想う、時4

■想う、時・16■

「富永はさ、これどう思う」
机を挟んで目の前の青年は唸りながら何度も目を通していた書類を、セイの目の前に差し出した。
「――」
いつもならすぐさま彼女から返ってくる返答が、返ってこず、不信に思って顔を上げ、彼女を見た。
視線を合わせると、セイは何処か遠くを見るように自分を見ていた事に気付き、思ってもいなかった彼女の行動に驚いて少し身を引いた。
「どうした?」
「ふぇ?」
セイはぼんやりとした表情のまま、やる気の無い返事を返す。
「本当にどうした?」
「んー。いやー。長い夢から醒めたような、夢の中にまだいるような…ねぇ」
「大丈夫か…?」
いつもと余りにも違う彼女の様子に、青年は己の手を彼女の目の前に翳し、左右に振ってみるが、彼女の言う夢の中から戻ってくるようすは無く、ぼんやりした表情のままセイは呟いた。
「また中村と再会するなんて不思議な縁だなぁと思って」
「はぁ?お前と初めて会ったのはこの大学でだろ。しかも今やってるこのゼミで!その前に会った事なんてないだろ」
「そうだよなぁ」
「そうだよ。っていうか、お前どうしていつも俺と話す時だけそうやって男言葉になるんだよ」
中村にそう問われ、セイは突然覚醒したように目を見開き、ずいと彼に近づくと笑った。
「そうそう!その謎も解けたんだよ!仕方が無かったんだ!昔からの癖ってやつ!」
「はぁ?」
セイの目の前に座るのは、間違いなく生まれ変わった中村五郎。
容姿や格好は幕末の頃とは若干違うけれど、その仕草も、その態度も、何よりも雰囲気が以前と何も変わらない。
現世で初めて出会ったのは、セイが通う大学のゼミでだ。
短大と大学を兼ねている大学の校舎は広い。その上この大学の近隣には似たような分野の大学が幾つか点在している。
今回、中村の通う大学のゼミとセイの通う大学のゼミが同じ題材を扱った研究をしている事が分かり、共同研究という事で取り組み始め、ゼミ生同士初めて顔合わせをした時に知り合った。
顔合わせという名の飲み会で隣に座った時、互いが互いに不思議なくらいの親近感が沸き、そして実際に話してみたら話が合った。しかも何故かセイは彼に限って男口調になり、しかもそれに違和感無く中村も返答を返す。そしてそれ以来ゼミの件は元よりそれ以外の時間も共有する事が多くなり、何かにつけて互いの大学を行き来するようになった。
今も目の前に広げられているのは彼ら二人の他の仲間が集めてきた研究資料だ。
それを元にどうするかという話をしている所だった。
「でも、昔と違うところもあるよな」
「何が」
「今は可愛い彼女がいるもんな」
そうセイがにんまりと笑って言うと、中村は顔を真っ赤にして「悪いか!」と答えた。
彼の携帯電話の待受はその可愛い彼女の写真になっているのをセイは知っている。
幕末の頃は何かにつけセイに迫っていたが、今はきっとそんな感情も沸いてないだろう。
「彼女がいなかったら私が立候補してたかなぁ」
「馬鹿言うな。会った時から男にしか見えねぇのに、女扱いできるか!」
「だよねぇ」
はっきり断言する中村に、セイは大笑いする。
彼はあの日、あの時、死んでしまったが、きちんと彼の生を生き抜いたのだ。
後悔や未練があったかどうかなんてそんなの本人にしか分からない。
知る権利も、聞く権利も無い。
けれど彼は生ききった。
だから、また新たな今を生きている。
それだけの話。

私は。
私は生き抜いて、そして生ききった。
ただ、偶々過去を思い出しただけ。
それだけの話なのだ。

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■想う、時・17■

過去を思い出したからといって、何かが変わる事は無かった。
セイは今を生きてるし、今の生を精一杯生きている。
過去を思い出して、じゃあそれを懐かしむのか、と言ったら、それは違うように思えた。
テレビでよく見る、過去世やら来世やらどうやらとうものに当てはまるのかも知れないが、思い出したからと言って、実際その事によって何か素晴らしい事が起こるのかと言ったら当然そんな事は無かった。
それに、過去世の一つを思い出したからといって、その過去に出会った人に再び出会えるかと言ったら、中村が偶々だっただけに過ぎない。普通会えるはずもないのだ。
じゃあ、その中村が過去に出会っていた人間だったのだ、と知ったところで、そこで行き成り親近感が沸いて、心の距離が近くなるのかといったら、そんな事は無い。――今出会って、今の関係があって、仲良くなっただけで、過去は関係無い。偶々昔も会っていたのだ。それだけの事実がそこにあるだけしかなかった。
よく大げさにテレビでは煽っていたが、思い出したセイ自身、大したものではないな。と感じていた。
流石に年齢を重ねると、子供の頃の出来事全てを覚えているかというと難しくなってくる。けれど時折、ふと、思い出したように記憶が蘇ってそんな事もあったなと懐かしくなる事があるだろう。
セイにとって過去世とはそれと同じだなと思っていた。

冷たい風が吹き抜ける中、桜の花弁が舞う。
今年の桜はもう既に一度散り際も見ていたはずなのに、満開の桜が今ぞ春と咲き乱れる。
「不思議だろう。神谷。こちらでは江戸に比べ一月遅れて春が来るそうだ」
セイの隣に立つ土方は穏やかな表情で目の前の桜を見つめていた。
会っていなかった期間はそれ程でも無かったはずなのに。
この人はこんなにも穏やかな表情をする人だっただろうか。
セイは幾度も疑問が浮かぶ。
函館に辿り着き、彼に再会した瞬間、果たして本当に同一人物だろうか。と一瞬疑った。――直接聞いたら一発殴られたが。
変わらない。変わらないはずの彼だが、憑き物が落ちたように穏やかな表情を見せ、周囲の人間に今までの彼とは思えない人間像を沢山聞かされた。
元々本質がそうだったのか。
次々と起こる事象に変質していったのか。
桜を見上げる土方は、ふと笑みを浮かべた。
「…一度は…総司と見たんだろ。二度も見られるとは、お前も運がいい」
果たして自分は運が良いのだろうか。
セイは首を傾げる。
「それはそうと、お前、市村と行けと俺は言ったはずだが」
そう言って彼はセイを見るが、すぐに悟ったような呆れたような表情を見せ、そしてまた桜に向き直ると苦笑した。
「そうだったな。お前は総司を連れて、新選組隊士として戦に来たんだもんな」
セイは己が腰に刺す脇差に、無意識に手を触れた。
柄に触れれば、彼の人の温もりが手の中に戻ってくる気がした。
彼女には大き過ぎ、且つ重い。脇差というより大刀並みの長さがある。それでも、それだけは手放す事は出来なかった。
本来なら誰よりもここで、土方と共に戦う事を願っていたはずのあの人の大刀は重過ぎて持ち運ぶ事も出来ず、遺骨と共に寺に納めてきた。だから、これだけは手放せない。
「……ちゃんと泣いたか?」
桜を見つめたまま、ぽつりと土方は呟く。
「――」
「そうか」
何も答えないセイに、土方はただそう返す。
「いくぞ」
それまでの穏やかな口調から一変し、土方ははっきりとセイに呼びかけた。
「はい!」

――それを最後に、彼と語らう機会は二度と来なかった。

セイはバイト帰りに自転車をこぎながら、つい昔を思い出していた自分に気付いて、慌てて目の前を意識した。
幸いに誰にもぶつからなくて済んだが、いつ人や車にぶつかるとは限らない。
空はもうとっくに日も暮れ、暗闇の中で人がいる判別をするのは中々難しくなる。余計に事故になりやすい。
ふぅと一つ溜息を吐いた。
彼女の家は大きな通りから少しだけ離れて、人通りの少ない閑静な住宅地に入る。
人のいない通りは心許無く、街頭の明かりに少しの安心感を得て、自転車を走らせた。
「危ない。危ない」
ハンドルをしっかりと握り直すと、帰路を急ぐ。
自転車の籠の中にある、今日のバイトで作った余り物の入った袋がかしゃりと籠を鳴らして揺れた。

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■想う、時・18■

「神谷っ!」
そう誰もがセイの名を呼び、駆け寄ると同時に、その異様な光景に、思わず目を見張った。
元々一番隊士で体力も剣術も勝る隊に所属していたとは言え、隊で最も小柄な隊士だった。
その彼女の背に、大の男が一人担がれている。
ただでさえ力の抜けた人間の体は重い。その上己の体重以上の重さを担ぐ彼女の足は、一歩、一歩と踏みしめる度にぐらついていた。
「副長は――打たれました」
セイは男を背に乗せたまま、その場にいた仲間たちに静かに告げた。
汗ばむ背中に先程まで聞こえていた呼吸音はもう無い。
脈拍も体を通して感じる事は無い。
僅かにあった温もりは肌寒いこの北の大地の風に冷やされ、魂の在り処は既にここでない事を知らしめていた。
唇を固く結び、瞳に強い光を宿しながら、背に土方の亡骸を担ぐ、セイのその姿は、見る者に恐怖と畏怖を印象付け、誰もがじりりと後退さった。
言葉にするとすれば―ーそれは。
生が死を背負う。
相反するもの二つがその場に存在していた。
手を貸そう、そう差し出そうとする手が怯え、震えて彼女の前に差し出す事が出来ない。
彼女は何も言わず、一歩、また一歩と歩みを進める。
誰も視界に捕らえず、ただ前に進む。
集まっていた仲間たちで封じられた道は、自然と彼女の為に開かれていった。
彼女の足跡には、はたり、はたり、と土方の衣装と重なる彼女の背を伝い、赤くどろりとした液体が零れる。
「神谷!俺もっ!」
そう声を振り絞り、かけられた声の主を振り返る。
古参で京都から彼女とほぼいつも同じ組に所属してきて共に戦ってきた人物だ。
彼に任せれば安心だ。そう張り詰めた空気が和らいだが、当の二人は暫し見詰め合うと、セイは大きく首を横に振った。
「どうか私に任せてください」
いつだって誰よりも涙もろくて。
いつだって誰よりも意志が強くて。
いつだって誰よりも眩しく輝いている。
そんな彼女の生き様に救われてきた人間は多い。
そんな彼女が、この期に及んで直も強い光を宿しながら請う願いに、――逆らえるはずがなかった。
古参の隊士は道を譲り、そして、彼女は一歩、また一歩と歩みを進める。
大地を踏みしめて。
その歩みに踏みしめられるものは、自戒なのか、前進なのか。

――彼女が彼を何処に埋葬したのかは、誰も知らない。
まさかの土方の喪失で混乱していた隊は、気が付いた時には既に彼女は戻っていた。
いつものように、いつもの如く、まるで土方を喪失た事など無かったかのように、平然と仕事をこなし、笑みを見せる。
何も変わらないはずなのに、彼女の何かが変わった気がした。
しかし、彼女に真相を問う者は誰もいなかった。

――その数日後、後に最後の新撰組隊士と呼ばれた人物は降伏を決断した。

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■想う、時・19■

「セイ!」
声をかけられて振り返ると、いつも講義を一緒に受けている友人がこちらに手を振っていた。
セイは開いていた本を慌てて閉じると、友人の元へ駆け寄る。
「珍しいね。セイが本屋なんて…」
「本屋くらい、私も来ます!」
からかう友人にセイは頬を膨らませて反論すると、友人は最初から彼女がそう返す事を分かってか、悪戯っぽく笑うと、言葉を続けた。
「あ。間違った、間違った。漫画は読むもんねー」
「コラコラ」
日頃の自分に対する友人の認識にセイは苦笑してしまう。
「でも珍しいね。あんな歴史書のコーナーに用事あるの?」
「うん。まーねー。偶には私も昔の事知ってみようかと思って」
さらりと問われた疑問に、一瞬ぎくりと体を強張らせながらも、気づかれないように平然と返す。
「ふーん。時代は?」
「幕末」
「ま…マニアック。歴女?今流行の歴女になるの?」
「歴女って…そんな詳しくないよ」
今、歴史が好きというとそういう風に思われるのか。とセイは内心驚きながらも、まぁ、自分が過去の事を思い出す前に自分のように友人に同じ事を切り出されたのなら、同じ事を思うかと思い納得させる。
逆にそれくらいの軽い気持ちで何も知らない人にも受け取られるのなら楽だなとも思った。
往々にして人はほぼ無意識に、己に理解できるものには共感を覚え、理解できないものには反発するものだ。
それが個人が大切にしていた気持ちでも、容赦なく人は自分の持つ価値観を世の中の常識に変え、可か否かを判断する。
だからこそ『歴女』だったり『オタク』だったり何かしらの括りをつけてしまえば人は納得しやすいものだ。
理解できないものでも、最初から自分には理解できないものを相手は好んでいるのだと決着を着けてしまえるだけだからだ。
そして詳しく問われる事も無い。――己の過去世について調べてました。と言う事も無い。
後は問われるとしても…。
「えー。で、誰が好きなの?」
予想通りの問いを投げ掛けられた瞬間、分かっていたはずなのにどきりと胸が弾むが、それは顔に出さず、努めて冷静にさらりと答えた。
「沖田総司」
「おきた…沖田…オキタ…何してた人?」
「っ!?…っとー、新選組って知ってる?」
まさかの『沖田総司』という名も知らないという友人に、「何故!」という驚きの問いと共に、彼の人の人物像を語り出しそうになる自分をどうにか必死に自制し、知らない彼女の為にまた冷静に返した。
「新選組なら聞いたことある!えーっと、何か色んな所に名所?が残ってるよね」
「そ…そうだね」
「何でだかよく分かんないんだけど」
「……さぁ」
セイは曖昧に笑うと、別の話題に切り替えた。

思いがけず動揺した自分にセイは驚いていた。
もう、過去の事だ。
そう思って割り切っていたはずなのに。
つい、本屋を覗けば、新選組に関する書籍を手にとってしまう。
『沖田』と名を聞けば、どきりと胸が痛くなる。
あの人の最後は私が看取ったのに。
あの人の生き様は、新選組の最後は、その場に立ち、その場で見、その場で聞き、その場で感じ、全てを見取ってきたはずなのに。
歴史書を読んだって載っていない。
歴史的事実は載せていても、あの時の想いも、願いも、痛みも、真実も、何も載せてはいない。
本当に、あの場にいなくては感じ取れない全て――。
そんなものは書き出す術が無い事も知っている。
人の言葉、人の感情が交えた過去は、伝聞から集められた過去は、真実を歪める。
歴史書に感情はいらない。
それでも。
それでも、あの時代に、あの場にいた人間として、どうしようもない切なさが胸に溢れる。
自分の知りえない情報があったのではないのか。
別視点から見た、後の世から見たあの人を、新選組を知りたくなった。
文芸書のコーナーに行けば、新選組隊士と女性との甘い恋物語も沢山書かれている。
改めて見れば、それは新選組という隊に想いを馳せる人がいるほど多く出版されていた。
「…ばかみたい…。何で物語の中の先生の相手にまで焼餅焼いてるんだろ…私……」
そう呟いてみるが、つい手に取って、読んでしまう度に、胸は痛み、そして、いつ頃か新選組関連の書籍を読むのを止めた。

きっと思い出した今だけの感情だ。
思い出したから昔の感情に引き摺られているだけなのだ。
そのうち沖田先生への想いも、過去の事だと割り切って読めるようになる。
そう呟く自分の言葉が、酷く虚しかった。

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■想う、時・20■

蒼い空が広がっていた。
雲一つ無い空の中を、時折散り始めた桜がひらりひらりと風に乗せられ昇っていく。
足元には、黒い衣装を纏った、男たちが倒れている。
一人、二人と、己の命を賭しその最後まで武士として生き切った者たちの肉体はその場に置き去られ、昇っていく桜の花弁が、まるで彼らの魂が昇華され一つ、また一つと昇っていく様だった。
「――」
一人その場に立ち尽くす。
手の中には、彼の人が己の為にと頼み込んで拵えてくれた、大刀。
ぎりりと握り締めると、既に幾日も握り締め続け擦れて皮の破けた掌に痛みを与える。
大地の上で眠る彼らと共に揃えた黒い隊服は、数え切れないほどの人の怨嗟と血を含み続け、重くなっていた。
最後の砦となった山を見上げる。
春になり始めたばかりで、まだ葉も芽吹き始めたばかりの山は、薄漕げた色をしており、身を隠していた隊士たちを燻りだす為に放たれた火が未だ幾つかの箇所で燻っており、黒い煙が空を焦がしていた。
冷たい風に含まれて、流れてくる錆びた鉄の臭い、腐臭。
手に残る、生きたままの肉を斬る時に残る独特の感触。
「……」
顔を上げたセイは、こくりと喉を鳴らした。
瞳は彼女に世界を映し、現実を見せてくれる。
何処までも残酷で、何処までも優しい。
真実から逃れる事を許さず、真実を受け入れさせてくれる。
耳に残るのはついさっきまで会話を交わした、今は足元で眠る仲間たちの言葉。
瞳が零れる波紋で揺れる事は無かった。
「……っ……はぁ…」
息を吸い、そして、吐き出す――。
暫し、そうして、同じ動作を繰り返し。
「っ!」
突風が彼女の髪を揺らし、頬をなぞり、何処とへ誘う様に空へ舞い上がった。
続くように、桜の花弁も彼女の背を越え、昇っていく。
目を見開き、ぎゅっと無意識の内に両手で拳を作る。
そして、彼女は――微笑んだ。

一歩。一歩。
彼女は歩み始める。
仲間の屍を超えて―――。