御所から次の瞬間には、兼行と真澄は、彼らの屋敷の入り口にいた。突然何も無いところから現れた二人に、それまで吞んだり喋ったり踊ったりしていた者たちも思わず静止して注目してしまった。
兼行は自分の屋敷で行われている宴に驚き、呆然とし、騒いでいた者たちは二人が突然現れた方法が理解できずに呆然とする。
その中で真澄だけが平然と、パタパタと手を振り、「気にしないで。続けて。続けて」というと言うと、その途端止まっていた時が一気に動き出したかのように、皆、宴を再会し始めた。
「何?何が起こっているんだ?」
疑問符を浮かべながら兼行は真澄の後を追う。
「今日はね、父さんが皆におもてなしをする日だったの。皆集まって準備してくれて、もうおもてなしなんだか、宴会なんだか分からなくなっちゃっているけど」
そう言って真澄は兼行を政行の下へ案内する。
案内された政行の部屋に入ると、兼行はそこで横たわる父親の姿を見て驚愕した。
痩せ細り、すっかり骨張ってしまった父親の体。
人が部屋に入る気配に政行が目を覚ますと、二人の姿を認め、力無く笑って体を起した。真澄は彼に寄り添うように、上半身を起す彼の体を支える。
「父上…どうしてここまで…」
「心配掛けたくなかったんだがな。---久し振りだな。元気だったか?」
笑う父親の顔は以前のような力強さも無い。
「どうして…。文は届いていました。それでも真澄がいたから。真澄がいてくれればきっと元気になられているはずだ。大事に至ることはない。そう信じていたのに」
兼行は顔を上げると、責める眼差しで真澄を見遣る。
真澄は傷付いた様に顔を歪めた。
兼行の真澄に対して咎める視線を遮る様に政行は手を振る。
「違う。真澄は悪くない。真澄の力でこの体を治すのを断ったのは私だ」
父親の言葉に兼行は彼に視線を戻すが、その表情は納得していなかった。
「私は真澄には異能の力を使う事無く傍にいて欲しかった。そして私が病気になるという事はそれは運命だという事だ。本来治るものであれば治るし、兼行と真澄がいなければ治す事が出来ないものならばそれは受け入れるしかないんだよ。お前たちが傍にいない他の人たちは治る事はないのだから。私だけ特別扱いはされたくない」
「そんな!病になる事が運命だと言うのなら、私たちが異能の力を持ち、父上の傍にいる事だって運命。私たちが治す事が運命だとは思いませんか!?」
兼行が訴えると、初めから反論される事を予測していたのだろう政行は苦笑する。
「決めていたんだよ。お前の母親の最期を看取ってから--」
その言葉に、兼行はそれ以上何も言う事が出来なかった。
暫し沈黙がその部屋に広がると、廊下のほうからゴソゴソと音がする。
振り返り、真澄が立ち上がって音の招待を確認すると、数人の市の人間や農民が料理や酒を抱え、こちらを伺っていた。その後ろには困り果てたように家人がこちらを見ている。
「あの…主様にご挨拶もしてなかったから…」
「俺たちが入るのは無理かな?」
「少しでも宴の楽しさを伝えられたら主様も元気になられるんじゃないかと思ってな」
宴で屋敷を開放しているとは言え、政行の部屋を訪れる事を禁じられていた彼らは必死に言い繕う。
「真澄。お通ししなさい」
背後からの政行の声に、訪れた男たちからも慣性が上がり、真澄の横を抜け、布団の上に座る政行の前に座り話しかける。
「今日は本当にありがとうございました。残念だなぁ。宴を一緒に楽しめないなんて」
「真澄のお陰で俺たちの畑も本当に良くなって」
「俺たちが作った野菜沢山置いていくんで、それ食べて元気になってくださいな!」
皆嬉しそうに、初めて会う政行に今まで放したかった事が沢山会ったのだろう次々に話しかけた。
その様子を隣で呆然と見ていた兼行に、彼らは一通り政行に話しかけ終わると、その時初めて彼の存在に気付いたかのように振り返り、「あ」と声を上げる。
「あんた。あの時の貴族さんだろう!」
「そうだそうだ。あんたのお陰で今年は豊作で!本当に感謝してるんすよ」
にこにこと笑いかけてくる彼らに、兼行は笑みを返す。
「有難うございます」
それに気を良くした男たちは持っていた料理を広げ、酒を杯に注ぐ。
「あんまり無理は出来んでしょうけど、まあ、ちょっとだけ食べましょうよ」
そう言って、男は兼行と政行にそれぞれ箸と杯が渡される。
「では少しだけ」
と言って嬉しそうに政行はそれを受け取り、兼行は「いえ。私はまだ仕事が残っていますので、後で頂きます」と言って立ち上がると、真澄について来る様に目で合図し、部屋を出た。
途中家人に父の傍について無理をさせないようにと指示を出して。
兼行と真澄の背後からは笑い声が響いてきた。
『私も交ざりたいな』と思いつつ、真澄は兼行の後をついて行く。
人の気配の無い部屋に入ると、それまで無言で彼女の前を歩いていた兼行はくるりと振り返り、真澄を見据えた。
そこには苦痛と悲しみが浮かんでいた。
改めて見る表情に、真澄の胸がきゅっと今度は小さく萎んだ。
「真澄…。どうして。どうして父上の病を治さなかったんだ。君にならできただろう。父上はもう少し早く治療をしていればまだ長く生きる事が出来たのに」
「それは…。父さんが望まなかったから」
「父上が望まなくても私が望んでいる。この屋敷の者だって望んでいる。残される者の悲しみを考えれば本当にしなければならない事が分かるだろう。文が来ても君がいてくれるから大丈夫だ。そう信じていたのに」
苦しそうに口元を押さえ、絞り出す様に声を出し、兼行は訴える。
「どうして。どうして文を出したのに帰ってきてくれなかったの?」
「君を信じていたからだ。まだ私は政に関わってから日が浅い。これから帝が上げる政策の基盤を作る為に今はまだ本当は御所を離れてはならない時期なんだ。私の異能の力を帝は認めて必要としてくれている。全てはこれからなんだ。だから父上の事はきっと君が良い様にしてくれると信じていた」
真澄は何も言えず唇を噛む。
「市の者たちが集まっているのには驚いたが、それでも彼らの話を聞いただろう。今年は豊作だ。これから都はもっと豊かになる。それでもまだ方々まで豊かさが広がるには時間が掛かる。それまでは都の周辺で採れた余剰になる作物を税として徴収して、周囲の貧困している地域の救済に当てる。その間に土地を均し豊かさを少しずつ広げていく。あの笑顔がもっと広がっていくんだ。その為に私は必要とされている。私は必要とされている力を持っているのだから使わなくてはならないんだ」
兼行は俯きかけていた顔を上げ、真澄を見つめる。
「その位気付いてくれていると思っていた」
その言葉を告げられた瞬間、真澄は聞こえるはずの無い音が聞こえた。
ピシリと何かが割れる音を。
真澄は兼行にどんな表情を見せればいいのか。どんな言葉を告げればいいのか分からなくなっていた。
「もうずっと長く私の傍にいてくれた。私は君に沢山のものを与えてもらった。感謝している。だから真澄にも私が与えられるものを沢山上げたいと思って、互いの足りないものを補い合えるような関係になりたいと思っていた。私は真澄にもっと沢山の大切なものを伝えられているはずと思い込んでいたんだ。――すまない」
笑えばいいのだろうか。
怒ればいいのだろうか。
悲しめばいいのだろうか。
人間は、命あるものはこういう時、どんな表情をするのだろうか。
真澄は自分が今まで得てきたものが何だったのか分からなくなり、頭の中は真っ白だった。
ただ全身が震え、口元が震え、きっと今の自分の顔は醜く歪んでいるだろうと感じた。
兼行は真澄の表情に気付き、彼女に手を伸ばすと、震えたままの彼女を優しく抱き寄せた。
「すまない。真澄。酷い事を言ってしまった。父上ももうすぐこの世からいなくなるのかと思うと、怖くて、君を傷付けてしまった。真澄は真澄だし、私が勝手に思い込んでいたのが悪かったんだ。本当に心配ならもっと早く駆けつければよかったんだ」
「…どうして…ゆきが謝るの…?」
「気付かないのならそれでいい。ただ謝らせてくれ」
「だってゆきは間違った事を言ってない。私が父さんの気持ちを大切にして他の人の気持ちを大切にしきれなかったから悪いんだ」
でも。と真澄は疑問を心の中に沈める。
『聡里や屋敷の皆に同じ事を伝えた時、誰も私を責めなかった』
それはどうして?
自分が感情と言うものを理解しきれていないから分からないのだろう。と疑問を口に出すことはしなかった。
ただ。
すぐ傍にいて、自分を抱き締めているのに、酷く兼行が遠くにいるような気がした。
何も動く事が出来ずにそうしていると、「失礼致します」と廊下から声が掛かる。
そちらを振り返ると、年若い女房が廊下で膝を突いて、手に持っていた文を差し出した。
兼行は真澄から離れ、文を受け取ると中を読み、その文を持ったまま暫し静止する。
声を掛けるのを躊躇われる気配が彼に漂い始め、真澄はただ文を持ってきただけの女房と兼行を交互に見る。
静止していた兼行は一つ溜息を吐くと、真澄を振り返る。
その表情は今にも泣き出しそうだった。
「帝からだ。すぐに御所に戻るようにと」
「どうして!?だって父さんもうあと少しの時間しかないのに!」
聞かされた文の内容に怒りを覚え、真澄は怒りをぶつける相手は違うと分かっていても当事者の兼行に食って掛かる。
「――私は御所へ戻る」
「なっ!?何言ってるの!?」
「真澄が来るまで治水の話をしていたんだ。今年は冷夏だった。きっと冬には雪が降る。それが積もらない程度ならいい。しかし積もり、春を迎えてから雪解けする事があれば――。都は山に囲まれている。その山から豊かな川が流れ込んでくる事で私たちはこの土地で生きていける。しかし、春にその山に積もった雪の雪解け水により川の水量が上がれば、あっという間に川は溢れ出し、都は沈んでしまう。実際に今までも何度か起きているんだ」
「…だから?」
「だから私の力で天候を変えるか、川の支流を増やす。それを成す為に地形を見定めるのも今のうちに行わなければ間に合わない」
「それは父さんを見送る時間も無い程に急がなくてはいけないことなの?」
「それを君が言うな!」
言ってから兼行は自分が言った言葉の過ちに気が付き、はっと口を噤む。
真澄の瞳は揺らぐ事無く、兼行を見上げた。
「そうだね」
無表情に。
兼行は目を逸らし、言い澱みつつ言葉を続ける。
「それを行う事で、どれ程の人を救えるのか分からない。父上を看取りたい。けれど私はもう己の感情だけで、己の為だけに動く事は出来ないんだ」
握り拳を作り、必死に自分に言い聞かせるように言葉を発する。
「…真澄も一緒に連れてくるように書かれていた。けれど真澄は連れて行かない。この世界に生まれ、この国で生きていく人間でもないのに巻き込みたくない。けれど二人とも参上しない訳にはいかない。だから私が一人で行って来る」
「うん」
「父上には今、これからもう一度会ってくる。―――どうか父上を頼む」
「うん」
真澄はもう彼の言葉に頷く事しか出来なかった。
「父さん。ゆき、行っちゃったねぇ」
「そうだな。それでいいんだ。男は時には家族よりも仕事を優先しなくてはならない事がある。だからいいんだ」
静かな空間。
政行は布団に横になり、真澄は彼のすっかり細くなってしまった手を握り、布団の横に座る。
空には月が昇り、御簾を上げたままの部屋に、僅かに入り込んでくる光が二人の姿の影を床に焼き付ける。
秋の風が時折流れ込み、微かな枯れ草の匂いが鼻を擽る。
部屋を間仕切る几帳の向うに、使用人や女房たちがいる事を二人は知っている。
「父さん。静かだねぇ」
「そうだな。静かだな」
微かに聞こえてくる啜り泣きや嗚咽に、政行は静かに眼を閉じる。
「私、父さんと一緒にいれて良かったよ」
「父さんもだ。真澄に会えて、こうして最後まで傍にいてくれるのが真澄で良かった」
その言葉に真澄は目を丸くする。
「私で良かったの?」
「真澄で良かった。――もしかしたら誰にも看取られないまま死ぬんじゃないかと思っていたからね」
政行は苦笑する。
「そんな事無いよ。だって今だって皆傍にいてくれるよ」
「それは全て真澄のお陰なんだ」
「私は何もしていないよ」
「―――うん。真澄はそれでいいんだ」
静かに真澄に微笑みかけると、政行は目を閉じる。
「一つ願いを言っても良いか?」
「私に出来ることなら何でも」
真澄の答えに、安堵したように小さく息を付くと、願いを口にする為に政行は息を吸う。
「桜を見せてくれないか?―――妻に最後に見せてくれたように」
「―――」
「そうする事で、私は妻の元へ行ける様な気がする」
「気付いていたの?」と確認する事は無かった。
真澄は目を閉じる。
そして、静かに開き。
「父さん」
と、声を掛けた。
政行は目を開く。
目の前には無数の桜の花弁が舞っていた。
視線を外に向けると、彼の妻を看取ったその瞬間開花した桜と全く同じ桜が目の前で、あの時と同様に花を咲かせ、闇の中月の光を浴びて鮮やかに咲き誇っていた。
几帳の向うから歓声が上がる。
と言う事は自分だけが見せられている幻ではない。
驚きに真澄を見ると、彼女はにっこりと微笑んでいた。
その表情に、政行は力が抜けてしまい、半分起しかけていた体を再び布団に横たえる。
風によって運ばれる桜が彼の手元に落ちてくる。
触れてみると、艶やかで、何処か懐かしい感触。
もう片方の手から伝わってくる柔らかな掌の温もり。
「私は幸せだ。---ありがとう」
そうして静かに彼は目を閉じた。
7
兼行は政行の葬儀にも戻る事は無かった。
元々低い身分故、形に囚われる必要も無くなっていた政行の身辺を確認すると、近親者は既に他界しており、貴族の中に親しい友人は少なかった。そうなると、たった一人の血縁者である兼行もおらず、葬儀は政行に親交のあった人間、身分関わらず弔問してもらえるように屋敷を開放した。
異例と言えば異例ではあるが、既に過去に異例と呼ばれる事を繰り返してきた慣れもあり、彼自身や彼の屋敷の者たちを知らない周囲の貴族からは非難されたが、それに対して悲嘆する者はいなかった。
寧ろ貴族よりも、市の人間や農民が集まり、以前政行が開いた宴のように賑わい、彼を悼んだ。
葬儀も終わり、一段落し、さて、屋敷の主がいなくなってしまったこの屋敷でこれからどうしよう。という時に、それは起きた。
「え?え?兼行様。このお荷物は一体…」
門番をしていた男は兼行の突然の帰宅と、そしてその後に続く牛車と荷車に驚いた。
「今日から私がこの屋敷で暮らすんだ」
兼行はそう答えた。
真澄は呆然と目の前で繰り広げられる光景を見つめていた。
女房や下男たちがあっちに行ったりこっちに来たりを繰り返している。その都度に部屋の調度品類は整えられ、元々使える部屋が少なく殺風景だった部屋が生活観のある部屋に変わっていく。
彼女は呆然と見つめながら、取り敢えず邪魔にならない場所、邪魔にならない場所へと移動していった。
ただ、その中で先程から皆、彼女を見つけると不思議な行動を取る。
皆一様に彼女を労うのだ。
ぽんぽんと頭を撫でる者。「大丈夫だ」だの「私は味方だよ」と言う者、抱き締めてくる者。
「何なんだろう?」
首を傾げつつ、居場所も無いので、市に出かけてみようかと門に向かった。
「真澄!」
戸口を出ようとした所で声を掛けられる。
それは彼女がこの世界に来て、一番良く聞き慣れた声。
振り返ると、兼行が笑みを浮かべ、手招きをしていた。彼の傍には聡里がいたが彼女は真澄が見ると視線を逸らし、俯いた。
「真澄。おいで」
言われるがまま、真澄は兼行の後を付いて廊下を進む。屋敷の一番北にある部屋に辿り着くと、部屋を隔てていた几帳のその向うに招き入れられる。
「――」
真澄は言葉にする事が出来ず、呆然としていた。
そこには一人の女性がいた。
まるで花のように白い肌、そして緩やかに波打つ黒髪。やや下がり気味の目じりが彼女自身が持つ儚い雰囲気を強調し、ふっくらとした唇には紅を乗せているのだろうか紅く、見る者を魅了した。
これ程までに綺麗な女性がいるのかと、真澄は驚き、そして思わず感嘆の息を漏らす。
兼行は真澄と対面するように女性の横に座ると、真澄を見上げた。
「まずは父上の件。最期を看取ってくれて有難う。屋敷に戻って来れない私の為に葬儀や処務を代わりに行わせてしまった。それに関してはお詫びと感謝する。今日、改めて父上の墓を見舞ってきた。私は親不孝者だ。けれどきっと分かってくれていると信じている」
真澄はやや伏せ目がちに語る兼行を見つめながら、その場に座り、話を促した。
「真澄や屋敷の者には迷惑を掛けてしまったが今日からまた私はこの屋敷で暮らす事にする。妻と共に」
そう言って、兼行は隣に座る女性に目配せすると、女性は真澄を見つめにっこりと微笑み、深く頭を垂れた。
「兼行様の妻を勤めさせて頂いております。藤乃と申します」
まるで花が咲き誇るように柔らかで綺麗な笑顔に惹きつけられると同時に伝えられた事実に対して、真澄は目も見開いて、静止した。
一瞬、時が止まってしまったのかとさえ錯覚した。
しかし、実際には時を止めていたのは真澄自身だけで、再び五感が世界を認識するようになると、藤乃は既に顔を上げ、嬉しそうにこちらに語りかけていた。
「本当に真澄様とお話できるのを楽しみにしていたのですよ。兼行様はいつも真澄様のお話をされるから少し妬いてしまったりもして。そうでした。私の事は藤乃とお呼び下さいませ。至らない所もあると思いますがどうぞ仲良くしてやって下さいね」
嬉しそうに笑いかける藤野につられる様に真澄も笑ってみせる。
兼行はそう言って笑うので、真澄も笑ってみせた。
「先日行っていた宴があっただろう。あれは良い宴だったと思う。貴族と庶民ではやはり考えている事は違う。隔たりも大きいが、互いの架け橋になるだろう。それに彼ら農民や商人の話を直で聞いて、政をもっと人の為に役に立てる事も出来る。また来年以降も行っていきたいな。この間色々と立て込んでいたから宴の準備等を詳しく知る事が出来無かった。是非真澄に教えて欲しい。妻も貴族や庶民の隔たりの意識を持たない方だから安心してくれ」
真澄は自分でもどうしてなのかは分からない。けれど一分一秒でも早くこの場を立ち去りたかった。
「私も仕事を貰い、政に関わり、もう十分に自立しているだろうと自負していたのに、真澄に教えられる事がある。本当に感謝している。これからも傍にいて欲しい」
変わらない。兼行は何も変わっていない。
そう思うのに、真澄は彼が酷く遠い存在に感じた。
今まですぐ傍に、何よりも一番に耳の奥にまで響いてきた言葉が、まるで遥か遠くから聞こえてくるように彼女の中に入ってこなかった。
私はちゃんと笑えていただろうか。
真澄の意識はただそれだけだった。
気が付いた時には話が終わり、気が付いた時には部屋を出ていた。
何処と無く歩いていると、聡里に手を捕まれた。恐らくは真澄が部屋から出てくるのを待っていたのだろう。そうでなければ引越しで一番忙しいはずの女房頭が彼女を捕まえられるはずが無い。
聡里は真澄の手を握り、台所まで連れてくると、用意していた菓子を渡す。そして既に沸かしてあったお湯で茶を入れ、真澄に差し出した。
真澄は茶を飲む気にはなれなかったが、差し出された湯のみを受け取ると、一口口に含む。
温かい。
そして与えられた菓子を口に入れると、口の中に甘さが広がった。
「本当はもっと早く伝えればよかったんだけどねぇ」
呟く聡里の言葉に真澄は首を傾げる。
「政行様が知らせない事を望んでいたから」
「父さんが…?」
「そう…。兼行様が既に結婚された事を知ったら、きっと真澄はいなくなってしまうから。兼行の為に都まで付いて来てくれたのに、傷付けてしまうから。出来るだけ少しでも長く知らせないでいて欲しいと望まれていたから。そしてそれは私たち屋敷の人間も同じ気持ちだった」
「--ゆきはいつ結婚していたの?」
「都で帝とご対面された数日後には。その日に奥方を見初められたそうですよ」
「そうなんだ…どうして皆私が傷付くと思ったんだろう」
その真澄の呟きに聡里は驚いたように顔を上げる。
「だって私はゆきが結婚したって何も変わらないよ。ゆきが望んでくれるし、私がいたいと思ってここにいるんだから」
明るく語る言葉と裏腹に真澄の表情は歪んでいった。
何かを堪えるように。
その表情を聡里はこれまでも幾度も見てきた表情だった。
政行が倒れた時、兼行が政行を見舞った時、政行が亡くなった時、そして先程兼行に藤乃を紹介された時。
本人は自分が何を堪えているのか気付かないのだろうか。まさかそんなはずは無い。そう思う一方で、そんな顔をさせ続ける事に胸が痛み、聡里は戸惑いながらも、意を決して真澄の手を握り包み込んだ。
「兼行様は貴方がいてくれて本当に幸せでした。そして私たちも。屋敷中の皆が貴方に沢山の大切なものを頂きました。それは確かに貴方にしか無い力です。私たちが持っていない異能の力ではなく、私たちも持っているその中で貴方にしか出来ない事をしてくれました。私たちは貴方がとても大切です。これからもずっとここにいて欲しいと願っています、けれど貴方が望むなら好きなところ行っていいんですよ」
真澄にはその言葉の全てが理解しきれず眉間に皺を寄せる。
「貴方が好きな所で幸せに暮らしてくれれば、貴方を大切に想う私たちはそれだけで幸せなんですよ」
優しい笑みをくれる聡里を真澄は見上げる。
ふと、周りを見ると、いつの間に集まってきたのか屋敷の家人たちが土間に集まっていた。
彼らは口々に謝りや労いの言葉、そして感謝の言葉をくれる。
時には頭を撫で、頬に触れ、彼女を抱き締めて。
そうされる事で真澄は自分の中にあった大きな黒い穴のような、糸をぐちゃぐちゃに巻いて絡まったような重さが、温かくて柔らかい、そして軽いものに変わっていた。
それがどうしてかは分からないが自分の中が変化する事でずっと歪んでいた表情は彼女自身でも気付かないうちに笑顔に変わっていた。
そして、胸に込み上げるものがあったが、それを言葉に変える。
「ありがとう」
その言葉が何度も何度も喉から溢れ出続けた。
真澄は月を眺めていた。
屋根に登り、人工的に作られた屋敷の池に浮かぶ月を、そして真っ暗な空にぽっかり浮かぶ月を。
翌日にはきっと雨が降るだろう。今はまだ薄いがやがて厚みを持って空を覆ってしまうだろう雲が月を時々包み隠していた。
雲の流れる切れ間から覗く月は白く、優しい光を放っていた。
いつか、遥か昔のような、ほんの少し前のような、そんな何時だか定まらない程近くて遠い昔、その日も真澄は月を見上げていた。
その優しく彼女を包む込む月にゆらりと現れた黒い影が重なる。
長い時の流れの中で出会う事は少なく、それでいて彼女が最もよく知る人物。
彼女の対になるように、彼女と共にある存在。
「麒麟」
それが対に与えられた名。
対である存在、麒麟は苦しそうに顔を歪めていた。
「久し振りに会ったのに酷い顔――」
そう言って彼女は笑うが、彼の表情が変わることは無かった。
「なぁ――。もういいだろう?」
紡ぎ出された言葉に、真澄の笑い声がぴたりと止まる。
「何がもういいのか分からないよ」
「もうこんな世界にいる必要ねーだろ!」
叫ぶように発せられる言葉に、真澄は反論する。
「そんな事――」
「あるだろ!ゆきはもう結婚したんだ!この世界で生きる役割を持って、嫁さんを貰っていつか子どもが生まれて、年老いて死んでいく。そうやって生きていくんだ!」
真澄の表情が歪む。
「あいつはオレたちと似たような力を持ってる。でもオレたちと同じじゃない。生きているんだ。そしてこの世界で生きていくんだ。もうお前が傍にいてやる必要なんてないんだよ」
真澄の表情を見て、麒麟も顔を歪めるが、喋る事を止めない。
「オレがお前から離れてからずっとお前を気にしてなかったと思うか?…もうお前の辛そうな顔見るの嫌なんだよ!」
「…辛そうって何が…?」
「お前のその顔だよ」
真澄の両頬を掌で包み込み、麒麟はじっと彼女の瞳を覗き込む。
その行動に不快さを覚えた真澄は、慌てて手を引き離そうとするが、麒麟はそれを許さない。
「泣きたかったら泣けばいいだろう!痛かったら痛い、傷付いたなら傷付いた、苦しいなら苦しい、嬉しいなら嬉しい、でいいんだ!泣けばいいんだよ!そんな顔するな!」
そう言って、麒麟はコツンと真澄の額に自分の額をつけて彼女の瞳を真っ直ぐ覗き込んだ。
「兼行が好きだったんだろ。惚れてたんだろ」
「―――」
麒麟が額を合わせながら彼女を見据えると、彼女の歪んだ表情がふっと無表情になり、そして瞳に涙がじわじわと堪り始め、それは一筋の流れになって頬を伝い、零れ落ちた。
一度零れ始めると、後はまるで防波堤が決壊したように、ぼろぼろ止め処なく流れ続ける。
「…っ…ひっく…っ…」
何かを言葉にしようとするが、声が出ず、喉の奥を鳴らし続け、呼吸を整えようとするが、元に戻す事が出来ない。
緩められた麒麟の腕から逃れ、両手で必死に頬を拭うが、涙は止まる事無く流れ続ける。
「ふぁっ…に…し…ん…」
「何をしたんだって?オレは何もしてない」
もう一度麒麟は真澄の目を覗き込んだ。
「そういう時は泣くんだ。泣けなくなるまで泣き尽くすんだよ」
その囁きに真澄は頬を拭っていた両手を止めて、ただ涙を零し続ける。
「ふぅっ…うぇっ…」
堰を切ったように嗚咽交じりの声を上げて、叫ぶように泣き始める。
ただただ麒麟は真澄が泣き尽くすまで傍にいた。
「――ゆきに会えて良かったな」
月を見上げて、麒麟は呟いた。
その日を最後に真澄は姿を消した。