車窓の向こう 見える景色1

僕は気が付いたら列車に乗っていた。
必要最低限の物をリュックに詰めて、手元にあったなけなしの全財産を財布に入れて、丁度駅に着いた時、止まっていた列車に飛び乗った。
何処へ行くのか分からない。
目的なんか無い。
何処でも良かったんだ。
だから僕の旅は僕が旅を止める理由ができた時に終わる。

Chapter.1

今は何処を走っているのだろう。
そう思って数秒考え、僕は考える事を止めた。
まあ。いいや。
何処を走っていても同じだし。
外の景色は既に建物ばかりの街並みから畑ばかりが広がる風景に変わっていた。
日も暮れようとしていて、太陽が赤々と大地を染めている、ネオンも街灯の明かりも少ないこの辺りでは日が暮れるのが極端に早い。既に北の方角には星が見え始めていた。
「何処まで行くんですか?」
ぼんやりと外を見ていた僕に声が掛かる。
声を掛けられた方を見上げると、対面する席に女性が座っていた。
穏やかな印象を与える顔立ち。薬指には指輪がはまっている。
彼女は微笑みを湛えながら僕を見ていた。
「何処でしょう?決めてません」
素直な気持ちを述べると、彼女は少し驚いたように瞳を大きく開き、そしてまたゆったりとした穏やかな笑みを浮かべた。
「当ての無い旅ですか。でも切符はどうするんですか。車掌さんに確認されるでしょう?」
「適当に買いました。一番安い切符を。何処に行くか決まってないから、だったら後で乗り越し金払えばいいでしょう?」
彼女はきょとんとし、それから声を立てて笑った。
「そうですね。それが一番良い方法ですよね」
「貴女は何処まで?」
すると彼女は、途端に表情を暗くする。
聞いてはいけない事だったんだろうか。
僕の思案を余所に、彼女は顔を上げると、窓の外にある、既に日の落ちた風景を見ながら答えた。
「私も決めてません。何処か遠くへ行けたらなと思って」
そう言って彼女は視線を落とすと、自身の左薬指にはまっている指輪を撫でた。
彼女は指を見つめ、その指にはまる小さな環を撫で続ける。僕は暫くその姿を見ていたが、やがて飽きて、また、窓の外に視線を戻した。
「私、これでも小さい頃の夢はお嫁さんになることだったんですよ」
会話は既に終わってしまっていたと思えるくらい長い沈黙の後、独り言のように彼女は呟いた。
「指輪しているって事は、夢は叶ったんですか?」
「ええ。来月結婚式を挙げるんです」
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
彼女は笑みを浮かべると、すぐにその表情が曇ってしまった。
「男の人は結婚に憧れるなんてないんでしょうか?」
「僕は何とも。考えた事無いです。そんな相手もいないし」
そう答えると彼女は顔を上げ、僕を見る。
「良い家庭を作りたい、良い夫になりたい。なんて思わないでしょうか?」
「『良い』って何が『良い』か分かりませんけど。そうですね。もし結婚するなら、相手を幸せにしてあげたいですね。二人でご飯食べて、二人で他愛も無い話をして、二人で幸せになれる家庭を作りたいと思いますね。こんなの願望でしかなくて、実際は人生の墓場って言われるくらいなんだからそんな事無理なのかなとも思えますけど」
今まで結婚についてまともに考えた事無い上に、僕は男だからこれは男の僕なりの夢で、きっと女性なら女性の持つ夢があるんだろうなと思う。そう考えると自分の語る内容は男のロマンを語っているようで、卑猥な事とか下ネタを言っている訳ではないのに妙に居た堪れない気持ちになるのは何故だろう。
真面目に夢を語った自分が恥ずかしくなった。
頬の熱が上昇していくのが自分でも分かる。きっと顔は真っ赤だろう。
そんな僕の心の葛藤を気付く訳もなく彼女は僕の話を聞くと嬉しそうに笑った。
「貴方のお嫁さんになる人は幸せですね」
「その前に結婚相手を見つけなきゃならないですが」
僕は苦笑してみせる。
「私、お嫁さんになりたかったんです。将来の夢は?って聞かれたら本当にお嫁さんって答えるくらいに。だから美味しい料理を作れるように料理を一杯勉強して、いつでも家を自慢できるように綺麗に掃除できる方法やインテリアコーディネートの腕を磨いて、いつも綺麗なものを着て欲しいから洗濯だってアイロンがけの技だって覚えて、最近は料理も掃除も洗濯もできないって人が多いけど、私はそんな事無く、旦那様を幸せにしてあげられる素敵なお嫁さんになろうって努力したんですよ。馬鹿みたいでしょ?」
「え。そんな事ないです。僕なんて料理なんてロクに出来ないし、掃除だって年何回するか・・」
「旦那様が家に帰ってきたら、ご飯が出来ていて、お仕事お疲れ様って労って、ほっと一息つけるそんな家庭を作りたいんです」
暖かい家。
仕事で体も心もくたくたになって、それでも家に帰れば、優しい奥さんが温かいご飯を用意して、熱いお風呂を準備して待ってくれている。
「素敵な夢ですね」
僕の感想に彼女は少女のようにあどけなく、嬉しそうに笑みを浮かべて、そして表情を曇らせた。
「でも、それは夢でしかないんです」
「?」
彼女の言葉の真意が掴めなく、僕は首を傾げる。
「暖かい家庭。美味しい料理に綺麗な家。理想はあるし努力もしたけれど、じゃあ、旦那様はどんな人?」
彼女はまるで自問するように呟いた。
「誤解しないで下さい。彼は優しい人なんです。私の夢を聞いてくれて、私を大切にしてくれて、そんな家庭を一緒に作っていこうって言ってくれました。でも言われたんです」
思わず、彼女が相手に選んだ男が、彼女の夢を叶える事の出来ない人間だったのか?と心配し、眉間に皺を寄せる僕に、彼女は苦笑する。
「『僕は君と一緒に家庭を作りたいと願っている。君は僕と一緒に作りたいと願っているのかい?』って」
途端、彼女の瞳からぽろぽろと涙が零れ始めた。
「私、そう言われて分からなくなってしまったんです。私、お嫁さんになりたかったんです。優しい家庭を作りたいって。旦那様の為に、部屋はきれいにして、ピシッとアイロンをかけたシャツを着てもらって、いつでもゆったり浸かれるように熱いお風呂を沸かしておいて、『ありがとう。ほっと一息つける』ってそんな風に言ってもらえるお嫁さんを目指していたんです。その相手は誰なんて考えた事無かった。彼の問いに答えられなかったんです」
「―――――」
「そして、考えたら、私、自分の理想の為に頑張ってて、旦那様になる相手の事なんてちっとも考えてなかった。そうしたら、今まで自分がしてきた事全てが空っぽだった気がしたんです」
窓の向こうに流れる風景は闇に染まり、車内の照明が窓ガラスに反射して彼女の表情を映し出す。
僕は、ただ俯き、涙を零す彼女を見つめていた。
夢はお嫁さん。お嫁さんは相手がいなきゃなれない。
彼女は伏せていた瞳を上げ、笑う。
「そうなんですよね。貴方のお話を聞いて、そうなんだって思ったんです。『相手を幸せにしたい』って気持ち。言われて初めて気付いたんです」
その表情は晴れやかで、想いの濁流を流しきったようにすっきりしていた。
「彼に相応しいのは私じゃないです、『彼を幸せにしたい』と思って結婚する相手が彼にはきっといるんですから。『お嫁さんになりたい』から結婚する私じゃ駄目なんです」
車内のアナウンスが次の停車駅を告げる。
彼女はアナウンスを聞くと、立ち上がった。
「このまま列車に乗って何処か遠くへ行って、空っぽな自分を埋める何かを探そうと思っていたんですけど、一度戻ります。戻って、まず始めに彼と話をしなきゃいけない。ごめんなさい。一人で話し続けてしまって。でも、聞いてくれてありがとう」
「あの」
背を見せる彼女に僕は声をかける。
「その旦那様になる人は、『僕は君と一緒に家庭を作りたい』って言ったんですよね。『君と一緒に』って」
彼女はこちらを振り返り、僕を見つめる。
「それは貴方を。理想を持っていて、それに対して努力する貴方だから、一緒に家庭を作ろうって言ったんじゃないですか?そんな貴方を幸せにしたいと思ったんじゃないんですか?」
僕の言葉に彼女は驚いたように目を見開き、暫しその場に立ち尽くす。
列車が駅に到着するとブレーキをかける振動でガタリと車内が大きく揺れる。
彼女は呆然と僕を見つめていたが、出発のアナウンスが流れると、彼女ははっと外を見て、そして、僕をもう一度振り返り、小さく呟いた。
「ありがとう」