■想う、時・21■
セイはゆっくりと目を覚まし、腫れぼったい瞼を擦った。
「最近富永眠そうだよな?」
「んー?んー」
突っ伏して眠っていたセイは顔を上げ、頭を揺らし、とっくに授業が終わっていた事にやっと気付くと立ち上がった。
「バイトがキツイのか?」
「んー。んーん?」
「おーい。起きてるか?」
隣の席に座っていた青年は苦笑すると、ぐらりと揺れるセイの肩を掴んで、もう一度座らせた。
そして自分の肩に彼女を寄りかからせると、ほぅと息を吐く。
誰もいない教室で時計の秒針が進む音だけが聞こえる。
暫し、そうしているとセイはゆっくりと目を覚まし、そして体を起こすとゆっくりと肩を貸してくれた相手を見上げた。
同じ学部のいつも同じ講義を受けている青年だった。
学部が一緒なだけあって、大体受ける講義も一緒で、いつも一緒に行動まででは無いけれど気心の知れたクラスメイトだ。
「ありがとう」
「どう致しまして」
にっこりと笑う青年にセイも笑みを返して、椅子に置いていた鞄を肩に掛けるとその場を離れようとした。
すっと、離れる掌を青年の手が握る。
「無理するなよ?」
「うん?うん。ありがとう」
ふと周囲が気になってセイは周りを見渡すと、既に教室の中には二人以外の誰もおらず、目の前の青年の気配が気になって、掴まれたままの自分の掌を見つめた。
見上げると、手を握ったまま、青年が真剣に見つめてくる。
この雰囲気には覚えがある。
まさかと思うけれど、この雰囲気は何度あっても慣れない。
「あのさ…」
「私この後も用事あるんだけど、いいかな」
青年を傷つけないようにそっと彼の掌から自分の掌を逃そうとするが、逃れようとする彼女の掌を彼はぎゅっと握り締めた。
「!」
「ずっと富永の事いいなと思ってたんだ。今、誰とも付き合ってないんだろ。だったら…」
「ごめん!無理!」
「無理って!俺が!?それとも付き合うのがっ!?」
「そういうんじゃなくて!ごめんっ!」
握り締められた手がじわりと冷や汗をかき始める。
今すぐにでも離れたくて、セイは勢いよく手を引き抜いた。そして慌ててその場から逃れようと背を向けると、後ろから抱きすくめられた。
―――ふわり。
「ごめんねー!それじゃまたねー!」
抱き締められる前に難なくかわすと、セイはすぐさま出口に向かい、軽く青年に手を振って教室を出た。
暫く俯きながら何処と無くすたすたと歩き続け、己の内から溢れる感情を落ち着かせる。
誰にも声をかけられないように広い道を歩き、急いでるように装いながらただひたすらに前進する。
人の多い廊下や広間を抜け、人気の少ない教室に入ると、誰もいない事を確認してからずるずるとその場に座り込んだ。
「……危なかったぁ…」
本当は手を握られた瞬間、抱き締められそうになった瞬間、反射的に殴りかかりそうになっていた。
ずっと握り締め続けていた拳を開くと、じっとりと汗をかき、強く握り締めていた痕を残すように爪が食い込んだ痕が残っていた。
「……はぁ」
昔からだ。
いつからかは分からないけれど、いつの頃からかああいう場面に出くわす様になると、背筋が凍り、無性に怖くて仕方が無くなる自分がいる事に気が付いた。
中村のように友人として、異性としての感情が入っていない男性と二人きりになるのは平気だ。
寧ろ男女とかそんな事関係無しに接触する事も出来るし、抱き付く事だって出来る。
ただ、そこに恋愛感情が少しでも見え隠れすると、すぐに拒絶反応が出てしまう。
恐怖心と嫌悪感が全身に一気に伝播し、距離を取らなくては――殺してしまいそうになる。
物騒な事を考えると自分でも思うし、実際にそれで人を殺した事も無いが、そこまでの強迫観念に襲われ、頭が真っ白になってしまうのだ。
「……理由も分かったのに…それでもこれかぁ」
セイは呟くと、小さく溜息を吐いた。
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■想う、時・22■
セイはこの異性と意識した途端現れる物騒な感覚のお陰でまともに男性と付き合った事など無い。
今思えば恋愛感情も無く何となくの流れで本当に付き合ったと言えるのかと思えるような付き合いもした事はあるけれど、それこそ所謂清い交際で、手も繋がない清い交際だった。
それまで普通に接していたくせに、恋人同士になった途端に距離を置く彼女と付き合える男性もいるはずもない。
元々が何となくの流れだったので、結果的には自然消滅という形で終わっていた。
セイも仮にも年頃も娘だ。恋愛だってしたいし、彼氏だって作りたい。
自意識過剰なだけじゃないのか。
自分は一生このまま誰とも恋愛できず、恋人もできないのだろうか。
そう思うと落ち込んで、どうにか克服しようとも思った。
友だちとしてずっと一緒にいても、ある時気が付けば、友情が恋愛感情に変わっている時だってある。
そうやって彼氏が出来ていた友だちだって見てきた。
何故か昔から声を掛けられる事は多かったから、そういう事が起こっても、自分もそんな風に変化しても受け入れられるようになろう。
そう思って頑張ってきた。
それでも駄目なのだ。
どうしても、目の前の人物が友達から異性として自分自身が意識してしまった瞬間に、相手の様子が変わった瞬間に、壁を作ってしまうのだ。
原因不明の感情。
まだ理由が分かれば克服する方法も見つけられる。
理由は少しも思いつかなかった。
親には大事に育てられてきたし、兄はいつも優しくて自分に甘いくらいだった。
自分は覚えていないが幼い頃に男性恐怖症になるような何かがあったのかと勇気を出して聞いても、両親には思い当たる事が何一つ無かった。寧ろ叱られ、心配された。
そんな両親を見て、何かがあるはずがないと確信させられるだけ。
ずっと努力をし続けた。
けれど、ある時から、そんな自分に諦めをつけた。
一生このままでもいいし、もしかしたら、これから将来、触れられる男性が現れるかも知れない。どちらでもいいじゃないか。
自分はこういう自分で生まれてきたのだから、それでいいのだ。と。
そう思って、最近は過ごしていた。
それでも。
「やっぱり、あんな風に過剰反応する自分に凹むなぁ」
好意を向けてくれた青年にも申し訳ない。
もっと傷つけないで済む断り方だってあるだろうに。
あれでは次に会う時に気拙くなってしまう。彼とはこれからも講義で会うというのに。
「理由は分かっても、そう簡単にはいかないか」
セイはすっかり爪の痕の消えた掌を見つめると、小さく呟いた。
「……沖田先生に会ったら…違うのかな…」
そんな夢や奇跡に近い言葉を、呟いた――。
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■想う、時・23■
「お前は生きろ!神谷!」
「お前は沖田先生のかけがえのない存在で、土方副長が唯一大切にしてる人間だ」
「生き残ってくれ!この時代を生き残って、その先の時代を俺たちの代わりに見てくれ!」
「生きろ!」
仲間の言葉が今も耳に焼きついて離れない――。
先にあるのは死しかない彼らの命を、祈りに似た願いを託された。
「っ!触らないでください!」
「どうせ長旅だ、少しくらい楽しませてもらおう」
「捕まえろ!どうせ罪人だ!殺したって誰も何も言わねぇ!」
「逃げ場は無いんだ!素直に啼いてみろ!飯くらいは食べさせてやる!」
腕に足に絡みつく無数の太い腕、無骨な指。
人形を弄ぶように、体を引き裂けようが構わず無遠慮に掴まれる。
―――気が付いた時には無数の肉塊が転がっていた。
「沖田先生…そこにいますか…?」
さやさやと風が揺れる。
「ふふっ……私ももうそろそろいいですよね?」
満開に咲いた桜の花弁が風に舞い、胸元に降る。
胸に落ちた花弁を一つ掴む。
既に刀を振るえなくなっていた指は、小さく震えていた。
胸の痛みがじわじわと体を蝕んでいく。
それさえも、――心地よい。
小さく溜息を落とすと、セイは静かに瞼を閉じた。
―――風が桜の花弁を天高く舞い上げた。
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■想う、時・24■
その日も共同研究の為にメンバーで集まり、各々集めたデータを広げ、どう纏めるかうんうん唸っていた。
セイの通う大学校舎で使われてない少人数のゼミ向けの小さな教室を借りていた。
既に机一杯に紙の資料が散乱し、数人が自前のノートパソコンを持ち込んで揃えた資料や其々の意見をどう纏めていいのか分からないまま、時間だけは過ぎていくのも勿体無くなり、取り敢えずで入力していく。
そして一方でどう纏めるか案を出し合いつつ、最早案も尽き、途方に暮れていた。
「そういや富永。今日、こっちの大学の教授来るんだけどいいか?」
中村が、数字と睨めっこしながらセイに声をかけ、セイは顔を上げる。
「教授?助言してくれるの?」
「んにゃ。進行状況確認だとさ」
学生の論文の出来は、それを指導する教授の評価にも影響する為、学生から教授の研究室に赴き指導を受ける他に、時折こうして教授自ら足を運び指導と進行状況の確認に訪れる事がある。
学生が希望する研究に出来るだけ沿った専門分野の教授が指導に付くので完全に頼り切る事も出来ないが、やはりこれまで幾つもの論文を発表してきた経験と、専門分野に近い分野とは言えエキスパートだけあって、鋭い指摘やより深い推敲と助言を受ける事で、論文にも深みが増し、また今日のように行き詰った学生たちの思考に一筋の光を与えるような誰も思いも付かない意見を投げかけて助力してくれるのだ。
中村の学校と共同研究をしようという提案はセイの学校側の教授からの提案で持ち上がり、その教授のセッティングで顔合わせをしたが、中村側の学校の教授は普段多忙な人らしくその日は学会で出張に出ており、会う事が出来ず、その後改めて挨拶に現れてくれたそうだがその時は逆にセイが丁度アルバイトの抜けられない日で結局会う事が出来ずにいたままだった。
「ちょっと…変わってるんだが、でも!知識は豊富だし、学生にちゃんと分かりやすく教えてくれるいい先生なんだ!」
「そうなんだ」
突然顔を上げ力説する中村につられてセイも顔を上げると頷いた。
彼がこれだけ力説するという事は本当にいい先生なのだろう。
他のメンバー、セイと同じ大学のメンバーも頷いている。
学生を大切にしてくれる先生なら、性格が少し変わってるくらい、全然問題無しだ。
世の中には自分の研究に没頭し、講義をほぼ休校にし、それでいて自分の著書だけは教科書としてしっかりと学生に購入させる教授もいくらいなのだから。
ただの進行状況の確認だけかも知れなくても、助けを求めたら、もしかしたら今のこの停滞した状況を打破してくれるかも知れない。これから来る教授にそんな一縷の望みをかけた。
何しろ、数字と睨めっこしつつも既に思考力はパンクし、もう手も足も出ない状態なのだ。
「うちの先生も頼もうかなぁ…ふぁ…」
「最近欠伸多いな。ねてないのか? 」
中村が手に取ったままのシャープペンを指の上でくるりと回し、セイを心配そうに見る。
研究は一緒でも学校が違う二人なので、同じ大学に通う他のメンバーと比べればやはり会う頻度は少ないが、それでも最近顔合わせをする度にセイは少しずつ何処か憔悴し、眠そうにする事が多くなっていた。
「そういう訳じゃないんだけど。あんまり夢見が良くないというか、そんな事も無いというか…」
「どっちだそれ?」
「既に終わった事なのに、うだうだ思い出す性格だったんだなぁ。と自分に自分で呆れてみたり、過去の事と分かっていても疲れるのよね。とか思ってみたり?」
「何か嫌な事でもあったのか?」
本気で眉間に皺を寄せ、ずいと近づく中村にセイは慌ててぱたぱたと手を振った。
「ごめんごめん!そんなに心配させるつもりはなかったんだ!全然平気!」
「確かに中村君の言うとおり、最近富永さん顔色良くないんだよね。大丈夫?」
「言っていいのか分からなかったから俺も言わなかったけど、無理するなよ?」
中村の発言に、それまで気にしつつも上手く声をかける事が出来なかった他のメンバーも口々にセイを気遣う言葉を掛け始め、セイは今度こそ慌てた。
「そっ、そんなに心配掛けてたんだ!本当にごめん。大丈夫だから」
そんなにあからさまに体調不良を見せていたつもりは無かっただけに、気付かれていた事に恥しさと申し訳なさが入り混じり、セイは謝罪する。
「そうは言っても、やはり少し顔色が良くないね。神谷君。薄幸美というものもあるが君にはその言葉は似合わないな」
ノックの音と教室のドアを開けるのと同時に掛けられた声に、セイは振り返った。
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■想う、時・25■
振り返った人物を見た瞬間、セイは目を大きく見開き、そしてその後どういう表情を見せていいのか戸惑った。
そんな彼女の様子を満足そうに見つめていた人物に、中村が椅子を立ち上がり、駆け寄る。
「伊東先生!何言ってるんすか。彼女が富永っすよ!」
中村の指摘に、うむと頷き、伊東は「そうだったね」と相槌を打つ。
しかしすぐにちらりとセイを見ると伊東はにこりと微笑む。
セイは暫し固まって動けなかった。
中村の時も見間違う事は無かったが、誰に出会ってもこんなに一瞬で分かるものなのか。
それとも彼だからだろうか。
そんな風に混乱せずにはいられなかった。
――伊東先生だ。
あの頃と容姿も所作も多少違えど、あの頃からの独特の雰囲気は変わらない。
そしてセイにかける言葉さえも。
独特の不思議な言い回しはあの頃と変わらないままだ。
もしかしたら気付かせる為に言ったのかと一瞬頭に過ぎったが、彼は他の女子にも同じような表現で挨拶をしていた。
「富永、この人が俺たちを指導してくださる教授で伊東先生だ。…って何笑ってんだよ」
「ごっ…ごめんっ…ふっふふっ…くく…」
「泣くほど可笑しいか?」
俯いたかと思ったら、肩を震わせ声を殺しながら笑うセイに、中村がむっとする。
初対面なのに笑うのは失礼だと思って必死に堪えているのは分かるが、それでも理由も分からず笑うセイに、彼は戸惑い、伊東が気を悪くしていないか振り返った。
「いや。かみ…いや、富永くんとは、初対面だと思っていたけれど、実は会った事があるんだよ」
「えっ!?そうだったんすかっ!?」
まさかの理由に中村が驚くと、伊東はただ笑みを返す。
「そう。昔ね。昔から彼女は誰よりも敏く、そして美しかったよ」
「……何年前の話っすか?」
伊東の年齢から考えて『昔』と言えば、それなりの年月を言うだろう。そこからセイの年齢から考えれば数年前の彼女を『美しい』と表現する年齢だったとは思えない。『可愛らしい』とかなら分かるが。と思い、中村は思わずツッコミを入れてしまう。
「そうだねぇ。いつ頃の話かな。ねぇ。富永君」
掛けられる何処か過去を懐かしむような、柔らかな声色にセイは顔を上げて、伊東を見る。
――彼は前世の記憶を持っている。
過去の記憶を持った人に、初めて出会えた。
その今目の前にある現実は、セイに不思議な感情を抱かせた。
嬉しいのか。
悲しいのか。
分からなかった――。