噂9

日に日に尋ねる足取りは軽くなる。
それに対し尋ねる家の空気は重くなっていく。まるで自分が尋ねるのを拒否されているような気がするのは気のせいだろうか。
毎日尋ねる総司を出迎える里乃や良順は会ってまず眉間に皺を寄せる。しかしそれはすぐに平素の表情に変わり、自分が何事かと問う前に有耶無耶になってしまい、聞けず仕舞いだった。
総司はいつもと同じ様に南部邸の玄関戸口を叩き、「お邪魔しまーす」と声を掛けると中に入る。
今日はセイのお馬四日目。屯所に帰る日である。
セイが傍にいないで過ごす屯所は何処か寂しく何をするにもつまらない。
きっとそれはセイが色んな所で、知らず知らず様々な物事に関わってしまい、総司も自然とそれに巻き込まれ、心休まる日が無いからだろう。
そう思いながらも、彼の口の端が自然と上がる。
総司は屋敷内に入ると、良順が顔を出す。彼は一瞬眉間に皺を寄せると、やはりすぐに表情をいつもの飄々と表情に戻し、ぽんと彼の肩を軽く叩く。
「お前も一丁前に好きな女子が出来たんだってな」
「はっ!?」
突然思ってもみなかった事を言われ、素っ頓狂な声を上げる総司を気にせず、良順は続ける。
「まぁ、それに関しては何も言うつもりは無いが。人の好みは其々だしな」
「なっ…何の話ですかっ!?」
総司が顔を真っ赤にしてうろたえていると、良順はにやにやと笑みを浮かべる。
「お前にも女が出来たんだろ。屯所で噂になってたぜ」
「えっ!?…ああ、その事ですか」
「なんでぇ、もっと動揺してもいいだろうに」
耳まで真っ赤になっていた総司が急に冷めて冷静に答える様子に、そんな彼の反応が不満だったらしく、良順は詰らなさそうに口を尖らす。
「その事はもういいんです。神谷さんは何処ですか?今日は葛きりを食べに行くって約束したんです」
あっさりと良順のからかいをかわすと、うきうきと今にも走り出しそうな程身を乗り出して総司は家の中を見渡す。
彼に恋人が出来たとしても、セイに接する態度は一切変わらない様子に喜んでいいのか、嘆いていいのか。
自分の尊敬する人の娘には幸せになって欲しいと願うが、こればっかりはどうしようもない。
だからと言って明確な理由を言わずに、セイに会うなとも良順が言えるはずもなく。
恐らく総司が犬であったら、千切れそうなほど激しく尻尾を振っているであろうと思わせるほどはしゃいでいる様に良順は呆れて溜息を吐くと、「二階だよ」と階上を示す。
「ありがとうございます」
早口でそれだけを告げると、総司は履物を脱ぎ捨て勢いよく階段を登っていった。
彼の後姿を見送りながら、良順はぽりぽりと頭を掻いた。

「ほな、おセイちゃん、気ぃつけてな」
セイを見送る際に、里乃は何度も何度も確認する。
体調は良いのか。痛みはもう引いたか。不快な事は無いか。
彼女がセイを心配するからこその言葉に、受けるセイも何度も何度もきちんと答えた。
「沖田せんせ。宜しゅうお願いします」
「はい。分かってます。無理はさせませんから」
「もう大丈夫ですから!」
「あんな事言うてますけど、本に宜しゅうお願いします」
セイが心配しすぎる二人に頬を膨らますが、総司と里乃は互いに見合わせ、そして笑うと、その場で深く頭を下げた。
家の前で見送る里乃の姿が段々と小さくなって見えなくなると、総司はそこで初めて「はーっ」と長い息を吐いた。
「本当に神谷さん大事にされていますよねぇ」
「何ですか急に」
「だって今回、私、神谷さんに無理させちゃったでしょう?それを恨まれている様で、松本先生もお里さんも私に対して怒っているのが分かるんですもん」
その視線からやっと解放されたと、ほっと胸を撫で下ろす総司。
本当はきっとそれだけじゃないんです。
セイの気持ちを知っていて、理解してくれている二人だからきっとそれだけじゃない感情も交ざっているのだろう。
けれど、それをセイが総司に伝える事は出来ない。
「申し訳ありません」
短く謝る事が精一杯だった。
「そうですね。次はちゃんと言ってくださいよ。無茶もしない。本当に私今回の捕り物で無茶しただけでも驚いたのに、その上お馬の体で無茶したって聞いて、心臓が止まるかと思ったんですから」
「……」
「返事は?」
「…はい。無茶……しないよう出来る限りの努力は致します!」
べっと小さく舌を出すと、セイは総司から逃げるように走り出す。
「神谷さん!」
笑って逃げるセイには本気で心配した総司の気持ちを汲み取って反省するという素振りはなく、誤魔化してしまおうとするセイに総司は声を張り上げる。
そんな彼の様子にセイは更に声を立てて笑いながら、先に到着した茶屋で葛きりを注文する。
彼女の行動に溜息を吐きながら、総司は足早に彼女の元に向かうと、セイは彼を振り返った。
「先生は黒蜜でいいんですよね!」
「はい」
答えを返すと、セイは茶屋の娘に注文を告げ、終えると、すぐ傍にあった長椅子にちょこんと腰掛けた。
総司も漸くセイに追いつき、彼女の隣に座ると、口を開く。
「神や--」
「はい。お待たせしました」
声を掛けようとした矢先、目の前に葛きりが用意された。
「ご心配かけたお詫びに奢りますから許してください」
セイは葛きりを用意してくれた娘から椀を受け取ると、その内の一つを差し出す。
総司は眉間に皺を寄せ、納得いかない様子で受け取るが、
「好きなだけお代わりして下さって構いませんから」
という言葉に、彼の表情は一転して笑顔に変わる。
「仕方ありませんねぇ。今日だけですよ」
「はい」
セイが笑顔で答えると、総司もにっこり微笑んで食べ始めた。
次々に空になっていく椀を見て、最初は掃除の隣で美味しそうに食べていたセイも徐々に呆れ顔になり始めていた。
「先生。また十杯いくんですか?」
「勿論です!神谷さんの奢りなら心置きなくいけます!」
意気揚々と次の注文をしながら、総司はまるで饂飩の様に葛きりを一気に啜る。
「好きなだけ食べてくださいと言いましたけど、私の方が禄は少ないんですよ。手加減して下さい…」
「心配を掛けた罰です!」
そうやって彼らが何気無い会話を交わしながら、葛きりを食べていたところに、横から声が掛かった。
「総司様?」
突如掛けられた若い娘の声に、驚き、二人が顔を上げると、そこには年の頃なら十六、七位の女子が立っていた。
にっこりと愛らしい微笑を浮かべ、萌黄の重ねの着物が彼女の可愛らしい容姿を際立たせる。
「あれ…」
総司が声を上げると同時に、セイの肩がびくりと震えた。
目の前の少女を一目見て悟ってしまった。
この人が総司の恋人だ。
いつか出会う事があるだろうとは思って、覚悟はしていたけれど、それでも動悸が激しくなる。
突然全身がと思えるほど激しく脈打つ体と、高鳴る心臓、言い知れぬ悪寒が体中を巡り--そしてそれを抑えた。
そんなセイの変化に気付く事の無い総司は何気無い会話を少女と交わす。
「どうしたんですか?こんなところで」
「私だって甘いものが好きですもの。来てはいけませんか?」
江戸の生まれなのだろうか、京訛りの無い会話を聞きながら、セイは顔を上げた。
「沖田先生。私、先に屯所に戻りますね」
「え?」
「駄目ですよ、沖田先生。女性を立たせたまま自分は座って話をするなんて」
そう言って、セイを見て驚く総司に笑いかけると、立ったままこちらを見る少女に笑いかけ、席を立つと、自分がいた場所に座るように促す。
そうして懐から金子を取り出すと、それを総司の手に握り締めさせる。
「これだけあれば先生が満足いただけるまで食べられると思いますから。ゆっくりしていってください」
「かみ---」
「可愛らしい方ですね。沖田先生の恋人でいらっしゃるんでしょう?どうぞゆっくりしていってください。葛切りも先生に奢ってもらってくださいね。今日は先生非番なのでのんびりできるんですよ」
必死で声を掛けようとする総司の声を遮り、笑って少女に声を掛ける。
その間もどうにか割って話をしようとする総司の姿が目の端に移っていたが、セイは見ないふりをした。
少女はセイにそう告げられると、頬を染め、恥ずかしそうにそのまま俯いた。
可愛いな。
セイは素直にそう思った。
「沖田先生野暮天だから、苦労すると思いますけど、優しい方だから大事にしてくれますよ。ごゆっくり」
二人を視界に入れ、もう一度笑いかけると、セイはその場を離れた。
その足取りは軽い--。
総司には決して本心を見せぬように。