極めつけは先日の稽古の時。
激しい竹刀の打ち合う音が道場に響く。
「宜しくお願いします!」
セイは頭を下げ、総司と対峙する。
今日こそは一本を。と思うのだが、実際はそうは行かない。
「神谷さん!脇が甘い!」
と言われては、一本取られ。
「だから貴方はどうしてそう無駄な動きが多いんですか!」
と言われては、吹っ飛ばされ。
「いい加減にしなさい!力差で貴方が勝てる訳ないでしょっ!」
と怒鳴られては、投げ飛ばされる。
仕舞いには。
「もう幾らやっても無駄です!今日は上がりなさい!」
と呆れられて、背を向けられてしまった。
「まだ出来ます!」
「無駄です。体力ももう尽いて足元ふらふらで何が出来るって言うんですか」
冷たい目で蔑まれ、セイは力無くその場に倒れ込んだ。
他の隊士たちが慌ててセイを道場の隅へ寄せる。
総司はと言えば、次の隊士を相手に指導を始めていた。
「ありがとうございました!」
鍛錬が終わると、次の隊の為に道場の床を磨き、明け渡す。
皆、一度隊士部屋へ戻り、道着から着替えると、各々自由に散会した。
セイはと言えば、悔しさから一人鍛錬を続けていた。
「神谷さん」
道場の入り口から声が掛かる。振り返ると総司が苦笑してこちらを見ていた。
「沖田先生。すみません。私はもう少し続けたいので構わないでください」
それだけを言うと、セイは竹刀を握り直し、振り始める。
「神谷さん。今日はもう止めなさい。さっきも言ったでしょう。適度に疲れて体に余計な力が入らない状態でなら十分な鍛錬になりますけど、今の貴方は体を酷使し過ぎです。それ以上は体に負担を掛けるだけですよ」
いつもはそんな理論的に諭す事などない総司の珍しく理論的でそれでいて反論の余地の無い説得の言葉に、流石のセイの意地もぽっきり折れ、その場に座り込んでしまった。
「…沖田先生ズルイ…」
小さく呟くセイに総司は微笑むと、道場に上がり、セイの前に膝を突く。
「貴方はいつも無茶ばかりするんですから」
てっきり着替えてからまた来たのかと思ったのだが、彼女が顔を上げると、総司は黒い稽古着のままこちらを心配そうに見ていた。
「沖田先生…。着替えてきたのではないんですか?」
「ああ…これを持ってきたんです」
総司は言うと、手の中に収めていた小さな軟膏の入った入れ物を出す。
セイが不思議そうに首を傾げると、総司は苦笑して、そっと彼女の頬に空いている方の手のひらを当てた。
「強くはなって欲しいから厳しくはするけれど、私にとって大切な人が傷つくのは辛いんですよ。しかも自分で愛しい女子に傷をつけるなんて」
憂う表情と真摯な眼差しが彼が本当に彼女を心配している事が伝わってくる。
セイは時折突然変わる総司の上司の顔と恋人の顔に付いていけず、いつだってどきどきさせられっぱなしだ。
それでも、自分の事を大切な部下として、女子として、恋人として想ってくれる総司の表情や行動に幸せで胸一杯になり、泣きそうになった。
少し前までの自分にはこんな事を彼に求める事も、叶う事も無いと思っていたのに。
だからこういう時どういう表情をすれば、こんなにも幸せな気持ちが伝わるのか分からず、セイは少し困ったように笑みを作ってしまう。
それでも、セイが総司の表情から行動から自分を愛しく想ってくれているのが自然と伝わるように、総司にもそれは自然と伝わり、総司も頬を緩め、困ったように微笑んだ。
暫しそうしていると、今度は照れくさくなり、セイは先に視線を外すともう一度総司の掌に納まっている軟膏を見た。
「ありがとうございます。先生。今日出来た傷に塗って、お返ししますね」
そう言ってセイは総司の掌からそれを取ろうとすると、彼はさっと手を引いた。
「先生?」
自分で塗って後で返せばいいという意味で持ってきたのではないのか?とセイは疑問を浮かべ総司を見る。すると総司は自分がどうしたいのかセイにはとうに分かっていると勘違いしていたのか苦笑して首を横に振ると、軟膏の入った入れ物の口を空け、床に置く。
そして。
ぺろり。
と、足を投げ出すように座り込んでいたセイの袴を捲り上げた。
「きゃあっ!?」
セイは慌てて袴を戻そうとするが、総司の手に静止される。
「沖田先生っ!?」
見上げると、さっきの苦しそうな困ったような表情は何処へ行った、沖田総司。と言う位満面の笑みで嬉しそうにうきうきとして手付きで、セイのふくらはぎに触れる。
「私が塗ってあげますよ。だって恋人の私の特権ですもんね!」
「いっ…いいですっ!それくらい自分で出来ます!先生のお手を煩わせる事は出来ませんから!軟膏だけ貸してくださればそれでいいですから!」
「何言ってるんですか!それが楽しみで着替えもせずに一目散にこれだけとって道場に来たんですよ!…って、あ、本音出ちゃった」
てへ。と頭を掻いて笑って見せるが、セイにとって今は可愛くない。
「---!!それが目的ですかっ!?さっきまでの感動を返してください!」
「何言ってるんですか!全部本当に決まってるでしょう!私の大切な大切な大切なっ!神谷さんに何かあったらどうするんですかっ!私は恋人ですよ!神谷さんのコ・イ・ビ・ト!だからこその特権を使わないでどうするんですかっ!」
嬉しくてそのまま昇天してしまいそうだ。けれどここで昇天してはいけないのだ、と己を奮い立たせ、セイは反論する。
「どうしてそんなに触りたがるんですか!最近沖田先生変ですよ!」
ついにずっと抱いていた思いが口に出た。
「そんなの神谷さんが大好きだからに決まってるじゃないですか!大好きな恋人には触りたいし吸いたいし入れたいんですよ!」
唖然。
言葉の最後の方はもう意味が分からなかったが、真顔で断言した総司に、セイは完全に気圧された。
セイが抵抗するのを諦めたのを感じた総司は、半分まで隠れていた足をもう一度腿までぺろりと肌蹴させると、うきうきと実に楽しそうに軟膏を塗り始める。
傷一つ一つを丹念に。隅々まで総司の指が触れ、軟膏を塗られる。
ひんやりとした軟膏が傷口に塗り込まれる事でぴりりと感じる痺れに、セイは顔を顰めた。
一方で、今まで誰にも触れさせた事の無い場所を初めて触れられ、これ以上無い羞恥心に胸が締め付けられ今にも涙が零れそうだった。
「そんなに嫌ですか?私に触れられるの」
さっきまでセイの言葉も聞かずうきうきしていた総司も、流石にやりすぎたと感じ始めたのか、心配そうに彼女を覗き込んでいた。
セイは苦しそうに表情を歪めながらも、首を横に振る。
「…いいえ…先生のお気持ちは凄く嬉しいんです……そんな風に想って貰えるだけでも嬉しくて……ただ…恥ずかしくて……」
「…触れるの自体は嫌じゃないですか?」
何故そんなにその事に拘るのか分からないセイは首を横に振る。
すると、総司はほっとしたように、少し戸惑うように触れていた指先をもう一度、今度は太ももを優しく撫でるように触れさせる。
「…っ!」
セイは無意識にびくりと足を振るわせた。
それが、彼女にとっては酷く死んでしまいたいほど恥ずかしくて、総司に変な子だと思われなったか不安になり、彼を見上げる。
「神谷さん?」
総司は何がそんなに嬉しいのか、嬉しそうに笑みを深くして彼女を見上げた。
「…っ…あの……本当にもう……」
もう一度また袴を下ろそうとするが、また総司の手に制される。
けれど、セイは落ち着かなくて仕方が無かった。
総司の指が触れる度に、何故か物凄く自分が悪い事をしているような、引き下がれないような事をしているような気になるし、何故だか、腹の奥がむず痒くなるような変な感情や痛みが突き上がってくる来る。
今までの、ただ総司の事を好き。と思って痛む胸の痛みとは違うものが湧き上がって来る。
それが無性に恥ずかしくて、惨めな気がして、でもその先を知りたい気がして、そんな自分を総司に知られるのが怖くてセイは早くその場を逃れたかった。
「神谷さん。動くと薬を塗るところがずれちゃいますよ」
そう言うと、総司の手は傷口とは違う、股の付け根へ向かって下りてくる。
「ひゃあっ!」
思わず上がった声に、セイは自分が信じられず、思わず片手で口を塞ぐ。
それを気にした様子無く、総司は内腿に顔を近づけると、そこにあった小さな傷口に息を吹きつけた。
「…っはっ…」
今度こそ上がった息にセイは耳まで顔を真っ赤にして、俯いた。
静かに震え始めたセイを見つめ、総司は顔を上げると、満足そうに笑みを浮かべた。
「終わりましたよ。神谷さん」
彼から声を掛けられると同時に、セイは袴を下ろし、勢いよく立ち上がると、直にでも彼から距離を取る為に道場から逃げ出した。
セイは総司に抱き締められ、頬を摺り寄せられながら、空を見上げ、溜息を吐いた。
何となく分かっているとは思う。
総司がセイに本当は何を求めているのか。
屯所にいれば嫌でもその手の話は耳に入ってくるし、総司と想いが通じてからも相談に乗ってもらっている里乃にも時折その時になったらの知識を与えられる。
きっと総司も物凄く待ってくれているのだろう。
けれど。
何となく。
まだ、怖いのだ。
一歩踏み出すのが。
あの、想いが通じて、お互いに指を触れさせるだけでも、抱き締め合うだけでも、唇を触れさせるそれさえもどきどきして、一方でそう思えるのがとても幸せだった感情が未だセイにとっては恋しくて。
それだけでもうセイにとっては幸せでお腹一杯になれるのに。
それだけじゃ駄目なんだろうか。
と思ってしまうのだ。
総司はあの感情だけでは幸せになれないのだろうか。と思ってしまうのだ。
今も己の胸にしっかり巻きつけられる総司の腕の感触を感じながら、セイはこっそり溜息を吐いた。