇ」
「私たちの仲間は殺されてしまった。悔しい。本当に悔しい。けどな、――けど、その殺す側の人間の気持ちが分からない訳じゃないんだ。ほんの数年前まで俺たちも同じ状況だったからな」
老翁の後ろにいた壮年の男が呟いた。
「俺たちが生きて行く為には俺たちの畑が豊かでなけりゃならねぇ。じゃねぇと今度は俺たちが生きていけなくなる。税が払えなくなってな。そんなんで態々折角得た豊かになれる方法を他人に教えてやろうと思えるか?もし教えて、その土地が豊かになった所で今収めている税が豊かになった分だけ高くなってまた苦しい思いをするくらいなら、他の畑の分まで俺たちが納めてまだ余裕がある今の方が何ぼかマシだ」
「俺たちが苦しむだけの国なんて要らないんだよ。貴族様なんて要らないんだ」
老翁がそう言うと、皆一斉に頷いた。
別の男がまたずいと前に出てくると、兼行を見下ろす。
「もうアンタには会いたくねぇ。二度とこの土地に来ないでくれ。もう俺たちがあんたの屋敷に行く事も無いだろう」
それだけを言うと、もう言い残すのは無かったのだろう。男は農民たちの輪から離れていった。
他の人間もそれを合図に一人また一人とその場から離れていく。もはや兼行に声を掛けていくものはいなかった。
ただ離れていく気配から感じるのは農民の彼らと兼行との心の距離。それはいつの間にか果てしなく遠いものとなっていた。
従者が所在無さ気に兼行を囲む。
彼らに声を掛けなくては――そう思うのに、兼行はその場を動く事が出来なかった。
何処から自分は間違っていた?
何が悪かったのだろう?
どうしてこんな結果になる?
ただ民の為を思い行動していただけなのに。
自問自答するが答えは見つからない。
それよりも全身を襲う虚脱感が彼が思考する事を遮る。
まるで彼の心境が伝播したように、いつのまにか空に広がっていた厚い雲が太陽を覆い隠し、雨がぽつりぽつりと降り始めた。
それによって兼行に声を掛ける事も、触れる事も出来なかった従者は漸く彼の肩に触れ、牛車に戻るよう促した。

屋敷へ戻ると、兼行の姿を見た女房たちが、忙しなく湯浴みの準備と換えの着物を用意し始めた。
兼行はその様子を虚ろな瞳で映しながら、促されるままに湯殿に向かう。
「藤乃は…?」
湯浴みよりも何よりもまず妻に触れたかった。子どもに触れたかった。そうしたら凍りついた心に温もりが入り、少しは溶けるのではないかと思ったからだ。
しかし女房は「なりません」と答える。
「お気持ちは分かりますが、まず湯浴みをして体を温めてください。そのいでたちでは奥様も姫様も心配されてしまいます」
そう諭され、泥を被り、雨で濡れた己の出で立ちを見直すと、それもそうだと思い、大人しく女房に従った。
湯浴みをして部屋に戻ると、藤乃は笑顔で彼を見上げた。
「お帰りなさいませ」
彼女の膝には行久と結乃が座ってる。二人は父親の姿に気が付くと、てくてく歩き兼行の足にしがみ付いた。
妻の笑顔、そして子どもの愛らしい仕草、それだけで固く行居していた心が柔らかく変容するようだった。
二人の子どもを抱き上げ、藤乃の前に座ると「ただいま」と告げる。
兼行が応える事で安心したように藤乃は笑みを零し、彼の片方の手を取ると、己の手の中に握り締める。
「今日もご無事で何よりでした」
彼女は知っているのだろうか?
兼行は藤乃の瞳を見つめ、知っているのだろうと悟る。
妻には見せたくなかった。愚かしい己の姿を。けれど今、自身に向けられる笑み、手を伝って与えられる温もりは確実に彼を癒してくれる。
無性にそれが切なくて、愛しくて、兼行は手を伸ばし、妻を抱き締めた。
「大丈夫。貴方は精一杯、いつだって民の為を想って行動されている」
背に回る手に、優しい言葉に胸の中に温もりが生まれるが、それでも、と反論しようと兼行が顔を上げると、藤乃は確信を持った瞳で彼を見つめる。
「貴方は素晴らしい力をお持ちでいる。それでも人間ですもの万能ではありません。時に良かれと思った事だって、実は間違っていた事だってあります。仕方が無いではありませんか」
「仕方ない事…。それでも私は多くの犠牲を出してしまった…」
藤乃の背に回る兼行の手に力が篭る。
「貴方にだってどうしようもない事はあるんです。同じ過ちを繰り返さぬよう、これ以上犠牲が出ぬよう最善をまた一から考えればいい」
「私には…私には力があるのに…どうして上手くいかないのだろう。この力があれば、沢山の人間を救えると信じていたのに。もっと沢山の幸福を人々に分け与えられると思っていたのに…」
「そうですね」
藤乃は自問自答するように呟く兼行のセを己の温もりを分け与えるように抱き締めた。
「真澄の方が私などよりずっと民の為になる事をしていた」
「真澄様は長生きでいらっしゃるおの。だからこそ残せたものがおありになるのではありませんか?」
そうか。と思い、兼行は瞼を閉じる。
瞳の奥に映る真澄の姿、思い返す思い出。
長い時を重ねる事。それによる経験には敵わない。
けれど兼行は知っている。真澄の功績、そしてそれでも人間ではない彼女に足りないもの。
「私は真澄の重ねる年月では敵わない。それでも真澄が持っていなくて私が持っているものが確実にあった。私にしか出来ない事。これから出来る事があるだろうか」
「勿論です。だって兼行様は都で唯一異能の力をお持ちの方ですもの」
「そうか――」
兼行は顔を上げ、もう一度藤乃の顔を見ると笑った。
彼の瞳の奥に力を取り戻すのを見た藤乃は安心したように微笑んだ。
「まず今回の過ちを根本から見直さなくては。そして問題点を見つけ、もう一度一からやり直そう。原因がきっと何処かにあるはずだ」
兼行は控えていた舎人を呼ぶと、御所に置いてある書類の幾つかを取りに行くよう言いつけ、尚且つ、女房には紙と筆を用意するように言いつけた。
「謹慎を言い渡されているが、だからこそ今もう一度、見直して出来る事がある。ただ謹慎しているだけでは何の進展もしない。事態を解決する機会を与えられたと思おう。ありがとう。藤乃。私は少し部屋に籠もる事になると思うが許してくれ」
活力を取り戻しつつも、申し訳なさそうに告げる兼行に藤乃は首を横に振った。
「兼行様が元気になられてなによりです」
その言葉に兼行は眉を下げるが己の膝に乗り、遊ぶ、二人の子どもを抱き締め、そして呟く。
「この子たちにもまた寂しい思いをさせる。ただでさえ私は御所から戻る事が少ないのに、屋敷にいてもろくに傍にいてやることも出来ない」
「そんな事仰らないで下さい。この子たちも分かっています。父君がどれだけ国の事、民の事を思う方なのかを」
藤乃をそう囁き、また笑った。


それから数日後。
一度補正された川の支流は流れを変え、数年前までは収穫もある田畑だったが水捌けが悪く荒れてしまった土地に水が流れ込んだ。上流から支流を変え、急激に流れを作った川は一度意図的に変えられた土地の地形を更に変えたが、新しく出来た土地に人々が種を撒くと、作物は急激に成長を始めた。
草一つ生えなくなっていた土地に兼行は手に持っていた袋の中から種を取り出し、無造作に放る。と同時に風が吹き、種は畑全体に行き渡る様に舞い落ちた。
畑全体に種が撒き終わったのを見計らって、種は一斉にその場で芽を出し、ぐんぐんと成長していった。
夏も盛りの季節、本来ならこの時期成長しているだろう段階まで成長しきると、急激に伸びた植物の成長はぴたりと止まった。
茶色く干からびていた土地は一瞬にして緑一色で染め上げられていた。
一度自分たちの土地を奪い、使えなくした役人が再び訪れて何をするのかと遠巻きに見ていた農民たちは歓声を上げた。
「私が作物の成長を手助けするのはここまでだ。今まで支流のあった土地はこれまで山頂から流されてきた肥沃な土壌で栄養がある。今年の実りは約束されるだろう。ただ来年の約束は出来ない。だからそこは、以前この土地を訪れたあの農民たちに知恵を与えてもらうしかない」
兼行は緑の葉が揺れる畑を見つめ、それまで彼の行動を見つめていたこの土地一帯を耕す農民の代表に告げた。
「あんたは神なのか?前は川の流れを変えて俺らの生活を滅茶苦茶にした。また性懲りも無く現れたと思ったら今度はまた川の流れを変えて、今年の実りを保障してくれた」
代表の瞳は兼行個人を見つめていない。そこにあるのは空虚だった。兼行という人物として扱われることの無い視線に少しの虚しさを感じながらも首を振る。
彼らには憎しみや怒りなど対人間に対する感情を既に兼行に対して持っていない。
吉郎同様の感情をぶつけられ、罵られるだろうと兼行は予測していたが、それよりも、彼らは幾度と起こされる奇跡、そして決して人の手では起こしえぬはずの事象に、それを起こす事が出来るに目の前の存在に脅えていた。
「私は神ではないよ。前回も一度きりの奇跡を起こしたが、今回も一度きりだ。来年の保障は出来ない。前回は川筋だけ決めて土壌の流れなど考えなかった考え無しの策の為に民に多大な迷惑を掛けた。本当に申し訳ない。今回はそれを踏まえ、川の流れを変えたが、これからこの土地を生かしていくのはそなたたちだ」
「何を言うんですか。貴方様がいれば、これからずっと豊作ではありませんか。崇めろと言うのなら崇めます。どうしたら良いのですか?どうしたら貴方様はずっとここにいてくださるのですか?」
「私は人と違う異能の力を持つだけ。人であることには変わらない。だから崇める事を望んでいない。私はこの場所に留まる事をしない」
「私たちは貴方様が遣わされたものたちを殺した。吉郎が都を襲った。だから許さないと言うのですか。彼らの家族に謝れば怒りは治まるのですか?」
「あの者たちには申し訳無い事をした。遣わした私自身も罪を抱える事となる。そして困窮の上に怒りを何かにぶつけなければならない程苦しめ、そなたたちに罪を犯させた事を悔いている。けれど、その罪は侵してしまったそなたたちの罪である事は変わらない。ただそれだけだ」
「怒ってもおらず、崇める事も必要無いと言われるのなら、貴方様はどうすればここにいてくださるのですか!?」
代表は苦悶の表情で兼行を見上げ、そしてその場に勢いよく膝を折ると、深く土下座をした。
「どうかここにいてください!ここにいて、私たちを守ってください!もう飢える事は嫌だ!いつ貴族に家族が連れて行かれるのか脅えるのは嫌だ!明日殺されるかも知れないと悲しむのは嫌だ!貴方様がいれば!貴方様がいれば!」
周囲で彼らの様子を伺っていた農民たちもわらわらと兼行たちを囲むようにその場に屈むと一斉に平伏し始める。
その瞳には人外の者の力を求める狂気が漂っていた。
戸惑う兼行は背後から殺気を感じ、振り返ると、肩すれすれに鍬が振り下ろされた。
「!?」
兼行は息を飲んで、それをかわし、自身の足元には頭を垂れ囲む農民たちがいたので、咄嗟に跳躍し、緑の畑の上空へと逃れる。
振り返ると、若い男がたった今下ろした鍬を持ち上げ、空に浮かぶ兼行を見上げた。
「ここに留まらないと言うのなら留まるように足を切ってしまえばいい!宙に浮かぶという奇術を使うなら飛んで逃げれないようにしてしまえばいい!」
叫ぶ若者の声に兼行はぞくりと胸に黒い穴が空くような覚え、周りを見ると彼の言葉に目の色を変えた者たちが先程まで平伏していた顔を上げ、こちらを見ていた。
兼行は静かに目を閉じる。
そして次の瞬間、兼行を捕まえようと立ち上がった者たちが今成長したばかりの植物を踏み潰しながら一斉に彼に襲い掛かろうとする。
それと同時に突風が襲った。
ゴォッ!
唸りを上げた突風はいとも簡単に農民たちを吹き飛ばし、畑の上に転がる。
実りを期待された植物は人の体重で折れ、形を変えてしまった。
それは明らかに兼行が起こした事象。
襲い掛かり吹き飛ばされた彼らは尻餅をついたまま慄き、先程と全く変わらない様子で目を閉じたまま動かない兼行を見上げる。
指一つ動かさないまま目の前の存在は自分たちを吹き飛ばしたのだ。そう理解する事で恐怖は更に広がる。
代表の男も呆然として兼行を見上げた。
声は出なかった。
彼は自分たちに恵みを与えてくれた兼行は危害を加える事は無いと心の何処かで知っているつもりだった。
けれど実際は彼らにだって手を下す。そして彼らを殺す事だって容易なことだろう。そう気付いてしまった。
起こった現象と未だ宙に浮かぶ人物の為した事が一つの線に繋がった時、ばらばらと農民たちはその場から逃げ出した。
代表の男もその場から逃げ出したくて仕方が無かったが、けれど逃げ出す事は許されなかった。兼行が彼を見据えていたからだ。
兼行は農民たちが逃げ出す事により足場の広がった畦道に宙から舞い降り再び足を着けると、もう一度代表の前に立つ。
「私はこれ以上の事はしない。今回の形が最善の形だと思うからだ。後はそなたたち次第だ。この土地を豊かにするのも枯らすのも」
「どうすればいいのです!?」
悲鳴染みた声を代表は上げる。
「――技術を求めるなら、そなたたちが殺した男たちの家族や仲間に協力を求めればいい」
兼行は諭すように、もう一度同じ事を繰り返し教える。
「そんな!家族を殺されて彼らが私たちを許すはずが無い!」
「そなたたちは罪を犯した。それが事実だ。それは変えられない」
「――!」
反論しようとするが代表は口を開くだけで、静かに閉じた。
恐らく兼行に彼らの家族の怒りを緩和するよう、助力を求めようとしたのだろう。けれど兼行は都合の良い存在ではない事は今のやり取りで理解させられたので、何も言えなかったのだろうと兼行は推測する。
「後はそなたたち次第だ。彼らが助力してくれるかどうかも、許すかどうかも」
代表は苦々しく唇を噛み、そして兼行を仰ぐと重々しく問いかけた。
「最後に一つ良いですか?」
今度は明らかに兼行の答えを求める問いに、兼行は己を見据える代表の眼差しを受け止める。
「吉郎はもう帰って来ることは無いのですか?」
「――彼は私だけでなく御所を襲い、帝を襲ってしまった。その罪から逃れる事は出来ないだろう」
兼行がこの地を訪れなかったら、川の流れに手を加えなければ、彼は今もここで家族と、例え困窮していたとしても慎ましく幸せな生活を送っていたのかもしれない。
あったかもしれない未来が脳裏に浮かぶが、兼行は首を振って消した。
全てはもう過去の事で、起こりえなかった未来だ。
「結局あんたは俺たちを振り回して、そして何もしてくれないんだな」
呪いの言葉のように吐き出された代表の呟きに、兼行は何も言えなかった。

「謹慎中に随分と動き回ったな。そなたは謹慎の意味を分かっているのか?」
季節が一つ変わる頃、兼行は御所に呼ばれた。
都を強く照り付けていた日差しが柔らかくなり、濃緑の葉が覆い茂る木々は機や赤に装いを変え、ひらひらと葉の衣が舞い落ち、大地の彩を変える。
夏場は風も吹かず、柱や床の木の板が太陽の熱を吸収し、じめじめとしていた御所に冷たい風が格子や御簾の間を吹き抜ける。
兼行は帝が主に日常生活を起こる場である清涼殿に一人呼ばれ、帝の前で平伏した。
久し振りに拝した帝に最初に掛けられた言葉は苦笑混じりだった。
「そなたを謹慎に処したはずなのに、何故か参内していた時よりもそなたの名が報告でよく上がるようになってな。面白いから暫く放置していたが…また色々やったな」
その言葉に咎める口調は含まれていない。帝は本気で兼行の行動を楽しんでいた様子が伺えた。
「謹慎とは己を見つめ直すために与えられた時間の事。己の過ちを見つけ、認めればそれを正す努力をするのは当然の事ではありませんか。その為に帝から時間を頂いたのだと考えていました」
兼行の回答に帝は笑う。
「本当にそなたは変に豪胆でそして真面目だのう」
「――私はまだ謹慎を解かれた身ではありませんが、本日はどういった思し召しでしょうか?」
このまま世間話のような話が小出しに進むのではないかと感じた兼行は平伏したまま率直に問い掛ける。
帝はその兼行の性格がよく現れている問いに、また笑う。
「まずは謹慎中の行動。本来なら嗜めるところなのだろうがな、ご苦労だった。と、労おうと思ってな。そなたが謹慎中にも関わらず送り続けてきた調書も読んだぞ」
そう言って、帝は己の座の横に置いてあった文箱から綴りを取り出し、パラパラと広げる。
「過剰な税を搾取する貴族どもに関してはこちらで既に調査の人間を送った。後日そなたの調査内容に加え綿密な調査報告が上がるだろう。後、そなたの調書で十分に罪の断定が出来る者は既に捕らえ、処断している。――あの例の男を追い詰めた貴族どももひっ捕らえた」
平伏したままの兼行から帝の様子を伺う事は出来ないが、明らかに口の端は上がっているだろう。
「それと、ここら一帯の田畑の様子は参考になった。これで税率をどのように当てればよいか十分参考になる。そう、そなたがまた勝手に流れを変えた川の付近の作物だが、今年は今までに無い位きちんと税を納め、更に冬を越すのに十分な量が収穫されるそうだ。最近近くの別の荘園と交流しているらしい。それも影響しているそうだ」
最後の言葉に兼行は思わず顔を上げ、帝を見つめる。
「己の咎を挽回するにはそなたの功績は十分過ぎるほどだ。謹慎を解く」
そう言って笑みを浮かべる帝に兼行は再び平伏した。
「ありがとうございます」
感謝の言葉を述べ、そして顔を上げて続ける。
「唯一つ、誤解して頂きたくないのは私は自分の汚名返上の為に行った訳ではありません。私は本当に彼らの実情を知らなかった。知りもせずに中途半端に良かれと思った政策を実行してしまった。だから私は自身の罪と向き合い、もう一度彼らが本当に求めている事を知り、己を正し、彼らの安寧になればと行ったのです」
真っ直ぐな瞳で見据える兼行に帝は頷く。
「そうだな。そなたはそういう人間だ。しかしそれだけの事をするためにずっと屋敷へ戻っていないだろう。謹慎を言い渡してから数日後に屋敷を出て以来戻っていないと聞いた」
「それは家の者にも暫く帰らないと伝えておりますのでご心配無用です」
政で指摘を受けるのならまだしも、今ここで家や家族の心配をされるのは帝の人柄から見て想像が付かなく兼行は訝しんだ。
帝は兼行を見つめ、そして、兼行の向こうに広がる庭を見つめる。
何処かぼんやりと。
「-ー一度屋敷へ帰る事を薦める。そして暫くの間、そなたの父、政行の治めていた地で体を休めたらどうだ?」
突然の提案に、兼行は眉を潜めた。
「それは私が必要無くなったという事でしょうか?」
「そうではない。そなたは派手に動きすぎたのだ。そなた自身の国への功績は途方も無い。しかし、異能の力での行いとは、強大過ぎる力とは、時に民に畏怖を与えると同時に恐怖も与えるのだ」
「―――」
「だから暫し身を隠せ。時機を見てまた私が直接呼び戻そう。それまでは何もしなくていい」
告げられる言葉に兼行は何も言えなかった。
「そなたには私の言っている事が分かるだろう?」
帝の伝える言葉の意味を、彼が察してくれるよりも自分自身が一番良く分かっていたからだ。