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「父(ちち)さん。父さん。ゆき、今日も帰りが遅いんだね」
「そうだな」
政行に与えられた小さな屋敷。村で暮していた時よりもやや手狭ではあるが、彼らと共に村から移動してきた家の人間全員が暮らすには丁度いい大きさのもの。寧ろ以前の屋敷の方が無駄に広く持て余していた位だった。
政行は自室で暫しの休息を取っていた。横には彼が土産に買ってきた菓子を口に入れる少女がいる。
「帝に会った初めての日は、相当嬉しかったのかずーっとぼーっとしていたし、それから次の日は毎日出仕で朝早くから、夜遅くまで。帰って来れる日はまだいいけど、最近は帰っても来れないもんなぁ」
「兼行がいなくて毎日が退屈か?」
まだ幼さを残す少女の柔らかな髪を政行は撫でてやる。その仕草に少女は嬉しそうに目を細めた。
「ううん。だって私だって毎日外に出て遊んでいるし。それに父さんが毎日遊んでくれるもの」
「そうか。毎日何処で遊んでいるんだ?」
「市とか畑。後は山や川。凄いね父さん。私、こんなに長い間人間の中で人間と一緒に遊ぶなんて初めてなんだよ。毎日が楽しいね」
「楽しいか」
「村でも遊んでいたけど、ここはまた村とは全然違う。人間って色んな事考えているんだね。喋っている事、考えている事が違ったり、表情でその人が考えている事が分っちゃったり、最近はその人たちが本当は何を考えているのか読む事が楽しいんだ。一杯話して少しずつ知っていくの。生きる事に皆一生懸命なんだね。畑や川の使い方とか、市での駆け引きとか、今までそういうの一杯見てきたけど、自分が生きる為に一杯考えて、考えた事も変えていっているんだね。これって一つの場所に長くいなきゃ分からない事だったよ」
政行は笑う。
「今はね、畑を皆で一生懸命良くしているの。父さんは覚えている?初めてこの屋敷に来た日、通りがかった畑」
「ああ。覚えているよ」
「あの畑に肥料を入れて、耕して、少しずつ作物がまた大きく育つ畑に変えていっているの」
その言葉に政行は少し驚く。
「真澄の力を使わずに?」
「うん。今年の分はお手伝いしているけど。と言っても秋に採る事が出来るようにゆっくりとだけど。このままじゃ来年は何も実らないから、もう何も育たないからって放置している畑を皆で耕し直しているの」
「皆で」
「そう。あの辺りに住んでいる人、皆で。段々土も元気になってくるし、楽しいよ。ゆきは一度見たきりだったから見せてあげたいなぁ。そう言えば、今年取れた野菜を今度一杯持ってきてくれるって。市で仲良くなった人も今度調味料とか、着物をくれるって。皆優しいね」
「そうかぁ」
楽しそうに毎日の事を語る真澄を見つめ、政行は目を細める。
「真澄が私の娘だったら良かったのになぁ」
「え!?私が父さんの娘!?」
真澄は顔を上げ、頬を赤く染める。
「うん。そうだ。そうしたら嫁にやらず、ずっと傍に置いておくのになぁ」
笑う政行に真澄はあたふたとし、そして何かを思いついたのか、ふと、彼の瞳を覗き込む。
「…あ…あのね。一度ね。もし、家族がいたらやってみたいと思っていた事があるの。いい?」
上目遣いでおずおずと尋ねてくる真澄に苦笑し、政行は「どうぞ」と答えた。
真澄は一瞬躊躇するが、顔を上げると、意を決したように「えいっ!」と気合を入れて、政行に抱き付く。
政行の方と言えば、まさか抱き付かれるとは思わず、固まってしまった。
「あのね。あのね。一度でいいから、ぎゅって抱きついてみたかったの。だって普段誰かに抱き付いたら変な人だって思われるし。赤ちゃんってずっと色んな人に抱っこしてもらっているでしょ。それでどんな気持ちなんだろうってずっと思っていて…」
抱き付きながら、真澄は恥ずかしさを誤魔化すように捲くし立てて言い訳を喋り続ける。
政行はその姿に微笑を浮かべ、彼女の背中をぽんぽんと優しく叩く。
「甘えたい時は素直に甘えていいんだよ」
その言葉に真澄の体温が上昇するのを触れる体から伝わってくる。
「ゆきは父さんがいて羨ましいなぁ」
真澄の呟きに政行は笑ってしまう。
「ゆきは何しているのかなぁ」
「そうだね…。兼行は御所の中枢で働いているけれど、私は貴族の中でも末席だからね、詳しい事は分からないけれど、最近、大橋が架かっている川が暴れて氾濫する事が多いからと治水に向かったと噂を聞いた。無理はしないといいんだが…」
段々と力の無くなる言葉尻に真澄は顔を上げ、笑う。
「大丈夫だよ。父さん。だってゆきはいつだって人の為になる事を考えているもの」
その言葉に政行は少し寂しそうな表情を見せ、くしゃりとまた真澄の髪を撫でる。
「君は兼行のお陰で沢山のものを見つけたのだね。兼行は君から沢山のものを貰っているはずなのにね…」
真澄にはその言葉の意味の全てが理解出来ず、首を傾げる。
「初めて兼行が真澄を連れてきた時は驚いたけれど、兼行が君と出会えた事は本当に良かったと思っている、そして私も真澄に出会えて良かった。これからも傍にいて甘えて欲しい」
政行の言葉に真澄はまた頬を赤く染め、もう一度抱き付いた。
巡る季節。
兼行たちが都に屋敷を構えてから初めての秋が訪れた。
「今年の収穫は今までで最高だなぁ」
「本当に。税を納めても俺たちは冬を越すのに十分な程の蓄えが出来た」
「それもあの時通りかかった貴族様のお陰だな」
沢山の穂をつけた稲を刈り入れながら、農民たちは笑う。
「それと突然ひょっこりと現れた真澄とな」
自分の名前を呼ばれ、麻酔は稲の間からひょっこりと顔を出す。
「呼んだ?」
今の会話を聞いていなかったのか首を傾げる彼女に周囲から笑い声が上がる。
「いやいや。真澄が田んぼを手伝ってくれて、どうやったらまた土がよくなるのか教えてくれたお陰で今年は豊作だ。皆で感謝しているって話をしていたのさ」
「それとあの時、真澄と一緒にいた貴族様のお陰だってね」
周囲から上がる褒め言葉に、真澄は頬を染めて首を横に振る。
「ううん。私が手伝っているのはこの辺りだけの畑だもん。ゆきが凄いんだよ。ゆきが偉い人たちと頑張ってくれているからだよ」
「貴族って言うのはわしらを虐げるだけかと思っていたけど、ゆき様、あの貴族様は違ったな」
腰を上げた老年の男が顔を上げる。真澄は嬉しそうに頷いた。
「ところで、本当に俺らが貴族様のお屋敷に伺ってもいいのか?儂らはただ貴族様と真澄にお世話になったからそのお礼として米や野菜らをお渡しできればいいんだが…」
心配そうに真澄に問いかける壮年の男に彼女は笑って答える。
「ううん。父さんが是非皆に屋敷に来てもらって皆をもてなしたいって言ったの。御裾分けだけじゃ申し訳ないし、私がいつも皆に良くして貰ってるっからお礼がしたいって。皆が持ってきてくれたお米や野菜を使ってだけどね」
「儂らが貴族様の屋敷に正面から堂々と招かれるなんて、一生に一度あることじゃねぇ。貴族様も貴族様ならそのお父上も度量のある方なんだなぁ」
「だったら私たちも早めにお邪魔して、料理を手伝うよ。皆で楽しくやろうじゃないか!」
隣で腰を上げた女が張り切って上げた提案に、他の女たちも賛同し始め、一方で男たちは「酒の用意もするか」と最早もてなされると言う意識はそこには無く、宴会をする準備として盛り上がり始める。
そうしてあちらこちらから声が上がり、皆稲の刈り入れの手を休め、次々と意見を出し合っていた時に、貴族男性の平素時の衣装である狩衣を纏った男が畦道のを通り、真澄の元に駆けて来た。
周囲が田圃で囲まれている中で、その場にそぐわない滑降した男に皆お喋りを止め、彼を注目する。
「真澄!」
男は真澄が足を浸けている田んぼまで寄ると、彼女に声を掛け、自分のいる畦道へ来いと手招きする。
真澄が彼の元まで駆け寄ると、彼は更に自分に近付くように手招きし、まだ息の整わないまま小声で耳打ちする。
「主様が倒れられた」
その言葉に真澄は目を見開き、一瞬、目の前に広がる世界が真っ白になった気がした。
「真澄!」
次に視界が戻った時、彼女は自分でも気付かない内に田圃の中にへたり込んでいた。
足の力を無くし、倒れそうになった彼女を咄嗟に支えようとしたのだろう狩衣の男の手が彼女の腕を支えるように掴んでいた。
「今は目を覚まされている。ただ顔色が良くない。屋敷に戻ってきてくれないか?」
言われると同時に真澄はすくっと立ち上がり、田圃から足を抜き、畦道に登ると一目散に駆け出す。狩衣の男は慌ててその後を追った。
その様子に周囲の農民たちが何が起こったんだと声を掛けるが、真澄は答える事無く、ただ無我夢中で屋敷に向かった。
屋敷に辿り着くと、皆突然の事にどうして良いのか分らず戸惑っているのだろう慌てた様子で女房たちが廊下を走り回っている。そこに真澄が戻ってくると皆一様に彼女に声を掛け、彼女を政行の寝室へ案内した。
「父さん!」
几帳で遮られていた部屋のその向こうに眠る政行に駆け寄る。
彼は真澄の姿を認めると、苦笑して上半身を起こした。
笑顔を作ってはいるが、その顔色は青白く、瞳に光が無くなっていた。
真澄は政行の眠る布団の傍に座ると、彼の瞳を心配そうに覗き込む。
「真澄。すまない。心配掛けたくないから知らせるなと言っておいたのに」
そう言って、彼は力なく笑う。
「大丈夫?」
真澄が手を差し出し、彼の額に触れようとするが、その前に彼自身の手によって押し止められ、そのまま優しく握り込まれてしまう。
その行動に彼女は不思議そうに彼を見上げる。
「真澄。力は使わなくていいよ」
告げられた言葉に真澄はどきりとした。
確かに彼女は今、無意識の内に彼を治療しようと手を伸ばしたのだ。
それが彼女にとって当たり前だったから、当たり前のように。
「君は力を使わなくていいんだ。ここで倒れたのも、病気になったのも、天命だというのなら、私は従うだけだ。君がこの力を使う事は望んでいない」
真澄は何も言えず、無言で彼の言葉の先を促した。
「ただ、傍にいてくれればいいよ」
そう言って、政行は真澄の手を握ったまま、布団の上に下ろす。
「ああ、そうだ。真澄がお世話になっている人たちを屋敷へ呼ぶ予定は変えないからね。それまでに私も元気になるさ。一度倒れたくらいで死にはしないよ。だからそんな顔しないでくれ」
彼女の手を握り込む反対の手で頬を触れられ、真澄は初めて自分が今どんな表情をしているか気が付いた。
顔面がまるで痙攣したみたいに歪んでいる。口の端が震えている事に気が付いた。
それ以上表情を崩すと、自分の中で必死に塞き止めているものが溢れ出しそうだった。
だから喋る事で誤魔化す事にした。
「皆がね、当日お手伝いして料理作ってくれるって。おもてなしするはずが、皆で準備して宴会に変わっちゃった。それでもいいよね。だって貴族とか農民とかって壁があって中々仲良く出来ないものでしょ。でも皆で一緒に材料集めて、会場作って、料理して、一つのもの作るって楽しいよね」
政行はじっと真澄の瞳を見つめ、彼女の言葉に耳を傾ける。まるで一言も逃さないように、と。
そうして彼女の言葉が途切れると、ゆっくり頷いて、「そうだな」と答えた。
それから二、三言話して、真澄はそれ以上彼の傍にいる事が出来ずに、部屋を出た。
廊下には下男や女房たちが集まり、皆一様に部屋から出てきた真澄を見つめる。
その目には期待が浮かんでいた。
真澄には彼らが何を望んでいたか分かっていた。それは彼女自身も望んでいたから。
己の手を目の前に上げ、じっと見つめる。彼女は彼らの期待の瞳に首を横に振った。
彼らと自分の望みは、政行の望みではなかったから。
真澄の返答に集まった家人たちの瞳は落胆の色に変わったが、誰一人彼女を責める事は無く、その場を一人二人と離れていった。
その場にいた聡里は項垂れる真澄の頭を優しく撫でる。
「仕方無いね。貴方でも治せないなら」
その言葉に、真澄ははっと顔を上げ、首を横に振る。
「違うの。父さんが望まなかったの。私が力を使う事を望まなかったの。私の力でもう少しだけでも元気になれたはずなのに」
聡里は彼女の言葉に目を見開き、暫し沈黙をするが、やがてゆっくりと口を開いた。
「主様は貴方が力を使うのを望んでいませんでしたからね。ここにいつ、ここで暮らす私たちと同じようにいる事を望んでいたから。政行様が望まれないのなら、それでいいのですよ」
未だ納得のいかない様子でその場に残り、それを聞いた周囲の者たちも目が覚めたように目を見開くと、己を恥じたように俯き、そして労うように、皆其々真澄の頭や肩に触れ、去っていった。
彼らにも、真澄の力も、政行の望みも、真澄が今抱いている想いも痛い程十分に分かっていたから。
それが理解出来る程度には真澄はもうこの屋敷で、屋敷の人間の一人として馴染んでいたから。
苦しんでいる真澄をこれ以上追い詰めるような言葉を放つ事は出来なかった。
彼らの与えてくれる優しさに胸の奥に込み上げてくるものを真澄は今まで触れた事が無く無く、ただ堪えていた。
ただ、一つ、気になっていたことがあり、聡里に問い掛ける。
「ゆきはまだ来ていないの?」
いつも傍にいてくれ、誰よりも政行に近しいはずの人がいない。
「…ええ。文は既に一刻も前に出して、兼行様のお手元まで届いていてよいはずなのですが…」
「そうなんだ…」
呟いて、真澄は薄細い雲がたなびく秋空の中、沈みゆく緋色の太陽を見つめていた。
結局、兼行が戻って来る事は無かった。
その日は朝から人の出入りが激しかった。
前日の夜から食材を運ぶ者、料理の仕込をする者が訪れ、賑わっていたが、その日はそれ以上の人間が出入りしていた。
料理を持参する者、屋敷の端に積む者、大量の酒を荷台に乗せ運び入れる者。
市や農地で働き、暮らす者たちが老若男女身分問わず屋敷へ集まり、昼には庭に無数の料理が並べられ、まるで祭りの日のように賑やかな宴会が始まった。
この日ばかりは商人も農民も貴族も関係無い。
男たちが互いに酒を注ぎ、笑い合う。子どもたちは目の前に出される今までに無い程豪華な料理、そして口にすることの無い菓子にはしゃぐ。そして今日限り解禁された屋敷内で、女たちが互いに労い寛ぎ、お喋りに花を咲かせる。
商人であれ、貴族であれ、身の上に起こる話に大差は無い。最初は互いに緊張していてもいつの間にか打ち解け、盛り上がっていた。
「本当にこんな機会は二度とないだろうね。私らと貴族様たちが一緒にこうして同じ時間を過ごすなんて」
「そうですね。私たちも考えられませんでした」
毎日市で野菜売りをする少女が、同じ年の位の女房に話しかける。
「元々兼行様も変わった方でいらっしゃって、真澄を連れて、元々いた土地でもこのように身分関係無く接していらしていて私たち屋敷の人間や主様も初めはそれに戸惑っていたのですけれど。これだったら前の屋敷の時から行っていればと思いますわ」
「兼行様は以前のお屋敷に暮らしていた時から素晴らしい方だったんですね」
少女の隣で聞いていた女性の感想に女房は嬉しそうに笑う。
「ええ。けれどよく考えたら、真澄のお陰なんですよ。彼女が現れてから兼行様はずっと穏やかな方になり、身分の括り無く人の為を第一に考える思慮深い御方になられました。そして主様もお優しい方ではありましたが、身分に関してだけは重んじられる方でした。それが真澄がこの屋敷で共に暮らすようになってから、お変わりになられました」
その言葉に頷いて、老齢の女房が言葉を続ける。
「本当の事を言えば、私たち貴族は身分を何よりも重んじます。真澄を招き入れる事、兼行様の行動を良く思わないこともありました。何よりもそうした行動を取られる事で、兼行様自身そして主様もの身を滅ぼす恐れがあったからです。それでも今、皆様とこうして同じ時を過ごせる。身分に捕らわれるよりもどれ程の価値がありましょう」
そう笑って告げる老齢の女房の表情にほっとし、皆一様に笑った。
笑い声が聞こえるその向こう側では農民の男たちが、下男の杯に酒を注ぐ。
「俺ら農民からしてみれば、貴族なんて、何一つ食べ物も作れないくせに、俺たちから税を取って貴族だ何だだのとえばり散らして、その実は毎日色んな女をとっかえひっかえの贅沢三昧して遊んでいるだけのロクデナシの集まりだと思ってたからなぁ」
「言い返す事は出来ないな」
注がれた酒を見つめ、やや彫りの深い下男は薄く笑う。
「けどさぁ。あんたらのご主人はすげーよなぁ。正確にはご主人の息子か。不思議な力を持ってるけど、それで贅沢三昧するでも一角千金を狙うでもなく、人の為、俺たちが楽になる為豊かになる為って働いてくれてるんだろ。お上の傍にいて周りの村も良くしてくれてるって話じゃねぇか。隣の村にも兼行様が来たって。そしたら今年は豊作だって言ってたもんな。本当凄いよ。貴族様って俺たちには関係ねー世界だと思ってたけど違うんだな」
「兼行様が今にもっと良い世界にしてくださるよ」
そう言って下男は誇らしげに笑った。
またその笑顔に周囲の人間も笑う。その中で酒を持ってきた男がふと思い出したように顔を上げ、そして表情を暗くする。
「けど、あんたらの主様のお加減は良くないんだろう?」
その言葉に笑っていた男たちは皆一様に肩を落す。
「そうなんだ。今日この日を一番楽しみにされていたのは政行様なのに。お加減が悪く床を起き上がれないのだ」
白髭を長く伸ばした狩衣を纏った従者は顔を上げ、主の部屋がある方向を見つめた。
外からは賑やかな笑い声が響く。
持て成す為に開かれた宴会場から一番遠く離れた北の奥の部屋で政行は床に着いていた。
彼が横になっている布団の横では真澄が彼を見つめている。今にも泣き出しそうな表情で。
その表情に政行は苦笑し、ゆっくりと体を起そうと片手を布団につく。真澄は手を貸そうとするが、もう片方の手でやんわりと制止され、手を借りずに彼は上半身だけを起した。
「今日は調子がいいんだ」
そうは言うが、その顔は白くとても血が通っているようには見えない。
そのくらい既にもうやつれていた。
「折角真澄の為に宴を開いたのに君はずっとここにいる。私は大丈夫だから楽しんでおいで」
彼は真澄の頬を優しく撫でるが、彼女の掌がその手に添えられ、頬に留められた。
指先から伝わってくる熱がじんわりと政行に体温を分け与えられる。
最近この少女はいつも苦しそうなのだ。口の端が小刻みに震えている。何かを堪える為に。
そんな表情をさせているのは自分なのだと分かっているのだが、彼にはどうしてやる事も出来ない。
「皆楽しそうで良かった。私はこの声を聞けただけで十分だ」
何を言っても真澄の表情は変わらない。
兼行がこの場にいれば、彼女の心を動かす事が出来たのだろうか。そう思い――首を振った。
「私が君の父さんとしてして上げられる事は何だろうね。生憎私には女兄弟も娘もいなかったから分からないんだ」
悲しげに呟く政行に真澄は目を見開き、首を横に振る。
彼女は傍を離れない。
彼女は知っている。
彼の命が―――あと僅かで消えてしまうのを。
「――正直言えば嬉しいんだ。君が私の傍を離れないでいてくれる事に。私がもうすぐこの世からいなくなる事を悲しんでくれている事を。でもね。一方で笑って欲しいんだ。私の大切な娘には笑っていて欲しい」
その言葉に、真澄の表情が初めて揺らいだ。
戸惑うような。驚くような。そんな表情。
そうして俯くと、何かを思い至ったように顔を上げる。
「私、ゆきを連れてくる!」
「え!…待てっ!」
真澄を慌てて制止しようとするが、既に遅く、少女に握られていた政行の手はぱたりと布団の上に落ちた。
――結局、兼行は一度も、屋敷へ戻るどころか文を返す事も無かった。
真澄が屋敷から姿を消し、次の瞬間、彼女は御所の屋根の上にいた。
初めて訪れる御所は広い。
兼行の屋敷の何倍、何十倍という広さがあり、その屋敷の中では何百人という人間が動き回っている。
今までにもここではない場所でそうした光景は見てきていて、慣れていたはずだが、この世界では、初めて見る光景に圧倒されていた。
こんなにも多くの人間がこの世界にはいたのだと。
真澄は適当に人気の無い場所で屋根から御所の廊下へ降りる。
歩いていると、時折視線がこちらに向けられているのを感じた。
兼行の屋敷で着ていた小袿を纏い、廊下を歩いているだけなのに注目を浴びる。
格子の向こうの部屋から明らかに嘲笑の声。通り過ぎる男たちは目を丸くしてこちらを振り返る。
首を傾げ、視線を向けられる格子向こうの女たちを見ると、自分が纏うものより更に豪奢な刺繍をされた鮮やかな色の着物を幾重にも纏っていた。
それを見た真澄の感想と言えば、
「重そう」
だった。
幾重にも重ねて身に纏う十二単が御所での常用する正装である事、女性が堂々と廊下を渡り、男性に顔を見せる事など、女性の嗜みとしてまず有り得ない事も真澄は知らなかった。
ただ兼行の気配を辿って彼の元へ進む。
どんな事があれども彼の気配だけは見失う事は無い。
彼が彼女と出会ってから、彼の気配もしくは存在感は一層強くなり、逆に見過ごす事の方が難しくなっていた。
真澄は一つの部屋の入り口の前に立った。
そこは御簾や格子で隔たれる事無く廊下に面して開放された広い空間だった。
人が数十人入れそうなその広い部屋には、誰もいない。人一人もいない。あるのは部屋の中央奥に敷かれている二畳分程の人が座る為の畳と、その畳の両側二箇所に設置されている火の灯っていない蜀台があるだけ。
ふと、真澄は違和感を覚えて首を傾げた。
廊下と部屋を仕切る左右の柱を見ると、見た事の無い文様が書かれた札が貼り付けられている。
しかし、彼女は大してそれに気を止める事をせずに、一歩室内へ足を踏み入れた。と、同時に彼女の目に映る世界が変わった。
部屋自体の造りは変わっていない。ただ、誰もいなかったはずの部屋に突然人が現れた。
用意された畳に座す一人の少年。そして彼の中心にして左右三対二に分かれて垂直に廊下へ向かって一列に座る男たち。
驚いたのは真澄よりもそこにいる男たちだった。
「何故この場所へ!?」
「誰も入れぬよう結界を張っておいたはず」
「どういうことだ一体?」
「それよりもどうして女がこんな所へ?」
そして真澄から向かって右側手前に座っていた青年が口を開く。
「真澄…」
驚きの中にも厳しい表情を見せた兼行を真澄は見据える。
久し振りに会った兼行は以前よりも大人びた顔付きに変わり、真澄は胸に痛みを感じた。
その痛みが何なのかは今は気にする暇は無い。声を掛けようと口を開くが、奥に座る少年の声に遮られた。
「そなたも異能の者か?」
まだ声変わりもしていないやや高めの声質。真澄が振り向くと、少年はじっと彼女を見据えていた。
「はい?」
「そなたは兼行と同等の力を有する者かと問うている」
漆黒の瞳が真澄の瞳を射抜く。周囲の視線も彼女に集中していた。兼行以外。
「はぁ…」
しかし、糸を張り詰めたような緊張感と凍て付く視線に動じる様子無く寧ろ彼らからの視線を疎ましく感じて逸らし、真澄は兼行を見る。
「それどころじゃないの!ゆき!文が届いているよね?何度も何度も送っているのに届いていないの?」
彼女はすたすたと奥に座る少年を無視して、彼を正面にして左右に分かれた男たちの間を歩くと、兼行の前に立ち、正面から見下ろす。
他の人間はただただ彼女の行動に驚愕するしかなかった。
真澄は兼行の前に座り込むと、彼の手を取り、訴えた。
「父さんが病気だって伝えたよね…。もう…持つか分からないよ。ゆきは一度も会わないまま父さんとお別れするの?」
その言葉に鋭い視線を真澄に向けていた兼行の瞳が揺らぐ。
「娘!どうやってこの結界内に入ったか知らないが、帝を前にして礼をすることもせず、尚且つ帝の問いにも答えないとは、この狼藉者っ!」
そう言って、兼行と対面するように座っていた男が立ち上がり、真澄の腕を背後から捻り上げるように掴んだ。と思った次の瞬間には彼は兼行の後方へ吹き飛ばされていた。
飛ばされた本人にも、周囲の人間にも何が起こったのか分からず呆然とする。
何の事は無い。男が真澄の腕を掴んだ瞬間その力の反動を使って投げ飛ばされただけの事である。
「邪魔しないで!私はゆきを呼び戻しに来ただけなんだから!」
叫ぶ真澄の前で、兼行は立ち上がる。
「真澄。帰ろう」
初めて声を掛けられ、、真澄が顔を上げると、兼行は笑みを見せた。
その表情にまた真澄の胸がちくりと痛くなる。
こんなに悲しいような、寂しいような表情は今まで見たことが無かったからだ。
真澄はそう思うと、思わず彼から目を逸らしてしまった。
その様子を兼行は無言で見つめ、顔を上げると、少年――帝に向き直る。
「少し席を外させてください」
透かさず反論しようとする周囲の者を帝は手にしていた扇を振る事で宥める。
「そなた。近親者に異能の者がいる事を教えなかったな」
「聞かれませんでしたから」
兼行はしれっとして答える。
「それにしては上京してから今までよく隠し通してこれたものだ」
「それは私ではありません。恐らく父でしょう。父上は異能の力を良くは思っていませんでしたから。それに私は最近屋敷に戻っていません」
その答えに、帝はふむと考え、「そうか。そうだな」と納得した。
「では、暫し時間を頂きます」
言うと同時に兼行と真澄の姿はそこから消えた。
まるで始めから誰もいなかったかのように。
「成程」
帝は薄く笑った。