噂10

「聞いたか?沖田先生の活躍!」
「ああ。恋人と二人で行った茶屋で乱闘があったんだろ!?」
「恋人をずっと胸元に抱き寄せて守りながら戦ったらしいぜ!」
「くぅ~。沖田先生格好良いなぁ!それでいてちゃんと捕虜も捕らえたんだろ!?」
「男として惚れ直さない訳無いよなそりゃ!」
「余程大事にされているんだな。その娘」

いっそ地獄耳なんて呼ばれるこの耳なんて無ければ良かったのに。
セイは屯所の門を潜るなり聞こえてくる噂に、その場で己の耳を引き千切りたい衝動に駆られた。
噂をする彼らは、セイの姿を見るなり、ぴたりと口を開くのを止め、こそこそと逃げるように散開していく。
それが逆に彼女の癇に障るだけにしかならない。
イライラしている今の自分の顔はさぞかし醜いことだろう。
微笑みと言う仮面を貼り付ける事が精一杯。
醜い自分は何処まで醜くなれば気が済むのだろう。
自身の頭を少し冷やそうと、セイは井戸へと向かう。
「神谷君!」
廊下を抜けて階段を降りる途中、掛けられる声に振り返ると、近藤がこちらに向かって手招きしていた。
「はい!どうかしましたか?」
セイは慌てて駆け寄ると、近藤は困ったようにぽりぽりと頬を掻いて、周囲を見渡す。
「総司を見なかったかい?」
「沖田先生なら恋人と茶屋でご休憩中ですが」
「ああ!そうか!」
首を傾げながら答えるセイの回答に、近藤は顔を綻ばせる。
「なんだ。うまくいってるんじゃないか。折角の申し出を断ったと言うから慌てていたのに」
何の話をしているのか分からず、セイは眉間に皺を寄せる。
彼女の訝しむ視線を感じた近藤は苦笑すると、語り始めた。
「いや。今回の捕り物にどうしても恋人同士でとある場所へ尋ねると言う条件があってな。これを好機と思い、うちの隊士の妹御に協力をお願いしたんだ。あれは女子に対して奥手だから、これを機に意識してくれればと思ってね」
彼の語る内容にセイは目を見開いた。
「女子に手伝わせるのには危険が伴うから、本当は神谷君に女装をお願いしようとも思っていたのだが、武士に女子の格好をさせるのはやはり屈辱的な事だからさせないでくれと総司に言われてね。…ああ、もう終わった事だから気を悪くしないでくれ」
セイの気持ちを気遣うように近藤は言葉を掛けると、彼は遠目になり、きっと総司が今恋人と楽しくしているところを想像しているのだろう、嬉しそうに微笑む。
「そのままお付き合いできないかと打診があったのに、断ったと聞いて心配していたんだが…」
セイはそこから先、彼が何を話していたのか、もはや聞こえていなかった。
気が付いたら彼との会話は終わっており、彼は遠くで手を振っていた。
セイはふらふらと屯所を出ると、独りになれる場所を求め、朱雀野の森の中へ入っていく。
鬱蒼と茂る草と、高く伸びる木々。
土から張り出ている木の根に気躓いた彼女はそのままそこに倒れ込み、そして全く動かなかった。
顔から打ちつけた為、鼻がじんじんする。
倒れ込んだ際反射的に付いた手や膝が擦り切れたのと衝撃でじんじんと痛む。
すっかりなりを潜めたお馬の痛みがまた蘇ってくる気がした。
頭に浮かんでくるのは近藤の言葉。訪れた茶屋で総司が恋人と嬉しそうに語らう姿。
セイ自身、もはや何に痛みを感じているのか分からなかった。
「…ふっ……くぅ……」
ただ込み上げる涙は堰を切ったように溢れ出し、嗚咽に変わる。
今まで無理して笑顔を作っていた自分が、全て剥がれ落ちていくように。
「はぁっ……うああああっ……」
張り裂けそうな想いは何処から出しているのか分からないまま腹の底から込み上げ声に変わる。
悲鳴に近い声で、それでいて嘔吐するように似ている感覚がセイの全身を襲う。
体の機能はただ泣く事だけに集中され、痺れたように動かなかった。
泣いて、泣いて、泣き続けていた。
セイは望むのか?
女子の立場を。
望まないのに、その恋人の役割を与えられた女子が嫉ましい。
セイは望むのか?
恋人として。
彼の傍にいる事を。
想いを告げる事を望むのか。
想いを告げ、そしてどうなる。どうする。
想い続ける事は容易なのに、もし仮に想いを告げた後、その向こうにある形はセイには見えなかった。
恋人。妹。家族。嫁。師弟。同志。衆道。
どれもセイの望む形であり、それでいてどれも望まぬ形で、セイにとってどうなれば望ましいのか形容する事が出来なかった。
総司にとっての自分の立ち位置も見えず。
ただ分かるのは。
彼に何も望まず。
傍で。
ただ傍で。
彼と共にある事だけを望む。
それだけなのに。
付きまとう邪な感情は、セイに焦燥感と、悲壮感を与える。
不完全な、その感情に。
渦巻く、形容出来ぬ想いに。
セイは泣いた。
「神谷さん!」
声が枯れて潰れる程、体の水分が全て涙に変わるのではないかという程泣き続けるセイに声が掛かる。
聞きなれたその声に、セイは慌てて体を起こし、衣に付いた泥はそのまま顔を下げて、涙でぐちゃぐちゃの顔を頻りに拭い、嗚咽を殺すが、すぐには止まない。
必死の形相で彼女に駆け寄ったのは今まで泣いていた原因の総司。
彼は彼女の肩を掴むと焦りの表情で彼女を見据えた。