想う、時6

■想う、時・26■

伊東が現れるまで、何をどう手をつけて、どう纏めた上で、更に何が必要なのか、理路整然と整理も出来ず、何も出来なかったセイたちの研究は、彼の助言でそれまでの時間は何だったのかと思えるほど、さくさくと作業が進んだ。
主体はあくまで学生。
それでも資料を纏めている途中に、的確で、それでいて学生が自分で思考し答えを見つけられるように導く言葉を掛けてくれる。
纏めている学生に助言をする一方で、これからの方針を話し合う他の学生の会話の中にも、更に一つ二つと議題を出し、彼ら自身に思考させ、決定させると同時に、また己の持つ資料の情報と、提供を惜しみなく約束してくれる。
指導者として彼は理想の人物だった。
そう言えば幕末でも彼は文字を教え、文学を教え、隊士たちの教養を高めていたなと、セイは指導を受けながら思い出す。
あの時代でも中村は彼に傾倒し、そして記憶は無いけれどあの頃と変わらず、今も彼を誰よりも尊敬している。
それは彼に対する眼差し、態度からよく分かり、それが縁というものなのか不思議な感覚に襲われながらも、同じように指導を受ける事でセイにも彼が伊東を尊敬する理由が、あの頃より分かるような気がした。
「富永君は、この点についてもう少し資料を集めるといいね。僕も以前この問題について取り扱った事があって君の欲しい資料が蔵書として置いてある図書館を知っている。一般で入っても見せてもらえないから僕が後で連絡しておくよ」
「ありがとうございます」
セイの集めた資料を見つめ、そして顔を上げて微笑む伊東に、彼女は素直に礼を言う。
そうして目を合わせる度に、セイは胸の中に膨らむ靄に戸惑っていた。
「伊東先生。今日は時間大丈夫なんすか?」
「そうだね。久し振りに時間が空いたから来たのだけれど…そろそろ行くか。いつまでも先生がいても君たちも遣り辛いだろうし」
ずっと伊東の傍にいて、彼の指導を受けながら己の作業をしていた中村は自身の作業が一段落すると、普段忙しい伊東が自分たちの為に割いてくれた時間の経過を不安に思い、問いかけ、伊東は徐に時計を見るとやや冗談交じりに返す。
「そんな事無いです!」
すぐさま反論する中村と、他のメンバーも頷く様子を見て、伊東は苦笑しながらも椅子を立ち上がった。
「本当は僕も、もう少し来る時間があればいいのだけど、すまないね。また来るよ」
「ありがとうござました!」
最後まで学生を慮る言葉に、皆立ち上がると一同に頭を下げた。
それを見守り、静かに頷くと、手を振って教室を出た。
「富永!凄いだろ!俺たちの学校の先生」
自慢気に語る中村の横で、セイは伊東の出て行ったドアを見つめると、思い立ったように駆け出し、彼の後を追う。
「伊東先生!」
セイが追って来るのを最初から分かっていたかのように伊東は足音が聞こえると同時に振り返り、そして彼女を見つめると微笑んだ。
足を止め、追いついた彼女を見下ろすと、彼は問う。
「どうかしたのかい?富永君」
「――神谷でいいです」
その言葉に彼は満足気に口の端を上げると、では、と彼女の名を呼んだ。
「神谷君」
「はい」
今度こそセイは戸惑うことなく真っ直ぐ彼を見つめて応える。
「――本当にあの頃と少しも変わらない。いや、あの頃よりもずっと女性らしくなった」
幕末の頃、如身選だと言って性別を偽っていた事を彼は知らない。
知るきっかけも得ないまま、彼は新選組を離れ、そして亡くなった。
けれど、それを今告げる必要を感じず、セイは黙っていた。
「容姿は違えど魂は同じ。あの頃と同じだ。いつだって君はどんな身分の人間相手でも真っ直ぐ見据える。その姿が凛として美しく、とても好きだったよ」
「――中村にも同じように試した事があるんですか?」
その問いに、また伊東は嬉しそうに笑う。
「そうだね」
「何故」
「そうだね。――何故だろう。君は何故だと思う?」
問いに対してそのまま同じ問いを自分に掛けられると思っていなかったセイは言葉に詰まり、黙ってしまった。
己の中に答えを探す。
何故伊東は態と幕末の頃の名を呼ぶのか。
何故過去の記憶を持っている事を確かめるような事をするのか。
自分なら、彼と同じ事をするのだろうか。
だとすれば、何故。
――思考が巡るが、答えはすぐに浮かばず、その場に立ち尽くしてしまう。
「君は――」
黙りこくったままのセイを暫し見つめ、伊藤は答えの出ない彼女にもう一つの問いを与える。
「沖田君に会いたいと思わないのかい?」

セイは顔を上げ、口を開き――。
そして。

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■想う、時・27■

「もー沖田先生!室内に入る前にちゃんと足を洗ってっていつも言ってるじゃないですか!」
仁王立ちするセイの前には、座り込んでしぶしぶと用意された樽の中で足を洗う総司。
彼女の立つ背後の廊下には点々と泥が落ちていた。
ついさっきまで彼が歩いてきた道だ。
「だって面倒くさいんですもん。それに、土方さんが呼んでたし」
「言い訳しない!お陰で床がドロドロです!」
「怒りんぼさんですねぇ」
ちゃき。
「ひゃぁっ!」
目の前に突き出された脇差に、総司は一歩身を引く。
「何か仰いました?」
睨み付けるセイに、最初は怯えたような表情を見せるが、すぐにへらりと笑って、向けられた脇差を避けて、彼女の頭を撫でる。
「よく出来た弟分で嬉しいですよ」

ぼふっ。
背後から大きな掌がセイを包み込むように彼女の体に回される。
抱き締めた人物は、とてもよく知る人で、彼女の想い人だったから、安心して引き寄せられた胸に頬を寄せた。
「神谷さん」
桜の花弁が舞う中で、総司は笑いながらセイに語りかける。
「来年もこの桜を一緒に見に来ましょうね!」
「はい!勿論です」
「絶対ですからね」
セイの返答を本当に嬉しそうに微笑む総司は、新選組随一の剣豪とはとても思えない。
優しい掌も。
温かな胸も。
高らかに鳴る鼓動も。
彼はここにいる事をセイに惜しみなく伝えてくれている。

「神谷さん!」
「はい!」
「いつでも私の傍にいなさい!」
「はい!」
いつだってあの人の傍で、誰よりも近くにいられる事が誇りだった。
真っ先にあの人を守る事ができて、いざという時には盾になれる、その位置にいられるのだから。
きっとあの人はそれを望んではいないのだろうけれど。
あの人が生きてくれていれば、それだけでよかった。
あの人の信念を、想いを、願いを、守れる事ができれば、それがセイにとっての幸い。

「神谷さん」

今も。
己の名を呼ぶ、優しい声色が。
心の奥を小さく震わす。

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■想う、時・28■

「わかりません」
セイはあの日、そう答えた。
他に答えが見付からなかったからだ。

セイはその日、カフェで人を待っていた。
大学側、セイの自宅側どちらか近い場所、というよりも、今まで電車に乗って行動していても全く見向きもせず降りた事も無い駅を降りてすぐのカフェだった。
彼女が偶々降りた事が無いだけで、住宅地の多いその場所は、世界的にチェーン店を持つカフェが駅からすぐの場所に建てられており、そこに入ると、いつも他の店舗で大抵注文する物と同じ物を頼んで、席に着いた。
窓から少し離れた、ソファの席。
何と無くこれから会う人物の事を考えると、通りから見えない方がいいのかなと思い、そこに席を取った。
この店を誘ったのはその人物だったが、その人も、彼女を気遣ってそんな配慮をして選んだのかもしれない。
そんな事を思いながらミルクの多く入った甘いコーヒーを口に含む。
「待たせたね」
「いえ」
待ち合わせの人物が現れるとセイは腰を浮かし、立って礼をしようとするが、その前に手で制され、静かに座り直した。
「神谷君はもう頼んでしまったのか。折角だからここは僕が奢ろうと思ったのに」
「気にしないでください。伊東先生」
「誘ったのは僕だからね」
そう言うと伊東は「僕もコーヒーを買ってくるよ」と言って、席を外れる。
セイが自分が行きますと言ったが、またもや制され、渋々席で待つことにした。
暫し待っていると、彼はトレイに小さなケーキとコーヒーを乗せて戻ってきた。
「ここのケーキは絶品でね。けれど男一人で食べるには勇気がいるので一緒に食べてくれると嬉しい」
何処までも自然な動作で伊東はセイの前に二つの皿に乗せられたケーキの一つを置くと、にっこりと微笑んだ。
「あ、ありがとうございます」
きっと彼なりの待たせたお詫びも含まれているのだろう。
昔からだったが、更に女性として接しているら余計になのか、紳士的な彼の行動にセイは思わず噴出してしまった。
「お言葉に甘えて頂きます」
「どうぞ」
伊東は答えると、嬉しそうにケーキを掬い上げて口に含むと幸せそうに笑うセイに目を細めた。
「やはり、君は美しいな。そこに女性らしい可愛らしさが備わった。……いや。それは以前からなのかな」
「!」
うっとりとした表情で褒める伊東に、セイは目を丸くして、口に含んだままのケーキを飲み込む事も忘れて固まった。
「……あの頃も君は、甘いものが好きだったね」
「……」
「そして沖田君も」
「……」
セイは己を真っ直ぐ見つめてくる伊東の視線を受け止めきれずに、視線を落とし、フォークを皿に置いた。
「……思い出したら、…思い出したら、今も好きでいなければならないんでしょうか?」

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■想う、時・29■

「……思い出したら、…思い出したら、今も好きでいなければならないんでしょうか?」
「そんな事はないよ」
「…私にとっては、過去の私が好きになった人で、今、好きになる人でも何でもないんです…」
「そうだね」
「伊東先生は……っ…奥様とまた出会いたいと思いますか?」
「僕はね。今の妻を愛している」
セイは視線を上げ、伊東を見上げた。
「僕には過去に妻がいた。大切にしていたよ。愛しいと思っていた。けれどそれは今の僕じゃない。今世を生きてきた僕じゃない。過去世を生きた僕があの時、彼女を必要として、愛しく思って、妻にしたんだ。それは今も同じ、過去の記憶を持っていたとしても、その上で今の僕は今の妻を必要として、彼女を伴侶に選んだんだ」
そう返答する伊東に、セイは初めてほっとした表情を見せ、涙を目に浮かべた。
「……それでいいんですよね…」
「けれど、今の僕は、過去の妻と出会っていないけれど、もし出会ったら、今の僕で彼女をまた愛するかもしれない。それはそれで不思議ではない事だよ」
「だってそれは…」
「過去に愛したからじゃない。今生きる僕が、今生きる妻を愛しいと思うからだよ」
「……」
「逆に出会ったら、一度は妻として決めた人でも、憎む相手に変わるかもしれない。それもまた仕方の無い事だよ」
「……」
「それだけの時間を僕たちは精一杯生きてきたのだから」
「……分かりません」
「だから、君が、また、沖田君と出会って、恋に落ちても、不思議では無いと思うよ」
「!」
「『沖田君に会いたいと思わないのかい?』、あの日そう尋ねた僕に君は『わかりません』と答えた。過去にどれだけ君が沖田君を大切に想っていたかは見ていれば分かる」
「……」
「けれど、あの日出会った君は沖田君の事を何処か拒むような眼差しで答えた。僕には、君が怯えているように見えた」
セイは俯いて、何も答えない。
それを見つめたまま、伊東はコーヒーを一口含み、続けた。
「…原田君を覚えているかい?」
「…原田さん?」
「そう。中村君が所属していた八番隊組長を。彼にも会ったよ」
「何処で!?」
「まぁ、その内おいおい紹介してあげるよ。彼はね、幕末の時の奥さんを、また妻に選んでいたよ」
「おまささんをっ!?」
「彼曰く『俺の嫁さんは未来永劫おまさ一人って決まってんだ!』と豪語していたよ」
不思議とセイの肺から安堵の息が漏れる。
その事に気付いて、彼女は自分で自分に違和感を感じ首を捻ったが、もやもやとしたまま形にはならず、そんな彼女の様子を伊東は満足そうに見つめていた。
「僕はね。土方君にまた会いたいと願っているんだ」

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■想う、時・30■

「僕はね。土方君にまた会いたいと願っているんだ」
「!」
セイは驚いたように顔を上げ、信じられないものを見るような瞳で彼を見る。
そんな彼女の表情に伊東は苦笑する。
彼自身の最後を思えば、とてもそう思えるような最後では無かったのだから。
「僕の最後は散々なものだったけれど。けれどそれは仕方が無い。あの時のあの状況を思えば、どちらかがどちらかに粛清される状況だったのだから。そこに恨み辛みも無いのかといったら、……不思議な事にそれは過去の自分の事であって、今の自分の事では無いのだから、別の事として思えるんだ。彼らの見据える未来と僕らの見据える未来は違っていた。それでも僕は新選組という隊が好きだったし、土方君が愛しかった。今会えば同じ気持ちになるかといえばそれは違うけれど、けれど、また新たな気持ちで今の彼と接してみたい。そう思うんだ」
「過去の人の事なのに?」
「折角生まれ変わっても記憶があるんだ。だったら、その記憶を楽しみたいと思うじゃないか。憎い人間は愛しくなり、愛しい人間は憎くなる。そして、愛しい人間は一層愛しくなる。そんなものは、今世の中で出会って再会しても、過去世で出会っても今世で再会しても一緒じゃないか」
「……」
セイの伊東を見つめる眼差しは揺れる。
「僕はだから過去に出会った人間に出会うのが楽しみだ。つい探してしまうんだ。君を見つけたように。過去に出会った人間に出会う奇跡、そしてまた過去の記憶を持ったまま出会う奇跡。素晴らしい奇跡の上で僕たちは出会っている。どの位今まで自分が生まれ変わってきたかは分からないけれど、その中で幕末だけの記憶を持って生まれてきた。その事を十分に楽しめばいいじゃないか」
「…そうなんでしょうか…?」
「君はそっとしておいて欲しかった?」
今日誘った事も、迷惑だったのだろうか。
そう思い、尋ねると、セイは激しく首を横に振った。
「……分かりませんっ」
「探してみればいい」
「今の君にとって、沖田君が大切な人なのか。そうでないのか」
セイは今日何度目か顔を上げ、伊東を見つめた。