「ちょっと待ってください!納得できないんすけど!」
五郎は今しがた渡された真新しい帳簿をくしゃりと握り締めた。
渡した張本人は何がそんなに不満なのか、少しも分からない様で首を傾げる。
壊れたという話は聞いていた。
ずっと神谷を女子だと思っていたのにずっとそれを否定され、自分は衆道なのかと過去の経験もあって悩み苦しんでいた事もあった。そんな時でも目の前の人物は何一つ助言してくれる事はなかった。
それは既に目の前の男と神谷と恋仲で五郎に入る余地が無かったからならまだいい。そうではなく、ある時などそれとなく神谷と五郎の仲を取り持ってくれるような素振りまで見せていたような男だ。
五郎にとってそんな元々行動と言動と思考が一貫していない男であったが、ここ最近の目の前の男はそれに拍車をかけておかしくなっていた。
「中村さんが一番神谷さんの事を良く見ているでしょう?あ。でも神谷さんが一番見ているのは私の事ですからね。それはお忘れなく。だから、中村さんに神谷さんの私に対する好感度が上がっているか確認してもらって、報告して欲しいんですよ」
何も難しい事は言ってないはずなのに、何が納得できないのだろうとでも言いたげに、目の前の男――沖田総司は首を傾げた。
「――沖田先生。俺が神谷を好きな事を知って言ってるんすよね?」
「はい。だから神谷さんをよく見ているでしょう?もう私のお嫁さんですからね。と言っても未だに」
「…あんなの沖田先生が勝手に言ったことじゃないっすか」
「?ちゃんと神谷さんは頷いてくれましたよ。私のお嫁さんになれて幸せだって言ってくれて」
「それ本当っすか!?俺が見る神谷はいつだって泣きそうになってますよ!?」
「えっ!?中村さん泣かせたんですかっ!?」
「ひぃっ!俺じゃないだろ!泣かせたのはあんただろっ!」
突然脇差を突き出された五郎は慌てて間合いを取った。
残念ながら五郎の実力では剣豪に刀を抜かれたら勝ち目が無い事を十分に自覚している。
「え?私が神谷さんを?…あの時は真っ赤になって怒ってましたけど未遂でしたし、あの時は窒息させそうになって泣いてましたけど許してくれましたし、あの時は…」
「もういい!」
眼中に無いのかも知れないが、仮にも恋敵の前で惚気るなんてどんな嫌がらせだ。
「そうですか?何だったらもっと聞いてもらって、その後の神谷さんの様子とか聞かせて欲しかったんですけど」
本当に素で言っているのか沖田総司。
五郎はもう次から次に与えられる衝撃に目を限界まで見開きっぱなしだ。目が乾いて痛いが閉じれないくらいだ。
そう。突然目の前の男は神谷を嫁にすると宣言した。しかも実は神谷が女子だったと言う事まで公にして。
そうしたかと思ったら、神谷が女子だというのなら離隊させればいいのに、その神谷本人が新選組を辞めたくないと言うからと何をどう局長たちを脅したのか(何度もその辺りを全てが発覚した直後に直接問い質しに行ったがまさかの局長も副長も困惑の表情だけを見せ、まともな回答をくれる事は無かった)残留させてかと思ったら、独占欲全開で見せ付けるように屯所内場所問わずいちゃいちゃするようになった。
完全に失恋をしてしまったが、長年抱き続けた恋心をそう簡単に手放す事は出来ない。しかも相手が本当は女子だと知れば尚更、何故沖田より先に自分が知る事が出来なかったのか、知る事が出来れば自分こそが彼女を娶る事が出来たかもしれないのにという、後悔が更に五郎を追い詰める。
長年の習慣で神谷がいれば自然と目で追ってしまうようになっていた中村は、改めて沖田の婚約者となった女子としての神谷を目を追うようになっていた。
その中で気付いた事がある。
彼女は望んで沖田の嫁になっているようではないようだという事だ。
前提条件として、今更だが、彼女が沖田に惚れている事は間違いないだろう。
何度も何度も声をかけてもいつも袖にされてきた中村には悲しいながら断言が出来る。
だが、彼女はいつもいつでも沖田のように彼と恋人同士の甘い触れ合いをしたいようではないようだ。
しかも、どうやら彼女が女子であったと言う事を公表する事は彼女の意向では無かったようであった。
その証拠にいつも彼女は沖田と共にいると、今まではいつでも何処でも嬉しそうで幸せそうであったが、最近の彼女はいつも何処か困ったような表情を見せている。
沖田総司が壊れた。
そう噂が広まるのは早かった。
色んな所で色んな事で彼は騒動を起こすのだ。
その全てが神谷に関する事。
何が彼にあったのかは分からない。だが分かるのはどうやら彼は神谷を嫁す事を彼女の意思を確認せずに強行しているという事。
「神谷さんねぇ。前までは私が触れても嬉しそうに微笑んでくれたのに、最近は眉間に皺を寄せるんですよ。私の何がいけなかったんでしょうか。だからね。神谷さんをよく見ている中村さんに是非、神谷さんの私への好感度の変化を観察して、教えて欲しいんですよ。今だったら接吻できますよ。とか、今日の様子だったら共寝は無理ですよとか。このまま行けば神谷さんが乳を揉んでも許してくれますよ。とか」
「阿呆かっ!」
大の大人の男がもじもじと頬を染め、小さく呟く姿に、中村は上司である事も忘れて罵倒する。
「阿呆って何ですか!私は真剣なんですよ!最近神谷さんの私に対する信頼度が駄々下がりな気がして、この不安な男心同じ男なら分かるでしょ!」
少しも怯む事の無い沖田は涙目になりながら中村に食いかかる。
「大体恋敵の俺に頼むって!どんな嫌がらせっすか!それにあんた神谷に毎回毎回何の承諾も得ずにお触りしたい放題だろうがっ!俺聞いてるんすからね!祝言挙げるまで神谷に手を出すなって局長に言われてる事!あんだけむやみやたらとやりたい放題お触りし放題してて、隊で武士として一生懸命やってる神谷の邪魔して誰の好感度が上がるって言うんすかっ!何だったら今のあんたに必要なのは神谷への土下座だ!いっぺん土下座して来い!神谷の気持ちを何も考えずに一人勝手に結縁を決めて申し訳ありませんでしたっ!てなっ!」
今までの腹に溜まっていた沖田に対して言いたかった事を一気に捲くし立てるように言い放った。
目の前の男は衝撃を受けた様子で、その場にへなへなと力無く膝を突く。
周囲からは小さいながらもぱちぱちと拍手が聞こえてくる気がするが、それは聞き間違いではないはずだ。
誰もがずっと思っていたことなのだ。
局中法度になるというのなら反論してやる。
鼻息荒く一つ大きな息を吐くと、跪いたままの沖田を見下ろした。
ざまぁみろ。
ぱらぱらと聞こえてくる拍手が一つ、段々と近付いてくるのに気が付いて、五郎は振り返った。
こんな上司を罵倒した状況で近付いてくるものがいるのかと、視線を向ける。
「中村!私、感動した!」
頻りに拍手を続け、目を輝かせている神谷がそこにいた。
「お前っ…どうしてここに」
「そこにいた」
と言って、神谷は室内を示す。そこには畳まれた着物が置かれていた。どうやら洗濯物を取り込んで分けていたらしい。
「…と言う事は今までの会話」
「聞こえてた」
沖田が神谷がここにいた事に気付いていなかったとは考えにくい。
と言う事は、恐らくは、神谷に己の独占欲を主張する為、そして五郎を牽制する為に、ここでおかしな事を言い出したに違いない。
本当に厄介な男になったものだ。
剣術に関してだけは恋敵とはいえ、今も尊敬していると言うのに。
「お前も大変だな…」
「まぁ…」
溜息混じりに同情を言葉にすると、神谷も微妙な表情を見せて応えた。
二人の視線は自然と、未だひれ伏す総司に移る。
さて。どうするのだろうか。
沖田は暫し俯いたまま、そして。
ゆっくりと顔を上げる。
満面の笑みで、彼は神谷を見つめた。
予想外!
流石壊れた沖田先生!
という評価が中村の思考の中を駆け巡る。
「神谷さん。貴女は本当に私を惑わせるんですから。結縁までどれだけ私は貴女を本当に私だけのものにする為に努力しなければならないんでしょうね」
この流れのこの状況で満面の笑みを浮かべ囁かれる睦言は恐怖を誘う。神谷は震えていた。
そんな震える神谷の手を跪きながらそっと己の手の中に包み込む沖田。
切なげに眉を潜めながら、ただ直向な視線を神谷に送る。
「貴女がどんな風に私を思ってくれているのか、いつも不安に思っているのは確かなんです。貴女にとってこの結縁は無理やりだったかも知れない。それでも。それでも私は貴女が――欲しかった」
どっきゅん。
(あ。神谷が落ちた)
五郎がそんな事を思いながら隣を見ると、神谷はつい先程と打って変わって頬を真っ赤に染めて恐らくは感激に震えている。
「貴女に土下座をしろというなら幾らでもします。ただ分かってください。それは決して私の気持ちが貴女から離れる事じゃない。貴女を離さない為に私は貴女に伏すんです。…かかぁ天下と言われるのもいいですよね?」
そう言って、緊張していた頬を少し緩ませ、にへっと沖田は笑う。
(あ。神谷が絆された)
「神谷さん。私、どうしても貴女が愛しくて溜まらないんです。もう少しだけ貴女に触れる事を許してくれますか?」
真摯な眼差しで真っ直ぐ神谷を見つめる沖田。
(あ。今なら押し倒せる)
五郎は冷静に二人の様子を見つめ続ける。
総司は神谷の掌を大事そうに握り締めながらゆっくりと立ち上がり、誘うように何処かへ彼女の手を引いていく。
ゆるり。ゆるり。
彼女を労わるように、沖田が神谷をどれだけ大切にしているかその仕草から痛いほど伝わってくる。
(さて。そのまま甘い時を何処で過ごすのや…ら…)
「ちょっと待てー!!」
中村は二人のそれ以上の距離を縮めるのを止める為に、握り締め続けてぼろぼろになっていた帳面を投げ捨て、命懸けで駆け出した。
2021.06.21