こんな日が来るなんて思ってもみなかった。
セイはすっかり日の昇った空を見上げ、大きく息を吸う。
訪れたばかりの春の香りが胸一杯に広がり、見上げた蒼い空を覆い隠すように芽吹き始めた新緑と薄紅色の桜が視界一杯に広がった。
胸一杯に収まった空気はゆっくりと溜息になって零れ、そして笑みが浮かぶ。
「神谷さん」
どんな時でも一番にセイの耳を入り込む愛しい人の声が聞こえ、彼女は笑顔のまま声の主を振り返った。
「沖田先生」
セイは誰よりも大切な人の名を呼ぶ。
彼女の花が咲き零れたような笑顔と柔らかな声色で呼ぶ己の名の響きに、総司は頬を染めた。
サァァァ。
春の穏やかな日差しに暖められた柔らかな風が二人の間をすり抜け、セイの背後で咲き誇る桜が揺れた。
「…やっぱり神谷さんは桜の精ですね…」
頬を染めたまま総司は呟く。
揺れる桜の花と舞い落ちる花弁がセイの髪や肩に降り、まるで彼女がその景色に溶け込むような錯覚を覚え、彼はうっとりと見入ってしまった。
「何を仰ってるんですか。沖田先生」
照れたように頬を染め、総司の呟きに擽ったそうな表情を見せるセイ。
そんな彼女の些細な表情の変化さえも全て総司を魅了した。
呆けたように自分を見つめる彼にいても経ってもいられなくなったセイはどうしたらいいのか分からず、小さな両手で顔を覆い隠した。
「そんなに見ないでくださいっ」
「あっ…ごめんなさいっ…あんまりに綺麗だったものだから…」
「っ…」
総司は慌ててそう言葉にするが、逆にそれが恥ずかしくて、セイは更に赤くなる顔を掌で覆い隠した。
とくり。とくり。
高鳴る鼓動は少しずつ大きくなる。
相手に聞こえてしまうのでは無いかと思える程に。
それが更にまた恥ずかしくて、互いに今ある距離から縮める事が出来なかった。
こんな風に己の感情を持て余すなんて思ってもみなかった。
「…ねぇ。神谷さん。顔、見せて下さい…」
自分から避けるように顔を隠すセイに寂しさを感じた総司は、彼女の背丈に合わせて少し腰を折ると、彼女を覗き見る。
顔を隠す。たったそれだけの事なのに、まるでセイから拒絶されているようで胸が痛む。
「……」
セイは高ぶった感情を抑えられないまま、熱い涙が頬を零れていくのを感じて、両手を顔から離す事が出来なかった。
そんな風に優しい声で、温かな眼差しで、己を見つめてくる総司に何と応えて良いのか分からない。
勝手に溢れてくる感情にが涙になって零れ落ちるが、きっと彼は心配してしまう。そんな事くらいで泣いちゃ駄目だ。と思う一方で、溢れて零れる感情を抑える事は出来ず、しかし、総司に何て言っていいのか分からなかった。
大きくなる鼓動だけでは収まりきらず、水が器に満ちるように、溢れる熱い感情が止め処なく彼女の全身に浸透していく。
「…神谷さん…?泣いてるんですか?」
掌から溢れ零れる雫に気付いた総司は何が原因かは分からないが、自分が泣かせてしまったのだと思うとそっと手を伸ばし、彼女の頬に触れようとして――零れる雫を救い上げる前に指先を戸惑わせた。
今の己が触れても良いのか分からなかったからだ。
彼女の零れる涙を拭いたい。一方で潜む想いがそっと溢れ出す。
セイの頬に触れたい――。
それは疚しい感情なのか。それとも素直な感情なのか。
彼女に抱いても良い感情なのか。
分からなかった総司は、彼女に触れる事が出来ず、固まってしまった。
――今まではあんなに容易く触れていたのに。
愛しい。
そう想いを交わすだけで、こんなにも愛しさが増し、溢れ出すなんて知らなかった。
己の器のなんて小さい事。
零れる涙を拭い、セイはまだ熱の持つ顔を上げると、首を傾げた。
彼女に触れようとした指も、彼の表情もまるで時が止まったかの様に静止し、こちらを見つめていたからだ。
「沖田先生…?」
「…あ…の…私は貴女に触れてもいいのでしょうか?」
戸惑いがちに問う言葉に、セイは目を丸くすると、噴出した。
「今までだってずっと触れてきたじゃないですか」
「…今までとは違うんですよ。…だって……貴女と私は恋仲になったんですよ?この間までと同じように触れられないんです…」
触れればセイの熱が指先から伝わる。
きっとそれは総司の心を振るわせる。
愛しい。愛しい。
それだけが彼の感情を満たし、何も考えられなくなってしまうに違いない。
全ての感情をセイに奪われる。
そう思ったら、それが怖かった。
「…先生…」
セイは総司の言葉に頬を染め、嬉しそうに笑うとまた涙を零す。
そして、少し目を伏せながら、戸惑いがちに両手の掌を彷徨わせると、意を決したようにまた顔を上げて微笑む。
――止まったままの彼の指をそっと両手の平で握り締めた。
とくり。
互いの鼓動が伝わる。
僅かな緊張が伝播して、指先が、掌が、じんわりと湿り気を帯びた。
彼女に添えられたままの手を指を伸ばし、総司は彼女の頬に触れる。
とくり。
一瞬の柔らかさと、ぴりりとした緊張の痺れが指先を襲う。
セイの唇から小さく息が漏れる。
そして。
何も言わず、セイは総司の大きな掌に擦り寄った。
とくん。
一際大きくなった心音に、総司は思わず反対の手で胸元を押さえる。
そして、セイを見上げると、彼女は涙を零しながら頬を紅潮させ、柔らかな微笑を浮かべていた。
とくん。
清三郎の時の凛とした表情は何処にも無い。
甘く柔らかく総司の心を捉え、魅了する表情に唇をぎゅっと噛み締めた。
「…セイ…」
ずっと心の中で唱え続けながらも、気恥ずかしくて、きっかけも掴めず、口に出すことの出来なった少女の名を声に乗せる。
「はい…」
セイは大きな瞳を見開いて、きらきらとしたその瞳に総司を映しながら、返事をした。
彼に女子としての名を心地よく耳に入り込む声に乗せて呼ばれるだけで。
愛しい人として触れられる掌からの熱に。
――セイの心は満たされる。
恋仲になってから幾日か。
互いにそれまで保っていた心と体の距離が掴み取れなくなって、戸惑っていた。
それが嬉しいようで。
それが寂しくて。
桜も咲き綻んだのを見計らって、互いに花見に行かないかと声をかけた。
お互いに同じ想いを抱えて戸惑っていた事に気付いたら、可笑しくて笑い合ってしまった。
サヤサヤ。
桜の花が風に揺れ、見詰め合う二人を包み込むように舞う。
ひらり。
二人の間を舞い降りた桜が、セイの鼻先にちょこんと乗った。
「あ…」
どちらとも無く声を上げ、そして今度は戸惑い無く総司は彼女の鼻の上に乗った桜をそっと取り除く。
「ふふっ…」
小さな薄紅色の桜が二人の緊張感を一気に解し、互いに見つめ合うと笑った。
そっと頬に触れさせたままの掌を下ろし、そして、桜の花弁が舞い上がる空を横に並んで見上げた。
手を繋いだまま――。
「…私たちにはこれくらいがいいんですねぇ」
「そうですね…」
恋仲になったからっていって、突然何かが変化する訳では無い。
重ねる想いはより確かなものになり、深まっていくけれど、劇的に変化する必要は無いのだ。
周囲の人の話を聞いて、焦っていた事に気がつく。
それで互いに距離も測れなくなって、逆に二人だけの大切な時間を減らしていた。
寂しくなって、苦しくなって。己を攻めていた。
そんな必要は無かったのだ。
自分たちは互いに同じ想いを抱いていて戸惑っていた。
その事に安心して。
けれど。私たちは違うのだ。
そう、気付いた。
今はこの満たされた柔らかな熱を互いに感じて。
そしてゆっくりと二人で時を重ね、深めていく。
それがいい――。
「ねぇ。また甘味屋を一緒に回りましょうね」
「勿論です!沖田先生!でも食べ過ぎちゃダメですよ!」
いつもと同じ会話。
それが酷く安心できて。
愛しかった。
2013.03.04