初めて身分という壁で姫に牽制をされた翌日、何事も無かったかのように今まで通り宿を出立し、江戸までの道を急いだ。
「神谷さん。昨日久し振りにちゃんと布団で寝たせいか、顔色がいいですね?」
昨日まで白くなっていた顔色だったが今日はほんのり赤く染まり、引き摺る様にして歩いていた足取りも軽やかだった。
「そうなんです!お布団で眠るって大事ですね!一日眠るだけでこんなに疲れが取れるなんて知りませんでした!」
そう答える声は軽やかで明るい。
総司が思わず笑みを零し、ほっと息を吐くとセイは溜息だと思ったのか、慌てて頭を下げた。
「申し訳ありません!任務中に、しかも要人警護なのに熟睡するだなんて!」
己の意識の低さを恥じた彼女に、総司はそんなつもりはなかったのだけれどと苦笑し、下げたままの頭を、向けられた月代をじょりと撫でた。
「短時間で体力を回復させるのも仕事のうちです。その事を疎かにして結果任務を果たせなかったら元も子もありません。常に緊張するのではなく、緩急をつける事を神谷さんはもっと学ぶべきですね」
そう言うと、セイはばっと顔を挙げ、目を真っ赤にしながら、「ありがとうございます!」と礼を言った。
旅をしている中何度かある二人のこうしたやり取りに、その日も姫と付きは何も言わず、じっと見つめていた。
人の賑わいの多い宿場町を抜け、次の宿場町までの間隔は江戸に入るまでに短くなってくる。
また今まで周りの風景が山や森が多かったのも次第に民家が点在するようになり、人の足で慣らされた道も幅を広げ、行き交う人の量も増えていった。
彼らの道程は宿場町から次の宿場町まで日の出ている時間に移動したり、時折山や森の険しい道に戻り、そこに何日も潜伏してからまた街道に戻る事もあった。
「本当は宿場町を出て次の宿場町まで歩いてそこでその日の宿を取るのが楽なんでしょうけど、いつ宿が襲われるか分かりません。昼間は予測通り人が多いから襲ってきませんけど、時折視線を感じます。元々暗殺だって専ら夜に行われるんです。今後は宿に滞在する時は昼に、そして夜になる前に出立します。後は宿場町から次の町までの道程を読まれないように今まで通り山野も使い、時にはそこで何日か滞在します。ここまで来ると選ぶ道程の選択にも限界が出てきますから、そうして時間差をつけて進むしかありません」
セイは宿を取るようになり始めてからも、仮眠や休憩の間に何度も試行錯誤をしては道筋を決めていった。
「ここまで来たら籠を使えばもっと早く動けるんでしょうけど、敢えて使いません。籠を使える身分なんてある程度予測がつきますし、狙われれる確率を上げるだけですし、もしかしたら籠屋さんを襲撃に巻き込んでしまう可能性もある」
「後は籠の人たちも信用できるか分からないですしね」
総司もセイの案に隙は無いか何度も頭の中で計算し、大きな流れの外堀を埋めていった。
あの日以来、変わらず姫はセイと総司の言葉に従い、付きは何も喋らぬまま姫の後ろを付いてく。
何の反論も無く、あれ程強い口調で返した身分を口に出すことも無いまま。
命を守れるのならどんな状況でもどんな事でもしましょう。と応え。
そうして幾日もまた過ごし、間も無く江戸。という所で、宿場町に寄るのは止め、残りの日程全てを野宿に変えた。
何度も何度も思考し、再考する。
この道程に穴は無いか。隙は無いか。
どれ程敵を欺こうとしても毎日のように刺客は襲ってくる。
目的地が近くになればなるほど、相手を欺く術も道の選択も狭くなっていく。
「最終的に何処に辿り着けばいいのですか?」
その日も野宿で夕餉を済ませた後、セイは地図を開いて、姫に尋ねた。
姫は彼女の開いた地図を暫し見入ると、とある一角を円を描くように指でなぞる。
「そんなに広い範囲で示されても困ります。目的地をきちんと示して頂く事はできないのですか?」
「お答えできません」
「どうして!」
これまでどれ程過酷な旅をしてきたか。ここで目的地を教えてもらえば一気に目的地までも道筋を立てる事ができるのに、そう訴えるようにセイが顔を上げて姫を見つめるが、姫は頑なだった。
旅の始まり間もない頃なら警戒されて教えてもらえないというのも分かる。しかし旅も後半になり、もう数ヶ月もの間命掛けの状況で共に過ごしてきた。それでもまだ信頼が無いかとセイの中に憤りが生まれてくるが、姫は静かに首を横に振るだけだった。
「ここまで貴方が全力で私たちを守ってくださっている事には感謝しております。しかしこちらにも事情というものがあるのです。本当にこの示す場所の近くに辿り着くまでお教えする事はできません。寧ろこの時点でここまでお教えするのが信頼の証だとご理解ください」
姫がゆっくりと頭を下げると、セイは総司を見上げ、彼が頷くと、セイも納得はしていなかったが渋々と口を閉ざした。
刺客を少しでも欺き、江戸の町に入っても動きやすくする為にかなりの回り道をしながら山を超え、結果的に本来であれば南西から江戸に入る所を北から回り込んで入り込む形になった。
その作戦が功を奏して、刺客に襲われはすれど少人数だったらまだ総司とセイの二人でどうにか切り抜けられう程度の剣客と遭遇したり等運も味方に付けて、どうにか修羅場を潜り抜け、無事江戸の端の町に入る事ができた。
しかし、どれ程大きな修羅場を抜けようとも、どれ程不運に見舞われ大きな危機を乗り越えてきただろうと思っていても、それまでは天候にだけは恵まれていたのだと、四人は知る事になった。
江戸に辿り着いたその日、豪雨に襲われた。
強い雨風に前は見えず、一歩歩くその先でさえも地面に叩きつける様に振る雨粒に邪魔をされ覚束なく、また田園風景が多く見られる土地では元々水捌けが良い土地という事もあって泥濘に足を取られ、足場が不安定になっていた。
ここに来るまでできるだけ動きやすいように何時でも逃げる事ができるようにと心掛けており、今まで天候が悪くなる折にはその時々に買い付けて雨具を用意したり、森の中で木陰に身を寄せる等してその場凌ぎに雨風を凌いでいた彼らは、不運にもこれから一気に江戸に乗り込み目的地に到着をしようと決めた時にそうした際に備えて多少常備していた物も全てを売り払ってしまっていた。
今の彼らには碌な装備も持ち合わせておらず、見舞われた豪雨にあっという間に全身を濡らし、体温を奪われていった。
これ以上進んでは襲ってくる刺客に殺されるよりも先に、自然の猛威に殺されてしまうと判断した総司とセイは目前の目的地を前に渋々と一軒の家屋に身を寄せる事にした。
元々周囲に広がる田畑の農耕具を保管する為の納屋になってるらしいそこは、荒れ狂う雨風では流石の農夫も畑を見回る事が出来きず家に篭っているのか、誰もおらず、暫しの休息を取る事にした。
「やはりここで足止めを食らうのは不安です。もう少し先へ進みませんか?」
納屋の中で雨に濡れた全身を暖める為に焚いた薪の前で姫は顔を上げ、総司を見た。
「私もそう思います。ここまで刺客をずっと撒いてきたのにここで止まったら見つかってしまいませんか?」
姫の横で彼女と同じように座り込み、暖を取っていたセイも不安そうに彼を見上げた。
二人が見つめてくるのに困り顔をする総司は彼女たちの間にしゃがみ込むと、二人の手を握る。
「この状態で本当に先に進めますか?判断に鈍る事無く走り、刀を振るえますか?」
静かに問う総司が握る二人の手は小刻みに震えていた。
セイはばっと掴む総司の掌から己の手を抜き、胸の中に隠すように抱え込むが、全身は震え続けている。
一方で姫も彼から逃れ、身を引くが、セイと対するように座っていた付きの肩にぶつかり、また今度は彼から距離を置くように身を引いた。しかし彼女の体もセイ同様寒さで震えていた。
付きがそっと手を伸ばそうとすると、「触るな!」と彼を遠ざける様に威嚇する。
そんな二人の姿に総司は溜息を吐く。
「取り敢えずそのままではこの雨の中移動する事もままなりません。神谷さんだけでなく、私も体が冷えては動きが鈍くなりますし、護衛としても役目を果たせません。命を守る為に今の天気が逆に好都合だと思って休んで下さい。この天気なら刺客の方も私たち同様に自分たちの動きが制限される事を分かっているはずですから、そう安易に動こうとはしないでしょう」
きっと。
という言葉は飲み込んでおく。
総司自身も、もう少し先に進んでおいて、そこで休んだ方がいいのではという勘が働いてはいる。
それでも。
口にすればきっとセイが食って掛かってくるから言わずにおくが、――どうしても男より非力な女子の体でこれ以上の強行はムリだった。