空は茜色に染まり、烏が東山の方へ鳴きながら飛んでいく。
人は慌しく店じまいを始め、足早に家路につく。
良順に与えられた二階の部屋の窓からセイは時間と共に移り行く景色をぼんやりと見送っていた。
下の階からは里乃が夕餉を作っているのだろう、炊き立てのご飯と煮物の香りがほんのりと流れてくる。
穏やかに流れる時間がセイの中で暖かな灯火となり、心を癒してくれる。
じんわりと己を包む暖かさに、セイは泣きそうになった。
階段を登る足音が聞こえてくる。
彼女は顔を上げて、慌てて頬を濡らす涙を拭うと、何事も無かったかのようにまた窓の外を眺める。
コンコン。と襖を叩く音がすると、そのまま開かれ、里乃が盆に鍋を載せて入ってきた。恐らく中はセイの腹に入りやすいように粥だろう。
「加減はどう?」
「うん。もう痛みも無くなった。ありがとう。ごめんねお里さん。迷惑掛けちゃって」
「ええよ。おセイちゃんと私の仲なんやから。気遣い無用よ」
笑う里乃に、セイもつられて笑う。
彼女の心遣いが今のセイには嬉しかった。
「お粥作ってきたけれど、食べられそう?」
「うん。お腹空いちゃった」
セイは母親に甘える子どものように、里乃の傍に寄ると、彼女が鍋から茶碗にお粥をよそうのをじっと見守る。
里乃の動作一つ一つに見惚れるように、手の仕草一つ一つに惹かれるように、ただじっと彼女の動作を見つめる。
「いややねおセイちゃん。そんなに見とったら照れるわ」
「……お里さんって綺麗だよね。私が男の人だったら絶対お嫁さんにしてるもん」
「それは光栄やこと」
里乃派笑って、粥をよそった茶碗をセイに差し出す。
「男の人って、女の人のこういった独特の空気に惹かれるのかな」
「よう分からへんけど」
「なんかね。もう、傍にいるだけで癒されるの。お里さん見てるだけで心が温かくなるっていうか…」
粥を口に入れ、セイは呟く。
「…私、男だったら良かったのにな…」
里乃がセイの呟いた言葉に顔を上げ、彼女の表情を覗うと、セイは切なげに顔を歪めていた。頬には涙のすじが残っている。
いつもはどんな事でも相談してくれるセイが、今回に限って余りにも頑に語らないから里乃は見ないふりをしてきた。
お馬がいつもより酷くなった事と関係しているのは確かなのに。
体に不調をきたすほどセイは憔悴している。けれど彼女は意識的にその原因に蓋をし、更にその奥にある痛みにも蓋をしているように思えるのだ。
それだけ繊細な事を彼女は苦しんでいる。
それに良順も気付いているだろうが触れていない。
総司に恋人ができたと言う噂が流れている。恐らくはその事でまたこの子は傷ついているのだろうが、これまでにも幾度かあった噂にその度に悲しみはすれども、ここまで落ち込んだ事はなかった。他人が関わるのを拒否する程に。
もう暫くは触れないままでいようと思っていたけれど、これ以上ただ黙って見守っている事は里乃には出来なかった。
「沖田せんせと何かあったの?」
「…」
里乃の問いにセイは答えない。
「沖田せんせに本当に好きな人が出来て、それでもまだ傍にいたいん?」
「---うん」
その答えだけは明朗。
里乃の問い掛けから良順から話を聞いたのだろうとセイは気付いたのだろう。けれど彼女は泣かない。
「沖田せんせ野暮やから、おセイちゃんの気持ちに気付かないと、毎日来はる。そのうちおセイちゃんの前で好いた女子の話もしはるかもしれへんよ。それでもええの?」
「--」
セイは沈黙する。
里乃は女だからセイが苦しむ事としたら予測がつく。そんな事で又傷つく彼女は見たくない。だからこそ、今、セイが一番目を背けたがっているであろう未来を問いかける。
今のうちならまだ傷は浅く済むから。
「構わない。私は武士だから。尊敬している上司が幸せになってくれるんだよ。そんな嬉しい事ないじゃない。……男なら…」
晴れやかに笑って答えたセイの表情がどんどん曇っていく。
「……男なら…」
声はくぐもり、嗚咽に変わる。
「日に日に罪悪感が増していくの」
とうとう耐えられなくなった感情に押し流され、セイの瞳からぽろぽろと涙が零れ始めた。
「沖田先生は傍にいてくれる。恋人がいても私に変わらず話しかけてくれる。優しくしてくれるし、甘やかしてくれるし、先生も我儘を言ったりして。これって普通の友だちとか、上下関係とか、仲間って言う感覚だよね」
そこまで行って、セイはほうっと一息吐く。
「沖田先生は私の事をちゃんと武士として扱ってくれるから、仲間として見てくれるから」
悲しみで体を震わすセイから里乃は今にも零しそうな茶碗を受け止め、床に置くと、まだ自問自答するように語るセイを見上げた。
「でも私は時々、女子として嬉しかったり、悲しかったり、どきどきするの。それが凄く辛い。沖田先生の恋人の知らない所でそんな風に先生に想いを寄せている女々しい女がいるんだって思うと、浅ましい感情を抱く女がいるんだと思うと、沖田先生にもその恋人にも罪悪感で一杯になるの。私は武士である事を望んだのに。沖田先生の傍で武士として沖田先生をお守りする事を望んでいるのに、どうして女子として沖田先生を見ているんだって。それは沖田先生に対しても自分に対しても裏切りじゃないかって。きっと沖田先生に恋人を紹介されてしまったらその恋人に気づかれてしまう。だって女子は自分の想う相手に対して向けられている他の女子の想いには敏感だから。きっと気付く。そうしたらもうこんな自分恥ずかしくて傍にいられないよ」
ぼろぼろと流れる涙は止め処なくセイの頬を濡らし、握る拳を濡らし、布団に染み込む。
里乃はただ何処までも純粋なセイが愛しくて、憐れでならなかった。
「おセイちゃん。おセイちゃんは女子なんやから。沖田せんせを好いてはる異性なんやから当たり前の気持ちやよ」
普通の女子なら仕方の無い感情だと認めるだろう。
そんな感情のままに恋人のいる男性をその恋人から奪う女子だって、恨みや嫉みで狂う女子だって、沢山いるのに。
セイには罪悪感しか無いと言うのだ。
自分を信頼している総司に。その恋人に。
そんな彼女が今この時期に、己自身に改めて自分が女子だと知らしめ、総司にも女子だと知らしめるそんな生理現象にどれ程の苦しみを感じていたか。
総司を易々と家の中に招き入れるのではなかったと里乃は後悔する。
きっとセイは何度も自分を非難し続けていたのだろう。今のように。
「……どうして私、女子なんだろう」
呟いたセイの言葉は、彼女の感情を如実に表していて、里乃の心に突き刺さった。
「そんな事言わんといて」、そう里乃は声を掛けたいのに、出来なかった。
その一言さえも言えぬほど、セイが自分を責めている様が痛々しかった。
いっそ女子として、想いを告げられたら良いのに。
そう思うが、それはセイが女子に戻ると言う選択肢を選ぶという事。
武士として総司を守る事を望むのなら恋慕の情など切り捨ててしまえばいい。
しかしそれは女子であるという今のセイを作り上げる大前提のセイ自身を否定する事。彼女は女子として総司に惚れ、武士として傍にいる事を望んだのだから。
女子としてのセイが死ぬか、武士としての清三郎が死ぬか。
セイの生き様をずっと見つめてきた里乃だからこそ、どちらかを選択するように彼女を促す事など出来なかった。
そんな事、セイ自身がとっくに気付いているだろう。
だからこそ彼女は葛藤する。
総司を責めるのは筋ではないのは分かっているが、彼が誰を好きになろうとそれに口出しする権利など無い事は分かっているが、里乃はそれでも思わずにいられない。
何故、セイを傍に置いておきながら、セイを望まないのか。
何故、これほどまでに自分を想い、苦しむ少女の心に気付かないのか。
「お里さんごめんね。心配かけちゃって。私平気だから。きっとこの気持ちだって、そのうちいい思い出になって、沖田先生の傍にいても何も気にせずにいられるようになるよ」
セイの話に耳を傾け、泣きそうになる里乃を見て、セイは明るく笑って見せた。
今だけの気持ち?
本当に?
それはセイと里乃、どちらの心に浮かんだものだったか。言葉になる前に問いは霧散し、セイはまた粥に手をつけると、美味しそうに食べ始めた。里乃はすぐに空になる茶碗におかわりを装った。