1
少女は背後にある壁に寄りかかり、そして空を見上げる。
初夏の陽気を感じさせる高い空。
彼女の視界に映るのは、その空まで届くのではと思わせる程高く伸びる塔の頂点。
塔を形成する琥珀色の壁と青く塗り染められた屋根。その屋根の上にはこの建物の象徴である、円や十字を重ね合わせた不思議なデザインを造形したオブジェがそびえそびえ立っていた。
それは人々が信仰する神への祈りの象徴。
建物は教会だった。
塔の天辺から視線を下ろし、彼女自身が寄りかかる壁面に目を移す。
左右横一線に延びる壁面を視線で追うと、教会の入口である門の部分だけがぽっかり口を開け、またその向こうには壁が果てしなく続いていた。
格子で出来た門はその奥にある祭壇へと人々を誘う。
祈りを捧げに来た者。
思いつめた顔をする者。
友人と共に観光に訪れた者。
様々な人間がその中に入って行き、出て行く。
そして、行き交う者は皆、門を抜けた後、一度立ち止まり、感嘆の息を零していく。その光景に少女は一人笑みを零した。
2
神々が定めし運命の環。
我々はここに今 神の祝福の元 生を与えられている
天空の彼方から 降り注ぐ太陽の光
緑深き豊饒の大地
ああ 今この生命ある事に感謝を
ああ 幸福を与えてくれる神に祈りを
大聖堂に響く賛美歌。意匠をこらされた高い天井まで、厳かな空気と共に余韻が反響していた。
祭壇の上で歌うのは一人の少女。
彼女の周囲を白いローブを纏う人間が囲む。その様子から彼らが神官であり、神事を行われている事が分かる。階級によって色や紋様が変わるのであろうローブの上から肩に掛けられる帯には豪奢な細工が施されていた。
少女はその聖堂に集まる人間の中で一人異なる衣装を纏っていた。
周囲の者と同じ白いローブにふんだんに使われた金糸が、彼女の仕草で生地が波打つ度に光を反射し、少女が元々持つ厳かな空気を一層際立てる。
大聖堂の天井に細工されたステンドグラスから差し込む柔らかな光が彼女を包み込み、整った容貌に持ち合わせた黄金色の髪がきらきらと輝く。
彼女は一人高らかに、透き通るような歌声を響かせていた。
少女が歌を歌い終え、祭壇の横の扉から消えるまで姿を見守る神官たちは、崇高なものに向ける眼差しを湛え、見守り続けた。
彼女の姿が完全に消えると、厳かな空気も霧散し、周囲から一斉に溜息が零れる。
「ソルエ様は変わらずの歌声でしたな」
「ああ。まさに神に選ばれし御方」
神官の一人が、既に少女が隠れてしまった扉に目を向け、未だ反響し、鼓膜に余韻を残す歌声に感嘆の息を漏らす。
それに同意するように、やや老齢の神官は頷いた。
「本当に既に神が光臨されているようだ」
「あの方の歌声を聞くだけで、あの方にお会いするだけで、神の御傍に近づけたような、畏怖と畏敬の念が自然と心に生まれる」
二人の神官の会話を聞いていた別の神官は感極まっている様子で目を閉じた。
「ところで」と、老齢の年齢は話を切り返す。
「ソルエ様は今年で幾つになられましたでしょうか?」
「今年で十五です」
答えた神官の言葉に、彼らの間から、そして彼らの話を何気無く聞いていた周囲から一斉に溜息が零れる。
「もう十五になられるか」
老齢の神官は呟くと、先程までの喜びの表情から打って変わって悲壮感を表に浮かべ、もう一度少女が消えた扉に目をやり、その奥にいる少女を思った。
海に浮かぶ月。
空に跳ねる魚。
花の降る丘。
それはとても抽象的で、それでいて、鮮やかな色彩が想像される。
青と蒼と碧。
紅と緋と赤。
この世界に同じものなんて一つも無く、同じ色なんて一つも無く、パレットの上で作り出す色は、二度と同じ色を作り出す事は出来ない。
目の前にある色はどんな色?目を閉じて浮かぶ色はどんな色?
少女は目の前にある掌サイズの真っ白な紙に、彼女の瞳の奥に映る景色を描いてゆく。
横に置かれた絵の具は、彼女が左手に持つパレットの上に既に少しずつ色を乗せられ、様々な色と混ざり合い、本来持つ純色も失っている。
彼女はただ無心に、楽しそうに、右手に持つ筆を滑らせ、紙に思い描く風景を模写してゆく。
彼女がいるそこは路地の一角。通路の両側を人が暮らす石作りの家に挟まれ、正面をその向こうにある道路に面して作られた壁に囲まれている。
見える風景は、壁、壁、壁。天を仰ぎ見ると建物同士を繋ぐように幾重にもロープが張られ、洗濯物が揺れている。それを超えて僅かに見える青空。
炭鉱を主とし、大きくなったこの町の空は、金属を精製する過程で、工場から煙が排出される。空に無尽蔵に吐き出される煙は、青い空をやや灰色に変色させていた。
少女は冷たい石畳の道の上に直に座り込み、手に持つ小さな紙と、既に底尽きかけている絵の具とそして筆を手段に無心で絵を描いていた。
周囲の雑音も聞こえない程、集中して描き続けていた彼女はふと筆を置く。
彼女はきょろきょろと辺りを見回すと、持っていた筆を、絵の具と共に横に置いていた鞄の中に戻した。
「もう絵を描かないのか?」
突然声を掛けられ、少女はびくりと肩を振るわせた。
咄嗟に持っていた紙を胸元に隠し、少女は声がする方へ恐る恐る振り返った。
彼女の背後にあった壁は男性の背丈よりやや高いくらいで、その向こうに続く指導と分け隔てる為に作られた壁だ。
その壁の上から上半身を乗り出し、片手にパンを持ち、そのパンに噛り付きながらこちらをのんびりと見つめる少女がいた。
年の頃は十五、六だろう。無造作に切った髪を後頭部の高い位置で一つに括っており、肌の色は白く、まだ幼さを残す愛らしい顔立ちに添えられた大きな瞳がくるりと興味津々に彼女を覗き込んでいた。
壁の上から前身だけを乗り上げていた少女は、そのまま壁を登ると、跨いでこちら側へと飛び降り、楽々と着地する。
動きやすい格好を嗜好するのだろうか、袖無しのシャツに、太ももまで曝け出した短いパンツ、可愛らしいその顔立ちが無ければ少年と間違えそうな程簡素な格好を彼女はしていた。
「オレは真澄。あんたは?」
真澄と名乗る少女はにっこりと笑みを浮かべ、紙を胸に抱えたままの少女に問いかける。
「……私が今ここでやってた事見た?」
問いには答えず、少女は警戒した眼差しで真澄を見上げた。
その少女の様子に真澄は肩を竦めると、「見た」と答える。
「あんたがオレの気配に気付くそのずっと前、あんたがここで絵を書き始めてからずっと見てた」
「なっ……いるならどうして声を掛けてくれないの?」
何事でも無いようにあっさりと言い放つ真澄の台詞に、少女は激高する。
この場所に来た時は誰もいなかったはずだ。それは確認した。
そして絵の具を取り出して、描いている途中で、壁の向こうに何か気配があるのを感じて、筆を止めた。
絵を書いている間、夢中になって周りの物も音も自分に入ってこないことは自覚している。けれど。
「気配は感じなかった。絶対に気付かれないように、気配だけは常に察せるように敏感になっていたはずなのに!」
「そりゃお前、生きているものの気配だろ。それじゃオレには気付かねぇよ。存在感を感じなきゃ」
「?」
「……まぁいいや。邪魔するつもりは無かったんだけど。向こう側から誰か来る気配を感じたからな。その前に教えてやろうと思ってさ」
真澄の言っている内容が掴みきれず、眉間に皺を寄せる少女に、「ホレ」と彼女は、三方向を壁に囲まれ、唯一の通り道である少女の背後の路地を指で指すと、その向こうから人のシルエットがこちらに向かって歩いてきていた。
少女はその姿を確認すると、慌てて地面に置いてあった画材を拾い上げ、真っ直ぐな一本道しかないのを分かっていながら右往左往と、これから向かってくる人間と顔を合わせたくないのか必死で逃げられる場所を探す。
その姿は傍から見ると滑稽の以外の何ものでもなく、真澄はきょとんとすると彼女の行動を静観した。
少女はおろおろと、その場をぐるぐると無意味に回っていたが、はた、と止まると、真澄を見上げ、そして彼女が降りてきた壁を見上げる。
「……」
真澄はまさかと思いながら、彼女の次の行動を見守っていたが、――彼女は予想通り壁をよじ登ろうとし始めた。
壁の周りに足場と言える物は何も無い。
よって彼女はぴょんぴょんと飛び跳ね、彼女の頭二つ分以上の高さはある壁の天辺に手を引っ掛けてよじ登ろうと、手を伸ばす。しかし彼女の左手には画材と紙。右手だけを空けて頻りに伸ばすが、届いたところで登れはしまい。
真澄は小さく溜息を吐くと、壁を面にして隣に立ち、ひょいと壁の天辺の僅かな足場に登る。登ったところで屈み込むと、少女に手を差し出す。
「ほれ」
少女は暫し唖然としたが、迫り来る足音にびくりと身を震わすと、迷わず差し出された手を握り締めた。
小柄であるはずのその少女の何処にそんな力があるのか、真澄は彼女をそのまま軽々と引っ張り上げると、自分の隣に座らせた。
「……」
少女は今度こそ絶句した。
「いいのか?逃げるんだろ?」
それも彼女にとっては気に留めない事なのか、真澄は壁の向こうにある道へ降りないのかと指し示す。
「あ……」
少女は我を取り戻し、彼女を見上げると、自分が先程までいた路地の壁向こうにあった道へと飛び降り、駆け出す。
そして一度振り返ると、まだ壁の上に座ったままの真澄に声を掛けた。
「私はソルエ!ありがとう!」
それだけを言うと、また前に向かって駆け出すソルエの姿を真澄は見つめていた。
さっきまでソルエが怯えていた、今まさに迫り来る人物を、彼女は肩越しに見遣ると、シルエットだった人物は男だった。彼は三方を壁に囲まれた行き止まりに辿り着くと、空を仰ぎ、そして壁に登ったままの少女に申し訳無さそうに声を掛ける。
「すみません。道に迷ったようなんですけど……」
尋ねられた少女は彼を見下ろし、消えていった少女の道筋を見て、そしてまた彼を見下ろすと、笑った。
「道ってそんなもの。迷ったら戻って違う道を行けばいいんだよ」
返ってきた彼女の台詞に、男は困惑するように少女を見つめ続ける。
「もしくは自分で新しく作ればいいんだ」
彼女の目は、既に姿を消した少女の辿った道筋を見つめていた。
3
天候はやや曇り。
風の流れと、山間の向こうから顔を覗かせる灰色の雲の様子から、もう何時間も待たずしてこの場所が雨になる事が予測される。
「……お前、ここが好きなのか?」
「……貴女こそ、どうしてまたここに来たの?」
三方を壁に囲まれた、路地の行き止まり。人がくる事はまず無い。路地の左右にそびえ立つ建物の住人でも来るかどうか怪しい場所で、ソルエと真澄は再会した。
一方は画材道具を両手一杯に。一方は果物の入った紙袋を片手に。
「オレは……」
先に口を開いたのは真澄だった。彼女はこの間ソルエが駆け抜けていった壁の向こう側を指で示す。
ソルエは一瞬首を傾げるが、その後に、大人数が走る音と、怒声が響く。
「あのガキ何処行った!?」
「ったく逃げ足の早ぇ!」
「人が他の客に付いている間、何食わぬ顔して、ひょいひょい持っていきやがって!」
「捕まえたらただじゃおかねぇ!」
男たちの声が壁の向こうで響くと、彼らはまた走り始め、やがて声は聞こえなくなった。
ソルエは呆然として真澄を見上げる。そして彼女が抱えたままの果物一杯入った紙袋を見つめた。
「な」
真澄は悪びれた様子無く、その一言で、ここまでの経緯を片付けると、袋に入っていた果物をソルエに放り投げる。彼女は反射的にそれを受け取ると、再度真澄を見上げた。
「これ……盗んできたものじゃない!」
「受け取ったから、お前も共犯な」
「なっ、何言ってるの!」
ソルエは慌てて返そうと抱えていた白い紙を地面に置くと、立ち上がる。
「だってなぁ。籠一杯に果物が乗ってて、『袋詰め放題』って書かれてたからなぁ。しかもその時店のオヤジもいねーし。いかにもそのまま持って帰って下さいって言ってるようなもんだろ」
「駄目です!違います!皆そうやって売って、手に入れたお金で生活してるのよ!」
「真面目だなー」
「……もしかして昨日食べてたパンも?」
「おー。ご明察ー」
「どっ……どうしてっ!……って……」
真澄に自分の行っている事の非を認めさせようと叱り付けるが、当の本人は微塵も気にした様子無く、彼女の言葉に暢気に返すだけの繰り返しに、ソルエは空しさを覚え、それ以上続ける事はしなかった。
「お前いい奴だな」
そんな彼女が肩を落とす様子に、やはり少しも罪悪感は生まれないのか、真澄はのんびり笑うと、手に取った果物に齧り付いた。
ソルエはその姿に脱力する。一つ溜息を吐くと諦めたようにその場に座り込み、手に持ったままの果物をじっと見つめる。
リアの木で取れる赤い実で、食べると甘くてしゃくしゃくと歯ごたえのある果物。
一般家庭では菓子代わりとしてよく食されているものだった。
ソルエはじっとその実を見つめたまま、沈黙すると、覚悟を決めたように実に噛り付いた。
隣で真澄が「お」と声を上げ、自分を見つめている事に気がつくと、ソルエはふっと視線を逸らし、呟く。
「これで私も同罪。一つの罪を二人で割るんだから、きっと貴女の罪も軽くなるはず」
「一つだろうが、二つだろうが、罪は罪だと思うけどなぁ。重さなんて無いし」
折角罪を庇おうとしたソルエの気持ちを無下にするように、真澄はあっさりと彼女の呟きに言葉を返す。
「じゃあこれはただ貴女に貰った物。私はそれを何処でどう手に入れたか知らなかった。だから私は罪を一緒に被らない」
「いや。オレが盗んだ事を知って、貰った自分は悪い事をしていると自覚した時点で、それを罪だと思ったら罪だと思うぞ」
「じゃあ私は何て言えばいいの!?」
ソルエの気持ちを少しも汲み取ろうとしない真澄に、皮肉を言ってもまた返され、優しさも皮肉も受け入れられない苛立たしさに声を上げる。
それでもやはり真澄は気にした様子無く当然のように言い放った。
「オレは罪だと思っていない。それをお前にあげた。だからお前にも罪は無い」
その言葉に、ソルエは唖然とする。
「罪なんて本人が罪悪感を感じた時点で罪なんだよ。罪だとも思わなければそれはどんなことも罪にはならない」
盗みも。殺人も。暴言も。
本人がそれを悪いと思わなければ、罪だと言う意識が無ければ、罪にはなりえない。
あまりにも身勝手で、それでいて誰もが目を逸らしている事を言われ、ソルエは固まってしまった。
「そんなにオレ変な事言ったか?」
ソルエは目を見開き、尚も固まり続ける。
「……分かった。オレが悪かった。次からはしません」
今にも泣き出しそうな程顔を歪めるソルエに、真澄は溜息を吐くと、両手を上げた。
先程まで罪を罪と思わなければそれは罪ではないと豪語した人間があっさりと掌を返し、謝罪する姿に、ソルエは呆けたまま彼女を見上げた。
「……どうして?」
「盗みとかは何とも思わないけど、女泣かすのは嫌だからな」
女性を泣かすくらいなら、是としていた事を非とするのも簡単らしい。
「紳士みたい」
「そ。当たり前だろ。女を泣かすなって。まぁ、時と場合にもよるけどな。腹立つ奴は容赦なく泣かす」
笑みを浮かべるソルエに、真澄も笑う。
「なぁっ。どんな絵を描いてるんだ?」
ずっと興味があったのだろう、先程からちらりと視線を感じていたソルエが無意識に胸に抱え込んでいた白い紙を真澄は覗き込む。
「そんな、人に見せられるようなものなんか書いていないよ」
ソルエは恥ずかしそうに、おずおずと抱き締めていた紙を差し出す。
描かれているのは、黄金の鳥、碧い海、そこに鮮やかに咲く紅い花。
見て最初に引き込まれるのは彩色だった。
海に生えるはずの無い花。いるはずの無い風貌の鳥。
黄金色などあるはずの無い羽。
そんな事よりも、それを抽象する色が何色もの同系色を重ねて染色され、一固体を作り上げる。
見た事のある場所、動物が、まるで生まれ変わったかのように、見たことの無い世界となって目の前に広がっていた。
真澄は思わず感嘆の息を漏らす。
「凄いなぁ。お前。どうしたらこんな風に描けるんだ?」
「そんな事全然無い」
「でもずっとここで描いてるんだろ?ここって路地と四角の空しか見えないのに、どうしてこんな物が描けるんだ?」
真澄は絵の中の世界を、目の前の空間感から探し出そうと、空を見上げ、首を回す。
「半分は想像。半分は普段見ているもの。空とか、花とか。それに想像するものを加えていく。でも、目の前に広がる彩には全然敵わない」
「でもお前の見えてる世界だろ。お前の世界って綺麗だな」
「私の世界?」
「そう。だってオレなんて絵は描けないけど、色だけ選んでいいって言われたら、きっとその絵の具の色そのまま。それもきっと暗い色ばかり選らぶ。お前の見える世界はきっと凄く幸せな世界なんだろうな。見てたら分かる」
真澄が目の前の絵から目を離さず、夢中で見ている隣で、ソルエは暫し沈黙し、苦笑した。
「マスミの世界もきっと色んな色使ってる」
そう言ってソルエは地面に置いていた絵の具の一つを取り出す。
「この黒の絵の具。これは黒でしかないけど、使っている素材や色を作る生成方法によってまた色は変わるのよ。空気に触れさせると変色したり、保存する容器によって劣化したり、毒素を含んでて危険な物もあったりするけど、どれも黒は黒でも素晴らしい誰も見たことの無い黒だったりする。だから絵の具の素材自体は同じで同じ色だとしても全く同じ色って存在しないのよ。きっと貴女の世界も単色じゃない。それに貴女みたいな人が単色な筈無いもん」
「……どういう意味だよ」
じっとソルエの言葉に耳を傾けていた真澄は、彼女の最後の言葉にむっとして聞き返す。
するとソルエはぺろっと小さな舌を出した。それがおかしくて二人はやがて笑みを浮かべ、笑い出す。
「お前、絵を描くのが好きなんだなぁ」
呟いた真澄の言葉に、ソルエは笑顔を強張らせる。そして彼女を見て、暫し何か迷うような表情を見せると、やがてほんのりと頬を染めて呟いた。
「好き」
か細く、それていて、その言葉の奥にはしっかりと熱が篭っている。
何故その言葉一つ言う事にそんなに覚悟が必要なのか分からない真澄は首を傾げ、彼女の変化を見守っていた。
「うん。絵を描くの大好き」
今度はしっかりとはっきりと声に出すと、自分自身を納得させるように言う。
そんな彼女を不思議そうに覗う視線に気が付いて、ソルエは真澄を見ると笑う。
「マスミってこの国の人じゃないよね」
「そうだな」
答える真澄に、ソルエはまた笑う。
「何で笑うんだ?」
「うん?だって外の人間じゃなきゃあり得ないもの」
「何が?」
「私とこうして、ここで話をする事」
会話を続けるうちに、意味が分からないと、段々眉を顰める真澄に、ソルエは悟ったように笑い、それ以上は続けない。
彼女はまた笑みを止め、憂いの表情を見せると、決意をしたようにばっと顔を上げ、真澄ににじり寄る。
「ねぇ」
「何だよ」
「私の絵ってどう思う?」
「は?」
彼女のくるくる変わる表情の変化と、突然の問いに真澄は付いていけず、思わず間抜けな声を上げてしまった。
真剣な瞳でまっすぐ自分を見据えるソルエに彼女は溜息を一つ吐く。
「綺麗だと思うよ」
しかしその答えはソルエにとって望んでいた回答ではなかったらしく、首を横に振る。
「違うの。マスミは違う国から来たよね。私の絵はその国でも綺麗だと言って貰えるかな」
ああ。と真澄は納得する。
彼女は個人の評価が欲しいのではないのだ。
「オレに国なんて無いんだけど。でも色んな絵を見てきた。それなりには。オレは絵に興味は無いけど。けど。凄いなと思う。綺麗って言うか、それよりもお前の世界に引き込まれる。実際には存在しているものばかりなのに、実際のそれとはどれも違う。けど凄く懐かしくなって、心が温かくなる」
ソルエは真澄の言葉に真剣に耳を傾ける。
「綺麗だと思っても、上手いなと思っても、鏡映しで凄くつまらなく感じる絵もあるけど、お前のは見てて幸せになれる。皆って言われたら分かんねーけど。オレは好きだな。お前の絵」
他の知らない誰かが描いた絵と比較して、その上で彼女は評価されたいのだ。
真澄はそう感じて答えた。それが彼女にとって満足のいく評価だったかどうかは分からないが、彼女は真澄が言った言葉を反芻するように、頷く動作を見せると、ぶつぶつと呟いていた。
「本当に絵を描く事が好きなんだな」
自身の想像の世界に入っているのか、考え込み、何処と無く指を動かすソルエに、真澄は笑う。すると、彼女は顔を上げ、こちらを見た。
「好きで描く。描いて満足するだけなら誰にでも出来るけど、誰かに評価されて、手を加えて、どんどん上手くなっていきたいって思ってるんだろ。好きなものをもっと上手くなろうとするのは、本当に好きなんだなと思う」
「私の周りには本当に評価してくれる人がいないから」
「どうして?」
その問いに、ソルエは曖昧に笑う事で誤魔化す。真澄はそれ以上聞くことは無かった。
彼女は画材を片付け始めると、持参してきた鞄に詰め込む。
それは一瞬見たらただのお金や飲み物を入れるくらいの小さな小型の肩掛け鞄のようにしか見えない。
真澄は彼女が片付けている姿を黙って見つめていた。
「ねぇ。マスミはいつまでここにいるの?」
片付けが終わり、鞄を肩に掛けると、ソルエは振り返る。
その表情には寂しさが浮かんでいた。
真澄は少し考え込むと、返事を返す。
「んー。二日後にこの町で祭があるだろう。何とか祭ってやつ。何十年に一度しかやらないらしいな。折角だからそれを見てからまたどっか行こうかなと思ってる」
ソルエは一瞬びくりと肩を震わせるが、真澄が瞬きをする次の瞬間には彼女は笑みを湛えていた。
「そっか。祝豊祭だね。この土地の神様をお祝いするお祭り」
「へぇ」
「この土地はね、元々水気の多い場所で、あちこちが沼地だったの。私たちのご先祖様は昔、ここからずっと北にある土地で暮らしていたんだけど、地震や戦争で土地を追われてね、僅かに逃げてきた人たちがここに辿り着いたんだけど、右も左も沼地、とても住める所じゃない。でも引き返す事は出来なかったし、その先に住める土地と水があるとは限らない。長い旅で食料も尽きてきていて、もうこのままこの土地で野垂れ死にしてしまうのかと思った時に、私たちの祖先を哀れんだこの土地を治める神様が現れたの。この地で暮らすことを望むのなら与えよう、と。神様が手を翳すと、沼地は消えて、湖に変わり、生えていた苔や藻は草や木に変わった。それから私たちはここで暮らせるようにしてくれた神様に感謝をして毎年お祭りをするようになったのだけど、更に数十年に一度、大祭を開くようになったの。それが祝豊祭」
「よくある信仰の基本だな」
真澄は、神そのものの存在を信じると言うより、宗教としてそういう習慣がある事に納得した様子で、頷くと、ソルエは「でも」と呟く。
「この土地の神様は本当にいらっしゃる」
「見た事あるのか?」
あまりに真剣な言葉に真澄は思わず聞き返す。ソルエは是も否とも答えず、にこりと笑う。
「神殿の奥にいらっしゃって、神様に選ばれた巫女がお世話をしていらっしゃると言うお話。御神託があって、それはこの国の些細な出来事から大きなことまでお教えくださる。私たちはそれで事前に嵐が来る事、他国の兵士が交戦国に向かう進行途中この国を行過ぎる事も知る事が出来た。私たちは神様がいないと生きていけない」
「本当にいるのかぁ。見てみたいな」
ソルエは顔を上げ、真澄を見ると、口を開き一瞬声を出す事を躊躇するが、やがて言葉を紡いだ。
「三日後にある祝豊祭で見られるよ。何十年かに一度開かれるその大祭は神様を拝顔できる唯一の日。それを見逃せば次は何時見られるか分からないから」
「へぇ」
興味津々で自分の話を聞き入る真澄の姿を見つめながら、ソルエは小さく息を落とした。
「お前も見に行くのか?」
掛けられた問いにソルエは驚いて、真澄を見たが、小さく首を振る。
「私は行かない」
「そっか。残念だな」
その言葉にソルエはずきりと胸に痛みを感じ、彼女はばっと顔を上げ、もう一度口を開くが、その後は言葉にならず、諦めたように笑った。