1
毎日を普通に生きる。
私は普通の人間だからそれが当たり前。
顔だってそばかすだらけで、玉の肌なんて言葉は無縁だし、髪は剛毛で毎日ゴムできつく縛らないとぼざぼざになるし、くせっ毛が強すぎて嵐の中で走って来たのかと言われそうな姿になる。
ある程度の常識的な服装は分かっているので、流行に乗らないけどそれなりに他人に見られてもいい服装を心掛けている。
美人には程遠いけど、極端に避けられる事もない普通の容姿。
生活だって、普通に学校に行って、勉強して、帰り際偶に友だちと寄り道して遊んで帰っての毎日。
それだけだ。
そんな毎日に時々物足りなく感じたり、つまらないと感じたりもしながらも生きてる。
だって私には何の才能も無いし、夢中になれるものも無い。
普通に学校に通って、大学に行って、就職して、結婚して、子どもを産んで育てて、…そんな皆誰もが通る道を歩むだけだ。
だってそれは皆している事だから。
私にはそれだけで十分。
それが普通だから。
「毎日つまらないよねー」
「葉乃はまたいつも同じ台詞を」
いつものように学校から家への帰り道、途中寄ったファーストフード店で友人と何気無いお喋りをしていた葉乃は、ポテトに噛り付きながらぼやいた。
同席していた友人の莉子は憂鬱そうに呟く葉乃に苦笑する。
「だって学校行って、勉強して、帰ってきてだけだよ」
「確かにそれだけだ。何か面白い事あればいいのにね」
「そうなんだよね。でもあったらあったできっとメンドクサイ」
「我侭め」
友人とそんな他愛の無い会話を繰り返す。
それが藤原葉乃の日課だった。
進学校に通う高校二年生。成績は中の中で、部活には入っていない。
来年になれば受験が待っているので、中学三年生の頃同様にまた忙しくなるのだろうが、受験から解放された一年生、受験生になる三年生の狭間の年はどっちつかずで何処か気が抜けてしまう。
周囲の学生たちも同様らしく、店内でも彼女たちと同じ学校の同級生や別の学校の同学年らしい学生がちらほらと見られた。
「彼氏は今日どうした?」
莉子に問われると、葉乃は少し考え込み、「今日は家でゲームするってすっ飛んで帰ってった」と答える。
「彼女置いて?」
「何か発売したばっかりのゲームらしいよ」
「…篠田らしいけど…何でそんなのと付き合ってるの?いっつもゲームゲーム。ゲームしてないと思ったら男友だちとばっかり遊んで、全然葉乃の事相手にしてくれてないじゃん」
変わらず気の抜けた表情の葉乃に対し、莉子の方が葉乃の彼氏の日常の素行について苛立ちを見せ始める。
「付き合って。って言われたから。もう高校生だし、彼氏の一人や二人出来てもおかしくないよね?」
「そりゃそうだけど。でも世の中にはもっといい男もいるよ?」
「私ブスだし、別に可愛い性格でもないから、そうそう告白される事も無いし。いい機会だと思って」
「お試しで付き合うにはいいかもしれないけど」
「でしょ。大丈夫。ちゃんとメールもしてるし、会う時は会ってるんだよ!」
「そうなんだ。なら、まぁいいか」
葉乃の言葉に落ち着きを取り戻した莉子に彼女もほっとする。
自分の事で友だちに心配かける事はしたくないからだ。
「でも実際どう…」
「そろそろ帰ろっか」
莉子に更に深く問われる前に、葉乃は勢いよく立ち上がる。
不自然かと一瞬思ったが、莉子もきょとんとしながらも店内に掛けてある時計を見て、「そうだね」と頷き、トレイを持って立ち上がった。
また何気無い会話をしながら道を歩く。途中駅前で電車で通う莉子と別れ、更に通りを一人で歩いた。
海岸線に沿って作られた堤防の上にある歩道をぶらぶらと歩く。
まだ春も間もないこの時期、日が暮れるのは早く、授業が終わる時間には既に日が傾き始めている。寄り道をした今日は既に太陽が水平線に沈み始めていた。後数分もすれば空は真っ暗になるだろう。
その変わり目の僅かな刻、空は茜色に染まり、反対に海は闇色を増す。
葉乃は何気無く立ち止まり、暫しその移り行く時を見守った。
堤防のすぐ横では車が忙しく交差する。沈む太陽と人間の営みの時の流れの違いに眩暈を起こしそうになる。
けれど葉乃は時折人との忙しない時を過ごすよりも、太陽が刻むゆったりとした時と共に生きる事の方が心地よく感じる気がした。
「っとぉ。妙に感傷的になってた気がする。今」
胸に込み上げるものを振り払い、葉乃は首を振る。
丁度そんな葉乃の横を一人の少女が通り過ぎた。
(変な行動をしてるとこを見られた!?)
焦った葉乃は今の少女が自分を変な人間だと不審がってないかと慌てて振り返るが、少女はこちらを振り向く事も、首を傾げてる様子も無かった。
しかしその事にほっとするよりも先に、葉乃は一瞬にして惹きつけられた。
通り過ぎた少女が手に持つもの。
――白い花。
それがまず真っ先に葉乃の視界の全てを奪い、惹きつけた。
――白い花。
まさか。そうは思うけど、目は離れない。
――白い花。
少女との距離は広がっていくばかりなのに。
白い花なんて何処にでもある。
もしかしたら、見間違いかも知れない。
そうは思うのに、葉乃は目が離せなかった。
――白い花。
「ちょっと待って!」
気が付いたら走り出していた。
そして我武者羅に少女の手を取り、花を握る手を握り締め、自身の目の前に近づけるよう少女の手ごと持ち上げた。
もう一度間近で見て、確信する。
それは子どもの頃に一度見たきりの白い花。
ヒカリツユハナ。
忘れていたはずなのに、一度しか聞いてなかったはずなのに、すらりと出てきた花の名前に葉乃は自分で自分に驚いた。
どうしてここにこの花があるのか。
何故自分はすぐにこの花の名前を思い出せたのか。
どうして今目の前の少女はそれを手に持っているのか。
何故自分はこれ程までに動揺しているのか。
「んで、オイ。見飽きたか?」
様々な感情が己の中をぐるぐると巡ると共に、今までに無い位なり続ける心臓を抑え、自分で自分の思考や行動に戸惑っていた葉乃に声がかかる。
そうして初めて、花しか見ていなかった視野を広げると、入ってくるのは額に筋を浮かべながらこちらを睨む少女。
身に覚えの無い怒りを向けられた事に一瞬葉乃は脅えたが、改めて自分がとっている行動を認識すると竦み上がった。
少女の握る花を間近で見ようとする事で、元々下ろされていた手を背後から持ち上げ、更にその少女の手を彼女の肩甲骨下の中心まで引っ張ろうとしたのだ。手を持ち上げることは稼動方向に腕を曲げれば出来るが、曲げた腕を背後まで回すのは肩の関節が相当柔らかくなきゃ出来ない。普通の人間にはまず無理だ。
まさかの急襲に添えていなかった少女は葉乃になされるがまま腕をとられ、エビ反りになっていた。
葉乃は慌てて手を離すと、その場でどうしてよいか分からず萎縮してしまう。
少女はやっと放された手首を回し、肩を軽く前後へ回す。そうして肩と腕の調子を確認すると、もう一度彼女は葉乃を見た。
まだ肌寒さの残る春を迎えたばかりのこの時期にそぐわない、シンプルなノースリーブのシャツにホットパンツ。防寒着になっているのだろうか薄手のパーカーを羽織った十五、六歳くらいの少女だった。
髪を後頭部でポニーテールにし、大きな瞳が際立つ少女は何処か少年のような快活さを感じさせる一方で整ったやや丸い顔立ちと瞳が際立つ白い肌がまだ幼さを残し少女としての魅力を際立たせていた。
大きな意志の強い瞳が葉乃を捕らえる。
ただの凡人で小心者でしかないと自覚している葉乃は自分自身に自信がある人が持つのだろうと思っている強い瞳――目力が強いとでもいうのだろうか――を持つ人間と接するのが昔から苦手で、目を合わせた瞬間思わず斜めに視線を逸らしてしまった。
それに少女が気付いたかどうかは分からない。
ただ少女は淡々とした口調で葉乃に語りかけた。
「んで、言う事は無いのか?」
言われた瞬間、葉乃は自分が恥ずかしくて、顔を真っ赤にする。
突然人の手を引き、足止めしておいて一言も詫びを入れていなかったのだ。
「ごめんなさい!すみません!本当にすみませんでした!」
葉乃は必死になって頭を下げる。
少女の目を見るのは恐かったので、顔を真っ直ぐ見る事は出来なかった。
謝ってすぐに逃げ出したいけれど、このまま逃げるのも恐くて動けなかった。
「…何かさっきオレに飛び掛った時と全然印象違うのな」
少女は不思議そうに呟く。
「それは!あの!勢いと言うか!色々ありまして!ごめんなさい!」
頭を下げたまま、葉乃は謝り続ける。
恥ずかしくて、恐くて、自分の行動が傍から見て変だった事は分かっているから、これ以上触れて欲しくなくてそんな感情が胸の中をぐるぐると渦巻き、葉乃は泣きたくなった。
脅えながら少女の次の言葉を待っていると、ふと気配が動いた。と思ったら、少女は屈み込み、葉乃の顔を下から覗き込んでいた。
「!」
少女のとった思わぬ行動に葉乃は驚き、距離を取るように勢いよく顔を上げる。
すると少女は腰を曲げたまま、笑った。
「頭下げるのもいいけど、謝る時はちゃんと相手の目を見ろよ。目を見ねーと相手に本当に悪いと思ってるのかだって伝わらないからな」
諭される正当な内容に葉乃はまた自分が恥ずかしくなって顔を真っ赤にする。
「んな、泣きそうな顔しなくても。オレそんなにキツイ事言ったか?」
少女が少し呆れ気味に呟くが、泣きそうになっている自分に気付かれた事がまた恥ずかしくて、呆れられている自分が情けなくて、葉乃はもう今すぐにでもここから消えたくなった。
どうしてもっとスマートにかわせないのだろう。
謝って何でも無かったようにすぐに離れればいいのに。
自分の心を、自分の悪いところをすぐに見抜いて指摘するこの少女は苦手だ。
葉乃は改めて思う。
「…何かオレの方が悪い事をしてるみたいだな。誰も取って食わねーぞ」
少女は呟くが葉乃はもうこれ以上一言でも口を開いたら泣いてしまいそうで何も言えない。
体は勝手にガタガタと震えていた。
少女は少し考え込み、そしてずっと握り締めていた花を葉乃に差し出す。
ふわりと揺れる白い花。
思わぬ行動に葉乃は目を見張るが少女は気にした様子無く、「やるよ」と告げた。
「何か知らんが、この花が気になったんだろ。だったらやるよ。また摘めばいいだけだし」
続けられた言葉に葉乃は今度こそ目を見開いた。
「そんな簡単に摘めるはずない!これは湖の底で咲いてる花なんだから!これだってどうやって摘んできたの!?」
さっきまでの萎縮した様子と裏腹に一気に捲くし立てるように言い放つ葉乃に少女はびっくりしたように目を丸くすると、破顔した。
「お前面白いなぁ。そっちが素だろ?しっかり目を見て話せるじゃねーか。何でそんな他人を恐がってるんだよ」
そう言って少女は楽しそうに笑う。
けれど葉乃にとって彼女のその指摘は心の中で正も負も渦巻いていた感情を堪える我慢の限界だった。
「どうして面白いって言うの…どうして笑うの…私変じゃない…」
「うぇっ!?」
少女が驚く前で、葉乃は顔を真っ赤にして大粒の涙を零し、嗚咽し始めた。
一度決壊した感情は留まる事を知らず、溢れ、零れ続ける。
「…だから嫌なの…嫌い…私キライ…皆キライ…」
ボロボロ零れる涙を懸命に拭う。
こんな見も知らずの人の前で大泣きするなんて最悪だ。
この人はこんな性格の人なだけであって、悪気も無く、悪い人じゃなくて、すぐに感傷的になる自分が悪いだけなのに。
それでもかけられる言葉が全て痛かった。
ただ素直な感想を言っているだけなのに。
もうこれ以上何も言わないで欲しいと思っても葉乃の心の置くまで見抜いて真実を口にする少女が自分を苛める嫌な人に感じて痛かった。
そう思ってしまう自分がまた嫌で心が痛かった。
ただ普通でありたいだけなのに。普通なのに変だと言われる事がとても辛かった。
泣き続ける葉乃に困り果てた顔をしながら、少女は暫し思考するように黙り、そして徐に葉乃の手を引いた。
一度零れた嗚咽や涙は止まる事無く、葉乃はなされるがまま少女に引かれて彼女の後ろをついていく。
そしてどのくらい歩いたか、車の音が遠くなり、海の漣の音が大きくなったと思ったら、その場に座らされた。
硬くて冷たいコンクリートとは違う、少し湿った砂の上。
握り締められた手の平は温かい。
ふと、体が傾けられた。
するとすっぽりと少女に抱き締められ、背に手が周る。
全身を包まれている訳ではないのに、包み込まれるような温もりが少女の胸元から、手から、回された腕から伝わってきて、ささくれ立ち小さくなって暗い中に消えてしまいそうだった気持ちがほわりと浮上する。
それに合わせて泣きたい衝動が緩まったり激しくなったりを繰り返しながら葉乃は泣き続けた。
嫌だと思っていた少女の第一印象はゆるゆると解けて形を変えていった。
そうしている間にすっかり太陽は空から姿を消し、熱の無くなった大気は一気に冷えだす。
回された腕や手の平や、頭の納まった胸元から温もりは与えられていても、背からは少しずつ熱が奪われ始めていた。
その頃には涙も治まり始めていて、嗚咽が時折零れるだけになっていた。
泣ききった事ででか、あれ程様々な感情が渦巻いていた心はすっかり海の波のように落ち着きを取り戻し、ゆるゆると満ち干きを繰り返す。
そうやって少しずつ冷静さを取り戻すと、ふと顔を上げた。
すると葉乃が泣いている間呆れるような溜息を吐く事無く、離れる事もせず、ただずっと一言も喋らず、抱き締めてくれていた少女は静かに微笑んだ。
その表情は慈しむようで、本当に優しく、葉乃は無意識の内にほっと息を零し、また自然と身を寄せた。
もう少女の目は恐くなかった。
むしろ今まで傍にいた誰よりも――友人や家族や彼氏よりも安心した。
そうやってまた暫くそのままでいて、やがてもう体が離れてもいいと心が完全に落ち着くと、葉乃は少女から身を離した。
それに対して少女は何も気にする様子無く、自然と体を離し、ただ抱き締めるだけの同じ姿勢で固まっていた体を軽く伸ばし、解す。
「んじゃ。これな。ずっと握ってたから枯れ始めてるけど、やるよ」
少女は葉乃が泣き止むまで本当にずっと花を握り締めていたらしく、ややくたりと首を垂らしていた白い花を葉乃に差し出す。
葉乃が無言で受け取ると、にっかりと笑った。
「一人で家まで帰れるか?暗いから気を付けろよ」
そう言って葉乃が頷くのを見ると、あっさりとその場を離れて、浜辺を歩き始めた。
葉乃に何一つ問わず。
人の心の奥の本当の気持ちをあっさりと見抜いて、素直に言葉に出すくせに、肝心なところは触れない。
本当に触れて欲しくない繊細なところには少しも触れない。無理やりこじ開けようとはしない。
思い返してみたらあまりにも一方的に迷惑だけをかけ、理由も言わず困らせただけなのに、少女は何一つ問う事は無かった。
それが何故か心地良かった。
知って欲しいけど、知って欲しくない気持ち。
泣いた事で自分が思うよりもずっとすっきりしていた事に葉乃は驚いた。
未だ手に肩に残る温もりが、まだ燻る感情をゆっくりと癒してくれるのを感じた。
けれど何故か『ありがとう』とは言えず。
何に対して『ありがとう』なのか分からず。
ただ枯渇していた心をほんの少しだけでも満たしてくれた少女に感謝した。
葉乃は手の中に残る白い花を見つめる。
そこにもまだ少女の温もりの余韻が残る。
ずっと焦がれていた白い花。
見ているだけで切なく、触れるだけで泣きそうなほど愛しい気持ちが溢れる。
それは改めて、この花に出会って、この花に触れて、この感情はこの花に対してだけのものだと確信に変わる。
恐らくそれは自分だけが持つ感情なのだろうだけど。
普通の人が抱かない感情だとしても、不思議ともうそこに恥ずかしさは無かった。自分に対する嫌悪感も無かった。
視線を上げ、もう一度少女の姿を探す。
しかし闇に解けた砂浜にはもう彼女の姿は無かった。
――どうしてだか、また少し、涙が零れた。
2
昨日貰った白い花はどうしようか考え、一つは生徒手帳に挟んで押し花にし、残りはもう少しだけと、コップに水を入れ挿した。今朝、見たら萎れかけていた花が少し元気になっていてほっとした。
押し花にした花は葉乃にとってお守りのように感じて、授業の合間の休み時間の度に見てはほんわりと元気が湧くのを感じていた。
「葉乃。お昼御飯食べよ」
莉子が葉乃に声をかけ、いつものように葉乃が座る席の前の席の机ごと反転し、くっつける。ちなみに本来前の席に座っている男子には既に了承済みだ。
「うん」
葉乃は慌てて手帳を閉じると、鞄からお弁当を取り出した。
「葉乃、今日はずっと楽しそうだね。休み時間ごとに手帳見てるし。何かいい事でもあった?」
莉子はお弁当箱を開きながら葉乃に問いかける。
「えっと…好きな花があって、昨日久し振りにその花を貰ったから嬉しくって」
「花?」
「そう」
葉乃は頷き、一瞬莉子にも見せるかどうか躊躇ったが、思い切って先程胸ポケットに入れた手帳を取り出すと、花を挟んだページを見せる。
花を見ると、友人は首を傾げた。
「何ていう花?」
「ヒカリツユハナ」
「ふーん。…可愛い花だね」
莉子にとってはそれ程興味のあるものではなかったらしく、相槌を打つと興味無さ気に感想を告げる。そして顔を上げると、楽しそうに笑った。
「私はてっきり新しく好きな人ができて、その人の写真挟んでるのかと思った」
「え?篠田君がいるのに?」
「あんな彼女のこと彼女と思ってない彼氏よりもっといい男見つけたのかと思って」
莉子にとっての関心事は花よりも彼氏の事らしく、目を輝かせる。
「そんな訳無いよ。一応一途ですから。彼氏がいるのに他の人に目移りなんかしません」
葉乃は苦笑して答え、開いたままの手帳を閉じた。
「だって昨日、海岸で誰かと抱き合ってたって聞いたよ!?」
「!?」
葉乃は飲みかけの牛乳を思わず喉に詰まらせる。すると明らかに動揺を見せた彼女に莉子はにやりと笑った。
「本当なんだ、この噂」
「…噂って…何処から…」
「部活帰りの人間何人か目撃してたらしいよ。葉乃は分かったけど、相手が暗くてよく分かんんなかったって」
莉子は楽しそうににやにや笑う。
「…女の子だよ。ちょっと知り合いの。その子に花を譲ってもらったの」
そう答えると莉子の表情は眼に見えて分かりやすく落胆に変わる。
「なんだぁ。女の子かぁ。スキャンダルかと思ってわくわくしてたのに」
「もし本当に私が他の男子と抱き合ってたらどうするつもりだったの?」
「そりゃ根掘り葉掘り聞いて、篠田よりいい男だったら大プッシュで乗換えを薦めてた」
あっけらかんと言う莉子に葉乃は溜息を吐く。
「そんなに篠田君の事嫌い?」
「キライじゃないけど、篠田かぁって感じ。でもまぁ私たちくらいには篠田くらいがちょうどいいんだろうけどね。まだ夢見ていたいじゃない?」
「格好いい王子様が現れて?とか?」
「まぁ、そこまではいかなくてもちょっとでもいい男とか」
確かに葉乃も莉子も容姿は決して女子として魅力的とは言えない。それは自覚しているし葉乃はそれでいいと思っている。
そんな普通の容姿に普通の性格の人間に少女マンガに出てくるような、自分にベタ惚れで秀才で容姿端麗の男子が現れるはずもないと分かっていても憧れるのも分かる気がする。
それでも一応、自分の事を好きだといってくれて、自分が彼氏にと選んだ男子をこうも否定されるのはあまりいい心地はしない。そうは思っても莉子に悪気は無いのだ、自分を心配してくれているのだと思って、微かに憤る感情を抑えた。
「藤原!」
丁度タイミングよく、話題の中心人物が現れる。
「篠田君」
寝癖の残る髪に皺のある学ラン。お世辞にも格好いいとは言えない容姿。
それでも自分も同じくらいの容姿だと思っているから葉乃とってはぴったりだと思っている彼氏。
篠田は少し焦りを見せた表情で椅子に座ったままの葉乃の元まで来ると見下ろした。
「あ…のさ…」
何かを問いかけようとするが、彼は上手く言葉に出来ないのか、そこまで声を出すと言葉に詰まり、しまいには葉乃から視線を外した。
それを見ていた莉子が溜息を吐く。
「昨日の海で一緒にいた人は女の子だってさ」
「そっ…そうだったのか!よかった!」
篠田は大きく安堵の息を吐くと、嬉しそうに笑った。
「昨日クラスの奴が藤原が誰かと海で抱き合ってるって言うから、オレ、ビビッちゃって」
「だったらゲームの為に彼女一人置いて帰らないで、一緒に帰りなさいよ」
「それは!早く続きがやりたかったし!今ネットの友だちとどっちが早くクリアできるか競ってるんだよ!」
「…葉乃…本当にこんな男がいいの?」
莉子の問いに対して答えた篠田の答えに彼女は呆れたように溜息を吐くと、哀れむような目で葉乃を見る。
莉子の呟きに篠田は怯むと、不安気に葉乃を見た。
葉乃は彼を見上げにっこりと微笑む。
「心配かけてごめんね。今日も先に帰るの?」
その笑顔に篠田はまたほっと表情を緩め、莉子は舌打ちをする。
「今日も先に帰るよ!藤原も気を付けて帰れよ!変な奴に絡まれるなよ!」
それだけを言うと、うきうきと足取り軽く彼は教室を出て行った。
莉子は呆れたように篠田の後姿を見送り、そして葉乃を見る。
「はーのー」
「いいんだよ。私は篠田くんが。私には丁度いいもの。それに皆彼氏持ちなのに渡し一人だけいなかったら浮いちゃうもん」
「それはそうだえど」
「だからいいの」
葉乃は笑って答えた。
学校の帰り道、この日も莉子と別れてから一人海岸線を歩いていた葉乃は何気無く海を見ていた。
ちらちらと横目に見ては、また視線を前に戻す。
何となく目の端にでも昨日の少女が映りこまないだろうかと思ったからだ。
けれど浜辺にいる人は、釣りをしている中年の男性だったり、ペットを散歩させている人だったり、親子連ればっかりだ。
本当に見つけたいのなら立ち止まってしっかり探せばいいとは思うのだが、女同士とはいえ学校で噂になっていた後ろめたさと、自分が必死になって探している姿を誰かに見られたらと思う気恥ずかしさ、本当に少女を見つけたとしても何と声を掛けてよいか分からない恐さもあって、前向きながら時折海を見ているフリをして探していた。
ふと海から上がってくる一人の少女が目に留まる。
(あの子だ――!)
葉乃には一瞬で分かってしまった。
春になり始めのこの時期にまだ海に入ろうとする者はいない。いてもせいぜい足を膝くらいまで浸けるくらいだ。
サーフィンやダイビングが出来る場所であればいるのかも知れないが、残念ながらこの海の波は穏やかで、それ程深さも無い。
そんな中で、一人少女は海から顔を出すと、ゆっくりと浜辺に向かって泳いでいた。
葉乃は気が付いたら走り出していて、堤防の階段を降り、岸へ向かってくる少女を待ち構えた。
少女は浜で自分を待つように見ている葉乃の姿を確認すると、少し驚いた表情を見せ、そして今度は真っ直ぐ葉乃の元まで泳いできた。
海から上がってくる少女の姿に、葉乃が今度は驚く。
海に浸かっている時には分からなかったが、彼女は昨日と同じラフなシャツとパンツ姿でそのまま泳いでいたのだ。
水を吸った衣服は体にピッタリと張り付き、体のラインと内側に隠している肌の色が仄かに透けていた。
「よぉ。また会ったな」
そんな姿で少女は何も思わないのか、そして寒くはないのか、気にする様子無く彼女は葉乃に笑ってみせた。
「ま、また会ったなって言うか、そうなんだけど…寒くないの!?」
寧ろ見ている葉乃の方が寒気がして、思わず体を擦ってしまう。
「ん?あぁ、まぁ…寒いかな?」
「何!?そのどっちでもいいやみたいな答え!?」
葉乃の悲鳴染みた問いにへらりと笑って答える少女に葉乃はまた驚愕する。
「…何かお前、昨日から会っては叫んでばっかりだな」
「どうしてそんなゲンナリした顔するの!?まるで私が変な人みたいじゃない!私じゃないわよ!だってこの時期に海に入って何で平然としてるの!?それに服のまま海入ってるし!下着見えるわよ!っていうか下着付けてない!?」
葉乃はもう驚いていいやら叫んでいいやら、悲鳴を上げていいのやら分からず、彼女が今まで生きてきた中の常識と何一つかみ合わない行動をする目の前の少女にパニックを起こしてしまった。
少女は呆れた表情を葉乃に向けると、「落ち着け」と肩を叩く。そして彼女の前を通り過ぎると砂浜の上に綺麗に畳まれて置かれていたパーカーを羽織った。
そしてくるりと葉乃を振り返ると、
「ほら。これで見えねーし、寒くねぇ」
と、誇らしげに言い放つ。
「え?え?それは違う!?違うのかしら!?え?でも何の役にも立ってない気が…」
あまりにも得意げに少女がその姿を見せるものだから、葉乃は本当は自分の言っている事の方がおかしかったのかという気がしてしまい、戸惑う。
戸惑う葉乃に少女は楽しそうに笑う。
「お前、昨日も思ったけど、本当面白いなぁ」
「私!?私の何処が面白いの!?私普通よ!」
少なくとも目の前の少女よりは常識人だ。それだけは自信が持てる。
「面白いって言われるのが嫌か?」
少女は不思議そうに首を傾げる。
「嫌…じゃないけど、変な人って言われてるみたいで…」
「そうなのか?…そうか。ごめんな。オレ、真澄って言うんだ。あんたは?」
真澄と名乗る少女は苦笑すると、葉乃に謝罪し、笑いかける。
あまりにもするりと侘びられ、葉乃は逆に拍子抜けしてしまった。
そうすると逆に、自分の今まで彼女に対して言い放った事の方が、彼女に対して批判ばかりしていた事に気が付き、恥ずかしくなって顔を真っ赤にする。
真澄は葉乃の心中などに気付くはずもなく、首を傾げると、すぐに諦めたように他に視線を移す。
それに気が付いた葉乃は慌てて視線を自分に戻す為に思わず腕を引っ張ってしまう。
「あの!私、葉乃って言います。藤原葉乃!」
葉乃の取った行動に真澄は目を丸くするが、すぐに笑って、「そうか。葉乃か。よろしくな」と答えた。
すると自然と葉乃はほっと息を吐いた。
「で、今日はどうしたんだ?今日は花持ってねーぞ」
問われて初めて、葉乃は気が付いた。
あんなに真澄を見つける事でさえ戸惑っていたのに、いざ見つけると、あまりにも無意識に彼女の元へ走っていって、どうして自分がそうしたかったのか分からなかったからだ。
「花欲しいのか?だったら採って来てやるけど」
「え?」
沈黙していた葉乃にかけられた真澄の言葉に、葉乃は驚いて彼女を見上げた。
「だってあの花、ここで採ったし。昨日は必要あって採ったけど、今日は必要無かったから採らなかっただけだし」
「どうしてあの花がこの海の中で咲いてるって知ってるの?」
驚く葉乃に真澄はまた不思議そうに首を傾げる。
「知らないものなのか?だってこの時期湖に潜れば底一面に咲いてるだろ」
平然として答える真澄に、葉乃は目を見開き、そして首を横に振った。
「真澄さんが初めて。この辺で暮らす人は誰も知らないよ。ここが元々湖だった事も。ヒカリツユハナがこの海の底で咲く事も」
一度子どもの頃に行ったっきりの水族館。あの展示場で飾られていたけれど、それはほんの一時だけ。
それ以来どうしてもその花をもう一度見たくて、両親に花が目的だという事を隠しながら水族館に行きたいとねだった事もあったが、花を見る事は二度と無かった。
図書館やインターネット、本屋で幾つも植物の文献を漁って読んだが、あの花に学術的な役割は殆ど無いらしく、写真と数行の紹介文が載せられているだけで、それ以上行数が増える事も、文献が増える事も無かった。
目の前に広がる海は夏は海水浴場として解放されるが、それ以外のシーズンは特に目立った海産物が取れるわけでもなく、浅瀬が続くので船も入れず、漁をする人間もいない。
そんな幾つかの条件も重なって、ただ春先に海底に蕾を咲かせるだけの花に対して誰も価値を見出す事もせず、態々研究される事も無かった。
大して名物にもならなかったらこの海岸沿いに暮らしてる人の殆どは実はそんな花が春先咲いているのだという事さえ知らない。彼女の父母がそうだったように。
ましてや――。
「…もしかして、真澄さんはあの花が薬になる事も知ってる?」
葉乃が聞き辛そうに問いかけると、真澄はきょとんとする。その表情を見て葉乃は落胆した。
やはりその事は知らないのだろう。
薬草の種類としては書かれていても、大した効能は無かったのか、調べる程の価値が無かったのかは分からないが文献にも載っていない情報だ。
「そう言えば、傷にいいんだっけ?」
葉乃は今度こそ目玉がそのまま零れ落ちるのではないかというほど見開いた。
「オレは実際に使った事はねーけど。何か磨り潰して使うんだよな。…っておい!今日も泣くのかよ!」
真澄はうんうん唸りながら記憶の片隅にある情報を思い出して呟き、ふと葉乃を見ると、彼女はまたぼろぼろと涙を零し、こちらを見ていた。
「…オレ何か悪い事言ったか?昨日といい、今日といい…」
流石に二日連続目の前でしかも自分の言葉で泣かれてしまうのは気持ちの良いものではない。
泣かれる理由も思い当たらない真澄は正直ゲンナリしてしまった。
葉乃はただぼろぼろと涙を零し続ける。
不思議な事にそこに喜びや悲しみは無かった。昨日と違い葉乃は自分でも何故泣いているのか分からなかった。
目の前で真澄が困っているのは分かっていたが、止めようという気も起きず、ただ涙が頬を伝うごとに心の中の何かちくりと痛みのある氷のようなものが溶けていくのを感じていた。
真澄は初めはおろおろと戸惑った様子を見せていたが、次第に落ち着きを取り戻すと、苦笑する。
「何か知らんが、お前、色々自分の中に溜めすぎなんだよ。我慢しなくていいんだぞ。今みたいにちゃんと泣けばいいんだよ」
笑いかけてくれる真澄。
また強い眼差しが葉乃を捕らえる。
そうか。自分に自信のある人は他人の感情まで包み込んでくれる包容力もあるんだ。
そんな事を葉乃は思った。