時空の守者-第二章- 水の中の真実3

葉乃は授業が終わると一目散で海に向かう。
日に日に太陽の沈む時間が遅くなり、それに合わせて海岸にいる時間も増えた。
海岸線の歩道を走り、目的の人物を見つけると、足取りは更に軽くなって砂浜に降りる。
「真澄さん!」
目的の人物に声を掛けると、名を呼ばれた人物は葉乃を振り返り、笑顔を向けてくれる。
葉乃はそれだけでまた嬉しくなって、もっと早くもっと早くと彼女の元に駆け寄る。
「こんにちは。真澄さん」
「おう」
葉乃の挨拶に真澄は短く返事を返す。
それでも真澄が自分を見てくれて、返事を返してくれるだけで葉乃は嬉しかった。
「お前。よく毎日来るなぁ」
「だってここ私の通学路だもの」
「そっか」
真澄は葉乃の返答に「そういえばそうだ」と言って笑う。
こんな風に他愛も無い会話を交わし、そして日が暮れたら帰る。それが葉乃の最近の日課になっていた。
何処に住んでいるのか。とか、どうして毎日潜るのか、とか、どうして花の事を知っているのか、とか問う事はしなかった。
きっと真澄と何時かは別れる日が来る。
彼女が今ここにいるのはほんの一時だけだろう。
そんな気がした。
だから期限を聞いてしまったら、自分は期限に脅えてしまう。
彼女の素性を知ってしまったら、彼女を束縛してしまいそうな気がする。
心の何処かでそんな自分を感じて、どうしても口に出して問う事が出来なかった。
友人は沢山いる。
毎日学校で会うし、話もするし、お昼だって一緒に食べる。
けれど、今まで傍にいた友人の誰とも違う感情を真澄に抱いていた。
執着のような依存のような。
そんな紙一重に似た感情。
何故か自分でも分からないけれど、とてつもない信頼感を彼女に抱いていた。
だからこそ、今、彼女がいなくなってしまったら、自分が空っぽになってしまいそうで恐かった。
もう少し。自分の中の空っぽな部分が埋まるまで。
もう少しだけ彼女の傍にいたい。
葉乃は今までにないそんな感情に戸惑いつつ、毎日真澄の元を訪れた。
真澄がそんな彼女の感情に気付いているかは分からない。
けれど真澄は葉乃に何も問わず、ただ毎日彼女を迎え入れた。
「なぁ、葉乃。お前も潜ってみないか?」
葉乃がお土産で買ってきたお菓子を摘みながら、真澄は思い出したように問い掛ける。
「え?私!?」
「そう。私」
突然の提案に葉乃は動揺するが、真澄は平然としたままこくりと頷く。
「だっ…だって私泳げないし…」
「だったら教えてやる」
「…水着無いし…」
「オレみたいに服でいいじゃん」
「それはダメ!絶対ダメ!透けるでしょ!だったら買う!」
葉乃は言ってから、しまったと口を押さえるが、真澄はにやりと笑う。
「あと問題は?」
「…寒いし?」
どうにか言い訳を考えに考えて出てきた答えに、真澄はかくっと項垂れた。
「なぁ、葉乃」
「…はい…」
「お前、あの花好きなんだよな?」
「…うん…」
「自分で海底の中で咲いてる花を見てみたいと思わないか?」
「……見たい」
けれど自信が無い。
葉乃は自分があまり運動が得意でない事は自覚している。
顔もスタイルも頭も凡庸で、運動神経も凡庸だ。
そんな自分が憧れ続けていたものに手が届くはずがないのだ。
何度か自分でも潜ってみようかと思った事はある。
それでも春先の誰も泳いでいないこの時期、ろくに泳げもしない自分が潜る事は危険だと思ったし、誰かにそんな姿を見られたら何と言い訳してよいのかも分からなかった。
『花を見たいから』
そんな事を言えば笑われてしまう。
そう思ったから今まで行動に移した事は無かった。
けれど今は真澄がいる。
彼女は誰の視線も気にせず、毎日、しかも服のまま潜る。
花を見る為に。花を採る為に。
もしかしたら自分も今なら、真澄が傍にいてくれるなら、見れるかもしれない。
「…私でも潜って花を見る事が出来る?」
「勿論」
夢が叶うかもしれない。
こんな自分でも夢が現実にできるかもしれない。
「…私…やってみたい」
「よし。やるか」
真澄が笑ってみせる。
その笑顔で出来る気がした。
「明日から水着持って来る」
言ってから『しまった』と思ったが、真澄は、「何だ水着持ってるんじゃねーか」とは言わなかった。その事にさえ気付いていない様子で話を続けた。
「それと、防寒着持って来いよ。オレは丈夫だからいいけど、この時期の海はまだ冷たいからな。ウェットスーツがあれば一番いいんだろうけど、持ってないだろうし」
「うん」
「本当はスキューバダイビングでも習ったら間近で見られるんだろうけど、もう時期からしてもそんなに待てないから、遠目から見れる程度に頑張るか」
「そっ、そんなに深いところに咲いてるの?」
何気無く言われた海の深さに葉乃は脅える。
「実際は五メートルくらいのところ。けど、泳げない奴にいきなりそこまで潜れって言っても無理だから、遠目で花の形が見れるくらいだから、二、三メートル位潜れるように頑張るか」
「……」
突然葉乃の中の自信が無くなり始める。
「んで、いつかちゃんとスキューバダイビングの資格でも取って間近で見ろよ」
笑う真澄に葉乃は力無く笑い返す。
つまりはそんなに長くは真澄はこの場所にいないという事だ。
何気無い会話の中に突然突きつけられた衝撃に、葉乃の意識は追いつけず、その後の会話は力無く頷き返すだけだった。


「藤原」
葉乃の中に毎日学校が終わった後、海岸に向かい、真澄と海に潜るという日課が増えてから、久し振りにホームルーム終了後に篠田から声を掛けられた。
既に帰り支度を済まし、一目散に帰ろうとしていた葉乃は驚いてしまう。
「どうしたの?篠田君」
早く海に行きたいと逸る気持ちを抑えて、葉乃は席の前に立つ篠田を見上げる。
彼の教室でもホームルームがあるはずだが、葉乃のクラスより早く終わったのだろうか。そんな事を思いながら首を傾げる。
「いや…ほら。オレずっと毎日ゲームで早く帰って、一緒に帰る事無くなってたから。それにゲームもクリアしたし。久し振りに一緒に帰ろうと思って」
「え?」
篠田と一緒に帰るという事は、すぐに真澄の元へは向かえない。そんな落胆が心を占めるが、それを彼に気付かれまいと表情に表れないように口元を葉乃は慌てて引き締める。
「うん。いいよ」
篠田は列車で通っている。駅で見送ってから海岸に向かえばいい。
そう思い至った葉乃は笑顔で返した。
いつものように海岸線の歩道を歩く。
篠田と何度も通ったような、然程多くなかったような。
いつぶりだっけと葉乃は隣を歩く篠田を見上げる。
付き合い始めの頃は、お互い初めての恋人同士でどきどきと緊張しながら歩いたものだったが、いつの頃からかどきどきしなくなっていった。
そういうものなのだろう。と葉乃は思う。
篠田の話す内容はゲームの話が中心だ。大してゲームに興味のない葉乃にはちんぷんかんぷんだったが彼があまりにも嬉しそうに話すので、ただ聞くだけで楽しかった。
今も彼はゲームの話ばかりだ。
まあ、それでもいいやと思って、葉乃は耳を傾ける。
「オレたちも来年は受験生だな。勉強してるか?」
「まぁ。ぼちぼち」
「一緒の大学行こうな。オレ、藤原より今成績下だけど頑張るから。二人で丁度いいくらいの所へ行こう」
突然変わった話題に驚きながらも、かけられたその話の内容にまた葉乃は驚いて、篠田を見た。
「篠田君は行きたい大学無いの?」
「大学なんて何処行っても同じだろ。ただ学歴上出ておいた方がいいしさ。このまま別々の大学に行ったら会い辛くなるだろ?」
「そう…だよね」
葉乃も大学に行こうとは思っているが、特にここという希望は無い。学びたい学課も無いから何処でもいいのだから篠田の言っている事は間違いでは無いのだ。
何かに特に秀でているのならまだしも、何の取り柄の無い人間なのだ。
ヘタに専門的な学校へ行っても付いて行けなくなるのは目に見える。
恋人同士なのだから一緒の時間を過ごす為に大学へ行くのも不思議な事じゃない。
そう納得している間に、列車の駅を通り過ぎていた。
「あれ?篠田君。帰らないの?」
「今日は家まで送る」
「え?」
葉乃は思わず焦りの声を上げてしまう。
家まで送ってもらって、それから真澄の元へ向かっても長い時間一緒にはいられなくなってしまう。
すると篠田は突然憮然とした表情に豹変した。
「何だよ。彼女を家まで送ったら悪いのか?」
「ううん。そんなんじゃないの!」
葉乃は慌てて取り繕うが、思わず上げた声のその真意まで見透かされてしまったのか、篠田の表情は更に歪んでいく。
「なぁ。オレ知ってるんだぞ。最近この海岸で藤原が何かしてるって。知らない女と二人でこの寒い中、海で泳いでるんだってな。知らない女ってこの間の奴だよな?何してるんだよ。『お前の彼女変だ』って笑われたんだぞ」
「…ごめんなさい」
葉乃は俯き、謝る。
一度噂を知らされて以来、葉乃自身の元へは新しい噂は入ってこなかったが、裏では恐らく陰口を叩かれていたのだろう。
真澄がいて気が大きくなっていたとはいえ、自分の今までの行動を省みて葉乃は反省した。
同年代で私服の何処の学校の人間か素性が全く推測できない少女と海で毎日一緒にいて、挙句春の冷たい海に潜る同じ学校の制服を着た女子。
傍から見れば奇怪な行動を取るおかしな生徒としか見られない。
その上、それが自分の彼女だと聞かされたら心中穏やかではないだろう。
もっと自分の行動に責任を持たなくては。
葉乃は改めて反省した。
そんな顔色を変えて俯く彼女に己の心中を理解してくれたかと安堵した篠田はほっと胸を撫で下ろす。
「分かってくれればいいんだ。ごめんな。強く言って。藤原が心配だから」
「うん」
笑顔を見せる篠田に葉乃はこっくりと頷き、手に持っていた水着袋をぎゅっと抱き締めた。
それからの道中はよく覚えていない。
気が付いたら家に辿り着き、玄関まで「じゃあな」と言って篠田は手を振って帰っていった。
徐に玄関の扉を開くと、母親が今から出てきて、「おかえり」と出迎える。
「今日は早かったのね?どうしたの」
「別に何でもないよ」
「そう?最近何処かで寄り道してて遅くなってたじゃない。何処へ行ってるかは知らないけど」
噂はまだ親にまでは伝わっていないのだ。と葉乃は安心する。
「楽しそうに毎日帰ってきてたのにね」
楽しい?
母がそこまで自分を見ていた事にも驚いたが、そんな事初めて言われて葉乃は驚いた。
彼女にしてみればいつもと同じ事の繰り返しの中に真澄との時間が増えただけだと思っていた。
楽しいのかどうかなんて考えた事も無かった。
授業が終わってから、次々に聞かされる自分に対しての様々な人の感想に、葉乃の思考は付いていけず、一人になりたくて、まだ話しかけてくる母の言葉を遠くに聞きながら、自分の部屋に入った。
部屋に入ると、まず目に入る位置に置いてあった白い花。
花瓶に差してあった筈の花は無くなり、代わりに黄色い花が飾られていた。
葉乃は慌てて母親の元へ向かう。
「お母さん!部屋に飾ってた花は!?」
食い掛かる葉乃に、娘がどうしてそんなに動揺しているのか分からないといった表情で母親は目を丸くすると、「捨てたわよ」と答えた。
「何で!?」
「だって、あなたもう何ヶ月もずっと同じ花飾ってるじゃない。飽きないの?今日偶々スーパーで可愛い花を見つけたから飾ってあげたの。好きなんでしょ?花が」
のんびりと答える母親に対して、葉乃は険しい表情で一目散に捨てたと見られるゴミ箱を漁る。
「あなた!何してるの!?」
思いも寄らない娘の行動に悲鳴染みた声を上げる母親を置いて、ゴミ箱の中にあった少し萎れた白い花を救い出した。
「よかった…」
丁寧に他のゴミや埃を払うとぎゅっと握り締める。
「突然変な行動起こさないで頂戴!びっくりするでしょ!」
「…」
「一度捨てたんだから捨てなさい。汚いでしょ。それに枯れてるし」
「…」
「何?その花が良かったの?その花何処にも売ってなかったわよ」
葉乃は無言でその場を離れると、自室に入り、扉を閉めた。
母が追いかけてきて、何かを言っているが、耳には入ってこない。
徐に机の引き出しを引くと、そこには乾燥した白い花が丁寧にしまってあった。横には葉を刷り潰す為の道具と、花を乾燥させ粉にしている袋が入っており、薬学に関する資料、そしてノートが入っていた。
真澄から花を貰う度に、自分で観察し、枯れたら乾燥させ、加工し、書き留めてきたものだ。
噂が広がっているのだ、これ以上不審に見られる行動はできない。
もう真澄とは会えなくなる。
そうしたらもうこれらを続ける事も出来なくなる。
手の中で懸命にまだ花弁を咲かせる白い花を見つめた。
何が苦しいのか自分でも分からないまま、葉乃は一粒の涙を零していた。
理由の分からない涙を拭い取り、窓の向こうを見ると、既に日が落ち、まだ完全ではないが空に星が見え始めていた。後数分もすれば真っ暗になってしまうだろう。
真澄とはこれからどうしようか。
元々待ち合わせをしていた訳ではない。けれど毎日一緒にいたのだから心配するだろう。
けれど、彼女にもう行けなく事を伝えて、どうして突然来なくなるのだと問われたら、あの目で見つめられたら自分はきっと上手く喋れなくなってしまう。
大丈夫だ。
彼女は今までだって自分の事の片手間に自分と付き合ってくれてただけだ。
行かなかったら行かなかったできっと気にする事は無いだろう。
そう葉乃は自分を納得させた。

次の日もその次の日も毎日篠田は帰りのホームルームが終わると同時に葉乃をクラスまで迎えに来ていた。
篠田に諭された日から、彼が葉乃の元へ訪れる事が多くなり、一日に何度もほぼ休み時間の度に来る事が多くなった。
今日も帰りのホームルーム終わると同時に既に教室の前で篠田が待っている。
「どうしたの葉乃?最近の篠田は。やっとあいつも心入れ替えて葉乃を大事にする気になったか」
彼の姿を認めた莉子がにやにやと笑いながら葉乃の脇をつつく。
「葉乃を大事にするってんなら篠田でもいいんじゃない?」
「この間までと言ってる事が違うよ?」
葉乃は苦笑する。
「いいんだよ。だってあっちから告ってきたのに、今まで彼女になったって何もしてこなかったじゃん。だったらそんな男じゃダメだと思っただけだよ」
「そっか」
「今までが変だったんだよ。普通カップルだったら四六時中一緒にいるもんじゃん。それなのに、昼休みも別、帰りも別、休みの日も会わず、最近はデートだってしてなかったんでしょ?」
「どうしてそれ…」
確かに彼が迎えに来たあの日まで葉乃はずっと登下校は言わずもがな休日に会う事も電話する事も無かった。
毎日海に行く事に夢中になっていたすっかり忘れていたという事もあったが、篠田からも連絡は無かったからそれでいいと思っていたのだ。
莉子は眉間に皺を寄せ、怒り気味に葉乃に答える。
「篠田本人から聞いたの」
「もしかして…」
噂の事を知って。
その問いは顔に出ていたのか、彼女はこくりと頷いた。
「そう。葉乃が知らない女子と二人で毎日海で会ってるって噂を聞いて、心配になって篠田に問い質したの。そしたらあいつ白状したよ。彼女をお座成りにするのも大概にしろっての!元々苛々してたけど本当にムカついて説教しちゃったよ!」
「…」
「あれでもちゃんと葉乃の事好きなんだね。心入れ替えていって。最近いい感じじゃん」
照れながら満足そうに笑う莉子に葉乃は笑い返す。
ここは言わなければならないのだろう。
「ありがとう」
葉乃は礼を述べた。
すると莉子は嬉しそうに、「いいのいいの。気にしないの」と葉乃の背中を押して、篠田の元へと促した。
篠田は葉乃が自分の元へ辿り着くと、「それじゃ、帰ろうか」と笑いかけてくれる。
恋人同士とはこういう毎日なんだ。
一緒に登校して、休み時間も一緒にいて、帰りも一緒に帰る。
ずっと一緒。
葉乃は自分自身を納得させた。

海岸線に沿うように作られた堤防。
堤防と同じ高さに街が作られている。
歩道を篠田と二人歩きながら、葉乃の視線は海を見る事は無かった。
今日も話すのはゲームの話。
つい最近出たゲームがあるらしく、何処何処へ行けばイベントが発生して、それをクリアする事で手に入るアイテムがあるらしい。
毎日聞いていると、ゲームに興味の無い葉乃でもある程度知識が付いてくる。毎日帰ってからやってるのだろう、日々少しずつストーリーが進んでいく話は面白い。
「そういえばもうそろそろ受験勉強始めなきゃだろ。オレも一年の時成績下がったからさ、最近も新作ゲームがどんどん出てて勉強する暇無くて。で、葉乃には悪いんだけど、この間話してたランクの大学よりもう一つ下にしてもらえないかと思うんだ。大学って名前が付いていれば何処だって一緒だろ?どうせ専門的にやりたい事も無いし。大して就職でも差が無いって言うから、オレたち程度ならどの大学も然程変わらんないしさ」
「篠田君は勉強しないの?まだ二年生だしこれから挽回できるよ?」
葉乃にとっては素朴な疑問のつもりだったのだが、篠田はむっとして言い返した。
「するよ。これからする。けど頑張ったって限界ってものがあるだろ。毎日勉強じゃ頭おかしくなるし。だから無理しないで、今のペースでオレと藤原が二人受かる所にして、そこに向けて一緒に頑張ろうって話をしてるんだよ」
「そっか。そうだよね」
葉乃は慌てて頷いた。きっと自分の聞き方が悪かったのだろう。突然不機嫌になった篠田が治まってくれるように懸命に頷く。
「葉乃!」
二人で歩いている途中にかかる聞き覚えのある声に、葉乃はびくりと肩を震わせた。
篠田が怪訝な顔で葉乃を見て、そして声を掛けた人物を見る。
葉乃は歩道と海岸を分けるガードレールを海岸側から身を乗り出して名を呼ぶ人物と目を合わせる事が出来なかった。
「どちら様ですか?」
「あれ?葉乃?」
俯いたままの葉乃を庇うようにして真澄の前に立つ篠田を彼女は見上げ、そして彼の後ろに隠れる葉乃に首を傾げる。
「どちら様ですか?」
篠田がもう一度、今度は声色を強めて問い掛ける。そんな彼に脅える事無く真澄は顔を上げるときょとんとして答えた。
「真澄って言うんだけど」
「藤原に何の御用ですか?」
「んーと」
威嚇に近い篠田の視線に真澄は困ったようにぽりぽりと頬を掻く。
「オレ、何か悪い事したのか?」
「貴方がいつも藤原に変な事付き合わせていた人ですよね。もう藤原を巻き込むの止めてくれませんか?」
その言葉に葉乃ははっとする。
彼は彼女が葉乃といつも会っていた人物だと気付いていたのだ。
「えーと。何に巻き込んだっけ?オレ」
真澄にとっては葉乃を何かに巻き込んだという覚えは一切無く、少し考え込んで、また首を傾げる。
「この季節にそんな格好してるのもおかしいけど、あなた藤原を巻き込んでこの寒い海で泳いでいるでしょ。藤原を巻き込むから、藤原学校で変な人間扱いされてるんですよ!」
「だって海に潜るって決めたのは葉乃だぞ」
真澄に言われて、葉乃はどきりとする。
篠田は驚いたように目を見開き、葉乃を見るが、葉乃は見返す事は出来ない。そんな彼女の反応に篠田はまた顔を上げると、きっと真澄を睨みつけた。
「それは貴方が唆したんだでしょ!藤原は弱気で自分の思ってる事言えないんです!迷惑してるんで金輪際関わらないでください!」
篠田はそう言い切ると、真澄見据えた。これだけ強く言えばもう変な少女が関わってくる事は無いだろう。そう彼は思っていたが、その予測に反して、真澄は呆れた表情を見せると溜息を吐いた。
「変だ変だって言うけど、お前に関係無いだろ。オレがどうしようと。変である事で誰かに迷惑掛けたか?噂してる奴らなんか自分の基準に合わないものは何だって変だって言うだけなんだ。構わなきゃいいだろ。メンドクセーな」
「なっ!それで藤原まで変だって言われてるんですよ!申し訳ないと思わないんですか!」
篠田はかっとなって反論する。
「別に。選ぶのは葉乃だろ。嫌ならオレに近付かなきゃいいんだから。それにお前、葉乃に聞いたのか?どうしてオレと一緒にいるのか」
溜息混じりに真澄が答え、篠田に問い返すと、彼は首を振る。
「本人にまず聞かないか?何も知らないで、周りの言葉だけを鵜呑みにして、何故オレを責める。順番おかしくないか?」
そう言い返され彼は黙ってしまった。
彼が知るはずは無い。初めて噂が流れて以降、彼は一度も葉乃に直接理由を問う事は勿論、何があったのか何をしていたのか聞く事は無かったからだ。
噂話だけで納得したのか、いつだって自分の事しか話す事は無かった。
「あんた彼氏だろ。ここ何日か葉乃があんたと一緒に帰ってるの見かけたから邪魔しちゃ悪いと思って声かけなかったけど、そろそろ聞いておかなきゃと思ってな」
その言葉に葉乃はまたびくりと肩を震わせる。
「葉乃はもういいのか?なら、いいんだけど」
もう潜る練習をするつもりはないのか?
潜って自分の目で白い花を見なくてもいいのか?
真澄の言葉の奥に含まれた問いに、葉乃の心臓はどくりと大きく鳴る。
ここで「はい」と答えてしまったら、真澄はもう葉乃に声をかける事は無いだろう。
もしかしたら明日にはもうこの海にはいなくなってしまうだろう。
もう真澄に会えない。
あの白い花の事を話せる人はいなくなる。
白い花にももうきっと二度と触れられる事は無くなる。
白い花を調べる事も出来なくなる。
あの沢山調べた資料たちを見せる事もいなくなる。
毎日毎日、家に帰って調べて、発見する事が楽しかった。
その報告を嬉しそうに聞いてくれる真澄が本当に大切な人だった。
「…何て顔してんだよ…」
やっと顔を上げた葉乃を見て、真澄は苦笑する。
葉乃はもう泣きたいのか、苦しいのか、痛いのか分からなかった。
泣いてしまえば、今横にいる、折角自分を守ろうとしてくれた篠田を裏切ってしまう事になる。
普通で考えれば真澄の言ってる事ややっている事の方が変で、篠田の言っている事の方が正しく、篠田の傍にいる方が正しいという事は分かっている。
それでも、どうしようもなく真澄の傍にいるのは心地よい。
どうしようもなく白い花に魅かれ続けのだ。
普通という毎日を過ごしても、彼氏が一緒にいる時間を過ごしても、あの日海に行かなくなってから、ずっと真澄の顔と白い花の事が頭から離れなかった。
真澄のような人もいると知ってから、白い花をより身近に感じてから、つまらないと思っていた普通の毎日が、――今度は虚しくなった。
「藤原…何でそんな顔してるんだ?泣くなよ!泣いたらオレどうしたらいいのか分かんねーぞ。お前こんな事で泣く奴じゃないだろ!?」
そう。葉乃は人前で泣いた事が無い。
無性に泣きたくなる時もぐっと我慢して誤魔化す。
泣いても場を凍りつかせるだけだし、その場にいる人を困らせるだけだと分かっているからだ。
だから今も堪える。
じっと。
篠田はおろおろとどうして良いのかと手を彷徨わせる。
真澄はただじっとそんな彼の姿を見つめ、それからまた一つ溜息を吐くと、ガードレールを越え、葉乃に近付いてきた。
葉乃の行動に動揺したままの篠田は制する事も出来ず、ただ見つめた。
ぽふ。
真澄の少女らしからぬ骨ばった薄い肩に、葉乃の頭が乗せられる。
「…何で我慢するんだ。お前本当は泣きたいんだろ。泣きたい時は泣けばいいんだよ。周りの奴なんて困らせておけ。感情ある命が持つ自然の欲求で悪い事じゃ無いんだから」
耳元で囁かれる優しい声色、言葉に、涙と嗚咽は堰を切ったように溢れ出した。
泣き続ける葉乃を抱き締めながら、真澄が視線を上げると、そこには呆然としてこちらを見ている篠田が目に入る。
彼は真澄と目が合うと、さっと逸らした。
今にも逃げ出しそうだ。
けれど泣いている葉乃をその場に真澄と二人で置き去りにするのも戸惑われるのだろう。
地面に縫い付けられたように足は動かない。
真澄は抱き止めたままの葉乃を見て、それからもう一度篠田を見る。
小さく溜息を吐いた。
彼に向かって去れというように小さく手を振ると、彼は彼女の行動に気が付き、それまで地面に縫い付けられた呪縛が解けたように、がくっと一歩後ろに下がると、逃げるようにその場からそそくさと離れていった。
そんな彼の姿に、真澄はまた溜息を落す。
「本当…男運無いのな…お前…」
泣きじゃくる葉乃の耳に届くか届かないかの声で真澄は呟く。
「強くなれ」
自分は自分だと言えるくらいに。
偏見も嘲笑も笑い飛ばせるくらいに。
私は選んで今の私なんだと言えるくらいに。
「強くなれ」
何度も何度も真澄は囁いた。