時空の守者-第二章- 水の中の真実4


空の蒼さは夏に向かってどんどん濃くなっていく。
空の色に合わせて海の色は透明度を増し、空を映しこんだ蒼は海底の色と重なって碧を作り出す。
もう春と言える季節はそろそろ終わりを迎えようとしていた。
「真澄!」
いつものように堤防の上の歩道から葉乃は真澄に手を振る。
真澄が振り返ると、葉乃は嬉しそうに一目散に彼女の元へ向かう。
「中間テストとか言うやつ、どうだったんだ?」
「ばっちり!」
葉乃は真澄に親指を立てて答える。
「そうか。んじゃ今日は心置きなく潜れるな」
「うん!」
真澄の言葉に葉乃は嬉しそうに大きく頷いた。
葉乃は制服を抜いで、既に中に着込んでいた水着に着替える。真澄も上に羽織っていたパーカーだけを脱ぎ、いつも通りシャツとパンツだけの姿になる。
そして二人は軽く準備体操をするとゆっくりと海に入っていった。
もうすぐ夏になるとはいえ、まだ水温はそれ程上がっていない。
葉乃は軽く身震いをしながら体が慣れるようにゆっくりと海水に身を沈め、一方で真澄は既に全身海に浸かっており彼女を見守っていた。
「恐らく今日が花が咲いているのを見られる最後のチャンスだからな。気張れよ」
そう言うと、真澄は先に海水に顔をつけ、潜る。
泳げない葉乃が水に慣れて少しずつ泳げるようになり、そして徐々に素潜りができるように、より深く潜れるように毎日練習をした。
好条件が揃う日が無かったのもあるが、それでもまだ一度も白い花を見られる機会に恵まれなかった。
ヒカリツユハナは地上に咲いてる花よりも咲いている期間が極端に長いらしく、葉乃が潜れるようになるまでずっと咲き続いていた。それでももう後数日で散ってしまうらしく、真澄が今日を潜る日に設定してくれたのだ。
葉乃はゆっくりと息を吸い、そして覚悟を決めて一気に潜る。
既に潜っていた真澄が手を振っていた。
晴天という事もあり、太陽の光が波で屈折しながら海中を照らし出す。
一面蒼の世界に、葉乃は何度見ても感動してしまう。
小さい魚が葉乃の横を通り過ぎる。触れる擽ったさを感じながら、更に深く潜っていた。
まだ遠くに見える、それでも自己主張するように蒼の世界の中で海底一面を白く染めるヒカリツユハナ。
葉乃の心が小さく震える。
どんどん深く潜るたびに花の輪郭がはっきりし始めると同時にどんどん震えは大きくなっていった。
それでも花の一つ一つが見て取れるところまでで彼女が今潜れる深度に達してしまった。
後もう少しだけ、ほんの少しだけ潜れるようになれば手に届きそうなのに。
それは今の葉乃にとっては危険らしく真澄に止められているので辿り着く事は出来ない。
先に海底に辿り着いた真澄は花の一つを摘むと、上昇し、葉乃の手に渡す。
海の中で風に揺られるように水流に揺れる、白い花。
葉乃は目を細めて、それを見つめる。
――やっと会えた。
今まで何度も真澄に貰って、見ているはずなのに、何故か今初めて花を見たような喜びが胸一杯に広がる。
そして。
次の瞬間。
葉乃は奇跡を見た――。
海底に咲いていた花が一斉に花弁を散らし、白い花弁が水中に舞い、視界を染めたのだ。
幾つもの水泡と共に白い花弁が蒼い世界の中で、舞い、天に向かって上昇していく。
光の乱反射で白い花弁は魚の鱗のようにきらきらと輝いた。
驚きに真澄を見ると、彼女は満足そうに笑っていた。
彼女はずっと私にこの光景を見せたかったのだ。
そう、確信した。

水中に潜った後の体の気怠さに、葉乃は砂浜で寝転がり、本当の蒼い空を見上げる。
「…すご…かったぁ…」
瞼の裏に今も焼き付く光景に、葉乃は溜息を零す。
「あれ、凄いよな。何度見ても」
「…うん」
真澄の言葉に葉乃は頷く。
目の前で魅せられた光景も凄かったが、それ以上に自分はあの花に魅かれるのから逃れられないのだと確信させられた。
恐らく、もう、一生。
「私…植物学部のある大学に行こうと思うんだ」
「植物学?…ああ、学校か」
突然切り出される話しに、真澄は一瞬何の事か分からず、首を捻るが、すぐに『学校』の事だと気が付いて納得する。
「もっともっと勉強して、あの花の事を研究して、あの花の事を色んな人に知ってもらえるようにする。水の中に咲く花があるんだっていう事。--薬効があるんだって言う事」
今はまだ誰も知らない、気付いていない。
もしかしたら葉乃の思い込みかもしれない。
けれど小さい頃からの確信は今も変わらない。
だったら自分で証明するのだ。
葉乃は起き上がり、そして同じように隣で寝そべる真澄を見下ろす。
「篠田君とは別れたよ。私、あの人と同じ学校には行けないし、やりたい事見つけたから。もう無難に生きられない」
自分の学力に合った学校を選んで、それなりに安定した就職をして、それなりに好きな人と結婚して、それなりに幸せな一生を送る。
それは目標が無い自分には一番いい道だと思っていたけど、もう一生をかけられるやりたい事を見つけたから。
きっと人からは変だと言われる道を歩く事になるのだろう。
それでも、葉乃は見つけてしまったから。
「そうか」
真澄は笑う。
彼女の笑顔も、強い眼差しも、声も、葉乃の中で勇気に変わる。
最初は泣いてしまうほど恐かったのに。
「そう言えば、真澄と初めて会った日に貰った花は既に花開いていたよね。今日花が散ったとしたら、どんなに長く咲く花だとしても、相当長く咲いていた事にならない?」
ふと、気が付いた疑問を口にすると、真澄は苦笑した。
「そうだな。――ちょうど大事な友人の大切な人の命日だったから咲いて貰ったんだ」
そう言うと、真澄はさっきとは打って変わって何処を見る事も無く静かに微笑んだ。
何処か憂いを含んで。
今まで何処か自信あり気な表情を見せていた彼女が葉乃の前で初めて見せた表情だった。
葉乃はそれ以上問う事は出来ず、彼女も視線を海に戻した。
数百年前まで湖だった海を――。
漣の音だけが、その場に響いていた。

数年後、藤原葉乃は一つの論文を発表し、一気ににその分野の研究者から注目される事になる。
今まで何の注目もされなかった花に切り傷に効く効能があることが発見されたからだ。
人工的に生み出された物質から作られる薬品に頼る現代、大きな副作用が付きまとうが効能と即効性に敵わず危険と承知した上で使わざるを得なかった。
その人工の薬品並みの効能と即効性がある薬品が自然界の植物から採取できる事が判明したのは世界的に大きな功績となり、後の歴史を大きく変える事となった。