酔宴

島原に立ち並ぶ茶屋の一つに総司はいた。
近藤の供として、一日様々な屋敷を巡り、その最後に会合を行うというこの店に辿り着いた。
会合の席には近藤のみが通され、供として付いていた総司には同席する権利を持たされず、別に一室を借りてそこで待つ事となった。
彼と同じように上役の護衛として供だっていた者たちで控えの為に大きな座敷を借りていたが、生粋の武士身分の者たちの中で当然のように総司は彼らから弾かれていた。新選組の地位は見事な程無い。
しかし総司にとってしてみれば知らない者たちと同席するより、一人でいる方が余程気楽で好都合だった。
他の人間が不穏な動きをしていないか一抹の不安は拭えなかったが、都合よく会合場所の隣室を借りる事ができ、ここならば誰よりも一番に近藤の元へ駆けつける事が出来る。
目の前には混同の配慮から料理と菓子が用意されていた。
総司は何気無く摘むと口に放り込む。
持て余している時間を埋めるように、持て成された菓子をぱくぱくと口に入れていった。
「つまらないなぁ…」
誰かもう一人でもいい。一緒に供をしていれば話しながら時間を潰す事も出来るのに。
菓子は美味しい。料理だって美味しい。
けれどそれだって、共感してくれる人がいなければ半減する。
元来、末っ子の甘ったれと言われる総司は、自分でもある程度自覚している。
誰かが常に傍にいないと寂しい。
「…神谷さんがいてくれたらなぁ…」
思わず漏れ出た言葉に、総司はかぁっと赤くなると、今度は急に恥ずかしくなって、誰もいないのを分かっているのに、つい周囲をきょろきょろと見回し、誰にも聞かれていなかった事を確認する。
「…はぁ…」
確認して安心すると、今度は一つ大きな溜息を吐いた。
「きゃはははははは!」
ほっと安堵の息をこぼすと同時に聞こえてきた声に、総司はこれ以上無い程びくりと震え、そして声の聞こえてきた方向を振り返った。
会合が行われている座敷と連なる総司のいる部屋を中心にした反対側の部屋から聞こえてきた。
聞き覚えのある声。
総司は思わず声の聞こえてきた側と己の置かれている部屋を仕切る襖に耳を当てる。
「きゃはははははははっ!」
もう一度、先程より鮮明に聞こえてくる、茶屋には相応しくない程若く高い声。
間違いない。
つい今思い浮かべていた少女の声に、総司は頬を染める。
「兄上ももっと飲んでくらはいっ!」
呼ばれた、少女と共にいる人物の名に、今度はぴしりと米神に筋が入る。
(何で神谷さんと斎藤さんが一緒に呑みに来ているんですか)
今日は一番隊と三番隊は合同で午前の巡察だった。明日は非番だから呑みに来るのもおかしくは無い。
セイは斎藤の事を慕っているから、こうして二人で呑みに行く事もある。
総司を除け者にして。
そう思ったら、またぴしりと一つ米神に筋が増える。
(私が仕事だって言うのに、神谷さんはのほほんと斎藤さんと呑みに来てるんですか。上司が働いているんだから自粛しようとかそういう優しい気持ちにはならないんですかね。それに斎藤さんとばっかり。いつも斎藤さんとばっかり呑んでて)
例えばここでもし、一番隊の他の隊士が飲んでいたとしても、総司は非難する事は無いだろう。自由時間なのだから。むしろ優しい気持ちで見守るだろう。
そしてもう一つ。セイが斎藤と二人で呑みに行く回数より、総司がセイと二人で甘味屋に行く回数の方が圧倒的に多いという事に気が付いていない。
あくまで、セイが呑みに行く回数は確かに斎藤との方が多かった。
むかむかする様な、もやもやする感情を抑えながら、総司は襖に寄りかかり、耳を澄ます。
目の前にある料理は先程まであんなに美味しい物に感じていたのに、今はもう美味しそうに見えなくなっていた。
隣から聞こえてくる声は、セイの声ばかり。
斎藤は普段からそんなに口数も多くなく、殊更大きい声で話す方でもない。
何かを話しかけてはいるのだろうが、総司の耳に斎藤の声までは入ってこなかった。
「……いいんです。どうせいつだってあの人の一番は決まってるんですから…」
先刻までの大きな笑い声から打って変わって、寂しそうに呟くセイの言葉に、何故かちくりと総司の胸が痛む。
「本当にいっそもうこんな気持ち持ってなければいいのに。武士としてだけ傍にいられればいいのになぁ…」
切なそうに零すセイに、今彼女がどんな表情をしているのか、不安で堪らなくなる。
「…兄上は格好いいなぁ。私もそうなれたらいいのに。まだまだ未熟者です。私だって尊敬しています!でもやっぱり…ちょっとくらい…なんて、って今の嘘ですっ!嘘っ!」
総司は必死に頭を働かせる。
今、彼女はきっと不安そうな顔をしているだろう。
けれど、聞こえてくる声はとても切なげで、儚げで…、総司は聞いた事が無い声色。
斎藤の前だけ?
彼にだけ気を許して?
甘えている声?
そう思うと、どうしようもなく斎藤に対して悔しさと、斎藤にだけ見せる表情を惜しげなく今晒しているセイ焦燥感に走る。
そして、彼女は誰かを思って呟いている。
それは、誰?
総司も知らない声で、総司によりも甘え、こうして己の弱さを吐露できる斎藤よりも確実にセイの心を占める人間がいる。
そんなの聞いた事が無かった。
総司が気づかなかっただけで、彼女はずっと前からその人物の事を思い続けていたのだろう。
彼女の口調が想いの深さを、その想い続けている事の長さを語っている。
その人物が、彼女の弱さを曝け出させる。
彼女の心を切なく揺らす。
紅く、黒い靄がどろりと総司の中に蓄積していく。
セイの声を聞く度に。
セイの言葉に。
セイの声色に。
どうしようもなく、今すぐにでも彼女をその場から自分の元へ引き擦り込み、抱き込みたい衝動に駆られた。
そんな自分に、総司ははっと我に返り、いつの間にか焦点が定まっていなかったのか座敷が視界に入り込む。
先程と何一つ変わらない部屋の景色。
ただ胸に打つ先程より強い鼓動と、いつの間にか息を止めていたのか定まらない呼吸が、勝手に肩を揺らす。
そろりと、襖から離れると、総司は、くたりと壁に背を預けた。
「…神谷さんの馬鹿…」
小さく呟いて、そして、自分の今の行動を思い直すとあまりにも滑稽で、自分が無性に情けなくなった。
近藤の護衛の為にこうして控えているのに、今の自分は会合の部屋よりも、セイのいる部屋に意識を集中していた。
もしその間に何かあったらどうするのだ。
そう思ったら、今度はどっと疲れが出てきて、総司はこの一瞬の間にそれだけセイの声を聞き取る事に集中していたのだと更に思い知らされ、更に自分が嫌になった。
大体自分はセイに己の気持ちを伝える気もないし、ましてや彼女を己の手中に収めようという気は無い。
だから彼女が誰を思おうと、総司はただ見守るしかないのだ。
それなのにこの体たらく。
彼女の想う誰かに嫉妬をして、斎藤に嫉妬してどうする。
こうして過ごす事で、その誰かか、斎藤と結縁する事になれば、それはセイの幸せに繋がるのだ。
それは自分の願いだったはずだろう。
もう止めよう。
そう思って、襖から距離を置こうと、身を離そうとする。
「……いっそ兄上を好きになっていれば良かったのにな…」
襖から体を離す瞬間聞こえて来た声に、総司の頭の中は真っ白になった。
「っ!神谷っ!」
今まで全く聞こえなかった斎藤の声が、動揺が混ざりながらはっきりと聞こえてくる。
そして同時に聞こえてくる衣擦れの音。
「!」
総司は息を飲んだ。
「兄上あったかぁい…」
くすくすと笑いながら、斎藤に擦り寄っているのだろうか、布越しに声が篭っている。
斎藤の動揺していた気配はすっかり消え、溜息を零す。
「…それでもあんたはあれがいいのだろう…?」
悲しげに呟く斎藤に、彼の恋心がその人物に敵わない事を嫌でも感じさせる。
斎藤さえ勝てないセイの想い人は誰だ。
しかも斎藤は知っているのだ。それが誰かを。
それは、誰。
セイの呼吸音が聞こえてくる。
斎藤の溜息に似た呼吸と、衣擦れの音が再び聞こえてくる。
ぞくりと、総司の背筋が粟立つ。
暫くごそごそと続いた衣擦れの音がぴたりと止むと、セイの「ん…」と吐息が聞こえて来た。
急に全てを失ったかのような虚無感が総司を一気に襲う。
拳をぎゅっと握り、訳も分からず己を襲う衝動に、総司はぐっと無理やり押さえ込む。
これ以上考えるな。
何も聞き取るな。
そう必死で己を抑えるのに、耳は勝手に澄まし、体は勝手に震えだし、心は勝手に想像をする。
浮かんでくるのはセイの顔。
斎藤に甘え、彼に抱き付き。
彼に頬を摺り寄せる。
斎藤は少しだけ頬を染め、動揺を顔に出し、それでも愛しそうに彼女を見つめる。
そしてぎゅっと抱き締め、
…彼女の唇をなぞり…、
彼女の柔らかで、細い体を褥に横たわらせ…。
「沖田さん。いつまでそこでそうしているつもりだ?」
想像よりもずっと冷静な声が突然己の名を呼び、冷水を浴びせられたように総司は一気に現実に引き戻される。
襖の向こうから感じる冷たい視線。
名を呼ばれた以上、総司は出て行かざるを得ない。
眼前に入るだろう光景を見たくなくて、総司は襖の取っ手に手をかけるのを躊躇する。
「えーっ!沖田先生っ!?」
突然上がった可愛らしい声に、総司は目を丸くする。
そこには先程までの切なさを感じさせない。
すぱん!
と勢いよく目の前の襖が開けられると、柔らかなものが己の懐に飛び込んできた。
「神谷さんっ!?」
慌てて抱き止めると、セイは総司の首にしがみ付き、それこそ子猫のようにごろごろと喉を鳴らす。
「沖田先生だぁっ」
「神谷さん…」
総司は抱き返してよいものかどうなのか分からず、ただされるがまま満面の笑みでこちらを見上げるセイに少し歪ながらも笑みを返す。
「あんた、そんな殺気全開で気づかれていないと思っていたのか?」
目の前に座す斎藤はいつもの落ち着いたままの表情で、酒を猪口に注ぎながら呟く。
「さっきぜんかい?先生、お仕事大変なんですかぁ?」
総司の首にしがみついたままセイは総司を下から覗き込む。
「…えっ…あの……」
何をどう思って、どう答えればいいのか、そして今の二人と、先程の声だけの二人の様子が総司の中でうまく重ならず、言葉にならない。
見上げてくるセイは酔いが回り、熱を持っているのだろう、頬を紅くし、涙を浮かべ、その姿は先程までの紅く黒い冷え切った感情を一気に熱に塗り替える。
「総司、会合終わったぞ。…っとあれ?神谷くん、いつの間に?」
近藤が入り口の襖を開け、覗き込むと、総司に抱き付き幸せそうに笑みを浮かべるセイと、顔を真っ赤にし手を何処に持っていけばよいか彷徨いながら硬直している総司が目に入った。
「局長。お疲れ様でした」
ひょいと空いた襖の向こうから斎藤が顔を出す。
「斎藤君まで?」
状況が分からず、近藤は疑問符を頭に浮かべる。
「丁度、俺と神谷の二人で呑みに来ていまして、偶々近藤局長の会合場所が同じだったのと、偶然にも沖田さんが借りていた部屋が、我々と続き部屋だったようでした」
斎藤が淡々と状況を語ると、近藤は「成程」と大きく頷いて納得する。
「神谷君は連れて帰れそうかい?」
近藤が総司に尋ね、総司はセイを引き離そうとするが、セイは愚図ると、先程よりも更に力を込めて総司にしがみ付く。
「ははははっ。神谷君は本当に総司が大好きなんだなぁ」
「先生っ!」
豪快に笑う近藤に、総司は顔を真っ赤にする。
「総司は明日非番だったよな。そのまま今日はここに泊まって行きなさい。俺は一人で帰れるから」
「そんなの駄目です!」
「僭越ながら俺が送りましょう」
立ち上がろうとする総司の横で、斎藤が冷静に提案し、近藤の傍に行く。
「ああ。そうだな。そうしたらお願いしようか」
「神谷はああなると手が付けられないので、連れて帰るのも一苦労です。沖田さんに任せておけば間違いないかと」
「そうだな。偶には斎藤君と帰るのもいい。トシには言っておくから」
「先生っ!」
「むーっ。斎藤先生、私だって帰れますよ!近藤局長をお護りできます!」
黙って聞いていたセイがするりと総司から離れると、のそのそと立ち上がる。
「沖田先生のお仕事の邪魔なんてしません!」
そう言って斎藤の元へ行こうと踏み出すセイに、総司は無意識に彼女の腹に手を回し、己の元へ引き寄せていた。
「…っと…あっ…そんな状態でお護り出来る訳無いでしょう!貴方はここで今日は休んでいきない!そんな状態で一緒に帰られてもお荷物になるだけです!」
己の行動に理由が見付からず、慌てて少しの誤魔化しを混ぜながら総司はセイを諭す。
すると、セイはぼろぼろと大粒の涙を零した。
「…すみません……すみません……」
「神谷、泣くな。沖田さんが仕事だからと自重していたのに、呑みに誘ったのは俺なんだ。お前が悪い訳じゃない」
斎藤の言葉に、総司は(神谷さんがちゃんと自重してくれて待ってくれていたんだ)とほっと心が温かくなるのを感じた。
近藤は困り顔で、斎藤を見る。
「やはり斎藤君も本来は休みだったのだから、神谷君と明日一緒に帰ってくればいいんじゃないのか?泊まってきても構わないよ」
「!」
総司は息を飲む。
それが一番いい事は分かっていても、もう斎藤とセイを二人きりにはしたくなかった。
先程までの声だけのやり取りが頭に浮かぶ。
自然彼女を抱き寄せる腕に力が入った。
斎藤は総司のセイを抱き締める腕を見つめ、一つ溜息を吐く。
「夜も遅いですし、近藤局長も今日はこのまま休息されては如何かと。妾宅に戻るには遅すぎますし、土方副長も夜陰で局長が襲われるか心配するよりも、このまま泊まって、翌朝明るい中帰ってきてくれる方が余程安心かと思われます。文は出します故」
「そうだな。明日は急ぎの仕事も無いし、偶には店でゆっくりと休むのもいい。泊まっていくか!」
近藤は大きく頷くと、笑う。
「そうと決まれば、この続きの襖を外して貰って、広く使いましょう」
「まだ、斎藤君は呑めるだろう?総司も泊まっていくと決まれば、久し振りにゆっくり呑むか!」
改めて部屋の中に入ると、近藤はどっかりと腰を下ろし、斎藤と総司を見て笑う。
「神谷君もまだ呑めるなら一緒に呑みなさい」
笑って近藤が手招きすると、セイは嬉しそうに笑って、彼の隣にちょこんと座る。
「…私のせいですか…?」
嬉しそうにしながらも、不安気に尋ねるセイに近藤は笑ってみせる。
「いや。丁度いい機会だ。会合は肩が凝るし、緊張するから呑めないし、最近は屯所でも気楽に吞む事が少なくなっていたからな。懐かしい。神谷君のお陰だ」
そう言って近藤はセイの頭を優しく撫でる。
セイはほっと表情を緩めると、また嬉しそうに笑った。
総司は近藤相手なのに何故か焦燥感を感じて、慌ててセイの隣に座る。
斎藤は溜息を吐きながら、その彼の隣に座った。

すっかり夜も更け、既に皆眠りに着いていた。
用意された布団に各々適当に包まり、寝息が聞こえてくる。
セイはふと、目が覚めて、顔を上げると、総司が一人窓際に座り、外から零れる月の光を浴びてぼんやりと外を見つめていた。
「…沖田先生…」
まだ酔いの醒めない意識のまま、総司の纏う不思議な空気に惹かれ、ふらふらと彼の前まで行くとぺたりとその場に座り込む。
総司はセイを見ると、優しく微笑んだ。
「まだ時間はありますから、貴方はもう少し寝ていなさい」
そうは言うが、その表情は何処か辛そうで、セイは自分が彼を癒せるだろうか、と包み込むように抱き付いた。
「神谷さんっ…」
総司は頬を染め、セイの行動に動揺する。
セイは何も言わず、ただ総司にしがみ付くと、そのまま彼の胸に頬を摺り寄せる。
「…っ…神谷さんっ……」
「おきたせんせぇ…」
自然と頬が緩んで、胸の奥が温かくなって、もっと総司に触れていたくて、ぎゅっとさっきよりも強く抱きつく。
まだ今の自分は酔っている。
それでなきゃこんな大胆な事、普段の自分なら絶対出来ない。
そんな事を思いながら、何度も総司の名を呟く。
「…おきたせんせぇ……せんせぇ…」
何度も総司の名を呼ぶのだけを繰り返す自分が段々おかしくなって、セイはくすくす笑いながら名を呼び続ける。
「……」
うとうととしながら、触れる頬から直接感じる総司の鼓動にセイの意識も段々再び夢に落ちていく。
(沖田先生の心音早いなぁ……)
「……神谷さん……好きな人以外にもこうやって甘えるんですか?」
総司が呻く様に呟く言葉に、セイの意識はまた現実にゆっくりと引き戻される。
「………甘える訳ないじゃ……ないですか……」
まだ覚醒と夢の狭間を漂うセイはそう呟くと、総司の心音がまた早くなる。
「…斎藤さんは知ってるんでしょ?貴方の好きな人……斎藤さんには話せて…あんな風に話せて……私には話せませんか…?」
「………すきなひと……?」
それだけをどうにか言葉にすると、セイはまた夢の中に落ちていく。
もう今が夢の中なのか、現実なのか分からなくなってくる。
境界線が見えないまま、ふと瞼を開くと、今まで見た事のない表情の総司が瞳に焼きついた。
「…泣きそう……」
「そりゃそうですよ。今日は近藤先生の供でここにいたのに、近藤先生と屯所に戻らなきゃならないのに、貴方を斎藤さんと二人っきりにさせてくなくて、先生を困らせた挙句、泊まらせてしまったんだから……貴方に振り回されるにも程がありますよ…自分が情けない……」
「……私と兄上でお泊りでも良かったんですよ?」
「駄目ですよ。斎藤さんだって男ですよ。何かあったらどうするんですか」
「兄上ですよ。何もある訳無いです」
セイは笑う。
その様子に総司は顔を顰めた。
好きな人がいると知らなかった頃なら、斎藤が娶ると言ってもそれが一番いいと思っていた。
けれど、セイに好きな人がいると知った今は、何よりもその人の為に自分を大切にして欲しい。
そう思うのが自然なのに。
「…せんせ…怒ってる……?」
「……いつか…好きな人になら…あんな……あんな声も聞かせて……心を許して…甘えて…この肌を触れさせて……貴方の全てをその人が……」
総司の全身に力が入るのが感じる。
一気に変わる気配に、セイは身を起こし、総司を見る。
さっきまでの表情も見た事無いと思ったが、今彼が見せる表情も、初めてだ。とセイは思った。
まるで獰猛な獣に獲物として認識されたような瞳の鋭さに、セイは身震いをし、思わず今の自分の状態に心許無く感じてしまう。
無意識に着物の襟を押さえる。
「どうして逃げるんですか?」
「……え…っと…」
何をどう表現してよいのか分らず、セイは視線をうろつかせる。
「…好きな人の為に…ですか……」
そう呟くと、総司の殺気に似た空気は一気に霧散した。
「お休みなさい。神谷さん」
総司は微笑むと、また背を壁に預け、外に目を遣った。
このまま離れてしまえば、この話はお終い。
けれど。
きっと次、目が覚めた時には、総司はきっと距離を置く。
そんな気がした。
何をどう距離を置くのかは分からなかったけれど。
それだけは嫌だ。
「…沖田先生……」
どうすればいいのか分からないまま、セイは再び総司と距離を縮め、投げ出された片手を己の手で包み込む。
つと、総司が顔を歪め、セイは総司の掌をそっと開く。
「!」
掌にはいくつもの爪痕が残され、血が滲んでいた。
驚いて顔を上げると、総司は気まずそうに目を背ける。
不安になって、もう片方の手も取り、同じように開くと、そこにもやはり爪痕が残っていた。
思いっきり拳を握り締めた時に出来るような爪痕。
いつのまに。どうしてそんな傷を。
そんな言葉は一瞬浮かんだような気がしたか、すぐに消えた。
セイにもどうしてそうしたかったのか分からない。
ただ、舐めたら治る様な気がした。
総司の掌を持ち上げ、そっと唇を触れさせた。
小さな舌を出し、傷から滲む血を舐め取る。
総司は目を見開き、彼女を見つめた。
「……どうしてそんな事を…」
信じられないとばかりに、それでいて何か内に秘めているものを必死に押さえ込んでいるかのように掠れた声で総司はどうにかそれだけを声に乗せ言葉にする。
「…先生…刀を握らなくてはならないのに…」
そう言って、血を舐め取る。
「………貴方が武士としてだけでも傍にいたいと願う……貴方の一番は誰ですか?」
こくり。と息を飲む音が聞こえる。
セイは顔を上げ、首を傾げた。
「私の一番は沖田先生ですよ」
今更先生は何を問うのだろう。
きっと先生は相変わらずの野暮天だからそんな事を聞くのだろう。
そう言えば、好きな人がどうとか言っていたな。
セイはそんな事をぼんやり頭の片隅で考えていた。
目の前の視界が転地逆転する。
ゆっくりと倒れたのか、背中を打ち付ける痛みは無かった。
代わりに大きな掌が彼女の背を支えていた。
(酔っ払ってとうとう転んじゃった?)
セイは己自身も支えられなくなってしまった己の酔い加減がおかしくてくすくすと笑ってしまう。
総司の掌を映していた瞳は、蝋燭の炭で黒くなった天井を映していた。
そしてその後に、眉間に皺を寄せ、セイの心の奥まで射抜いてしまいそうな瞳が彼女の視界を遮り、捉える。
「…おきたせんせい…?」
総司の中に映り込む自分の姿にセイは見入ってしまう。
「……神谷…さん…」
ゆっくりと総司の顔がセイに降りてくる。
総司の癖のある髪が頬に触れ、擽ったい。
吐息がすぐ近くに感じ、セイは自然と瞼を閉じた。

「……斎藤さん…おっかないのでその刀しまって頂けますか?」
総司は己の首筋に突きつけられる刃に、冷や汗をかきながら、一瞬でも動こうものなら切断されるだろう気迫を向ける人物に声をかけた。
「まずはアンタが顔を上げたらな」
言われて総司はばっと顔を上げ、セイから体を離した。
同時に刀を構えていた斎藤は刀身を鞘に納める。
それを見守ってから、総司は次いで、「はーっ」と大きな息を落とした。
「…未遂ですから…許してください」
「俺もある程度までは見ぬふりをいてやろうとは思っていたがな。野暮天を超えた行動は見かねたのでな」
総司は斎藤を見上げ、そして、一気に全身を真っ赤に染め俯いた。
「ほっんとに危なかったですよ。大トラの神谷さん凶悪過ぎます!」
常に予測不能の行動と、大輪の笑顔、そして甘えるような仕草、言葉遣い。
脳天を貫くような甘い匂いが鼻腔を刺激し続ける。
心を許している者に故出る行動だとしたら、自分以外の誰かになんてもう想像もしたくない。
理性で必死に考えていた『願い』は呆気無く決壊し、いかに己の『願い』が建前だけのものだったかを思い知らされた。
セイの行動一つで。
本能の欲望に抗えない事を重々骨の髄まで知らしめられた。
総司の中をぐるぐると巡るのは嫉妬と独占欲。
「…神谷さんがどうしても慕っているんだというのなら、諦めますが、もう、そうじゃなきゃ…譲れません」
「ほう。それは改めて俺に対する宣戦布告と取っていいんだな」
斎藤はすっと目を細め、総司を見下ろす。
「神谷さんが望まないのなら」
総司はまっすぐ斎藤を見返した。
「なら、俺は変わらない。神谷が俺と夫婦になりたいと望むように振り向かせるだけだ」
そう言って、斎藤はどっかりとセイの横に座り込んだ。
総司は斎藤を見、そしてもう一度セイを見下ろす。
二人の心を大きく占める大トラは気持ち良さそうにすうすう寝息を立てて眠っていた。
そうして見つめていると、また総司は顔を真っ赤にして呟いた。
「…ところで…結局神谷さんの好きな人って…私の事ですか?」
(この期に及んで未だ野暮天か!)
その問いに、斎藤は答えなかった。

次の日、近藤に笑いかけられながらもひたすら頭を下げ続けているセイは前日の事を何も覚えていないようにいつも通りだった。
「あの、神谷さん?」
「はい!何でしょう!沖田先生!」
声を掛けるとあまりにも爽やかな笑顔を返され、昨夜の事を覚えているか尋ねようとする総司の心がとても疚しいものに思え、彼はそれ以上問う事が出来ずに、固まってしまう。
未遂だったとは言え、己のあんな恥ずかしい行動を覚えていなくてほっとする反面、覚えていて欲しいような。それでいてセイ自身が昨日どれだけ総司を誘惑していたのかを覚えていて欲しいような。
そして『神谷さんの好きな人は私ですか?』と問いたいけど、---聞けない。
何とも言えないもどかしさに戸惑う総司に、セイは不思議そうに首を傾げる。
「あ、そうだ。先生。手を出してください」
「はい?」
言われるがままに差し出した掌に、セイは袷の袂から取り出した軟膏を丁寧に塗り込む。
「本当に、もう。先生は武士なんですから手を大事にしてくださいよ!」
子どもを叱る様に、それだけを言うと、セイは近藤の支度を手伝う為に離れた。

「え……」

神谷さん?
覚えてる?

2021.6.21