1
その日は朝から慌しかった。
屋敷の北の一室にはこの屋敷で働く女房たちの往来が繰り返され、それを見ていた庭師は目を回していた。
この屋敷の主人の部屋も同じような状態で、北の部屋から伝達される報告を受ける度に、部屋の主は立ったり座ったりを繰り返していた。
「兼行様。少し落ち着いて下さい」
あまりの落ち着きのない様に、女房頭である聡里が呆れながら助言をする。
「そんな事を言っても、そう落ち着いてなどいられるか」
「主人がそんなに浮ついていては他の者たちに示しがつきません」
「そ…っ!」
「兼行様!お産まれになりました!双子です!」
この屋敷の主である兼行が反論しようと口を開いたと同時に、若い女房が満面の笑みを浮かべて室内に入り、報告する。
「!!」
その言葉に、兼行と聡里は我先にと北の部屋へ向かった。
勢いよく入ると、そこには兼行の妻である藤乃が出産の疲れの為に眠っており、その横で二人の女房が産まれ立ての赤子を一人ずつ抱えていた。
「若君様と姫君様です。最初にお産まれになったのが女子なので、こちらの姫君様が姉様になられます」
そう言って女の赤子を抱えていた女房が兼行の腕にそっとその赤子を乗せる。
そのあまりの軽さと、生まれたての命の尊さに兼行は自然と涙を零した。
「…そうか。それでは、この子は結乃と名付けよう。そして男の子には…」
言ってもう一人の女房が抱える男の赤子の前に座り、小さな掌を握り締めて眠る赤子の掌を取り、軽く上から握る。
「そうだな。行久にしよう」
兼行は抱えていた結乃を女房の腕に戻すと、眠る藤乃の顔を覗き込む。
「彼女は二人の名前を喜んでくれるだろうか」
「勿論ですとも」
赤子を抱える女房二人が笑うと、兼行も「そうか」と照れたように笑った。
「跡継ぎが産まれたそうだな」
帝の暮らす御所の大内裏。いつものように結界を張り、政の話をしていた途中、ふと思い出したように帝が話を持ち出した。
「はい」
突然話を振られ、兼行は驚くが、子どもの話となるとつい頬が緩み、声色も軽く返事を返す。
同席していた官吏たちも一同に祝福の言葉を彼にかけた。
「そなたの子どもは能力者になりそうか?」
続けて問われた帝の言葉に、兼行は顔を上げ、表情を強張せる。
「それであれば政もより行い易くなるのだがなぁ」
「男であれば良いけれど、女だったらどうする。政には関われないぞ」
帝の言葉を受け、官吏たちの話が盛り上がる。
「私は男でも女でも構わない。能力のある者ならな。そなたのように政の才にも秀でていれば尚の事だ」
にやりと笑って言う帝に、周囲の人間は「おお」と声を上げた。
「これ以上の名誉は無いぞ」
「既にそなたの子の将来は約束されたな」
彼らは羨ましそうに兼行を見る。
一方で当事者の兼行は困惑していた。
「有難うございます。男と女の双子が生まれましたが、何しろまだ生まれたて。異能の兆候は見られません。私自身も年を重ねてから力に目覚めましたから、もしかしたら年月が必要なのかも知れません」
「そうか。では将来私か、もしくは私の子の傍に仕えさせるつもりで、しっかり教育をするのだぞ」
「はい」
もし、己と同じ力を持って生まれてきたら。将来同じ力に目覚めたら。
兼行の頭にはそんな考えは少しも無かった。
「ところで」
と、そこで話は終わり、話題は政に戻る。
「ここ数年の政策が着実に実を結び、都含む近隣の民の生活は安定し始めている。民も潤っているからやや税を上げて徴収をしても反発も起きず、備蓄も貯まり、未だ成果が出ず困窮している地域にも十分食べていけるだけの援助をする体制も整いつつある」
兼行と対面して座る男が、書面を見ながら報告をする。続けて、彼の隣に座る者が彼の話を引き継いで語り始めた。
「そこまでは良かったのですが。今度は貴族側から不満が上がっております。民は豊かになり始めているのに、彼より階級も上の貴族である自分たちは少しも恩恵を受けていないと。これは一部の身分の低い貴族から出始めた不満ではあるのですが」
「彼らにはきちんと仕事を果たしただけの禄を渡しているだろう」
帝は呆れた口調で、それでいてしっかり正当に行っているか確認を取る。
「はい。それは間違いなく。念の為帳簿を確認しました」
「だったら問題は無かろう。それで十分食べられれるだけの俸給をどんなに身分が低い者でも与えているはずだからな」
「ところが、問題はそこではなく、民の潤いをやっかんだ貴族が、無断で税以上のものを農民から搾取していると報告が入り始めております」
その報告に、帝は溜息を吐く。
「どこにでもいるものだな。愚か者は。その者たちは全員ひっ捕らえろ。官位剥奪してしまえ。そうしたら身分だ何だとがなる他の者にも見せしめになるだろう。どれだけ重罪かというかとがな」
同情も情状酌量も無く、あっさりとした帝の決定に、既に慣れていたこの場の者たちの中には、驚く者もおらず、最初に報告をした者は当然のように、「御意」とだけ答えた。
「それともう一つ」
今度は兼行の隣に座る男が声を上げる。
「以前の治水の問題なのですが、兼行殿に川の支流を増やして頂く事で氾濫を抑えて終わりましたが、その支流を作った事で問題が」
「何だ?」
帝が話の続きを促す。
「支流を作った場所が丁度農地の上であった為に、川を作る為に奪われた土地の分だけ、土地を返して欲しいと訴えている者たちがおります」
「新しく開墾すれば良いではないか」
「ところが、その訴えている者たちの元々持っていた土地の周囲は既に他の者の土地となっているらしく、それに加え、その土地はあまり肥沃な土地ではないらしく、これ以上の開墾は無理であるし、支流が出来た事により、以前より水捌けが悪くなったと」
「では、兼行に任せる」
その言葉を受け、兼行は「承りました」と深々と頭を下げた。
2
都には南北を縦断するように一筋の川が流れている。都の何処にいても望む事が出来る高い山々が北側に防壁のようにそびえており、その麓のに湧き出る本流から二つの支流に分かれ、その一方が都を通り南に向かって流れていた。
その支流の一方が、数年に一度ある季節と天候条件が重なる事により、川の水流が増し、氾濫を起し、川の麓で暮らす人間に多大な被害を与えていた。
その為、帝は支流を一つ増やし流れを穏やかにする事で治水する事にしたのだ。
本来であれば大工事になり、金も労働力も必要とし、何年何十年もかける計画ではあるが、兼行が行う事で、それら全てが解決し、新たに支流を作る場所を彼が直接現場を一度確認した数日後には、前日にまではなかった大きく緩やかな川がまた一つ流れるようになった。
事前に何も知らされていなかったその土地に暮らす者は驚いた。昨日までただの農耕地だった場所に一夜にして川が現れたのだから。
それは神のなせる業だった。
しかも朝廷から突然訪れた神が行った奇跡はそれだけではない。
都ではその年は豊作だと言われていたのに、一方で川が新しく作られたその土地は例年に無く不作で、これから迎える冬の備えも出来ない程だった。
その土地で、神は軽く手を翳すと、既にその年の作物は収穫し終えて何も無かった畑に緑が生まれ、その年その場で植えていた野菜や稲やらが実をならし、冬も間近だというのに視界に入る範囲全てが緑に染まった。
神曰く、収穫した際に取りこぼした作物や土の中に埋まったままになっていた種を芽吹かせただけだという。
突然彼らの土地に川を作ってしまった侘びと、その土地を提供してくれた感謝を込め、せめてもの気持ちだと、神に話しかけた一人の村の人間に彼は答えた。
それが数年前の事である。
「上手くいったと思っていたんだが…」
兼行はかつて一度訪れた村を再び歩いていた。
畑の間の畦道を通り、左右に見える景色を眺めていた。
「そうですね。夏はこれから。本来であれば緑が視界を埋めるはずなのですが…」
「土の色ばかりが目に入りますな」
彼の護衛の為にとついてきた年若い従者と壮年の従者がそれぞれ感想を口にする。
若い従者は畦道を降り、畑でどうにか葉をつけている植物を見下ろす。
「これだって本当は私の背丈程まで伸びる植物のはずですが、今は私の膝下程度しかありません」
「栄養不足のままどうにか伸びている状態ですな。けれど実をつけるまでの栄養は無い」
同じく畦道を降りた壮年の従者が葉を手に取り呟いた。
「水捌けが悪いんでしょうか?畑の中のあちこちに水溜りも見えます。実際ここもぬかるんで歩き難いです」
そう言うと年若い従者は畦道へ戻り、壮年の従者もそれに続く。
「支流を作る事で弊害が出たんだろうか…」
兼行はぽつりと呟く。
「そんな事はありません!兼行様が訪れた当初は奇跡だと皆喜んでいたではありませんか!こんな風になってしまったのは農民の怠慢ですよ!」
「帝に奏上申し上げて、暫く援助して頂く事は出来ましょうが…根本的な解決にはなりませんな」
其々の従者の意見に兼行は考え込む。
ふと。背後から気配を感じて彼は振り返った。
ゴォッ!
同時に突風が三人に襲い掛かり、その激しさに大の大人三人が呆気無く吹き飛ばされる。
兼行が畦道を二、三メートル転がったところで風が止んだ。
人の気配には敏感で、余程の事が無い限り予測の出来ない自体が起こる事のなかった兼行は全くの予測不能の事態に驚きながらも咄嗟に受身を取り、素早く立ち上がると、いつの間にか目の前には全身黒一色の衣で身を包んだ男が立っていた。
彼は目を見開いた。
その衣装には見覚えがあったからだ。
この国では見られない独特の衣装を身に纏ったその人物は、意志の強さがそのまま反映されたややつり目気味の瞳で彼を見据えた。
「麒麟…」
兼行は呆然として呟く。
麒麟は彼に応える様に軽く手を上げた。
この世界の者ではなく、人間とも異なる不思議な力を持つ異質の存在であり、兼行が異能の力に目覚めた時その力の制御の仕方を導いてくれた大切な人物の一人だった。
「よう。久し振りだな」
とても数年会っていなかったとは思えないほどの気軽な挨拶。
「まさかまだお前が生きてる時代だったとはな」
飄々として言う彼に、兼行はずかずかと歩み寄った。
「真澄は何処へ行ったんだ!?」
久し振りの再会の開口一番に言われる言葉が問いだとは思っていなかったらしい麒麟はぽかんと口を開けると、次に口の端を上げやや嘲笑気味に笑った。
「知らねーよ」
「そんなはずはないだろう!真澄とそなたは対の存在なのだろう!?」
食って掛かって詰め寄る兼行に麒麟はさも興味なさそうに応える。
「対って言ったってなぁ。オレたち滅多に会う事無いんだぜ。本当、ヘタするとあんたらの言うところの何百年何千年それ以上の単位で」
「だったらどうしてあの時は現れた!」
「何となく。理由なんて聞くなよ。オレだって分かんねーんだから。もし今度真澄に会うことが聞いてみろよ。同じ事言うから。まぁ、会えればの話だけど」
「…真澄が数年前、屋敷から消えた。『お世話になりました』と書いた手紙だけを残して」
兼行は顔を背け、唇を噛む。麒麟は何も答えない。
「私が何かしたのだろうか。未だに気になっているんだ。私が屋敷に戻ってきたその夜に消えたんだぞ。真澄にはまだ傍にいて欲しかったのに」
「それは自分の力の使い方や知識を得る為か?」
その問いに兼行は何故そんな事を問われるのか分からないと、眉間に皺を寄せ答える。
「そうだ。真澄から学びたい事がまだまだ沢山あった。――それに真澄をあのまま放ってはおけない」
口惜しそうに呟く兼行には麒麟の表情が一瞬無表情に変わった事に気付くことはなかった。彼が顔を上げると、麒麟は意地悪そうにまたにやりと笑った。
「ところで、どうしてオレが突然お前を攻撃したと思う?」
言われて兼行は憤りに震えていた体がぴたりと止まる。
「攻撃?」
「後ろ見てみろよ」
顎で兼行の後方を指す麒麟に促され、振り向くと、彼と同じように吹き飛ばされた二人の従者は畑に落ち――体は切り刻まれ真っ赤に染まっていた。それはもはや人とは呼べない。肉塊が転がっていた。
「!!」
「お前は自分だけオレの起こした風に対して空気の壁を作って身を守ったんだよ。意識してかと思ったがどうやら無意識のようだな。驚きだぜ。てっきり気付いてると思ったから、オレに話しかけるよりも先に真っ先にその塊に駆け寄るかと思ったら、俺に近づいてきて、しかも真澄の事聞くんだもんなぁ」
麒麟は兼行が意識せず取った行動を呆然としたままの彼に丁寧に説明し、嘲笑う。
「…な、何故…」
「何故?――おい。理由聞かれてるぜ」
そう言って麒麟は後ろを振り返った。最初に目に入ったのが兼行の最も良く知る麒麟だったから、その後ろに人がいる事に兼行は全く気付いていなかったが、麒麟の後方には一人の男が立っていた。
衣装からすると農民のようだ。つぎはぎだらけの汚れた布を纏い、殺気を込めてじっとこちらを睨みつけていた。
「――何処かでお会いした事があっただろうか?」
男からは圧倒的な威圧感を与えられるが、兼行にはそうされる理由も男の顔にも覚えが無い。
彼に向かって一歩踏み出せば現実に斬り付けられるのではないかという程の殺気が向けられているが、だからこそ、兼行はそうされる理由を問い質さねばと男に声を掛けた。
しかし身に覚えの無い兼行にとっては率直な質問であったが、その問いは逆に男の神経を逆なでしたらしく、全身から放たれるさっきが更に増し、怨念を吐き捨てるように叫んだ。
「殺せ!貴族は殺せ!」
吐き出された言葉に兼行は麒麟を見る。すると、彼はにやりと笑った。
次の瞬間――。
ドゴォッ!
兼行は再び吹き付けた突風にその場から弾き飛ばされた。今度は確実に腹部に痛みを受けて。
「…何故…」
まるで腹の中を抉り出されるような痛みに兼行は着地した畑の上で膝を突く。
「くっそぉ。しっかり防御してんじゃねぇよ。一発で殺れねぇなぁ」
麒麟はさっきと変わらず畦道の上で己の掌を握ったり開いたりを繰り返す。
その姿を兼行は呆然として見つめていた。その視線に気付いて麒麟はこちらを見るとにやりと笑う。
「オレが人を殺す事がそんなに驚く事か?それともお前を殺そうとした事がそんなに信じられないか?」
兼行は何も言わない。
「オレは元々こうだよ。真澄が一緒だったから気付かなかっただけ。あいつは嫌がるもんなぁ。オレはどうでもいいんだけど。命がどうとか興味ねぇ。オレが楽しければそれでいいんだよ」
傷付けた兼行に対して本当に何の感傷もないのだろう。平然として麒麟は兼行を見る。
まるでその辺を転がっている石ころを見るかのように何の感情も篭らない瞳。
兼行にとって麒麟は大切な存在になっていたが、麒麟にとっては取り留めの無いものの一つだったのだと嫌でも知らされる。
「何であの貴族を殺さないんだ!」
麒麟の後ろに立っていた男が彼に駆け寄ると、膝を突き彼らを見上げる兼行を指差し、麒麟を詰め寄った。
「あ?あれは普通の人間じゃねーんだよ。オレと似たような力持ってるから咄嗟に身を守られちまう」
「お前と似たような力?」
その言葉にぴくりと反応すると、この世の者とは思えない形相で男は兼行を見た。
憎悪と殺意はこれ程までに人間を異形の者に変えてしまえるのかというくらい、恐ろしい形相が兼行の瞳に焼き付く。
「お前か!お前がこの川を作ったのか!お前のせいで!お前のせいで!」
男は畦道を降りると、体よりも感情が先にと急くのだろう顔を前に突き出し、縺れた足取りで兼行の前まで走り寄る。
そして彼は兼行の前に立つと、膝を突き、兼行の顔に爪を立てた。
兼行は逃げる事も抵抗する事も出来なかった。
これ程のむき出しの感情を向けられた事も無く、これ程の恐怖を与えられた事が、生まれてから今まで一度も無かったから。
何より、自分に爪を立て、容赦なく痛みを与える男は泣いていたから。
「お前のせいで!お前のせいで!お前のせいで!」
それだけをうわ言の様に繰り返し、泣いていたから。
それは全て自分が受け止めなければならない気がした。
「お前馬鹿だろう」
男の後を付いて来た麒麟は冷めた視線で二人を見下ろす。
「教えてやろうか。この村の人間が帝に文句を言っていたと話がお前のところまで行っただろう。突然こんな所に川が出来たという事で元々持っていた自分の土地は狭くなるし、水はけは前よりも悪くなって何を育てても何も出来なくなったんだって。しかも都で暮らす頭の悪い貴族が税も払えないのに税以上の物を搾取していくんだと。盗賊よりも酷いぜ。払える物は何も無かったから、家にある金目の物全部奪って、女だったら年は関係無いのか老婆でも子どもでも攫って行くんだと」
川の支流が出来た事で土地を失った人が嘆いていると聞いた。土地の水捌けが悪くなっているとも聞いた。
何も育たない土地になったとは聞いていない。税も払えない程困窮していたなど。
貴族が農民の生活を脅かしているとは聞いていたが、彼らにもきちんと仕事を与え、禄を渡しているのに、何故そんな事が出来るのか理解出来なかったが、今、現実として行われていると聞いても尚、理解が出来ない。
帝へ奏上を聞いていたが、全てが全て正しく伝わっておらず、捻じ曲げられている。
そうして、浮かんだのは、その奏上も結局は農民から貴族を経由して上げられる。彼らにとって不利益な情報まで流れてくるはずは無いのだ。
「こいつは吉郎という。こいつもお前が引いた川のど真ん中に土地を持っていて、その年はお前さんの奇跡の力とやらのお陰で余る位の蓄えが出来たらしいが、翌年以降はさっぱり。土地は減るし、他の畑で小作人としても働いていたが、税も納められず、しかも前の年は豊作だったからと要求する税も上がり、収められないならと家にある物全部奪われ、更にその後、その土地を収める貴族でもないどっかの貴族が突然押し入り、自分たちには何も収められていないからとか勝手な事言われて、既に何にも無くなってた家に残ってた女房と娘を攫われ、それを止めようとした息子は目の前で殺されたそうだ」
今も与えられ続ける痛みに声を上げそうになるが、兼行は喉の奥に必死に押し止める。
男は疲れたのか、それとも堪え続け悲鳴も上げない兼行を傷つける事に徒労を感じたのか、それとも麒麟に語られた過去に、その時の記憶が蘇ったのか、蹲ると、更に激しく泣き始めた。
兼行は沈痛の面持ちで彼を見つめ、そして麒麟を見上げる。
麒麟は兼行の顔を見ると楽しそうに笑った。
「良かったな。随分男前になったじゃねーか」
「…彼の事情は分かった。それで麒麟は何故ここにいるんだ?」
目の前で泣き叫ぶ男に同情してとはとても思えない。
問いかけると麒麟は子供が面白い玩具を見つけた時にはしゃぐのと同じように無邪気に笑ってみせる。
「面白そうだからに決まってるじゃねーか」
「それはこの起こっている事象が?それとも彼が?」
静かに返される問いに、麒麟はきょとんとし、そしてまた笑う。
「コイツに決まってるじゃねーか」
そう言って、己の足元で泣く男を麒麟は楽しそうに指差した。
「コイツは大物になるぜ!久し振りに楽しめそうだ。まぁお前も巻き込まれて死んだらその時は諦めてくれ」
兼行は反論しようと口を開くが、それも麒麟の言葉に打ち消された。
「お前は変わってねーな」
そう呟いた麒麟の瞳は何処か乾いたように無感情で兼行の瞳を捕らえた。
「だからオレはお前が嫌いなんだ」
それでを言うと、麒麟は目を背け、未だ泣き続ける男の肩を掴むと、その場からかき消えた。
ずっと耳の奥に響き続けた泣き声と、悲哀と憎悪と交じり合った空気が一瞬にして消え、それら全てを向けられていた兼行の心にはぽっかりと虚無感が残る。
ふと、周囲を見渡す。
植物の成長しない大地。
水捌けの悪い土はぬかるみ、兼行の纏う衣を汚す。
すぐ傍には元々彼の従者だった肉塊が体二つ分野晒しになっている。
兼行は空を見上げる。
彼は。
怒ればいいのか。
悲しめばいいのか。
痛がればいいのか。
分からなかった。
「お帰りなさいませ。兼行様」
屋敷の門を潜ると門番が声を掛ける。屋敷に入ると、女房たち数人が兼行を迎えた。
「お帰りなさいませ」
それはいつもと変わらない出迎え。それに兼行はほっとした。
顔や体の傷、そしえ衣装に染込んだ泥は全て己の力を使って消した。
女性のように鏡も持たないので、畑の中に出来た水溜りで己の姿を確認しただけだったが、出迎える者たちの反応から平常時と変わらない様に見られているのだと安心した。
けれど既に消えてしまったというのに、吉郎と呼ばれた男に引っかかれた爪の痛みや彼の苦悩の表情は兼行の皮膚に記憶に焼き付いて今も疼く。
ぶるりと身震いをすると、「寒いのですか?」と問われ、またほっとした。
「ところで藤乃は?」
泥は消したとはいえ、畑の畦道を歩いただけでも土埃で衣装は汚れ、足にも土がついてしまう。
新しい衣装を用意してもらっている間、入口で樽に水を張り、彼の足を洗う女房に問い掛ける。
女房は顔を上げ、少し困ったように微笑んだ。
「藤乃様は今自室で若君と姫君を寝かしつけておられますよ」
「…そうか」
そこで会話は途絶え、兼行は小さく溜息を吐く。
両足が洗い終わるのを待ってから、自室で手早く着替え、そして藤乃の元へ向かった。
「お帰りなさいませ。兼行様。本日はお夕餉は如何なさいますか?」
掛けられる声に振り返ると、彼の乳母であり今は女房頭の聡里が立っていた。
「ただ今戻りました。…今日はいらない」
兼行は暫し俯き、そして搾り出すように返答すると、まるで何かから逃げるようにスタスタと彼女の横を足早に通り過ぎた。
藤乃の部屋の前まで辿り着くと、小さく深呼吸をする。そして部屋に入ると子どもを寝かしつけていた藤乃が彼の姿に気が付き、顔を上げて微笑んだ。
「お帰りなさいませ」
その笑顔に、兼行は頬を緩める。
寝息を立てて眠る子どもたちの横、藤乃の隣に静かに座ると、また一つ溜息を落とした。
「どうかなさいましたか?」
いつもとは違う様子に藤乃は首を傾げ、兼行を覗き込む。
彼は彼女の瞳を見つめると、暫し何かを考えるように静止し、そして首を横に振った。
「何でも無い。何でも無いんだ」
そう答えると、藤乃はふと考え込んだ表情を見せ、そして彼の手を取ると、自分の胸の前で握り締めた。
「私たちは家族なのですから。もっと気持ちを伝えてくださってよいのですよ?」
その言葉に兼行は藤乃を見上げ、目を見張る。
「お仕事の事で言えない事もきっとあるでしょう。だからこうする事でどうか貴方の心の安らぎになりますように」
柔らかに微笑む藤乃に兼行は何も言えず、ただ抱き締めた。
たった一日で起こった出来事、そして兼行に与えた衝撃。それらは彼の心を乱し、彼の中で暴れる憤りは藤乃を抱き締める腕に力を込めさせた。
「私は変わらない――」
主語の無い呟きに藤乃は目を細めると、問い返す事はせずに「ええ」とだけ答えた。
「だから私は貴方様の傍にいるのです」
その囁きに兼行は藤乃を抱き締めていた腕を緩め、彼女を見つめる。
「いつだって己よりも他者を大切にされる兼行様だから。変わる事の無い意思をお持ちの兼行様だから私は惹かれ、そしてここにいるのです」
言ってから藤乃は兼行の手を取り、頬に寄せる。
「私には何の力もありません。それでも、ただ、いつだって自分を省みない貴方様を支える、癒して差し上げる、私たち家族が貴方様の帰る場所であるように私はそれだけは守り続けますから」
満ち溢れる優しさはそれだけで兼行を癒し、それを言葉に上手く表すことも出来ず、もう一度強く彼女を抱き締めた。