時空の守者-第一章- 運命と希望3

ソルエは小さな一室にいた。
四方の壁を白くペンキで塗り立てられた簡素な部屋。
そこには清潔なベッドと小さなタンスを配置されており、床には無数の紙が散らばっていた。
それは全て彼女が描いた物。それらが無造作に広がっており、足の踏み場はおろか寝る場所さえも与えないように床、果てはベッドの上も占領する。
ソルエは室内に入ると、溜息一つ吐き、そして肩に掛けていた画材の入った鞄を床に下ろす。
本日描いた物を鞄から取り出すと、暫しそれを見つめ、床に散らばる紙の上へ放った。
宙を舞う紙がひらひらと蝶のようにゆっくりと床に落ちていくのをぼんやりと眺める。
紙が床に辿り着いたのを確かめると、ソルエは思い立ったように鞄をまた漁り始め、そして真澄から貰った果物を取り出す。
彼女はそれを見つめ、静止すると、やがてゆっくりと口に含んだ。
歯を立てたところからしゃくりと音が鳴る。
彼女は味を確かめるようにゆっくりと咀嚼すると飲み込んだ。
そしてまた、大きな溜息を一つ吐く。
顔を上げ、紙が散乱しり自室を一望した。
彼女がそうやって過ごしていると、部屋のドアが軽くノックされる。「はい」と小さく応えると、一人の女性がドアを開けた。
年齢は二十代後半くらいだろうか、全身を白のローブ――神官の装束を纏い判断できるのは顔だけなので実際の年齢はもう少し若いのかもしれない女性が中に入ってきた。
「ソルエ様。何処へ行ってらっしゃったんですか。随分お探ししたんですよ」
「御免なさい」
心配そうに声を震わせ話しかけてくる女性にソルエは笑顔で謝罪する。
そんな彼女の行動はいつもの事なのか、女性は諦めを含んだ大きな溜息を吐く。
「ソルエ様。二日後には大祭を控えていらっしゃるんですよ。――また絵をお描きに行かれたんですか。せめて何処へ行くか位は仰って下さい。ソルエ様に絵の才能がある事は素晴らしいと思います。けれど毎回忽然と姿を消されて、探すこちらの事も少しは考えてくださいませ。大事なお体なんですから」
何処で息継ぎをしているのか分らない程滑らかに、独り言のように語り続けた女性はやっとそこで一つ息を吐く。
「―――それで今度はどんな絵をお描きになられたのですか?」
ソルエは返事をする事はせず、目の前の床を指し示す。
女性は手渡されるのではなく、床の上を示されただけだった事に少し躊躇するが、そのまま床に視線を移し、屈み込むと、二、三枚の紙を手にする。
「まぁ。今度の絵も素敵ですね。この形といい。これは何処の建物かしら?ソルエ様、今度は何処に飾りましょうかね?」
振り返る女性に、ソルエはにっこり笑みを浮かべる。
「いいえ。何処にも飾りません。そんな拙い絵、誰かに差し上げる事も、飾ることも出来ません。ただの私の趣味だけのものです。このままにしておいてください」
「けれどソルエ様の絵はとても素敵で、教会でも新しい絵が飾られる度に訪問者に喜ばれます」
「お願いです。このまま、ここに……」
「そこまで望まれますのなら……」
女性は残念そうに立ち上がる。
「ソルエ様。明日は申し訳ありませんが本当にご自重下さいね。大祭に備えて衣装の最終打ち合わせと、式の内容の確認が御座います。それと大祭前日の禊もありますので」
「はい」
ソルエは女性の言葉に静かに頷く。
「いつも申し上げておりますが、ソルエ様お一人の身体ではないのですから。もっとご自身の大切さをご理解下さいませ」
「――――はい」
ソルエは重々しく頷くと、女性に笑みを見せた。
女性は彼女の様子に頬を緩めると、「それではお食事の用意は整いましたら、またお伺い致します」と告げて部屋を去った。
パタン。とドアが閉じられると、ソルエは壁に背を持たれ掛けさせ、そのままずるずると床に座り込む。それと同時に肺から自然と長い溜息が零れた。
足元に触れる紙に、彼女は苦笑すると、それを蹴り上げる。
ばらばらと舞い上がった紙が、ゆっくりと今度は下降してくる。彼女はそれを見つめると、ふと、腰を浮かし、座りなおすと、床に広がる紙を一枚一枚拾い上げていく。
ふっと、ソルエは笑みを零す。
先程の会話。
それはいつもの会話。
いつも通り儀礼だけの言葉。
彼女は気付いていないだろう。
己が手にしたその紙が、六日も前に描かれた絵だという事を。
毎日のようにこの部屋を訪れるのに。
ここに広がる物は彼女にとってはそれだけの価値しか無いという事だ。
彼女が見つめるものは、『ソルエ様』であって、『ソルエ』では無い。
私はその為にここにいる。そう思い、ソルエは顔を上げた。
ふと、違和感を感じて、頬に触れる。
指先に浸透する、冷たい水。瞳から溢れ、頬を伝い、流れていた。
ソルエは自分の身体の変化に驚愕する。
暫し、呆然とし、そして彼女は突然立ち上がると、鞄に入れていた画材を手にして、真っ白い紙を広げる。
絵の具を取り出して、様々な色を混ぜ合わせ、白い四角のその空間に色を入れる。
一心不乱に塗り続けた。
塗って塗って塗り続けて。
空の色はどんな色?
風の動きはどんな筆の流れ?
空に飛ぶ魚。
大地に根付く雲。
影を落とし、己の存在を誇示する大樹。
描いて描いて描き続けて。
ぱたりと静止する。
そして、目の前に広がる自分の世界を見つめた。
一気に燃え上がった炎が瞬時に沈下したかのように。

ソルエは冷静に思った。
国の外から来たと言う少女は。
この絵をどう思ってくれるだろうか。

『お前の世界って綺麗だな』

耳に響く言葉が無性に心を締め付け。
頬を伝う涙を今度は止めようとはしなかった。
願う事。
生きる事。
彼女が本来願う事も生きる事も、全てそれは真っ直ぐな一本の道のように決まっていて、その果てにあるものも知っている。
だから迷いは無いのだ。
涙が零れるのは――。
気が付いたら、彼女は立ち上がっていた。
頬を伝うそれを拭うと、四角い窓の向こうの空を見上げる。
空は茜色に染まり、この国を優しい色で、柔らかに包み込む。
建物の影が、沈む太陽に照らされて伸びていく。
窓に駆け寄り、塔の上階にあるこの部屋から眺めると、人々が一日の仕事を終えて家に帰るのだろう誰もが足早に道を通り過ぎる姿が目に映った。
窓を離れると、彼女は足早にドアに向かう。その取手に手を掛けたところで、開けようとしたドアが、勝手に開いた。
彼女は驚いて、ドアの取手を凝視するが、顔を上げると、ああ、と納得する。
そこに立つのは先ほどソルエを諌めた女性。
恐らく夕餉の誘いに来たのだ。
先程まで胸中の大半を占めていた焦燥感が、一気に諦めに変わる。
彼女の目的はこれで果たせなくなってしまった。
「ソルエ様。ユイラ様がお呼びです」
「え?」
てっきり食事の誘いだと思っていた彼女の想像を裏切り、出た内容に、ソルエは思わず聞き返してしまう。
「お食事をと思ったのですけど、その前にユイラ様がソルエ様をお呼びしろと」
ソルエは暫し沈黙すると、女性を見上げ、「分かりました」と応える。
彼女はそのまま部屋を出ると、先導する女性の後を付いていく。
彼女自身、今いた塔自体の構造はまだしも、神殿に繋がる通路を抜けるとそこからは未だ道の場所が多くある。建物の大きさと相まって、部屋数と通路の多さに、迂闊に歩き回ると生まれた時からここで暮らすソルエさえも迷子になってしまう。
ここはこの国で唯一の教会だった。
もう何百年と朽ち果てる事無くあり続けた祭壇のある大きな神殿と、それに付随する塔が幾つもそびえ立ち、それらの建物の周囲は厚い壁で囲まれていた。
ソルエが普段行き来する場所は、神官職に当たる者だけが入れ、一般の人間は聖域となるこの場所に入る事は出来無い。
彼女たちは外界とは極力大きな関わりを持たず、閉鎖的とも言えるこの教会で祈りを捧げて毎日を過ごしていた。
ソルエは促されるがまま大聖堂のその奥の聖堂、まさに神域へ向かっていた。
大聖堂の祭壇を昇ったところに更に豪奢な扉があり、二人の神官がその扉を守るように左右に立っている。
彼らはソルエの姿を確認すると、深く頭を下げ、扉を開き、道を譲った。
奥に見えるのは大聖堂よりも、更に内装も窓枠にはめ込まれたステンドグラスも大聖堂より一回り小さい祭壇も、細かなところまで豪奢に細工が凝らされたもう一つの聖堂。
そこは神職の者でも官位関係無く神に選ばれ限られた者にしか入る事を赦されない。
ソルエの前を歩く女性もこの先へは進むことは出来ない。彼女は他の二人の神官と同様に扉の横に立つと、道を譲り、深く頭を下げた。
神に選ばれた者の中でも唯一の存在である巫女のソルエに。
彼女はその扉を潜り中に入る。
夕刻である事を示す紅の光が、天井を飾る無数のステンドグラスから差込み、白い床を紅に染める。
大聖堂よりは一回り小さいとはいえ、凡そ五百人程度は優に入る事が出来る巨大な聖堂のその最奥には神を象徴する天を貫くのではと思わせる程大きなオブジェが掲げられており、その下の祭壇に小さな椅子が置かれていた。
数段分の高い段差を作る事で祭壇となっているその床の上の椅子には一人の少女が鎮座していた。
白磁のように白い肌、そして光の反射で淡い水色に見える装束を纏い、色素の薄い金色の髪が床に着く程長く延びている。
ソルエよりも若いだろう、幼さの残る少女は、ソルエが聖堂に入るのが目に入ると、ゆっくりと顔を上げた。
硝子玉のように透明な翡翠色の瞳、人形と見紛う整った容貌。
しかし本来賞賛であるはずの『人形のような』という言葉を使うのが逆に憚れる程、その少女は無機質的だった。
何も映さない焦点の合わない瞳。動作はまるで誰かに糸で操られている操り人形のように緩慢としていて、無駄が無い。
ソルエはそのまま彼女の傍に行き、椅子の前で両膝を突くと少女を見上げる。
「お呼びですか。ユイラ様」
彼女の問う言葉に、ゆらりと少女――ユイラの首が揺れる。
ユイラはそのまま己を見上げるソルエの瞳を覗き込むと、暫し静止する。そして細い身体を支える椅子からゆらりと身体が動いたかと思うと同時に、ユイラはゆらりとソルエの前に、彼女と同じ様に膝を突いた。ソルエの頬に触れ、彼女に少し上を向かせて、上から瞳を覗き込む。
ステンドグラスから差し込む夕日がユイラの金色の髪に赤く映え、まるで金色の草原を思わせるようだと思いながらソルエは透き通る瞳を見つめ返す。
「――そなたの瞳には何が映る」
ソルエは小さな薄紅色の唇から問われる言葉の意味が分からず、沈黙し、ユイラを見つめたまま微動しなかった。
「何か得体の知れぬ存在の匂いがする。そなたは何を望んだ」
「ユイラ様の巫女である事を」
ソルエはそれだけを答える。
そのまま暫しユイラはソルエを見つめ続けたが、彼女はやがてソルエの頬から手を離すと、椅子に座り直した。
「そなたの先にかげりが見える。後二日もすれば祝豊祭だ。穢れを祓い、身を清めよ。その日の為にそなたは今まで生きてきたのだからな」
「はい」
そう答えて顔を上げるソルエの瞳をユイラはもう一度見た。まるで瞳のその奥にある微かな揺らぎさえも見抜こうとするかのように。
「私は、そなたたちの為に、今、ここにいるのだから」
ソルエは恭しく頭を下げると、立ち上がり、踵を返した。
ユイラと言葉を交わす。その胸の内に棘のようにちくりと掠めるほどに刺す痛みは無かった様に意識を逸らした。
そう、彼女の行く道は既にあり。
彼女はその道を真っ直ぐ進む。
ソルエは何故か、もう一度ユイラを振り返る事が出来無かった。


町の中心とも言える大きな路。そこには衣食住の雑貨は勿論、書店等、様々が通りに面して並んでいる。
簡易テントや屋台が大きな道幅を所狭しと引き詰める。食材や、焼き物、煮物の露天が並び、店の主人が一人でも多く自分の店に客を呼び込もうと躍起になって大きな声を張り上げる。昼食を兼ねて休憩を取る人たちはぶらぶらと歩いては、昼食と夕食の食材を検分する。
真澄はそんな人だかりの中をぶらぶらと豆菓子を手に歩いていた。
ふと、歩いている途中、小さな路地が気になり、何気無しに振り返ると、何かがその路地の間を横切っていくのが見えた。
「ソルエ?」
真澄が首を傾げると、今度は白い服を纏った男たちがばらばらと通り過ぎた。ソルエに遅れて路地を横切っていく。
白い服はローブのようになっており、走る男たちの足に絡まる度にバタバタと音を重い音を立てていた。その姿は万国共通なのかどの宗教でも何故かいつも一様に似ている神官姿。
真澄は暫し考え込むと、笑みを浮かべる。
彼女の捉えた姿は間違い無くソルエだった。

ソルエはただ夢中で走り、後を追う神官を撒いて逃げ切ることに夢中だった。
狭い路地をくねくねと曲がっては、彼らを撒こうとするのだが、彼女にとって勝手知る土地は、神官にとっても同様だ。幾ら逃げようとも彼らはついてきた。未だ追い付けずにいるのは、ソルエの方が幼い頃から裏道を熟知していたから。神官は神官職に就いてからは外に出る機会もぐっと減り、小路まで通常歩かないからだった。
それでも彼女が逃げ切るにも限界がある。路地を走れば走る程、他の場所で待ち伏せしていた神官が増えてくるし、大人数を相手に立ち回るには酷く体力を要する。
息切れもし始め、流石にもう捕まるしかないのかと諦めがソルエの心をざわめかせる。
「よぅ。ソルエ」
彼女は最早諦めるしかないと覚悟を決めたところで、横から声が掛かった。
振り返ると、すぐ横を真澄が彼女に並んで走っていた。
「!」
驚きに声を上げようとするが、既に酸素の循環だけで精一杯になっている肺は声を上げさせてくれなかった。
「なぁ。追われてるのか?」
今のこの状況を見て、何を今更問うのか、真澄はのほほんと背後に目を遣りながら、問いかける。
しかし、声も出ないのに、答える事も出来ないソルエは走りながら首を縦に懸命に振る。
「じゃあ、撒けばいいのか」
どう見ても逃げているだろう。と言いたいのに言い出せないソルエは酸素が頭まで回らなくなり始め、くらくらする頭をまた必死になって縦に振った。
途端。
腰に手首が回ってきて、捕らえられたかと思った次の瞬間には、空に浮かび上がっていた。
「!?」
真澄に抱えられて自分は屋根に上ったのだと気付くには数秒を要した。
彼女はソルエを小脇に抱えたまま、地面を蹴り上げると、高く跳躍し、壁に一度足を掛け、更に跳躍すると、四、五メートルはある建物の屋根をあっさりと上りきった。
ソルエは抱えられたまま唖然としていると、ひょいひょいと今度は建物の屋根を軽々と渡っていく。下を見下ろすと、突然の出来事にソルエと同じ反応を示し唖然とする者や、慌てて後を追う神官たちの姿が見えた。しかし彼らの努力も空しく、遮る壁があるのと無い状態では、圧倒的に無い状態の方が有利で、彼らはあっという間に彼女たちの視界から消えた。
真澄は二人の後を追う気配が消えたのを確認すると、再び地上まで飛び降り、小脇に抱えたままのソルエを下ろした。
「もう大丈夫そうだな」
何一つ表情を変えないで言う真澄をソルエはただまじまじと見上げる。
「……初めて会った時も驚いたけど、凄いのね」
「体力だけは馬鹿みたいにあってな」
「既に人並み以上って言うか……」
「バケモノとか言うなよ。出来るんだから仕方が無いだろ。結果としてあいつら撒けたんだし」
笑って言う真澄に、ソルエは思い出したように、「あ」と声を上げると、そのまま俯き、何か覚悟を決めたように再び顔を上げる。
今の追い駆けっこを見て、彼女が何も気付かないはずがない。
だったら問われるより先に、助けてくれた彼女には自分から伝えるのが誠意だと思ったからだ。
「あのね。昨日、私、祭りには行かないって言ったけど、私が巫女だから、私が主催みたいなものだから行かないって言ったの」
「知ってる」
あっさりと言う真澄の台詞にソルエは唖然とするが、やがて笑みに変える。
「そっか」
「だってこの街歩いてれば嫌でも知るだろ。お前が言わなかったから別にオレも聞かなかっただけだ。態々聞く必要も無いだろ。『あんた巫女か?』って」
「そういうものかな?」
「別にソルエって言うお前に会ってるんだから、それでいいじゃねーか。『あんた医者か?』って聞いてから世間話する奴もいねーだろ」
「……言われてみれば変かも」
少し考え込んで、ソルエはポツリと呟く。
態々その人の職種について確認をするのは、通常、怪しい風貌で身元を明らかにしておきたいか、その職種の技能や知識について聞きたいからだろう。職種を聞いてからいきなり昨日の夕飯の話を始めるのは酷く滑稽だった。
話の流れから相手の事を知っていく事もあるだろうけど、改めて確認するような事でも無い。
会って話をするのは、職種等その人の背景関係無く、その人自身と話をしたいから。そう言われている様で、ソルエは口元を綻ばせた。
「だから真澄に会いたかったんだろうな」
「はぁ?」
彼女にとっては何気無い一言なのだろう。ソルエの言葉の意味が理解できない様子で、片方の眉を上げて聞き返す。
「本当はね、今日は明日の大祭の為に教会で大人しくしてなければならなかったんだけど、抜け出してきちゃった。それが見つかって、さっき追い駆けられてたの」
「ほー。そりゃ大胆な」
「大祭の前の日に穢れに触れたり、ましてや罪を犯すなんて前代未聞なの。だからね、共犯者として、私の罪を一緒に被って下さいな」
「それで自分の罪を軽くするってか」
「私の理屈で言えば、そう。マスミの理屈で言えば変わらないけど」
ソルエは真澄の手を取り、路地から広場へ出る路へと促す。
「ただ、自分のそのままの気持ちを言えば、もう少し遊びたいだけだったんだ」
彼女が笑って言う様子に、真澄もつられて笑う。
「しゃーねーな」
引かれた手に促されるまま、歩き始め、二人は広場に出た。

「ソルエ様、こんにちは」
「こんにちは」
ソルエは自身に掛けられる声に一つ一つ丁寧に答えていく。
彼女が歩く度に、誰もが彼女を注目し、誰もが彼女に笑みを浮かべる。
そこには尊敬と畏敬の念を持って声を掛け、誰もが親しみを持って彼女の名を呼ぶ。
「ソルエ様、このパイ新作なんです。明日の大祭に出そうと思うんですが如何ですか?」
一口サイズに切り分けられたパイを差し出す娘に、ソルエは微笑むと皿の上のパイを一つ取り、口に入れる。
隣で見ていた真澄にも娘はパイを差し出し、美味しそうに食べるソルエに習って、一つ手に取り、口に放り込む。
口の中に広がる味に、真澄は「へぇ」と声を上げ、隣を見ると、ソルエは満足そうに娘に感想を告げる。
「うん。美味しい。きっと皆も喜んでくれるよ!」
娘は嬉しそうに笑った。
広場では様々な食材が色とりどりに並べられ歩く者たちを魅了する。鼻腔を擽りふらふらと吸い込まれそうになる。
赤と白を織り交ぜた端正な細工の織物。鳥の形に加工された銀細工。
目に引く物に、ソルエは反応を見せては、手に取る。そんな彼女に、皆誰もが彼女を知っているんだろう、声を掛けては笑い合う。
そして、彼女が立ち止まると、彼女の姿を確認した人間誰もが確実に彼女に集まり、人の環が出来る。
「ソルエ様も大祭の日の腕相撲大会に参加しませんか?」
「私、力は無いからすぐ負けるよ」
「ソルエ様、儀式の日、お姿拝見するのを楽しみにしていますよ」
「有難う。緊張して固まっていたら、笑わせてね」
立ち止まる度に出来る人だかり。歩く度に掛けられる声。老若男女問わず、誰もが気さくに声を掛けては、ソルエは笑って答えた。
広場を数分も歩いていると、彼女の手には、貰った物が彼女の手の中に納まらず、零れ落ちそうな程集まり、真澄は横でそのおこぼれに預かっていた。
「もてもてだなぁ」
「皆良い人たちばかりだから」
ソルエは真澄の感想に笑って答える。
「私が巫女だからかもしれない。誰もが私に優しくしてくれるの」
「いや。好きだからだろ」
真澄がソルエがそう思う事が理会出来無いとでも言うように、彼女の想像をあっさりと否定する。ソルエは彼女の言葉に目を見開いて、そして頬を少し紅く染める。
「そうかな。好きでいてくれるかな」
「だって、お前は声を掛けてくれたあいつら好きだろ」
「うん。好き」
「だったら、お前の事好きだよ。第一崇めている人間が傍にいる時、そいつに対して崇敬の念以外抱かない時は常に緊張しているか、異質なものを見る目で見るか、そもそも最初から恐れ多くて近付かないか、どれかだろう。祭の中心てことは、かなりお前有名人だろ?なのに、誰一人臆することもせず話しかけてくる。お前の事が好きだからだろ」
この国で巫女という立場は、唯一人の中で崇められる最高の存在であるはずなのに、『有名人』といいのける真澄に、外の世界の広さと、国での存在の重要性の差に、ソルエは真澄が多少気を遣って話してくれた事は分かっていても、笑ってしまった。
「――うん。私の事、少しでも好きでいてくれてるんだよね」
少し頬を紅潮させて、しっかりと自分の中に染み込ませる様にソルエは呟く。そうして暫しの間、互いに無言で歩いていると、一見の店の前を通り過ぎる。
ショーケースに飾られているのは一枚の絵。
一人の少女が微笑みを湛え、座っている。それだけだ。その柔らかな頬の稜線と、目元の細やかさに、幾重にも塗り重ねられた瞼の質感に、少女が見つめる先の人物を見る者に想像させる。
父親だろうか。母親だろうか。
彼女が全てを預け、心赦す人物が想像される。そしてこの少女を描いた作者が彼女を大切に思っている事がよく分かる。
その証拠に、絵の中の少女は今にも動き出し、語り出しそうな程筆使いが繊細で、きっと明るく、やや活発な性格なのだろう、と絵の中の彼女が持つ感情までが表現されている。
ソルエはただ見惚れていた。
飾られる一枚の絵。そしてショーケースの隣にあるドアノブに手を掛けると、その向こうにはもっと沢山の絵が彼女を待っている。
―――――。
ソルエは声になりそうな言葉を飲み込み、ただ目の前の絵に見入る。
「好きなのか?」
「うん」
心は常に絵に魅かれながら、真澄の問いに返答する。
「可愛い女の子だな」
「うん」
「何か生きているみたいで気持ち悪くねぇ?」
「うん」
「なのに好きなのか」
「うん」
「きっとこの女が目の前にいたら、お転婆そうだなぁ」
「うん。――凄いよね」
真澄の持つ感想は、ソルエにとって賞賛でしかないらしい。その感覚の違いに、真澄は首を傾げるが、目の前でうっとりと絵を見上げるソルエに彼女は笑ってしまう。彼女がどれ程絵が好きなのか、彼女自身意図としていなくても、その行動と表情から分かってしまうからだ。
何となく、それ以上声を掛けるのは、集中している彼女に悪いような気がして、真澄は通りを歩く人に目を向ける。そうすると、左右に流れていく人の間から、一人の子どもが、真っ直ぐこちらに向かって走ってくるのが目に留まった。
子どもは、真澄たちの前まで来ても、走る事を止めず、勢いのまま、ソルエの腕にしがみ付いた。