5
目の前に開かれる本。一本の蝋燭を頼りに兼行は読み進める。
そしてある程度まで読み勧めると、本の頁をめくる手を止めて、小さく溜息を落とす。
もっと他に学ぶ事はあるというのに。
目の前にあるのは貴族の宮中での慣わし事の書かれた本。都で行われている年中行事、官位、官位や部署による仕事内容の違い、最近与えられる本といえばそんな内容のものばかり。
それよりももっと先に学ぶ事があるというのに。
この世で生きているのは都の金持ち貴族だけではない。
彼らが口にするその山から採れる食べ物を、畑から取れる食べ物を、海から捕れる食べ物を誰が取っている誰が育てている。
貴重な糧を与えてくれる者たちの暮らしはどうなっている。
加持祈祷で病気が治るものか。もっと医学や薬学を学ぶ必要があるのだ。
そして自分の中にある力をもっと自由自在に使う事が出来るようになれば、そうした不当に苦しむ人たちを救う事が出来るのだ。
その為にはもっと学ぶ必要がある。
ただ一日の大半を屋敷に拘束されるだけの身分と時間が惜しい。
今はまだ、こっそり抜け出して真澄や麒麟、里の友人たちに会う事が出来るが、きっと近いうちにそれも不可能になるだろう。
屋敷の人間の兼行に対する監視の目が厳しくなっている。
恐らく彼の父親からの圧力。そして将来この屋敷の主になる者に対しての不安。
貴族として父親の後を継いでいけるのかという。都から離れて暮らしているとはいえ、それでも貴族の中で兼行は明らかに異質な人間だ。
それは兼行自身も自覚している。
不自由な身。
時折、真澄や麒麟が羨ましくなってしまう。
そう思って兼行は苦笑する。
丁度思考が途切れた時に、御簾の向こうから声が掛けられた。
「兼行。入るぞ」
そう言って入ってきたのは彼の父、政行だった。
兼行は居住まいを正し、父親に面する。
「どうされましたか?」
政行は複雑そうな表情をして彼の前に座ると、言葉を紡いだ。
「実はな。――今回京に言った際にな…帝が直々に私をお呼びになられて。ご尊顔を拝してきた」
「うちのような身分の低い者に?」
本来なら喜ぶべきところなのかもしれないが、素直に喜べない。
今暮らしているこの村では一応貴族としてそれなりの扱いを受けているが、都に暮らす貴族と比べれば底辺の底の底と言っても過言ではないくらい。何の価値も無い位だ。帝と対面する事などまず一生かかっても無いだろう。
だからこそ訝しんでしまう。
「そうだ。――都に上がってこないかとな」
政行の言葉に兼行は一拍静止し、そして声を上げた。
「―――は?」
政行は更に困り顔で言葉を続ける。
「お前の持つその不思議な力な。いつの間にかこの村だけでなく都にまで広がっていたそうで…その力を見てみたいと」
兼行自身この力を使えるようになってから、真澄と同様に隠そうとした事は無い。
自分の力で何か出来るのならその力は存分に使われるべきだと思っている。
但し、父親の考えは違っていた。
だから彼が兼行の力を極力外部の人間に知られないように手を回していたのを知っている。
その政行の努力は空しく空回りでしかなかったのだ。
「私の力は見世物ではありません」
「…分っている。お前の気持ちは分っている。だからこそ私も都に知られないように努力をしてきた。しかし帝御自ら御申し付けられたのだ。その力で世をよりよく治める事が出来るのなら、是非とも力を貸して欲しいと」
「―――」
「その対価に高い身分も約束された」
政行は項垂れる。
「身分の為に行くのですか?」
「本音を言えばな、私は、お前の母親が眠るこの地に留まり、一生を終えたかった。しかし、帝が望まれた。私たちに断る権利は無いよ。私は屋敷で暮す者を守らなければならない。そしてお前もだ。もし断ればどうなるかは聡いお前の事だ、分るだろう?」
身分を奪われ、完全に都を追放されるだろう。
そうして屋敷の者も養えなくなる。
父親が家族のようにこの屋敷の者たちを大切にしているのを兼行は知っている。兼行自身もその気持ちは同じだ。
身分がいっそ無くなってしまえば、兼行としては気楽になるが。
父親が守り続けてきたものが有る。
そして自分の力が世を均す力になれるというのなら。
「――父上。行きましょう。但し条件があります」
湖に映り込む月。
満月が白く輝き、いつも以上に地上を明るく照らし出す。
湖は月の光で反射し、鏡のように月の光を波に変えて周囲の森を映し出していた。
幼い頃から兼行が通い続けた場所。
泣きたい日も笑いたい日も甘えたい日も全てこの場所と共有した。
母がこの世を去ったその日から、人の姿をした存在と共有した。
この湖には兼行の全ての想いが沈んでいるに違いない。
彼はそう信じている。
湖の傍に生える草を踏み分け、兼行は湖を見つめる。
「真澄。麒麟」
そこには誰もいない。
しかし名を呼べば、彼が名を与えたその二つの存在は何処からとも無く姿を現す。
兼行と別れた後、彼女たちが何処にいるのか兼行は知らない。
それでも、彼がこの場所で彼女たちの名を呼べば、二人は必ず現れた。
そして今も、目の前の湖面の上に、真澄と麒麟は降り立つ。
「どうしたの?ゆき。こんな時間に外に出ても良かったの?」
真澄は湖の上を歩き、そして兼行が立つ大地の上に降り立った。
「ああ。実は頼みがあるんだ」
兼行の言葉に、二人は顔を見合す。
「私は都へ行く。二人もついてきてくれないか?」
その言葉に二人は目を見開き、兼行を見る。
「帝が私の力の事を知り、世の平定の為に力を貸して欲しいと言われたそうだ。私は行こうと思う。けれど私は未だ自分の力を完全には使いこなせていない。まだまだ師が必要だ。どうか一緒に都に来てくれないか?」
「だって、お父上は?」
戸惑いがちに真澄が尋ねる。
「了承は得た。一緒に暮そう。真澄。麒麟。そして人のために力を尽くそう」
笑顔で誘うか根雪と対照的に真澄と麒麟は無言で彼を見据えた。
先に口を開いたのは麒麟だった。
「オレは行かない。興味無いね。元々真澄がいるからここにいるだけだからな」
そう言いながら、彼の視線は真澄に向いていた。
真澄は俯き、顔を上げない。
兼行は何も言わず、麒麟同様真澄を見つめた。
暫し沈黙の時が流れる。
「―――私は」
真澄は意を決したように顔を上げ、兼行を見据える。
「ゆきと一緒に行く」
「何言ってんだよ!お前!」
その回答に最初に反応したのは麒麟だった。
湖の上を駆けると、その勢いのまま彼女の肩を突き飛ばし、咎める。
「ついこの間まではもう少しここにいてもいいと思ったさ!真澄の気が済むまでいればいいと思った。オレだってこいつと一緒にいるのは楽しい。真澄がいるというんならオレも付き合ってここにいるのも言いと思った。けど、何時までもじゃない!コイツが死ぬまでなんて冗談じゃない!コイツの都合に合わせるなんて虫唾が走る!どうしてたかが生きてるものに対してオレたちが合わせてやる必要がある!?オレたちは自由だ!」
睨み付ける麒麟の視線を真澄は真正面から受け止める。
「それでも私たちは生きるものの傍にいる事を求める」
「だからと言ってどうしてコイツなんだ!?お前だって今まで一つの場所に一つの場一つの場所にずっといたこと無いだろ!」
「その初めてがゆきじゃ駄目なの?」
「駄目じゃない。お前らしくないって言ってるんだ!」
「私らしいって何?」
問われて麒麟は言葉に詰る。
「自分でもよく分からない。一つの命の傍にこんなに長くいた事だって無い。でもゆきなら。ゆきの傍にいたいと望むの。生きてるものに望まれて傍にいるんじゃなくて、私自身がゆきの傍にいたいと望んでるの」
「お前…」
麒麟は表情を歪め、そして何かを言いたそうに口を開き、噤む。
真澄はぶれる事なく真っ直ぐ彼を見据えた。
「勝手にすればいい。オレは行かない」
麒麟はそれだけを言うと、一瞬にしてその場から消えてしまった。
「真澄」
兼行は虚空を見つめる真澄に声を掛けると、彼女は振り返り、「ん?」と返事を返す。
泣いているかと思ったが、彼女は涙を零す様子も無く、微笑んでいた。それに安心し兼行はほっと胸を撫で下ろすと笑顔になった。
「有難う。真澄」
兼行が生まれる前、彼の父親が妻の療養の為に屋敷を置いた村から都までは徒歩でほぼ三月程かかる。
生まれ育ち、慣れ親しんだその土地を離れたのは、帝の指示を受けてから凡そ一月後の事、既に冬が始まり、道中見える田畑の景色には霜が降り始めていた。
旅をするには不便な時期。それでも春を待たずに出発したのは少しでも早く対面したいと言う帝たっての希望と、出来る事なら都で春の人事の再編に伴い新たな官位を受け、初披露目となる宴に間に合わせたいと言う父親の息子を思う裁量があったからだ。
都に到着したのは梅から桜へ季節の花が移り変わる時期だった。
「兼行様!」
止める声を無視し、兼行は乗っていた牛車から降りると、牛車のすぐ横を歩き始めた。
「ここは村とは違うのですよ。貴族の人間が軽々と道を歩くものではありません!」
牛車を挟んで彼の反対側を歩く従者が声を上げる。
「牛車の中では外の世界を見る事が出来ない。それにほら、真澄はずっと歩いてるぞ」
そう言って兼行は自身の後方を指差す。
そこにはぶらりと何処ぞへ行っては花を摘んできたり、近くの田畑の畦道に腰を下ろしてはじっと見入ったりしながら、それでも彼らの一行から逸れる事無く、付いてきた真澄がいた。
今も何の手入れもされていない畑の土を手に取り、じっと見つめている。
「真澄は別です!彼女は貴族でも何でもないんですから」
「しかし私にとっては大切な家族だ。それなのに何故牛車に乗せない?」
真澄は旅が始まってから道中ずっと歩き続けていた。兼行が彼女を自分と同等に扱えと言ったにも関わらず。
『自分が都に行かなければならないのなら、真澄と麒麟を自分たちの家族として連れて行きたい』
それが兼行が父親に出した条件だった。
従者は眉間に皺を寄せ、申し訳無さそうに答える。
「しかし兼行様。…私達も兼行様のご命令を受けてそれなりに丁重に扱おうと致しました。しかし本人が牛車に乗る事を望まず、歩きたいと…それでも兼行様や主様に示しがつかないからきちんと衣装だけでも纏ってくれと頼んでやっと了承してもらったんですよ」
「そうだったのか…」
そう。旅を始めてから、真澄は女子が平素時に着用する小袖を纏うようになった。今まで散々裾が長く動き辛いと嫌がっていたはずなのに一旦着てしまうとまるで元からそれを着ていたかのように慣れた足取りで歩き回っていた。外出用に裾を上げているとは言え、ずっと歩き回っているから足元はどろどろではあったが。
「女子一人が堂々とあの姿で歩き回っているんだぞ。そこに狩衣の男が一人交ざっても大して違和感は無いだろう」
そう言い放って、兼行は真澄の元へと向かう。従者はあんぐりと口を開けたまま何も言い返せなかった。
兼行は列の最後尾まで走り抜けると、座り込む真澄の横に己もしゃがみ込む。
「真澄。私たちの為にその衣装をまとってくれるようになったんだね。有難う」
彼が声を掛けると、真澄は驚いたように顔を上げ、そして笑う。
「ううん。慣れれば全然平気。でも牛車には乗ってられないや。ごめんね」
「いいよ。私もずっと乗っているのに飽きて、出てきてしまった。それよりも何を見ていたんだ?」
兼行は真澄が手に取っていた土を見て、不思議に思い、尋ねる。
尋ねた後で、すぐさま彼は彼女がしていた事を理解しようとその為の情報を求めて顔を上げるが、周り一面荒れ果てた土地が広がっているだけだった。
それは今までも見てきていた光景では会ったが、彼はその事に違和感を覚え、ふと、後ろを振り返る。
彼らが通る大きな道のその向こうには幾つ者大きな屋敷が整然と建てられている。
大きな屋敷が並ぶ土地と、荒野が広がる土地を隔てる大きな道。道の果てには帝の住まう御所があり、対面する反対側には既に遠ざかり小さくしか見えなかったが都の入り口となる巨大な門があった。
「ここってもう都の中だよな…。どうしてこんなに左右で景色が異なるんだ?」
異様な光景に思わず立ち上がり、兼行はもう一度前後左右を見渡す。
「元々あの巨大な門を潜って右側がお金持ちの貴族が暮す場所で、左側が貧乏貴族と農民、商人が暮らす土地だったからでしょうね」
「元々?」
真澄の答えに、兼行は問い返す。
「元々。御所の前だけは今も幾つか家が立ち並んでいるから恐らくあそこは貴族の土地。そしてその手前にある簡単に木で作られた屋根だけがある家は横一列に立ち並んでいるから恐らく市場。でも何も収穫出来る物はないんでしょう。屋根自体が潰れて役割をなしてなかったり、品物を売っている人も殆どいない。そしてその肝心の売り物を作る農地がここ」
もう一度真澄が示す通りに周囲を見渡し、「成程」と納得する。
「だったら何故この時期に種を蒔く農民がいないんだ?」
広い畑が目の前に広がっているのに、その畑を耕している人間は疎らで、殆どいなかった。
寒暖差の激しいこの地では、春のこの時期に種を蒔き、秋の収穫に備えるのが常だ。
それなのに誰一人種を蒔く人がいない。
いるのは唯、鍬で土を耕している者だけ。しかもその表情に実りを期待する明るさは少しも無い。
「だってこの土地じゃあもう何も育たないもの」
言って真澄は握っていた土を落とし、衣装についた泥を払う。
「どういう事?」
真澄は何事も無いように語るが、兼行にとっては何もかもが驚きでしかない。
「この土にもう栄養が無いの。だから幾ら手入れをしても苗を植えても栄養が無いから作物は皆枯れちゃうだけ」
それだけを言うと、真澄は既に道の先に進んでいる牛車に追いつく為に立ち上がり、再び歩き始めた。
「―――」
「ゆき?」
真澄が振り返ると、兼行が立つその場所から一気に植物が芽を出し、次々に花を咲かせ始める。枯れた大地に彼の足元から波紋のように植物の緑が広がり、一瞬の内に畑は野菜の葉や苗で埋め尽くされてしまった。
それを見た牛車の一行――彼の従者たちや、畑で土を耕すだけだった農民、市場にいた売り子や、通りすがりの人々は驚きに声を上げた。
「兼行!何をしている!」
前方の牛車から慌てて降りてきた彼の父親は声を荒げ、叫ぶ。
その声に兼行は顔を上げ、にっこりと笑うと、「これでこの農地の人たちは喜ぶでしょう」と答えた。
「ゆき。それでもこの菜が枯れたら、また栄養の無いただの枯れた土地に戻ってしまうよ」
真澄が少し悲しそうに兼行に声を掛ける。
「大丈夫だよ。もしこの菜が枯れてしまっても土地に吸収されて堆肥になる。それで土に栄養も含まれるようになるだろう。それにこれからは私も真澄もいるんだから、何かあってもどうにか出来るよ。まずはこれらで暫くは彼らも食べるものに困らないで済む。この収穫が終えたらゆっくりと皆が自分自身でまた作物を作っていけるような土地に変えてゆけばいい。まだ季節は始まったばかりなのだから」
兼行はそう言うと、真澄に笑ってみせる。
「真澄。ここでも私たちに出来る事があるよ」
「そっか。そうだね」
彼の笑顔に、真澄も笑顔で応えた。
そんな二人の元に政行は辿り着くと、兼行の肩を掴み懇願するように訴える。
「兼行。新しく与えられた屋敷はすぐそこだ。頼むから無闇やたらとその力を使わないでくれ」
「父上。無闇じゃないです。必要だと思ったから使ったのです」
「農民ごときを救って何になる。お前はこれから帝のお力となるんだぞ」
「農民も帝も同じ人間です。食べられなくて困っていたら助けるのが人間として当たり前でしょう。それに貴族は民の税収で暮らしています。彼らの生活が成り立たなかったら私たちの生活だって成り立たなくなるのですよ」
じっと己を見返す兼行の視線を受け止め切れなかった政行は目を逸らし、そして一言呟いた。
「―――分かった。取り敢えずまずは屋敷へ行こう」
と、振り返ると、いつの間にか彼らの足元には人々が平伏し、三人を囲うように拝んでいた。
正確には兼行に対して、だ。
「ありがとうございます。貴方は神様ですか」
「これで今日の飯が食えます」
「ありがたや。ありがたや」
政行が戸惑う間にも人は増え続け、見渡すと、今将にこちらに向かって駆け寄ってくる者もいた。
困惑し続ける父親の横で兼行は冷静に、一人ひとりに声を掛け始める。
「―――」
都に連れてきたのは間違いだったのだろうか。
そう政行の頭の中に疑問が過ぎった。
今目の前にいる彼の息子は、まるでこの世界を救う神のようだった。
これから帝の下で、もっと沢山の人間を救う事になるだろう。
それはこの息子にとって幸運なのか。不幸なのか。
真澄と言う少女に出会った事自体が間違いだったのか。
政行は兼行の横で笑みを浮かべる少女を垣間見た。
帝に初めて拝顔する事になったのは、都に屋敷を映してから、たった七日後の事だった。
異例の早さである。
本来帝直々に打診があっても、そうすぐに謁見できるものではない。ましてや殆どあっても無いような位の者が帝を謁見するなど雲の上の出来事だ。万が一あったとしても大抵はそれを妬んだ者たちに途中で情報を握り潰される事だってある。
それがあっさりと兼行の屋敷まで帝からの正式な招致の文が届いた。
だがあっさり届いたら届いたで慌てるもので、まだ屋敷の手入れや荷解きも終わりきっていない状態での誘いは、まず謁見する為の衣装を何処に収めたか探すと言うところから始まった。
そんな事もあり、どうにかこうにか帝の希望日にあわせ、実際謁見する事になった。
しかしその謁見までの間に、また兼行は辟易する事になる。
御所に入ってからの視線。好奇のもの、侮蔑のもの、そして時折聞こえる嘲笑と皮肉。
それはどう考えても全て兼行に対してのものだ。
恐らく兼行の力に対する噂が広がっているからこそ。のものだと推測した。
どう思われようとも構わないが、いい晒し者の気分だ。
兼行は溜息をつき、そして自分の前を歩く父親を見上げる。
日がな一日句を読み、碁を打つ暇な貴族たちは、己の矜持を満たす為だけに身分が低い者が御所を歩くだけで人を蔑むという遊びを繰り返してきただろう。
彼の力の事を抜きにしたとしても、己の父親は彼が今日この内裏に上がるまでこの視線に一人で耐え続けてきたのだろうか。
兼行が自分の力に対して恥じる事は一切無い。けれど、心痛んだ。
周囲の視線から、この彼らを統一する帝に対する兼行の中の評価は下がっていった。
下手すれば忌み嫌われ、見世物にされてしまうこの力を必要とし、世を均す為に求めていると言う言葉に統治者としての器量の深さを感じていたのだが、もしかしたら期待し過ぎていたのかもしれない。
そう思いながら謁見の間である清涼殿へ辿り着き、待っていると、暫くしてから帝がゆっくりと奥の間から現れ、兼行の前に座した。
まだ自分よりも若い。少年だ。
平伏しながら、兼行は、目の前に座す人物の気配を感じていた。
「面を上げよ」
まだ声変わり間もない擦れた声がかかる。
その言葉に従い、顔を上げると、そこには兼行が予測したとおり、まだ恐らく十四、五歳位であろう少年が仕立てのよい衣に身を包み、座っていた。けれどきりりと吊り上がった眉には威厳を、その黒く深い瞳には意志の強さを湛えていた。
先の情報で帝は若いとは聞いていた。本来なら帝としての公務が果たせる年齢になるまで関白に政権を預けるのが一般的だが、今目の前の帝はそれをせず、全て自身の手で政務を行っていた。
若いからと侮る事は決して許さない威厳が兼行を圧する。
気の弱い者なら視線を合わせる事さえ出来ないだろう強い力の篭った瞳が兼行を捕らえる。
怯む事無く返される兼行の視線に、帝は「ふん」と鼻で笑うと、口を開いた。
「そなたが異能の力を持つ、兼行だな」
「はい」
「そうか」
それだけを問うと、帝はすぐ横にあった部屋に明かりを灯す燈台勢いよく倒した。
小さな音と共に、明かりの元となる燈台の油が零れ、小さく灯されていた火は勢いを増して一気に床を燃やし始める。
その音に何事かと、奥で控えていた人間が駆けつけ、その場の様子に驚き、慄いた。
帝と兼行が対峙し、その横を流れるように炎が燃え盛る。部屋を区切る几帳に燃え移り、火は更に大きくなり、天井を焼き始めた。
そんな状況の中でも微動だにしない二人の張り詰めたような空気に、周囲の人間は、帝を非難させる事も、火を消そうと動き出す事も憚れ、どうして良いのか分からず、彼らも静止して二人を見つめる事しか出来なかった。
兼行の横で二人を見つめていた政行も、目の前でどんどんと酷くなっていく状況に動揺も大きくなり、表情に焦りが見え始めていた。
それでも二人の視線は少しも揺らぐ事は無かった。
―――。
炎が燃え広がり、唸る音だけが響く部屋の中で、先に言葉を発したのは帝だった。
「消してみよ」
次の瞬間、その言葉を受けた火が意思を持って自ら鎮火したかのように、一瞬にして炎が、消え去った。
焼け焦げたはずの床も、天井も几帳さえも、まるで最初から何も怒っていなかったかのように、全てが火が燃え広がる前の状態に戻っていた。
ただ、倒れたままの燈台だけが、確かに今起こった事の証拠を残していた。
周囲からどよめきが広がる。しかし対峙する二人は、今起こった事に対してまるで何一つ無かったかのように、表情一つ変える事無く微動だにしていなかった。
また、先に動いたのは帝だった。
「気に入った。明日から私の傍で仕えろ」
「お断りします」
兼行は即答する。
「理由は?」
「私を試す為だけにもしかしたら内裏全体が燃えるかもしれない危険を顧みない行動を平然と行う人間は信用出来ない」
「お前は消したではないか」
「私にだって出来る事と出来ない事があります。もし火を消す事が出来なかったらどうするつもりだったのですか?」
「消す事が出来たのだからそれが全てだ。もし、という事は無い」
「その揺ぎ無い自信がもし過ちだったらどうするのですか?」
帝は兼行の問いに、口の端を上げる。
「作物を成長させ、水無き土地に水を引く事が出来るお前の事だ。このくらいの事大した事でもなかろう。私を理由も無く己を過信する愚帝と思うな」
目の前の帝は彼と対面するまでの期間に兼行が都で使った力の事を把握していた。そして恐らくは故郷での行動も調査済みであろう。
兼行の瞳の奥が揺らぐ。
「そうだな。万が一にも私が己の力量を見誤ることがあれば、そなたが私を諌めればよかろう」
「―――」
「そなたはどうも分かっていないようだが、私はそなたのその異能の力だけが欲しいのではない。その私と対していても少しも怯むことの無い意思も欲しているのだ」
その言葉を受けた瞬間、兼行は言いようの無い敗北感を感じた。
この方には勝てない。
惜しむ事無く与えられる絶大な信頼。そして兼行さえも及ばない思慮の深さ。恐らく兼行の考える事、行動さえも全て帝には予測済みだっただろう。その上で彼を試した。
自分の中にある異能と呼ばれる力さえ、ちっぽけなものに思えてしまう。
「私が地を納める。そなたが天を納めよ。それでこの世は平定される」
生まれてくるのは畏敬の念。
「お仕えしましょう」
兼行は深く平伏した。
その瞬間、周囲からのどよめきは更に大きいものとなる。
それは、一つには、「万が一の時には私を諌めよ」という帝の絶対的な信頼の言葉が、地方を治める程度の低い身分の者にかけられた事。そしてもう一つには、その低い身分の人間が明日からは帝の傍仕えとなる事。異例を通り越して、今までに考えられない人事となる。
目の前で見せ付けられた兼行の異能と、与えられた地位は内裏中に衝撃が走った。
兼行が再び廊下を歩き、来た道を戻る頃には、彼を見る様々な感情を抱いた視線は更に増えていた。
ただただ溜息を吐くしかない。
隣の父親を見れば、げっそりとしていた。この視線と先程の謁見が原因なのは容易に予測がつく。声を掛けるべきだろう。そう思い、口を開くが、先に政行の方から声が掛けられた。
「すまない。兼行。やはりお前をここへ連れてくるべきではなかったかもしれんな」
その言葉に兼行は足を止めてしまう。
「何故そのような事を仰るのですか。私は帝と対面でき、傍仕え出来る事に感謝しています。あのような方がこの世にいらっしゃるとは思いませんでした。父上に感謝しております」
数穂先を歩いていた政行は立ち止まり、振り返ると、
「だからこそ、会わせるべきではなかった」
と、答えた。
それだけを言うとまた前を歩き始める父親に、兼行は声を掛ける事が出来なかった。
何故そんな事を言われるのか分らなかったからだ。
暫しその場に立ち止まり、考え続けたが、答えが見つからず、随分と先へ行ってしまった父親に追いつこうと兼行は早足になる。
ふと、甘く、柔らかな花の香りが鼻腔を擽る。
横を見ると、部屋を区切る格子の向こうから、緩やかな波のように揺れる黒髪と、暖色を基調とした幾重にも折り重ねられた着物が目に入った。
女性だ。
そう気が付いたと同時に、格子の向こうの女性が振り返り、兼行の姿を見止めると、にっこりと微笑んだ。
白い肌に少し目尻の下がる瞼。ふっくらとした薄紅色の唇。
まるで藤の花のように柔らかな空気を纏い、桜の花のように儚げだった。
同年代の女子と言えば、傍にはいつも真澄がいたが、真澄のように健康的な女子か、里のかえでのような地に足をつけて逞しく生きる女子しか知らなかったので、今までに彼女のような女性に出会った事が無く、兼行の中で衝撃が走った。
初めて女性と言うものを知った気さえした。
「―――」
声は出なかった。
ただ、そのまま彼女の笑みに釣られ、気が付いたら、格子を越え、部屋の中に入っていた。
脅える女性に近付き、衝撃とどうしようもない喜びに震える心を抑え、精一杯の笑みを浮かべ、彼女の手を優しく取る。
――熱かった。