想う、時14

■想う、時・66■

思い至れば簡単な事だった。
好きな人だから、触れ合う事ができる。
それだけだった。
セイは努力した。
恋人になった人に触れる努力を。
異性として意識しながらも恋人として接する努力を。
好きになる努力を。
――好きになる事を努力をしてる時点で、間違っていたのだ。
本当に好きになる人なら、努力をしないでもなっている。
好きな人になら、触れられる事も、触れる事も出来るのだ。
昨日、道場で横になっているセイにキスをした総司に殺意を抱かなかったのは。――もう、好きになっていたから。
過去に好きだった人だから、今は好きじゃなくても触れられたのか?と一瞬抱いた思いは、総司からひたむきに向けられる想いで払拭された。
過去と今の邂逅に翻弄されていたセイを抱き締めてくれた総司には少しの迷いも無かった。
彼の眼差しは、出会ってからいつだって過去のセイを今のセイに重ねるのではなく、過去のセイも今のセイも丸ごと、セイ自身に一心に想いを向けてくれていた。
土方が過去の記憶を求めても、斎藤が過去の経験を求めても。
総司は出会ってから一度も口には出さない。
彼の知らない過去のセイを見て、違和感を、恐怖を感じていいはずなのだ。
彼の知らないセイがそこにいるのだと、もっと批判しても良いはずなのだ。
土方や、斎藤や、近藤が、そうしたように。
あれがきっとセイを見た普通の反応。
『貴女は神谷さんじゃない』。そう言われる覚悟だって持っていたのだ。
それなのに。
『貴女の力は…人を生かす為の力ですね。人を殺めない為の力。そうやって努力してきたのでしょう?』
そんな事を言うのだ。
『どんな相手が現れても、決して殺める事で生き延びる事を出来る限り少なくて済むように、貴女は殺める力を超えて殺さない為の力を身につけた』
過去に出会った誰にも、近藤も土方も斎藤も誰も、セイが強くなった真意を知る事など無かったのに。
過去セイに生き抜く事を求めた彼は、ただ、
『生きてくれてありがとう』、
それだけを真摯に伝えてくれる。
何処かで総司は見抜いていたのかもしれない。記憶を取り戻したセイが再び彼らに出会うのを戸惑っていた事を。
『また、出会ってくれてありがとう』。
彼は何も問わずそれだけを伝えてくれる。
「沖田先生が好きなのは今の私ですか?それとも神谷清三郎の頃の私ですか?」
そんな事を冗談交じりに問えば。
「セイさんが好きですよ」
と、あっさりと答える。
過去の富永セイも今の富永セイも、セイはセイで、セイ自身を想っているのだと。彼は即答する。
「はっ!?もしかして神谷さんは、昔の私の方が好きですかっ!?…えーっと、昔の私は野暮天ですよっ!?それに剣術馬鹿ですしっ!近藤先生と土方さんは今も大好きですけどっ!それは神谷さんの好きとは全然違っていて!今の私の方が神谷さん一筋でお買い得ですよっ!?」
本気で焦って返す台詞に、総司の中に過去の自分も今の自分との蟠りも何も無い事が良く分かる。
後々聞いたことだが、生まれた瞬間から過去の記憶があったという彼はセイが抱いていたような感情などとっくに乗り越えていたのだろう。
だから、過去と今に何も差異は無い。
過去も今も全てを抱いた上で、自分は沖田総司なのだ。という確固としたものが既に彼にはあるのだ。
繋いだ手からは、あの頃と同じ、それであの頃と違う感情で伝わる温もりが、セイを温めてくれる。
交わす会話はあの頃と同じようで、あの頃と違う。けれど決して齟齬は無い。
ただ、好きだから傍にいたい。
ただ、好きだから傍にいる。
それだけの単純な感情を、セイはずっと忘れていた。
過去を思えば、そんな感情に蓋をしていた己にも仕方が無いと思う。
けれど、もう、いいのだ。
――本当に、今も昔も沖田先生には敵わない。
セイは隣をあの日と同じ様に歩いてくれる総司が眩しくて敵わなかった。

吹き抜けた風は――。
総司とセイ二人の間をすり抜けて、空高く上っていった――。

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■想う、時・67■

「…伊東先生は凄いなぁ…何処まで見抜いていたんだろう…」
セイは自分に宛がわれた部屋で、窓を開け、夜風に当たりながら、ふとそんな事を呟いた。
既に布団を敷き、寝巻き代わりに宛がわれた浴衣を纏いながらも、何となく眠れずにいた。
ずっと寝不足が続いていたが、今日こそはゆっくりと眠れると思っていたのだが、それでも何となく布団の中に入れずにいた。
それはずっと靄となって積もっていた重い感情が解放された興奮からのような、それでいて、自覚は無かったがずっと強張っていたらしい緊張から開放され全身から力が抜ける気だるさが心地よく、やや火照っている頬に優しく触れる夜の冷たい風が心地よかった。
それも全て、――総司に出会えたから。
彼を思い浮かべるだけで、とくりと鼓動が鳴る。
そんな自分にセイはくすりと笑ってしまう。
再会するよう背を押してくれた伊東へ感謝の気持ちで一杯だ。
今思えば、伊東とカフェで話をしていた時の自分は頑なだっただろうと。思う。
過去を思い出して間もないから仕方の無いことなのだろうか。
前世の記憶の一部を思い出して全てを思い出したつもりになって、それ以上思い出すのを拒み、前世の記憶を持った人と言葉を交わす事を拒み、総司と再会する事を拒み、過去を全て終わったことにして今を生きる、前だけを向いて生きていく。それが正しい事なのだ。と、そんな風に過去の自分を受け入れているつもりで、昇華しているつもりで、少しも前世の自分を受け入れていなかった。
前世を思い出した自分を受け入れる事が出来なかった。
終わったはずの事を何故思い出すのかと、自問自答するくらいに。
挙句、総司との温かな思い出も、大切な感情も、懸命に生きた過去の己を否定した。
思い出した事に向き合う事もしなかった。
思い出す事に理由があったのかどうかは分からない。今も思い出してよかったと思えるかと言ったら分からない。しかし、思い出したからこそ総司に出会えた。遅かれ早かれ会えたのかは分からないが、記憶はきっかけだというのなら確かにそうだろう。だからこそ今この時に出会えた。そしてそれは最良なのだと思う。
けれど、総司と再会する前の自分を振り返れば、思い出した以上逃げるのではなく向き合えばよかったのに、セイは拒絶した。
向き合った上で、やはり今度こそ本当に思い出にする事も、現世でも捕らわれる事も、忘れる事も、選ぶ事ができたのに、選ぶ事さえも拒絶した。
『君は過去を受け入れる事が怖いんじゃない』
そう伊東には言われたが、そんなのか買い被りだ。
前世の人たちを傷つけたくないと思い遣るようなふりをして、誰よりも自分が一番傷付きたくなかった。
「…はぁ」
己の心を整えるのに一つ息を落とす。
確かに――思い出したくない記憶もあったと言えばあった。
今も総司に言えない湧き上がる感情もある。
それでも、それは生きている以上大なり小なりあるものであって、都合よく自分にとって良いものだけ記憶に残せるようにはなっていない。
前世の記憶の今世の記憶も同様だ。
確かにそれも己に刻み込まれた記憶であり、変える事の出来ない事実である。
己の糧にする経験というには痛みの代償の大きい記憶ではあるが。
――人を好きになる事に恐怖し、殺意という変換をする事で己の自我を保とうとするくらいに。
過去の事だと分かっていても、納得していたはずでも、今も体の芯が凍えるような感覚がセイを貫く。
鍛錬をする事の無いあの頃よりも白く細い腕を上げると、過去につけられた痕が記憶と重なり赤黒く蘇るように見えて、腕を振った。
一瞬にして強張った体から、力を抜く。
これだけはゆっくりと自分で自分を宥めていくしかない。
総司だけは、彼だけには、本当に好きな人にだけは触れられると知ったのだから。
それだけでも、記憶を取り戻して頭で理解しても尚続いていた、男性に抱く感情やそれまでずっと異性を警戒し強張り続けていた体から一気に力が抜けたような気がした。
そっと、もう何度目になるか分からない、セイは自分の唇にそっと触れた。
一度触れ合ったら、もっと触れたいと思う。
心臓が痛いほど高鳴って、身体が火照った。
そんな感覚が湧き上がった自分が恥しく、そして嬉しかった。
人を好きになるという事、ただ真っ直ぐに想う事を思い出したから。
「…いっそ原田先生のように自分の気持ちに単純になればよかったのかなぁ」
『今も昔も俺の嫁はおまさだけだ!』。そんな風にセイも思い出してすぐに総司に対して思えれていれば。と思うが。
もっと単純に、色んな事考えずに自分に素直になれればよかっただけなのだろうけれど。
そして、もっと、自分を迎え入れてくれた人たちを信じていれば、勝手に人の感情を予測して、察しているような気をしながらも彼らを傷つけなくて、もっと上手く再会できたのだろうに、セイの自分の至らなさが情けなくなる。
前世から今世まで年齢だけを重ね、世の中を、人の感情を、悟った気になっていた未熟な自分を恥じる。
総司と四条大橋で合流した後、約束通り総司と幾つか京都のスイーツ店を巡り、近藤の家に戻ると、玄関に飛び出てきた近藤に抱き締められた。
朝の一件もあり、その後話す事も無くばたばたとセイは家を出たから、何となく蟠りを持ったままで、家に入り辛かったセイの心情を既に見抜いていたのか、総司が背を押すように中に入ると、近藤が「帰ってきてくれてよかった!」、「すまなかった」、と、何度も叫びながらセイを抱き締めた。
斎藤も朝稽古後も帰宅する事は無かったのか近藤の後ろでセイを出迎えると、「帰ってきてくれてありがとう」と小さく囁かれた。
そして、居間に入ると、入った入口正面に土方が腕を組んでに座っており、セイを睨み付けると「そこで座って待ってろ!」と言われて、素直に座って待っていると、大量のお菓子が頭の上から降ってきた。
良く見ると、高級で有名な菓子が一包みづつ箱や袋に入ってセイの腕の中に納まらないほどで、足元に転がった。
何が何だか分からないまま土方を見上げると、「ふんっ!」とだけ言って、そのままその場を去っていった。――夕食に呼ばれてすぐに戻ってきたが。
早速とばかりに隣にいた総司や、近藤の子どもたちが、セイよりも先に菓子の袋を開け、食べていたが、総司曰く「あれでも土方さんきっと昨日の事や今朝の事気にしてるんですよ」という事らしい。相変わらず素直じゃない男だ。
ただ。
「……皆、本当に…優しいなぁ…」
そんな言葉が素直に漏れる。
あの時と変わって、そして変わらず、誰もが優しい。
――温かい。
「……何も心配する必要は無かったんだな……」
「何がですか?」
突然目の前の襖の向こうから声がしてセイはびくりと体を震わせた。
声の後に、すっと襖が開くと、セイと同じく寝巻きの浴衣を纏った総司が顔を出した。
過去の総司と重なり、セイは一瞬どきっとする。
しかし、そんな彼女の様子には気付かず、総司は抱えていた荷物と共に中に入ってきた。
「…沖田先生、何ですかその布団はっ!?」
抱えていた荷物、総司自身が使っていたのであろう布団を彼は運び入れると、どさりと床に置く。
「一緒に寝ようと思って」
さも当然のようににこりと微笑むと総司はそう答えた。

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■想う、時・68■

「一緒にって!?」
セイは動揺に思わず大きい声を上げてしまい、総司に人差し指を立て「しー」と窘められてしまった。
今はもう近藤の家の者も皆寝静まり、恐らく起きているのはセイと総司だけだ。
「だって明日には神谷さん帰っちゃうし。私もっと神谷さんと一緒にいたいんですもん。ほら、昔だって隣に布団敷いて一緒に寝てたじゃないですか」
「だって!それは!あれは武士だから!私は男としてお傍にいただけですし!」
「男同士じゃないと私とは一緒に寝てくれないんですか?…恋人でも一緒に寝ますよね?」
「うっ!」
その言葉にセイは言葉に詰まる。
「私たち恋人同士になったんじゃなかったんですか。好きですって言い合うだけで、それだけですか。私一人でもう神谷さんとは恋人同士になっていたと思ってたんですけど。私の独り善がりですか」
「せ…せんせい?」
どんどん黒い瘴気を出しながら呟き続ける総司に、セイは困惑する。
「…神谷さんは元彼さんとは一緒に眠れても、まだ私とは一緒に寝てくれないんですね。そうですよね。昔は一緒の布団に眠るさえしてたけど、今の私に出会ってからまだ一日ですもんね。まだ全然他人ですもんね」
そう言うとゆらりと立ち上がり、一度降ろしていた布団を再度抱え上げると、ゆっくりと戸を開けて部屋を出て行こうとする。
「あー!もうっ!沖田先生一緒に寝ましょっ!?」
セイが声を掛けるが、総司はゆっくりと首を回してセイを見つめるだけで、まだ疑心暗鬼の眼差しを向けてくる。
「沖田先生と一緒に寝たいです!傍にいてくださいっ!」
これでもかと、セイは顔を真っ赤にして総司の視線から逸らさずに真っ直ぐに見つめ返して言うと、一瞬にして彼の表情は明るくなり、顔を真っ赤にするともじもじしながらいそいそと自分の布団をセイの隣に敷き始めた。
頬を染めながら軽やかな手つきで自分の布団を敷いていく総司を見つめながら、セイはふつふつと焦燥感が湧き始め、居た堪れなくなってくる。
一緒に寝るなんて、よく考えれば、いやよく考えなくても、実はかなり大胆な事をしているのではないかと、今更気付いたのだ。
さっきも自分で彼に言ったように、確かに前世では武士同士、男同士として、同じ部屋で眠っていたが、それは男としてだ。恋人同士としてでも何でも無い。
今は異性として意識して、恋心も確かめて、しかも――恋人同士だと総司は認めてくれている。いや自分でもそう思っていたが川辺でははっきりと互いにお付き合いをしましょうとかそういう話をしなかったので、確かな事のように感じていなかったのだ。
つまり、恋人同士が同じ部屋で、しかも前世と違って二人きりで、一夜を共にする。
更に、総司に煽られてとはいえ、セイから誘った形だ。
それはつまり。
目の前の総司を異性なのだと、そして恋人なのだと、意識すると急激に心臓がばくばくと一気に高鳴り始めて落ち着かなくなる。
いや、そういう事を望んで彼が部屋に来たのではないのかもしれない。
一緒に寝ましょうと言いながらも、セイの隣に自分の布団を敷いているし、やはり前世と同じ様に隣に布団を敷いて、一緒の部屋に寝たいだけなのかもしれない。
もしかしたら昔語りでもしながら眠りにつくのをしたいだけかもしれない。
いやいや、でも、恋人同士とか言ってたし。
こういう状況の時どうしたら良いのか分からず、ただ血が上る頭と熱い頬を宥めようとするが、下手に手で触れたり仰いで見たりしてみれば総司に自分の動揺が見抜かれてしまいそうで、それはそういう事を期待しているように見せているようで、どうしたらよいか分からず、ただ彼を視界に映す事さえ気恥ずかしくて俯いているところに、総司から優しく囁かれた。
「大丈夫ですよ。神谷さんがいいって言うまで触れませんから」

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■想う、時・69■
かけられた言葉に、セイが顔を上げると、総司は苦笑する。
「神谷さん顔真っ赤」
「せっ先生だって!」
指摘する総司も耳まで真っ赤にしており、セイは思わず反論してしまう。
「…そうですよ。私は神谷さんが初めての恋人ですもん。慣れてないんですから仕方が無いでしょ」
「わ、私だって初めてですよっ!」
そうセイが返すと、総司はきょとんと驚いた表情を見せた。
「何で驚くんですか!?」
「だって…神谷さん、彼氏いたことあるんでしょ」
「そ!…それは、ありますけど…」
「だったら、そういう事だってもうしてるんでしょ?キスだって…」
「無いですよ!何にも無いですよ!あんなの付き合った人数にもならないですよ!」
「…私は神谷さんだけって決めてたから、お付き合いした人もいませんけどね」
むすりと口を窄めながら総司は呟く。
「それはっ!仕方が無いじゃないですかっ!私だって先生みたいに思い出していれば…きっと先生だけでしたよ」
「何でそこで自信無さそうなんですか!」
「だって、私だって普通に恋愛してみたいじゃないですかっ!彼氏だって欲しいし、結婚だってしたいし!」
「私は神谷さんがいなかったら今世でも生涯不犯生涯独身のつもりだったんですから!」
「………」
セイは総司の大告白に、一瞬それもどうだろう、と思ったのは内緒だ。
けれど、すぐさまそれも反省する。結局のところ、自分自身にも同じ事が言えたから。
「…私だってきっとそうなってましたよ。そうならないように頑張ろうと思っても…結局好きなろうと思ってもなれず、触れようと思っても嫌悪感ばっかりで、お付き合いなんていっても形ばかりで…相手の人を傷つけるだけで終わって…」
前世の記憶を取り戻しても、戻さなくても、セイは結局のところ本当に好きになれる人は総司だけだったのだから。
「そう…なんですか?」
「沖田先生に…触れられて…キスされて……私が好きなのはこの人で…この人になら触れて欲しいって思えるんだって……悔しいくらい…」
「神谷さん…」
「剣術馬鹿で、野暮天で、最後の最後まで私の気持ちに気付かないで、なのに、生きてくれって自分勝手な事言って…私が辛い時や苦しい時や嬉しい時、いつも傍にいてくれるってその言葉通り…何かある度に風が背を押してくれて…ずるい…死んでも私の恋心を独り占めして…」
「…私は貴方の心を縛り付けて…」
総司はそっとセイの傍に寄り、彼女の頬に触れた。
とくり。と心臓が鳴る。
それは嫌悪じゃない。嬉しくて鳴る鼓動だ。
セイの胸に心地よく響いてくるのだ。
懐かしくて、愛しい。
総司と別れ、そしてまた出会い、声を聞くまで、見つめられるまで、触れられるまで、ずっと忘れていた感覚。
甘くて、そして切ない。
「縛り付けられるのが嬉しいって…もう私馬鹿みたい」
自嘲気味に呟きながらも、揺れた瞳で真っ直ぐ総司を見つめるセイの瞳に、彼は吸い込まれるようにそのまま口付けを落とし、彼女を抱き締めた。
「私は…触れても良いですか?」
「……はい」
そう小さく声が聞こえると、総司は小さな細い背に回していた手をゆっくりと下ろし、布団の上にセイを寝かせる。
胸元がやや緩んでいる浴衣の合わせの間からそっと指先を肌に触れさせると、セイの身体がびくりと震えて、それまで弛緩していた体が一気に緊張が走り、がしりと彼の手を小さな両手が掴んだ。
「!」
やはり性急過ぎたのだ。
そう思って総司が手を引こうとすると、セイの手は触れる事も許さなければ、引く事も許さず、その場に留めた。
「…神谷さん?」
どういう事なのだ?そう思って、セイを見下ろすと、彼女は眉間に皺を寄せ、口元を震わせながら、それでもゆっくりと深呼吸をして己を落ち着かせようとしていた。
良く見ると、彼の手を押し留めている指も振るえ、全身も強張っていた。

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■想う、時・70■

本当に最初は一緒に隣に眠れるだけでいいと思っていた。
セイと再会出来たとはいえ、生まれ変わった彼女には今まで積み重ねてきた彼女の生活がある。
どんなに傍にいたいと願っても、前世と違って共有して築いたものは何も無く、束縛も出来ず、だからと言って己が今の生活を全て捨てて彼女について行く事も出来ず、彼女は彼女の今あるべき場所へ戻らなければならない。
それは総司にとって身を引き裂かれる程苦しい事であったが、それが現実であり事実であった。
再会するまでは再会したらも散々もう二度と離れない。必ず傍にいると誓っていたはずなのに、直面する現実はあっさりと総司の誓いが全て叶わない事を突きつけた。
だからせめて、彼女が自分のすぐ近くにいる今だけでも、一分でも一秒でも離れていた時間を埋めるように、そして彼女との共有の時間を作る為に、総司は彼女に宛がわれた部屋を訪ねた。
自分の知らない彼女の過去は彼女が話さないなら知らなくていい。そんな事を斎藤に言いながらも、少しだけ、ずっとセイ一筋だった自分より他の男に目を向けていた彼女に意地悪を言って、そう言えば彼女ならきっと隣で寝る事も許してくれるはず、そんな事を思って半ば無理やり彼女の隣に布団を敷いた。
やっと、それこそ今振り返れば自分でも野暮天すぎると思える前世からやっと、異性として恋人として距離を縮める事が出来る事が出来た事に喜びを感じながら。
何処かでもっと深く、確かな繋がりを求めていない。と言えば嘘になる。
時を重ねるだけで愛しさの増す彼女を隣に、男として求めていないといえば、そんな事あるはずが無い。
それこそ、前世からずっと望んでいたのだ。野暮天過ぎる過去の自分を恨んだくらいに。
それでも昨日の今日で、過去の繋がりがあったとしても彼女が総司の全てを受け入れてくれる訳が無い。
『好きだ』と心を返してくれても、彼女と肉体の繋がりはまだ早い。
無理強いは決して出来ない。
ゆっくりと深めていくのだ。
どんなに何度も今まで考え続けてきても、彼女の傍にいる。彼女と共に生きる。それ以外の望みは総司には無いのだから。
セイの傍にずっといる為に。
そんな風に考えていたはずなのに、目の前の少女は今も昔も総司の想像を遥かに超す行動を起こす。
そして――彼女の、総司が知らない時間を積み重ねてきた彼女の琴線に触れた。
「神谷さん…神谷さん。神谷さん!」
尋常じゃない様子に総司はセイの名を呼ぶ。
「だ、大丈夫です……もっと触れてください…」
そうは言うが、セイの顔色は真っ青で、歯の根も言わぬほどがちがちと震えている。
「そう言っても貴女…」
「先生なら…先生にもっと触れて欲しいです」
セイは彼の手がそれ以上進まないように留めようとする己の手を引き剥がし、彼の頬に触れさせると、総司の首にそのまま腕を絡める。
表情は喜びで微笑んでいるはずなのに、それと同時に恐怖で体は凍り付いていた。首に絡められる指先がひやりと冷たい。
総司は暫し思案するように動作を止め、やがてゆっくりとしがみついてくる彼女の背に、己の腕を回し、優しく抱き締めた。
しかしその後は幾ら待ってもそのまま彼は動かなかった。
もうこれ以上進む事はないだろう。
セイはそう感じた。
彼はきっとセイに触れる事に怯んでいるかも知れない。
愛しい、触れて欲しいといいながら、怯え、震える女を誰が抱こうと思うだろう。
そう思ったら、異性に触れられ止まらぬ恐怖と表裏一体に溢れる愛しい人に触れてもらえない悲しみが襲ってきた。
総司だけは、きっと、彼だけは違う。
彼になら全てを委ねられる。そう思っていたのに。
「……ねぇ。神谷さん」
「……はい…」
何処か怯えと戸惑いの入った震える声でセイは小さく返事を返す。
「私が欲しい…?」
「………っ!…先生っ!あのっ!私っ!」
総司が何かを察したかに気付いたのかセイは焦った様子で彼を見ようと腕を緩める。彼女の動きに合わせるように総司も己の腕を緩め、もう一度彼女を布団の上に寝かせると、彼女を見下ろして、そっと額に口付けた。
「これは、怖い?」
「あのっ!」
「いいから。答えて。怖い?」
セイが慌てて総司に訴えようとうするが、それを遮り、彼は静かに優しく同じ事を問う。
額に一つ口付けを落とし、すぐにまた彼女の瞳を優しい眼差しで覗き込んでくる総司に、セイは動揺で高鳴っていた脈が段々と落ち着いてくるのを感じた。
彼女が落ち着いてくるまで、そして、少しずつ頬に赤みが戻ってくるのを総司はただ沈黙しじっと待った。
セイは自分が答えるまで彼はずっと待ってくれているのだと感じ、心音がゆっくりとなり、呼吸が十分に落ち着いてくるのを感じてから、口を開いた。
「……こわく…ないです…」
どれだけの見つめ合う時が過ぎたのだろうか落ち着いた深く規則正しい呼吸に整ってからセイが答えると、総司は微笑んで、ゆっくりと動いた。
今度は、頬にひとつ、口付けを落とす。
柔らかなぬくもりと温度がセイの頬に余韻を残す。
そしてまた総司は体を起こし、セイの瞳を見つめると、優しく問う。
「これは怖い?」
セイは少し呆けて、総司の己を優しく見つめる眼差しを見上げると、答えた。
「…怖くないです…」
そう答えると、総司はまたゆっくりと動き、セイの鼻先に口付ける。
ちょんと啄ばむようにちゅっと濡れた音を残して、温もりが離れる。
「これは怖い?」
少し悪戯っぽい眼差しで見つめてくる総司に、セイは少し笑ってしまう。
「…怖くない…」
またゆっくりと揺れる総司の体に、セイはいつの間にか期待している自分を感じていた。
次に触れるのは唇。
優しく触れるだけの口付け。
今日何度したか分からない、口付け。
それ故か、総司の唇が離れる時、ふと物足りなくセイは感じた。
「これは怖い?」
「怖くない……」
物足りない感情がつい言葉の端にも零れてしまい、セイは赤くなって総司を見上げると、彼は驚いた表情を見せ、そして、また柔らかく笑った。
そしてもう一度体が揺れる。
彼女の唇にもう一度唇が重ねられる。
すぐに離れるのだろうか。
何処かそんな寂しさを感じたセイは触れ合う唇の端から息を零す。
すると、開いた唇の間から総司の吐息が流れ込んできた。
「っ!」
セイは咄嗟にびくりと体を震わせるが、――すぐに力を抜き、彼が内から彼女に溶け込もうとしてくるのを許した。
そうしていると、セイは無性に彼に縋りたくなり、手を伸ばそうとしたところで、唇が離れた。
顔を上げる総司の唇は濡れていて、けれど、優しい眼差しは変わらないままで、セイは無性に泣きたくなった。
「これは、怖い?」
「…こわく…ないですっ!」
熱く高ぶる気持ちを吐き出す術も分からず、そう涙声のまま訴えると、総司は破顔した。