凍る月9

姫と付き二人を連れて逃げるように指示を出したまま刺客に向かって駆け出した総司を追いかけたい衝動をぐっと堪えてセイは振り返ると、姫を起こす付きとまだ白い顔のまま力無く体を起こす姫が目に映った。
姫の様子ではきっとまだまともに歩く事もできないだろう。
何ヶ月もかけて蓄積された疲労がここにきて、雨に降られたのも祟って、疾うに限界に来ていた体が悲鳴を上げたのだろう。
やはり、もう少し先へ進むべきだった。と思う反面、総司の決断は間違っていなかったと思い知らされる。
あのまま歩いていたらきっと宿に辿り着くより先に、姫は倒れていただろう。
そして己自身も、もし無理に先に進み、道中今のように襲われていたらまともに刀を振るえなかっただろう。
セイはまだ少しふらつく体と握力が完全に戻りきっていない拳に唇を噛む。
こういう時どうしても体力の無い自分が情けなくなる。
今でさえ総司に頼りっきりだ。彼だってセイ以上に気を張って疲労しているはずなのに。
要人二人を守り、未熟な上に体力の無いセイを連れて、常に気を張り、彼自身と同等かそれ以上かもしれない剣客を何人も相手にしているのだから。
彼はセイに気付かせないようにしているようだが、ずっと一緒に修羅場を共にしていれば彼女にだって分かる。彼はいつだって彼女の負担を少しでも減らすように刺客と戦ってくれる。
要人の様子を見守りながら、さり気無くセイも気にかけてくれる。
悔しくて、情けなくて、涙が出る。
それでも、彼に守られる自分が今の自分なのだ。と、その分、今の自分が出来る事を精一杯やろう。それで総司の負担を減らせる事になるのなら。無事使命を全うできるように。
そう決意をし、意識を切り替えても、道の先で刺客に出会い、刀を握る度に、己の判断は失策だったのだと苦しくなる。
旅を始めてから幾度も繰り返した思いが、またセイの中を駆け巡る。
しかも、この休憩は己自身の体力の無さから、と思えば、苦しみはどくりどくりと脈に合わせる様に痛みが全身を駆け巡った。
姫様の疲労がこれ程溜まるより前にもっとどうにかできたのではないのか。
己の手が震えないでいられる万全の状態で常にいられるようにもっとできる事あったのではないのか。
それでも――反省は後でできる。
「付き様、姫様、動けますか?」
二人はセイにこくりと頷くが、それに対して動きは緩慢だ。
外を振り返ると、総司の刀から逃れた二人の刺客がこちらに向かってくる。
反射的に抜刀すると、手抜緒を手首に掛け、柄をぎゅっと握った。
しかし刀を握る感触がいつもより弱い。
大きく深呼吸すると、目の前の敵を見据えた。
前面の敵を見据えながら、周囲の気配を確認する。
刺客二人以外の気配は無い。
それならば。
とにかく、まず入口を死守する。
雨の中駆け出す事もできたが、セイはしなかった。
総司は駆け出していったが、セイは違う。
足場が悪く、互いに悪条件の中戦って己が有利に動ける自信は無かったからだ。
それであれば納屋の入り口、乾いた足場でずぶ濡れで泥の付いた足のまま刀を振るってくる敵を相手にした方がまだ有利に戦えるはずだ。
一人の男が刀をセイに向けて突いてくる。
セイはそれをかわし、横に体を向け、かわしたところを追って薙いでくる刀を今度は身を屈め、かわした。
身を屈めた彼女の顔面を狙って、刀を振るった男が膝を打ちつけようとする。
セイはとっさに刀を目の前に翳し、男が振り上げた蹴りの勢いを利用して膝に一文字入れる。
男は刀に気付いたが既に翳された刀に向かって蹴りを止められず、刃を正面に受け、みしりと音がした。
咄嗟に身を引いてはいたが蹴りの勢いに吹き飛ばされたセイは後方に転がるも、すぐさま受身を取り、片膝を立てて刀を目の前に翳し直した。
膝に刀を受けた男は骨を折られ、腱を切られた痛みに悶絶し、その場に転がっている。
そんな男の姿をしっかり確認する間も無く、刀がまたセイに向かって振り下ろされた。
――強い。
セイは唇を噛む。
確かに江戸に入ってから刺客の強さは格段に上がっていた。
今まではセイたちが刺客を撒き、京からの道程で何処から現れるか分からなかった為に刺客を配置する範囲も広範囲になり、刺客の強さも分散されていたようだが、江戸に入ると分散する範囲も今までよりずっと狭い範囲で済むようになり、その分精鋭が揃えられてくるだろう事は予測していたが。
今目の前の刺客は、京を出る時、それ以上の精鋭だった。
剣術の腕はあの頃に比べれば格段に上がっているし、武士らしからぬ戦い方ではあるが生き抜く為に学んだ戦術も身に付けたとセイは自負していた。
今ならあの時の刺客と少しはまともに渡り合えるのではないだろうか。
総司に頼りきりにならずに切り抜けられるのではないだろうか。
悔しさ故に必死で腕を磨いたつもりだった。
しかし、やはり己の命を守るので精一杯。
刺客は互いに互いの呼吸を合わせ、次々とセイに攻撃を繰り出し、確実に仕留めようとする。
救いなのは総司が他の刺客を一手に引き受けてくれ、相手が二人だけである事だ。
一人はどうにか戦闘不能にし、残るは、今目の前でセイに向かって刃を振り下ろし、受け止める彼女の刃を力で押し切ろうとする男一人。
――のはずだった。
目の端に何かが過ぎ去ったのが映ると同時に、赤い炎が舞い上がり、悲鳴が聞こえる。
もう一人!?
燃やしたままの松明が、誰かの手によって藁に放り投げられたのだと意識した瞬間できた隙を刺客は見逃さなかった。
ゴォッ!
熱によって起こる風が炎を増長させ天井に伸びる。
セイは己の身を焼く鋭い刃に怯む事無く、己を貫いた事でできた刺客の隙を今度は逆に突いて、その首を落とした。
声を上げる事も無く、目を見開いたままの男の首はセイの刀の刃を伝い、ごとりと地面に落ちる。
首をなくした体は己の失われた部分を求めるように、続いてその場に崩れ落ちた。
セイが己に刺さったままの刀をそのままに立ち上がると、刀身そのものが重さに負け、肉を貫いた刃は血で柄を濡らし、カランと落ちる。
顔を上げると、今まで何処に隠していたのか短刀を構えた姫が剛毅にも大刀を握る刺客に応戦していた。
既に一太刀受けているのだろう彼女の黒く艶やかな神が血で染まり、赤く鮮やかに燃え盛る炎のに照らされ、黒く頬を伝っていた。
「やぁぁぁっ!」
「神谷さん!」
セイは駆け出し、声を上げる事で、刺客の意識を己に向けさせる。
振り返った刺客は冷静にまた向き直ると、姫を縦に一閃した。
姫の短刀を握った白い腕が宙を舞う。
「!!」
左腕が痺れ、両手で刀を握る事の出来なくなったセイは刀を捨てると、男の腰に向かって掴みかかる。
まさか刀を捨てると思っていなかった刺客はされるがまま炎の燃え盛る藁の中に押し倒された。
「付き様!早く姫を連れて逃げてください!」
胸から滲み出し、肩を赤く染める血がセイから力と意識を容赦なく奪う。
それでも刺客から刀を奪い、全身の体重をかける事で、男から懸命に自由を奪った。
すぐさま腰にあった脇差を抜刀し、まだ感覚の残る右手で男の胸を突くと、一息に全体重を乗せて貫いた。
「炎が上がればすぐにこの場所は知られます。また次の刺客が来ます!それより前に!」
振り返るセイの目の前には、膝を斬りつけられ、身動きを取れなくなっていたはずの刺客が刀を翳し、彼女に向けて振り下ろそうとしていた。