絞り出すような声が、まるで悲鳴のように高く掠れた声が大聖堂に響き渡る。
「絵をもっと描きたい!もっともっと学びたい!もっと色んな人の絵を見たい!この世界にある沢山のものを見たい!描きたい!」
一息に、喉の奥で必死に塞き止めていた想いの丈を吐き出すと、息も途切れ途切れに深呼吸を繰り返し、ある程度整えると、キッと真澄を睨みつける。
そうすると、今度は、その瞳からぼろぼろと大粒の涙が零れ出し、湧き出る感情とそれと同調するように零れる涙をソルエは必死に両手で拭った。
「……出来る訳ないじゃない。私はその道を選ばない。選べない。私は生まれた時から生きる道が決まっていた。巫女として皆に優しくして貰った。食べ物にも住む場所にも困らず、幸せになれるように育ててもらった。絵を描く絵の具は何処から?神は何処から?手に入れるのが大変な物を与えてもらった。本来生きる為に働く時間を、私は好きなだけ絵を書くための時間にして与えて貰った。その恩を仇では返せない」
啜り泣きを繰り返しながら、ソルエは尚も続ける。
「私が絵を描きたい。もっと色んな世界を知って、絵の技術を上げて、もっと上手くなりたい、描いてみたいと願うのは私の我儘でしかない。そう願うのは私の罪でしかないんだよ」
涙を零し続ける少女に、ユイラは微笑むと、真澄と向き合っていた、ソルエの前に回りこみ、その頬に零れる涙を拭う。
「そうしてまで絵を描く事を望むか?」
ソルエは目を見開き、そして何も映す事の無い澄んだ瞳を見つめる。
「しかし私は巫女無しではこの国や土地を守る事は出来ない。この土地は本来沼地。それを緑の大地を広げ、天候を調整し、人間が生きる大地の豊かさを私の力で保っている。この国から外に出てみると良く分かる。私が潤すのはこの国だけだ。外は沼地が広がり、その向こうには乾いた土地や砂漠があり、そこで暮らす人間は明日来るかもしれない死に怯えて生きている。ここをそんな国にする訳にはいかない。その為には私の力だけでは足りない。そなたの生命力そのものを必要とするのだ」
切々と語られる言葉に、ソルエの瞳に戸惑いの色が浮かぶ。
「それは人の形を保ちながら、この土地を護っていく場合だろ」
透かさず横から補足する言葉に、ソルエは声の主を見る。
眉間に皺を寄せていた真澄は続けた。
「本来神とは見えないものが多い。それは人の意識や魂が見えないのと一緒だ。少なくともこの世界で神の姿が見える人間は通常特殊な力を持った人間だけのようだ。だから聞いたんだ。『神が本当にいるのか?』、『見られるのか?』って」
ソルエは驚いたようにユイラを見ると、また視線を真澄に戻した。
「お前は『いる』、『見られる』って言ったよな。じゃあ質問だ。普通の人間が見えない神の姿が見えるようにするには?」
「……姿……」
ソルエはまたユイラを見る。
「そう、姿・形を持てばいい。しかしそれは余程の気合が必要らしくて、態々人間に見える姿を持つなんて事普通しないんだよ。だったら手っ取り早い方法。人間の身体を乗っ取ればいい」
表情を見せなかったユイラの顔が段々と歪み始める。
「じゃあ質問二つ目。何故人間の姿を保つ事を態々この神はするんだ?」
「それは……この国の行く末を事前に察知して、人間に予言として知らせる為」
真澄はソルエの回答に少し困ったようにぽりぽりと頬を掻いた。
「そこにいる神様は優し過ぎるんだよなぁ。人間に。悪い意味で甘やかし過ぎ」
ソルエは首を傾げる。
「嵐だって、不作だってな、起こる時には起こるんだ。神様がいてもいなくても。予言されてもされなくても。この国を安定させる為には確かにそこの神様の力が必要だろうさ。でも、沼地を人が住める土地にしてくれてるんだ。それ以上の事求めるなよ。大事なのは不測の自体が起きてもそれを乗り越えていけるだけの力を人間が付けていく事だろ。それが神様の為でも人間の為でもあるだろ。それを神様何でも出来るからって頼り過ぎ。そりゃ人間一人の犠牲くらい赦して欲しいって神様だって思うさ」
真澄は一人こくこくと頷く。
「でもさ。それじゃ、何時まで経っても人間も神様も変われない。国が生まれたり滅んだりするように、神様にだって何時何が起こるか分からない。でもそんな時でも神様と一緒に消えるんじゃなくて。寧ろ互いに支え合って乗り切れたらいいじゃねーか」
神と支え合う?
そんな突拍子も無い考えに、ソルエは目を丸くし、ユイラを見るが、感情を読み取る事は出来なかった。
「神の姿が見えなくたって、予言が無くたって、生きていけるよ。それにこの土地にいれば神が護ってくれる事は何時だって感じられる」
その言葉の真意が汲み取れず、ソルエは眉を顰める。すると、真澄は苦笑した。
「だって神の力によって沼地を人間が住める土地に変えてくれたんだろ。神様いなくなったらすぐにだって沼に戻っちまう。だから何時だって感謝の祈りを忘れなければいい」
既に国の人間の大半が分かっていても、実感としては沸いていなかっただろう。何十年、何百年と続いて、御伽噺のように非現実的になっていたが、この土地は神に見放されればすぐにだって沼地に戻ってしまうのだ。
その事実を改めて知らされ、ソルエは自身を恥じ入るように頬を染めた。
「ただ忘れるな。神が神であり続ける為には、人間が神を信じなきゃいけない。実際考えても見ろよ。神様は人間が土地に暮らせるだけの力を提供しているのに、その上でのうのうと暮らす人間は神に感謝もせず、自分たちの力だけで生きていると思ってる。誰もそんな奴らに力を貸したくないだろ」
ユイラがそっとソルエの頬に触れ、撫でる。
「異端者の言う事は正しい。私はこの国の人間が好きだ。だから私は私が出来る限りの事をしてきた。人間が幸せになれるよう人の姿を借り、言葉を直接伝えた。今、そなたが役目を望まないのなら、私はこの場から姿を消すこととなる。それでも人間は様々な事象を乗り越えていけるだろうか?」
翡翠色の瞳はソルエの心の奥の動きを探る。
「私を忘れずにいてくれるだろうか?祈りや、感謝を多くは望まない。それでも、私がいる事を忘れてしまえば、私はこの国を護る意義をいつか感じなくなってしまうかもしれない」
「忘れません!……もし……もし叶うのなら、私は生きたい!生きてもっと絵を描いていきたい!貴方を描きたい!」
「なりません!ユイラ様!その背信者に裁きを!代わりの巫女を捧げますからどうぞこの地で姿を保ち下さい!」
ただじっと見つめ続けていた神官の一人が、変わり始めた話の流れに声を上げる。
「巫女として奉られた恩をお忘れですか!絵を描くなど絵空事の夢を持ったって世界は厳しい。どうせ惨めな思いをするだけです!」
「ソルエ様が絵を描きたいお気持ちは分かります。いつも拝見していましたから。けれど貴方はそれより何よりも優先すべき事があるでしょう!」
一人の神官の発言を皮切りに、見守り続けるだけだった神官や街の人々がソルエの願いを制止する。
「なぁ。ソルエ。お前の罪は我儘に生きようと願う事。こいつらの罪はお前がお前のままで生きることを制止し、自分たちが安定して生きることを望む事。お前の言い分だと、味方が多ければ多い程罪は薄れる。じゃあ、オレがお前に味方をすればどうなる?」
ソルエは罵倒を浴びせられる中、笑って自分に問いかける真澄に、暫し呆然とすると、苦笑した。
「マスミの言い分からすると、どれだけ同じ想いの人がいたとしても、一人一人の罪の重さは変わらない」
「お前はどうする?」
「だったら私は……」
呟いて、ソルエはユイラを真っ直ぐ見据える。
「――ユイラ様。私は生きたい。我儘だと言われようと、絵を描いて目が出なかったとしても、それで今までと同じ様な生き方が出来なかったとしても、……例え沢山の人に迷惑をかけてしまったとしても……、それでも私は生きたい!描きたいです!」
ソルエの決意の言葉に、ユイラはこくりと頷く。そして、神官や参列者を見回すと、口を開いた。
「この子は私の巫女。私が選んだ人間だ。徒単に器に成り得るというだけで選ぶのではない。誰でも良い訳ではない。私はこの子を好んで選んだのだ。その子を罵倒する事は私が赦さない」
決して怒りを露にし、声を荒げるなどという事はせず、冷ややかな瞳で、神官やその場に留まる人間を見ると、淡々と告げた。
神が選んだ人間を罵倒する事。害を為す事。
それは神を貶める事と同様だ。暗にそう言われている様で、参列者たちは凍りつき、口を閉ざさるをえなかった。
「今までの娘にも、そなたのように夢を見た娘もいたのだろうか。だとしても神に逆らう勇気も無かったのだから、気に病むことも無かっただろうが」
ユイラはソルエの頬に手を添えると、慈しむようにその輪郭をなぞった。
言われてソルエは戸惑うように真澄を見ると、またユイラを見上げた。そして何かを告げると、ユイラは初めて嬉しそうに笑った。
「この娘の身体はもう既に限界だ。――――そなたの未来に祝福しよう」
そう言うと同時に、ユイラの身体は崩れ落ち、見に纏っていた衣装以外全て白い灰と化した。
これが巫女の役目の終わり。ソルエも迎えるはずだった巫女の死。
それを彼女はじっと見つめていた。
6
「それ以降、この国にあった本来の意味を持った大祭は行われていません。今現在では、儀式的なものだけが残り、行われています。巫女はこの国の人間の中から毎年一人、教会の神官によって厳選され、一年間この教会で奉仕と毎年の祭りの巫女として役目を果たし、そして数十年に一度の大祭の日に、前の大祭からそれまでに選ばれた巫女の中から一人が選ばれ、儀式を行うようになりました。と言っても今は祈りを捧げるだけですが」
観光客らしき集団は、ガイドの話に相槌を打っていた。
ガイドは笑みを湛えながら、大聖堂の中から外へと案内し、そして門の前で立ち止まる。
「それでは最後に神に選ばれた巫女は、その後どうしたと思いますか?」
客はそれぞれに考え込み、ある者は「画家になった!」、別のある者は「そう上手くはいかないから売れないまま死んだ!」、「やっぱり神の巫女を拒否した事を後悔してここに残った」、「いや、この国の人間がそんなことで納得するとは思えないから撲殺された」と、様々な意見が飛び交う。
「そうですね」
ガイドは意味深に笑う。
彼らは答えを告げないまま門の外に向かって歩き始めたガイドの後をぞろぞろと付いていく。完全に外に出たところで、振り返るガイドに合わせて各々に振り返り、一斉に声を上げた。
外壁には巡礼に来ていた集団が集まっていたり、休憩する為寄り掛かる男、壁の傍で遊んでいる子どもがいる。何処にでもあるような光景。しかし。彼らはその事に声を上げたのではない。
その証拠に、彼らは一斉に壁面を見上げていた。
上がった声は歓喜の声。
壁面には様々な風景、そして人々が描かれていた。
沼地とそこを歩く人々。降りてくる光。
描かれる色は鮮やかでそして絵の中の一つの世界を作り出している。
ガイドは彼らの反応を満足そうに見つめると、語り始めた。
「この壁面は、その巫女が描いた絵だと言われています」
その言葉に、観光客は驚いて声を上げる。
「彼女は確かに、生きること、絵を描くことを選びました。けれど信仰心が薄れた訳では決してなく、感謝の心を忘れる事はありませんでした」
「どうしたんだ?ソルエ。その格好」
突然誰も予測しなかった大祭の終結に、教会自体、そして国の人間全てが混乱を起こし、数日に渡る教会・国の会議が重なり、ある一つのこれからの国のあり方の方向性を見つけ出した結果。――ソルエは大きな鞄一つを手に提げ、画材を詰めた鞄を肩から下げ、教会の門を出てきた。
門の外に立っていた真澄は彼女の格好に少し驚いて、見つめた。
そんな彼女の反応に苦笑すると、ソルエは答える。
「追い出されちゃった。まぁ、巫女の役目を放棄して、国の仕組みを根底から変えちゃったんだから当然と言えば当然なんだけどね。このくらいで済んだ事に感謝しなくちゃ。でも後悔はしていないよ」
「そっか」
真澄と始めて出会った時よりも、憑物が落ちたようにすっきりした表情で笑みを浮かべるソルエに、真澄は笑みを返す。
「真澄はどうしたの?」
「オレか?大祭も見たし、ぶらっとまたどっかへ行こうかなと思って、一応最後に挨拶くらいはと……」
「謝罪はいらないからね」
言葉を続けようとする真澄の言葉の先を読んだように、ソルエは遮った。
「私、後悔していないし。真澄がいてくれて良かった。貴女のお陰で世界が広がったし、何より、私が私自身の道を選べた。真澄があの時もう一度声を掛けてくれなければ、私は神様の器になって、それがどういう状態かは分からないけど、意識を保ち続けられるものであるなら一生後悔していただろうし、そうでなければ死ぬその瞬間に後悔していた」
「そうか」
「これから後悔するかどうかはまだ分からないけど、きっと巫女だった頃の方が良かったなんて言わないと思う。言えないし。ただ、私の罪は消えないから、一生それを背負いながら生きていく。この国の皆から神様の存在を自分の目で確認出来るという機会を奪ったんだから」
「数十年に一回程度しか姿を見せない神様が、今更見えなくなったって何も変わらないと思うんだけどなぁ」
呟く真澄にソルエは笑う。
「それはマスミだから。この国の人たちにとっては、神様が存在しているからこの国は成り立っているって、数十年に一度でもいい、自分たちが神様に護られて生きてるって感じる大祭は、自分たちは安心してこれからも暮らしていけるんだと感じられる大切な機会なの」
「そんなものか」
真澄にとっては理解し難い感情なのか、ただ感心する様子でそれ以上何かを感じている様子は見せなかった。彼女はすぐにそのことに対して興味を無くしたようで、また別の話を始めた。
「それで、お前はこれからどうするんだ?」
問う真澄に、ソルエは既に出た門の向こうにある大聖堂を見つめて、そしてその視線を、最早彼女の進入を遮るように左右に続く分厚く長い壁を見つめた。
「私はずっと描いてみたい絵があったの。それを描きたい。私の全ての始まりの為に。神様との約束を守る事に繋がると信じているから」
「全てが上手くいった訳ではありません。彼女はまずこの壁面に絵を描く許可を神官から得なければなりませんでした。一画家として。認められるまでに相当な苦労があったと聞きます。神官の中で彼女の画力認めていたのはほんの一握り。後はそれまでただの巫女のお遊び程度にしか思っていなかったのですから」
そう言って、ガイドは壁を見上げ、目を細める。
「それでも、彼女はこの絵を描き上げるまでこの国を離れませんでした。彼女にとっての始まりの絵にしたかったのでしょう。しかし、まず教会を出た彼女には生きる術がありませんでした。しかも、それまで優しかった人間も掌を返したかのように、彼女に対して冷たくなり、一人の身寄りの無い娘としか見られなくなってしまいました。それでも彼女はその街で働き、路地で絵を売って食い繋いでいました」
ガイドの話に耳を傾けていて観光客は、まるで我が事のように顔を顰める。
「そうして、ある時、教会から一つの提案が巫女にもたらされました。教会の壁に絵を描くことを許可する。但し神の巫女としての役割を拒否しただけの実力を見せてみろ。もし見合わないものが作り上げられた時には、すぐさま塗り潰し、国を出て二度と戻る事を認めない。と。教会にとっても、国の人々にとっても、神の姿を奪った巫女がこの国にいる事自体、目に付き、煩わしい存在で、不可能であると分かっていて、巫女に提案したのです。その時の巫女は、壁面を塗るだけの画材も何も持ち合わせていなかったのですから」
「そこまでしなくても」と観光客から声が上がる。
「巫女は諦めませんでした。彼女は許可をされてから着々と図面を描き、絵の具を集めました。実際に壁に描き始めるまで二年を要して。そして、彼女の姿を見て、彼女を手伝い始めた人間が現れ始めました。以前彼女を慕っていた子どもたちです。彼らはそれから八年の年月要して、この壁面に、巫女の描きたかった世界を作り出しました」
それは見るものにとって彼女が何を伝えたかったのは一目瞭然だった。
この国の民の先祖が、沼地だったこの地に渡ってきて、神と出会った事。沼地が緑の土地に変わり、国を作り上げた事。神は器を持ち、民は神と共にこの地で生きてきた事。
それらが教会を囲む壁全てを一周する事で全てを絵で語られていた。
「これが巫女が作りたかった世界。彼女はこの壁に歴史を吹き込みました。教会も、民も、もう何も言う事は出来ませんでした。巫女の名は、生まれたこの街の名を姓にした、――――ソルエ・イルシーヴァ」
それまで巫女の名を知らなかった観光客は、既知しているその名に、驚きの声を上げた。
「後の彼女に対する評価はご存知の通りです。彼女は、壁画を描いた後、この国を出て、幾つもの国で数々の絵画を残し、それはどの国でも高い評価を受け、飾られています。彼女の絵の評価は様々ですが、誰もが口にするのは、『目の前に広がる世界が、彼女の手で新しい世界に生まれ変わる』という事です」
ガイドはもう一度壁画を見上げ、こう締めた。
「私たちはこの絵を見る度に、この国と今もこの国を護り続けてくださる神を思い出します。昔この国で姿を持って存在していたと言う神は、彼女の手で描かれる事によって、どれ程の大きな存在であり、この国にとってかけがえの無い存在である事を諭されます。だからこそ、今も、祈りを捧げ続けるのです」
目の前に広がる、巫女が作り上げた世界を見上げながら、やがて誰ともなく瞼を閉じ、両手を組むと、彼女の世界で生き、そして未だこの国を護る神に祈りを捧げた。
一人の少女は、壁に寄りかかり、祈りを捧げる彼らをじっと見つめていた。
袖なしのシャツに太ももまで曝け出した短いパンツを履き、可愛らしい顔立ちをしていなければ一瞬少年と間違えてしまいそうな少女は、壁から肩を放すと壁面を見上げる。
神の宿った巫女と、それに仕える巫女。そして彼女に手を差し伸べる、丁度、今そこにいる少女と同じ要望をした少女が描かれている。
それを見つめ、笑みを浮かべると、青い空、そして、天にも届くように伸びる教会のオブジェを見上げ。
少女の姿は空へ溶けた。